Interview 15
2003年8月 国内の雑誌から「東京ゴッドファーザーズ」に関するインタビュー

 2003年8月、国内の雑誌インタビューのテキストに、加筆修正したものです (04/10/13更新)。

● 今回の「東京ゴッドファーザーズ」はこれまでの「パーフェクトブルー」「千年女優」とはまた違う趣です。ホームレスの三人が赤ん坊を拾って、親元に届けに 行くというお話ですが、その間にいろんな人々に出会い冗談みたいな事件に巻き込まれる。これまでと違うストレートな人情ものという感じを受けました。

 そうですか、ストレートな人情ものに見えましたか。
 確かにこれまでの作品に比べると、もっとキャラクターを重視していましたし、構成のアクロバットみたいなこともしていません。内容的にも明るいし救いも 多いし、何より一応コメディとして作っています。なので「ストレートな人情もの」と言われると、それはそれでとても嬉しい反応なんですが、実は私としては 今までの三本の中で一番「タチが悪い」と思っているんです。

●「タチが悪い」という感じはしませんでしたけどね。

 いや、それでいいんだと思います。
「東京ゴッド〜」は概ね「人の良い作品」として作ったつもりですし、タチの悪さを素直に感じられてもそれはそれで困るんです。あくまで原作・監督として、 一応作者的な立場で振り返って強くそう感じるということです。私と同じように感じることを強要する作り方はしていないはずですし、私だって基本的にはハー トウォームな映画のつもりですよ。
 ただ、制作中に、メインのキャラクターの声が入ったくらいの段階で一回自宅にビデオを持ち帰ってチェックしたんですけど、見終わったときの私の素直な感 想が「タチが悪い」だったんです。正確に表記すると「タチが悪い(笑)」という感じなんですけど。
「タチが悪い」って言うと確かに語弊があります。これはもちろん良い意味で「タチが悪い」というつもりなんですが、「パーフェクトブルー」も「千年女優」 も、一応「タチが悪いですよ」ってちゃんと映画の中で断わっているつもりです。ピュアなラブストーリー風を装っていながら最後には……。

●どんでん返しのセリフが待っているとか。

 いや、あれはどんでん返しのつもりではないんです。ただ、「ピュアなラブストーリー」路線だけで「千年」を見ていた人には「そうではありません」という ある意味、夢をぶち壊すようなセリフに聞こえるように作用してしまう、というだけでね。そう感じてしまう人がいても仕方ありません。見方は人それぞれでか まわないと思っていますが、ともかく私としてはどんでん返しだとか夢を壊すという意図があったわけではない、ということです。
 まぁそんな話はともかく、一応作品内で「ひねってありますよ」とお断りをするわけじゃないですか。今回のはそれを断わらない辺りがタチが悪いかもしれない、と思ったんです。

●監督にとって「人情もの」は、そうしたある種のタチの悪さをも含んでいるという意味ですか?

 いえ、そうではありません。別に「東京ゴッド〜」は私にとって必ずしも「人情もの」じゃないですから。

●「人情もの」を作ろうという意図ではなかったんですか?

 最初っから、「ひねった人情もの」だとは言ってるんです。単なる人情ものを作ろうとしていたわけではないんです。人情もの的な枠組みを借りてきたという ことであって、中味まですっかり人情ものにしようと思っていたわけではないです。「ひねった人情もの」という言葉で言うと、「人情もの」よりは「ひねっ た」という形容の部分が私には大事だったわけです。
 これまでの作品では、トリッキーな部分を「劇中劇」とか「夢と現実の混交」といった形で明確に提示していましたが、今回はトリッキーな面がどこに行ったんだか見えなくなるくらいまでひねってあるつもりです。

●一ひねりどころか二回転ぐらいしてると?

 そういうつもりです。でもひねってひねって行ったら見かけ上はは元のままだった、みたいな感じですかね。
 見かけはすごく普通に見えるけど、実はそうじゃないんじゃないか、と思うんですよ。見ようと思えばストレートな人情ものとしても見えるし、それでも全然構わないと思ってますけど。
 違う言い方をすれば、どこまで本気でどこまで冗談で作っているんだか、自分でもよく分からないところがタチの悪い面白さではないか、と……考えたい。そうであって欲しいという願望に過ぎないかもしれませんが。
 他の方の作品、映像でも舞台芝居でも文章でも音楽でも漫画でも何でもそうなんですけど、どこまで冗談なんだか本気なんだか計りかねるような作品が好きで すね。そうではないストレートな表現の場合、力強さもあるだろうし受け取る方としても間違いようがないし、良い面も多いのかもしれませんが、私はあまり面 白みを感じないです。奥行きがないというか、見た側が考える余地が少ないような気がしてしまう。

