Interview 01
2002年12月オーストラリアから、主に「千年女優」に関するインタビュー


1.「千年女優」における千代子の思い出は、実際の歴史の出来事や現実よりもより鮮やかで意味を持っているという印象を受けました。「MEMORIES/ 彼女の思い出」から「パーフェクトブルー」、そして「千年女優」と、思い出と直感、イマジネーションと実際の世界との境界線を曖昧にさせるというテーマ性 が統一されているように感じました。そのテーマに惹かれる理由をお聞かせください。

過 度なほどに合理性を求める価値観にうんざりしてきた、といえるかもしれません。近代西洋合理主義的な態度で対象物を切り分けて分析し、規範に従って「正し いか正しくないか」といった判断やそれらの積み重ねによって形成された価値観が現状を支配していると思います。もちろん「規範」自体も現在は大きく揺らい でいると思いますが、それでも過度な合理性が支配的ですし、自分と自分を取りまく世界の認識もそれに大きく支配されていると思います。
私が興味を持つ対象は、そうした合理精神からはみ出した部分なのでしょう。
たとえば私はこうしてメールインタビューに答えてキーボードを叩いています。
「今敏が東京、阿佐ヶ谷にある仕事場でテキストを打っている」、これは他人も共有しうる客観的な事実です。しかし私の頭の中では質問への答えを考えている と同時に、他の仕事のことを考える瞬間があったり、まったく別なイメージが浮かんでくることもあります。
このインタビューはオーストラリアから届けられたものですから、オーストラリアというイメージから頭の片隅では色々な連想が生まれ、テレビや映画で見た オーストラリアの自然や風物などがイメージとして浮かんできます。オーストラリアには小学校の同級生が住んでいるので、彼女の小学生時代の顔や姿も浮かん で来ますし、その繋がりで自分が通った小学校や当時住んでいたアパートのイメージも浮かんできて……というように連想は次々と生まれてきます。
インタビューとは一見無関係なそうしたイメージや思考をも含めて、このテキストは成り立っている。なので、まったく同じ質問を別な人から別な日に受ければ、また少し違ったものになるでしょう。
これは私の考えが一貫していない、ということではありません。論理的な考えは大きく変わらずとも、その場その時における偶然に立脚した一回性の出会いというものを大事にしているのです。
ともかく「今 敏が東京、阿佐ヶ谷にある仕事場でテキストを打っている」のと同時に、私の頭の中では隔たった場所や時間のイメージが生起している。それが私が経験している現在です。
そうした多元的なイメージの把握こそが真実だといっても良いと思いますし、私の描きたいのはそういうことなのです。描きたいのは事実ではなく真実です。
なので御質問にある