●今回はこれまであまり出してこなかったストレートな部分を出してみよう、という意図かと思いましたが。

 いや、全然違うでしょうね。
 あるいはまったく逆にストレートに出しているとも言えるかな。ものすごく矛盾したことを言ってますが、作品もそういう態度のつもりですから。
「ストレートではない」という言い方をしたのは、だいたい一般的な意味でストレートであるってことは、逆側の何かを根こそぎ切り落としているからストレー トになりうるわけでしょう? たとえば人間の優しい面とか温かい人情味とか、世間的にポジティブと言われる側に目を向けるってことは、半面にあるはずのネ ガティブな面を切り落とすから出来るわけですよね。
 そういう片側一方だけに意識をフォーカスするという態度は私にとってはストレートではない、という理由からです。
 逆に今回はストレートです、という場合は私の中の矛盾もある程度ストレートに出している、といった意味になると思います。

●ああいう話にしようというのは最初からのイメージですか?

 そうです。企画の最初にプロットを書いた段階から、基本的にはほとんど変わってないです。信本敬子氏に加わってもらって脚本にかかってから、キャラク ターに深みが増したり、ムードがより明るく賑やかになったりしていますが、目指していたことは当初から変わっていないです。
 話は詮じ詰めてしまえば、拾った赤ん坊を親元に届ける、それだけです。だから物語として何か仕掛けがしているとかひねっているとかではなく、視点がひねっているのかなっていう気はしますけど。
 普通、人情ものっていうのは、あくまでも登場人物に感情移入できるようにして、その登場人物が何を喋りどういう表情をし、どう行動するかという部分に注 目させるようにするわけじゃないですか。「東京ゴッド〜」でも、枠組みとしては一応そういう風にしているつもりなんですけど、私の一番やりたかったことは 必ずしもそこではないということなんです。
 実はヒューマニズムの部分だけで作ってるわけじゃない……んだけども、見かけ上はヒューマニズム風にも見えるっていうのが、タチが悪いっていうことでしょうかね。

●これまでの作品を考えると、今監督がストレートに人情ものを作りましたって言ったら、ファンは「?」って思うかもしれないでね。

 だから、ストレートな人情ものを作りました、の末尾に「(笑)」ってつけてくれれば概ね間違ってはいないです。
「(笑)」という表現をあまり濫用してはいけないとは思うのですが、「(笑)」には前段部分を一気にひっくり返して両義性を持たせられる、そんな威力もある。本気か冗談か分からない表現をしやすいんで、つい使ってしまいます。
「東京ゴッドファーザーズ」が歌い上げるヒューマニズム讃歌(笑)、とかね。
 別に「東京ゴッド〜」で語られているヒューマニズムの部分は嘘ではないし本気の部分も多いんだけれど、それが必ずしも一義とは限らないということです。じゃあ作者としての視点はどこにあるかっていうと、「街」にあったりするわけです。

●背景、特に街はすごい存在感ですよね。

「彼らを見ている街というのが制作者の視点である」というつもりなんです。オープニングのクレジットでスタッフ名が看板として街の中に描かれているのは、 そういう意味も込めたつもりです。制作者はここにいるのだ、というね。別にそういう意味を分かってくれなくてもいいんですけど。というかお客さんはそんな ことが意識的に分からなくても別にいいんです。
 ともかく、普通の人情もの的な、人物に近い視点というのは、私にとっては実は二番目だったりするんじゃないかな。

●確かにキャラクターがすごく表情豊かなわりに、感情移入させるようには作ってませんね。

 ええ。そういうの嫌いなんですよ。作品を見てくれるお客さんがキャラクターに感情移入するのは歓迎しますが、演出する側が感情移入させようとしてベタベタな細工を施すのが好きじゃないという意味です。

●だから全体に俯瞰的な構成をしている。それが街の視点ということなんですね。じゃあ、街の視点を見せるためにこだわったのはやはり美術ですか?

 その通りです。街が魅力的に見えなくちゃ困る作品ですから。
 それにアニメーションの場合、美術・背景が占める面積っていうのは、単純にセルより多いですからね。

●確かに。キャラクター以外全部だから背景の占める割合は画面の三分の二くらいありますよね。

 映画の世界観というのは、かなりの部分が美術・背景に形作られると思っています。だからどんなにキャラクターが崩れようが、背景がリアルに描いてあれば、基本的にリアルな作品に見えると思うんですよ。
「東京ゴッド〜」の物語自体は全然リアルなものではありませんし、キャラクターの描写もリアリズムにこだわって作っているわけではない。むしろ表情を崩したりという漫画っぽいことをやりたいがゆえに、背景の方をよりリアルにしている面もある。
 どんなに絵空事を描いてもリアルな感じがするとしたら、たぶん背景によるところが大きいと思ってるんです。なので背景描写は勢い細かくなっていますね。

●でも背景描写の中にも遊びが入ってましたよね。

 ええ、いっぱい遊んでますよ。すごくリアルに描かれたふざけた絵っていうのがすでにある種の矛盾とか両義性を含んでいて、いいなと思うんですよ。例えば……。

●悲しいシーンでは背景のビルも泣いてるように見せてるとか? 時折建物が「顔」に見えるよう作っていましたよね。

 そうです。普通は画面作りにおいて建物が「顔」に見えたりするのは避けるわけですよ。お客の注意が変なところに行かないようにするために、画面内のもの が意図に沿わない意味を持ってしまうことは避ける。「東京ゴッド〜」ではそうした「顔に見えてしまう建物」といったことを演出的効果としてあえて利用しよ うとしているわけです。
 ではそこに何の意味があるかというと、あまり劇的な意味はないんですけど(笑)
 ただ、たとえばキャラクターの悲しみと背景に描かれた建物などがシンクロしたりすると、見る側としてはキャラクターの心情と背景の双方に意識や注意が分散されることになるんですが、そういう「同時に捉える」感覚こそが大事だと思っていました。
 時には相乗効果として悲しみを強調したり、逆に悲しみにユーモアを重ねて見たり、看板の文字がそのシーンに対して皮肉として機能したりする。だから何か一つにフォーカスさせてしまってはつまらないと思っていました。
 一見無意味なこと、あるいは矛盾といったものをいかに取り込むかっていうのが、作品全体のテーマにもなってるんですよ。

●矛盾してるものをいかに矛盾してないように見せるかという?

 いや、そうではなくて矛盾を矛盾のまま提出したいということですね。
 世の中にある大抵の事は矛盾を孕んでいる。そうした矛盾を整理して描くんじゃなくて、矛盾は矛盾のままに描くっていうことです。矛盾というよりものごとが持っている両義性、といった方が字面として分かりやすいのかな。
 そういうリアリズムの方法を今回は取ろうとしたんだと思います。上手くできてないことも多いかもしれませんが、そういう態度ではありました。

●世の中自体が矛盾であるから、映像自体にも矛盾があってもいんじゃないかと。

 ええ、そうですね。常にその画面が意味しているのは一つではない、といった方がより的確ですね。
 矛盾に限らず、たとえば「分からないものを分からないものとしてそのまま描く」というリアリズムがあると思うんですよ。描き手は描いている対象物のこと をよく把握していないといけない、という基本はもちろん身に滲みて分かっているんですが、では世の中のすべてのことが理解や把握の及ぶ範囲にあるわけでは ないでしょう。
 よく分かりもしないものを解析して無理矢理に理屈付けしても、分からせた途端に、それは分かるというだけのつまらないものにしかならないことが多いです。分かるものしか描かなかったら、もっとつまらないものになりますよ。
 だったら「世の中にはこういう分からないものがありますよね」という態度があっていいわけですよ。あっていい、というよりその方がいいと思いますよ。

●「矛盾を含んでいてもいい作品である」と思われたことは、今作のテーマと関係があるんですか?

 より正確に言えば「矛盾を含んでいてこそいい作品である」ということになるでしょうね。矛盾というのは、ある事が同時に相反する性格を帯びているという ことですよね。で、その性格は見方によって絶えず変わって行くわけですよ。どの面から見るかで物事は全然違った様相を呈する。そういう相対的で流動的な物 の見方が大切だと思うんです。
 なので「東京ゴッド〜」においては、もっともらしく言えば、関わる人間次第で同じ出来事が不運にも幸運にもなるっていう部分がテーマだといえばテーマです。それが一番大きいかもしれません。
 目の前の出来事をどう受け止めてどう関わって行くか。劇中に限らず現実においても、そうしたことの積み重ねがその人間の物語になって行くわけでしょう?
 主人公であるオカマのハナちゃんが、赤ん坊をゴミ置場で見つけて、常識的な反応をして警察に届けたら何も起きない。映画にもならない(笑)
 人間が「物語」に踏み込んで行くにはある種の非常識さも必要だし、出来事に対してその人がどう関わるか次第で面白い物語が始まりもすれば、つまらない話にしかならないこともある、ということですかね。

●劇中でも面白い体験がいろいろありますよね。車にひかれそうな人を助けたらヤクザの親分で、その娘の結婚式に呼ばれちゃったとか(笑)

 何であんなエピソードを思いついたのかよく分かりませんが、自分では気に入ってるエピソードです。
 車の下敷きになってたいへん困ったことになっている人がいる。しかも非常にみっともないことになっている。そこに通りかかった主人公たち一行がたまたま助けたら、それが実はヤクザの親分で色々な意味で大きな力を持った人だった、と。
 ヤクザという暴力に近しい怖い人、と車の下敷きになってたいへんみっともない状態という対比です。対比というのは非情に性格の異なる複数のものを同時に 配することで成り立つものです。その対比が鮮やかだということはそれだけ対比される性格の違いが大きいということで、一つの出来事や関係に、ある種の両義 性を持たせられると思います。この場合だと、ヤクザは見栄とか格好こそを大切にする人種でもあったりするので、「みっともないことになっているヤクザ」と いうのはヤクザにとっては一番いけないことになる。それが面白かろうと思ったし、そういう「みっともないことになっている」状態でなければ、縁もゆかりも ない主人公たちホームレスがヤクザの親分と友好的な関係を持つのは難しいであろう、と。
 ヤクザの親分がなぜそのようにみっともないことになっていたかというと、実は非常に小さな、一匹の犬が原因だった。ヤクザの親分は過度に肥満した巨漢です。小さな犬とヤクザの巨漢。これもイメージの対比です。
 そして彼は気のいいオッサンで、ちょっとした縁もあって主人公たちを娘の結婚式に連れて行くことになる。主人公の一人であるギンはそこでヤクザの親分の娘を見て長年会っていない娘のことを思い出すことになる。
 そういう繋がりをとても大切にして作っていました。
 この結婚式がきっかけでギンは娘への思いを募らせて行くことが後々繋がって行くことになる。どう繋がるかは映画を見てもらえばお分かりいただけると思います。
 こういうのは出来過ぎた流れですよ、もちろん。個々のエピソードにしろ、エピソード同士を繋ぐ流れにしても、物語として必要と思える出来事や繋がりを並 べているだけです。リアルに考えればもっと必要になるであろう色々なプロセスを削ぎ落としていますから、実人生と比べちゃいけないのですが、エッセンスと しては同じ事だと思うんです。
 例えば、すごく好きで付き合ってた彼女にふられたっていうのは、ふられた時点ですごく不幸だとしても、ふられた後で出会ったもっと別ないい人との関係で捉え直せるかもしれないわけですよね。

●ただ、その出会いに気づくか、それとも彼女との別れをずっと引きずって全く気付かないか、で道が別れるってことですね? そういう偶然性をいろいろ入れてみようと思ってストーリーを作られた?

 そうですね。その通りです。
 でもちょっとたとえが良くなかったかな。いまのたとえで言うとふられてしまうことになった背景には、本人の責任ていうのはどうしても存在しますよね。半 分あるといってもいい。ふられるにはふられるだけの理由があるだろうし、理不尽な形でふられたとしてもそんな相手を選んだ本人の責任があるわけですから。 なのでそうした世間的によくある悲劇は偶然とは言えない。
「彼女に偶然ふられたんだ」なんてのはちょっとシュールで面白いけど、聞いたことはないですよね。
 そういうケースじゃなくてもっと本人の意思に関係なく見舞われてしまうようなこと、事故とかね。不慮の事故にあって、一ヶ月入院する羽目になったとす る。その事故が本当に偶然に起こったしまったことだとして、それで入院した、と。入院期間、その不運を嘆いて過ごすか、前向きに考えて入院中にしかできな いことに目を向けるか、というような問題です。
 その入院をこれ幸いと捉えて、読もうと思っていて読んでいなかった書物を一気に読んで、それで人生の方向が変わるかもしれない。あるいはたまたま入院し た病院で知り合った人と後に非常に幸せな結婚することになった、とか。たとえが陳腐ですけど、そういう展開をしていったとしたら、最初の事故は不幸だとは 言い切れなくなってくる。
 だから偶然起こってしまうことはどうやっても避けられないし、その当人が起こってしまったそのことにどう関わるかが一番重要なんだと思います。
 通常ね、偶然っていうのは作劇に置いてやっちゃいけないことになってるんだけれども、実人生において偶然の効用っていうのはものすごく大きなものじゃな いかと思うんですよ。偶然っていうのは実際にあるんだからそれを描くのは当然である、そう思いますね。

●ただ、必然のある偶然に描けるかどうかというところが非常に難しいと思うんですよ。御都合主義に陥ってしまったら、やっぱり視聴者は「なあんだ」って思っちゃうわけじゃないですか。

 話の展開のために都合よく偶然を扱うから御都合主義にしか見えなくなるということですよね。作者の怠慢と都合で偶然に頼るからいけないんであって、登場 人物とそれを取りまく状況に応じて考えて行けば、意味のある偶然になると思うんですよね。あるいは偶然を起こしてしまってから意味づけしたっていい。
 それと先にも言ったように、その偶然に対してキャラクターがどう関わるかが一番肝心なことで、そこにこそ必然のある偶然に見えるかどうかがかかって来るんじゃないかな。
 それに、一つ二つ偶然を使うからズルイって言われるんで、偶然も二十個使えばそんなには(笑)

●全部それで揃えてしまえば(笑)

 そういうスタイルの作品になりうるでしょ。
 だってあの名作「ガープの世界」(監督ジョージ・ロイ・ヒル)なんかもっとすごい偶然とかあるじゃないですか。ガープが買おうとして見に行った家に、目の前で飛行機が突っ込むんですよ(笑)
 しかもそこで「この家に決めた。だって一度飛行機が落ちた家なら二度と落ちることはないだろう」とかガープが言うわけですよ。それですよね、起こってしまった偶然にどう関わって行くかの態度というのは。
 だから御都合主義に見えるかもしれないけれど、偶然の気持ち良さだってあるわけですよ。論理で構築された意外なストーリー展開とかは、それはそれで面白 いし、そういう事もなるべく丁寧に拾いたいとは思うんですけど、それよりも、その起こった出来事に対して人物がどう関わるかというのが問題なのであって、 何が起きたかそのものじゃないと思うんですよ。

●キャラクターが突きつけられた偶然に対してどう反応し、行動を取り、何を選ぶかっていうことですね。

 それが物語なんじゃないかと思いますね。
 私は人物の内面描写に重きをおいた小説的なものより、内面描写などされない昔話のような物語的なものが好きなんです。だから例えば、昔話なんかでありま すよね、娘は父親に腕を切り落とされました、そして森へ放り出されました、そして娘はそこで……っていう物語のプロセスを掬い取って行きたいわけです。
 一方小説的に考えると父親に腕を切られたことで、それがどれほど痛くどれほど悲しくてつらいか、といったことにフォーカスして行くわけですよね。これは私の考えではなく、河合隼雄先生の著書に書かれていたことの受け売りなんですけど。

●なるほど。感情の起伏が激しいキャラクターが出て来ている割には、内面を細かく見せてないのはそういう意味なんですね。

 そうです。それは観客が考えたり感じたりすることです。ある人物が怒った感情を表出させているのは、単純に怒っているのか、悲しみを隠すために怒ってい るのか、実は嬉しさを素直に人前に見せるのが恥ずかしいからあえて怒ったように見せているのか、色々あるわけですよね。
 それをくどくど描くのは好きじゃないので、あえて表面的なことしか描かずに、観客が想像する余地を残したいわけです。その分、観客によってはそのシーン や作品を味わえない人も出てくるでしょうし、誤解も大きくなるかもしれない。でもそれはそれでいいじゃないかと思いますね。世の中とはそうしたものだし、 みんながみんな一様な感想を持つことの方が気持ち悪いですから。

●キャラの表情について聞きたいのですが。目から星が出たり、今回は漫画的ですね。

 そうですね。ああいう部分、百面相するところにコメディを求めてるわけじゃないし、別にギャグのつもりもないです。単に面白いな、と思って描いているだけで、それで笑わせようという意図はないですよ。
 どちらかというと絵の描き手として描いていて楽しい、面白い部分でね。それで笑えるお客さんがいたらまことに結構なことだし、笑えない人がいても全然問 題じゃないです。やりすぎだと感じる人もいるかもしれません。邪魔だと思う人もいるでしょうが、それはそれで仕方のないことです。我々制作者が楽しんで 作った部分を共有できない人がいるのは仕方のないことですからね。ともかく、大仰な表情付けはピンポイントとしてギャグとかを笑いを狙っているわけではな くて、全体のムードとして漫画的な芝居を考えていたんじゃないかな。
 ただ、漫画表現の一つとしてそういう百面相的な面白さはやっぱりあると思いますし、例えば美少女ものとかでも目が点になったり崩れたり、何でもなくやっ てますね。でもこれがいわゆるリアル系のアニメーションになると、判で押したみたいな表情ばかりで、それをキャラの統一だ、リアルだとか言うのは、あまり にもせせこましいのではないかとも感じていたんです。
 そういう背景もあって、あえてリアルな等身と世界観にありながらキャラの表情は崩してますね。そういう漫画的な活力の回復は当初からの目的でした。

●やはりそういう漫画的な表現に重点を置いてる。湯気が出たりとか、線が出たりとかもありましたね。

 そういうのは別に監督が指示したわけじゃなくて原画マンが楽しんでいるうちに出てきてしまったものじゃないですかね。私としては「東京ゴッド〜」という 作品の枠組みから外れない限り、色々なアイデアを出してもらって全然構わないですよ、というスタンスでした。だからあまり統一してないですよ。かなりバラ バラだと言ってもいい。
 でも、人間って結構バラバラなものじゃないかとも思いますけどね。

●そこにも矛盾がある?

 ええ。創作物に登場する人物は、何か一貫していなければいけないっていうのは一方でわかるんですが、人間ってそんなに一貫してないんじゃないのかとも思いますね。
 だって、自分の行動に逐一明解な理由があるとは限らないでしょう。「何となく」ってことだってあるし、「何故そんなことをしたのか自分でもよく分からな い」なんてよくあることでしょう。一々明解な説明がなされて一貫している人なんて却って不自然なんじゃないかな。まぁ、西洋近代自我なんかだとそういうの は許されにくいのかもしれないけど。一貫していてこそ個人である、みたいな考え方でしょうからね。そういうのって結構苦しいと思うんですけどねぇ。
 私としてはトータルで見てキャラクターとして伝わればそれでいいと思っています。このキャラクターは「こういうことを言っちゃいけない」とか、「こうい うことをしてはいけない」というのが一番つまらない考え方だと思っています。そういう形でまとまってしまったキャラクターって、結局成長しないキャラク ターとも言えますから。キャラクターを売り物にしている作品の場合、成長されちゃ困るでしょうけどね。

●一連の繋がりでキャラクターを見せる、っていうのは確かにありますよね。例えば漫画でも、一コマずつ見たら全然違う顔なんだけど、流れで見てると全部同じ人に見える。

 普通の人間だってね、写真映りによって違う人に見えたりすることありますよね。変に統一してる方が不自然だと思いますけどね。だから、みんな最初は統一を目指してやってくんだけど、統一なんか通り過ぎてしまえ、っていうようなことでしょうね。

●キャラクターの芝居が細かく描かれていて面白かったですね。

 それはもう原画マンの力量ですよ。大塚伸治さん、濱洲英喜さん、安藤雅司さん、井上俊之さん、本間嘉一さん、鈴木美千代さん、川名久美子さん、大平晋治 くん、本田 雄師匠……上手な人がたくさん参加してくれましたからね。作監の小西さん、演出の古屋君もかなりの量をフォローしてくれましたし、非常にいい仕事をしてい ます。
 キャラの芝居は監督がどんなに躍起になったりコンテでどんなに細かくイメージを描いたとしても、やっぱり原画マンに負うものなんです。私がコンテでせめ て思いついた芝居のイメージをなるべくたくさん描こうとしたのは、その芝居を再現して欲しいと要求しているというより、実際にそのシーンを担当する原画マ ンにイメージを喚起してもらいたいからなんですよ。コンテで描いたことで足りるわけはなくて、原画マンがイメージを膨らませてくれないとシーンとしてカッ トとして満足しないんです。

●構図的に引いたカットも多いし、一人のキャラが長く芝居する。それは今回やってみたかった事ですか?

 そうですね。これまで2作に比べて長回しのカットは飛躍的に増えてますね。カメラをそこに据えておくから好きにしてみてください、という感じです。でも大変だし危険なんですよ、そういうやり方。

●どういった面が大変で危険なんでしょう?

 理解力と画力の高い原画マンが担当してくれたら全然問題ないんですけど。そうでない場合、監督や作監が期待したものと大きく違うものが上がってくることが多くなりますよね。
 メインスタッフ(監督・作監・演出)は上がってきたカットをチェックしたり修正する側ですが、1カット三十秒あったら直しきれないんです。三秒や五秒の カットだったら、本来予定してた芝居を軽減したりして、修正程度でもつように出来ます。だいたい尺が短いカットだとやるべきことも限定されている場合が多 いですから、それほど意図と違うものが出てくる危険も回避できる。でも、三十秒あったら解釈の幅が大きいし、意図と違うものが出てきてしまった場合、もう 修正では済まないです。描き直しです。もちろんどうしても描き直さざるを得ないカットもある程度は出てきてしまうんですけど、その量が多かったらスケ ジュールは壊れます。
 だから、そういうカットを数多く作るのは危険なんですよ。これまでもやってこなかったし、なるべく避けて来たのですが、今回はコンテを描きながらこの シーンをどの原画マンが担当してくれるかというのが予め分かっていることが多かったので、じゃあやろう、と。だからコンテ以外で増えた豊かなアイディアも 含めてすべて原画マンのおかげですよ。

● アニメーションは一枚絵の連続ですよね。しかも動くだけでなく、芝居にならないといけない。でもそれは優秀なアニメーターさんでないとできないってことで すね。で、そのいうスタッフがいないと成立しない部分が今回の作品にはかなり入っていると。でも、何故それをやろうと?

 話が成立しないわけじゃないんですよ。語り口が成立しなくなるだけで。
 でもやっぱり「千年女優」で、例えば大塚伸治さんとか小西さんの原画でアニメーションの芝居の面白さというのを改めて感じ入った部分があって、もっとこ ういうことをやりたいなと思った。それを受けて「東京ゴッド〜」は芝居に重きをおいた作り方になってるんです。
 今回、小西さんに作画監督をお願いしたのは、「千年」で彼の仕事に接したからです。申し訳ないけど小西さんの他の仕事をちゃんと見ていたわけではないん です。逆にいえば「千年」での仕事ぶりだけを見て、直観的に判断したんです。芝居に対するセンスとか画力とか、人間に対する見方とか仕事に関わる姿勢まで 含めて、小西さんがベストだと思いましたね。そして期待以上の仕事をしてくれていると思います。

●キャラの芝居だけでなく、美術背景もたいへんな密度でした。

 それは最初の企画の段階から、東京の街の中を舞台にして作ることになった時から大変になるのはもう分っていました。なのでコンテ段階でなるべく背景の兼 用を考えました。カットが分かれていても、同ポジションを何回も使って背景一枚で四カット分になるように、といった工夫です。
 だから一枚の背景を描くのにかけられる時間をどうやって稼ぐかっていうのを考えてコンテは描いてます。単純にカメラの切り返しが続けば、それぞれは同じ 背景で済むわけじゃないですか。だから「東京ゴッド〜」の場合923カットですけど、実際の描き枚数はもっと少ない。50カット分ぐらいは同構図を兼用し て一枚の背景絵で済ますっていう方法にしてるんです。
 やっぱり、大変なことをやる以上、何かフォローすることも考えますから。大変にするぞ!ワーッ!って突っ込んで、玉砕しました……っていうのは、やっぱりマズイんでね(笑)
 それと「千年女優」は旧来のセルとBGを重ねてカメラで撮影するというアナログな方法でしたが、今回から完全にデジタル撮影に移行しました。なので背景 をデジタルで加工するのが容易になったという点も大きいですね。「千年」の時も背景の加工にPhotoshopを使ったりしていたんですが、何しろ最終的 にはカメラで撮影しなくてはならなかったので、加工したデータを一旦プリントアウトしてそれを撮影していた。色々面倒だったんですよ。それがデジタル撮影 になって、加工したデータをそのまま使えるようになった。美術監督も私も積極的に背景の加工をしましたね。
 顕著なのはテクスチャかな。ただの「壁」とか「路面」でもテクスチャを貼るとたいへんな密度感を得られるんです。貼り付けるテクスチャは版権フリー素材 の「錆」が一番多かったと思いますが、その他にデジタルカメラで撮ってきた実景を切り抜いて使うことも多かったはずです。タイル貼りのマンションとか、手 描きにすると野暮ったくなるんでね、そういうのは実際のタイルをデジカメで撮ってきて貼り付けた方が遙かに感じが出るんです。画面の邪魔にならない密度感 が得られるんです。
 ゴミなんかもね、炭酸カルシウムのゴミ袋の外側は作画で、透けて見える中味は実際のゴミを撮影したデータを貼り付けたりもしているんじゃないかな。
 あと、ごく単純に遠景のビルや建物なんかだと他のカットで描いた背景からコピーしてきて貼り付けるとか、左右反転して使い回すとか、密度感を生み出す上でデジタルの恩恵は非常に大きいと思います。

●風景に味があるのが面白いと思ったんです。近未来的なビルとかは、これまで多くのアニメ作品でよく描かれて来たリアルなモチーフだと思うんですが、ここまで本当にありそうな東京の街並を、しかも裏路地とか地味な面をとても味のあるものに仕上げている。

 自分の携わった仕事の範囲でいうと、現代の東京が舞台となった作品に劇場版「機動警察パトレイバー2」があります。私はこの作品ではレイアウト担当とい うことで、東京の街並みというか東京の断片みたいな風景を描きました。あの描き方はあの作品に合っているんだろうし、私がどうこういうべきものではありま せんが、何か風景の中に入って行かないのが私には物足りなく感じられる。風景の中に登場人物が入って行かない、というか視点が入って行かない、という感じ ですかね。ずっと外側から見ている。そういう作品だからあれはあれでいいと思うんですよ。
 以前押井さんとある仕事をしていたときにその辺が焦点になったことがあって、向こうにしてみれば、視点がその風景なり対象なりに入って行かないから、だ からこそその対象や風景は象徴として機能するのだ、ということになるだったみたいだし、こっちにしてみれば中に入って行くことで虚構世界に登場させた対象 なり風景に実在感を持たせたいという考え方になる。
 どっちの方法が正しいとか間違っているとかいうことではありません。どっちも有りだし、単に視点が風景に入って行かないのは私の方法としては合わない、 というだけのことです。象徴としての風景が必要な場合なら私だって視点が入って行かない方法を選択するでしょう。
 なのでともかく私が監督する「東京ゴッド〜」では、登場人物の視点を借りるような形で風景の中に入って行くようにはなっていると思います。と同時にそれ を引いた位置で見ている視点も残したつもりです。先にも言いましたがそれが街の視点といったものです。
 登場人物に即した視点で描かれた風景は、映画を見ている人にも「どこかで見たことがある」といった記憶とか共感を喚起できるように作ったつもりです。要 はどこかにありそうだ、と思わせるような、リアリティとか実在感を感じられるような風景を目指していた。そのためには「実景そのもの」ではどうも上手くな いなんですよ。

●写真をそのまま絵に起こしても上手く行かない、ということですか?

 そうです。
 写真を撮ってきて実景そのもの、特定の場所をそのまま描いてしまうと当然イメージが限定されてしまう。街を描くにあたって都合のいい要素、街らしいエレ メントが必ずしも含まれているわけではないですから。だから、風景は作らないと上手く行かないと私は思っています。もちろんそうじゃない方法論だってある んでしょうけど、私は持っていない。
 だから、資料写真を撮ってきて、色々な画像から要素を抜き出して、そのシーンに都合のいいように合成して行くんです。それで初めて、1カットの画面とし て切り取られた中にこちらが再現したい街なら街、裏路地なら裏路地のイメージが出てくる。そんな風に考えていました。
 それと基本的に表通りを描く気はなかったんです。主人公たち三人は裏路地を歩き、遠くに見える表通りにはホームレスではない普通の暮らしをしている人々 が往来している、というのが基本的な構図でした。まぁ、裏路地の方が面白い風景だなと思いますしね。
 で、その裏路地には「何か」が潜んでいるんじゃないか、と。
 何か、っていうのは八百万の神々の一派にあたるような「何か」。霊的なものとまでいうとちょっとニュアンスが強すぎるんですけど。
 やっぱり八百万の神々は自然の中だけにいるんじゃなくてね、人工物の中にだって潜めると思うんですよ。アスファルトとコンクリートで塞がれた都会には神 々が宿らないっていうのは、創造力の衰退なんじゃないかと思ってしまうんです。どんな所にもアニミズムを見て来たのが日本人の伝統だと思うんです。それこ そ刀に魂が宿るみたいな。でもそれ人工物じゃないか(笑)
 刀には魂が宿るけどコンクリートには宿らないっていうのは、それを見る側の人間の想像力の問題です。でも、都会のあんまり明るい所には神々もさぞや居辛 かろう、と。路地に潜む神々は裏通りを歩くホームレスの主人公たちを見守っている。見てるだけで特に何もしないんですが。
 で、いわゆる一般の人たちは、路地の奥に見える明るい表通りを横切って行くだけで何も気付かない、という構図。最初っからそういう風景にしようというコンセプトだったんです。

●先ほどいっていた街の視点は神の視点でもあるわけですね。そういうお話は見た後にもお聞きしたいですね。では最後に、これから見る読者にコメントをお願いします。

 見る人によって、見えてくるものが違う映画なので、目を皿にして自分だけの物語を見つけて下さい。いや、違いますね。目を皿のようにしてはいけません。もっとボーっと見て欲しいです。その方が色々なことが見えてくる映画ではないかと思います。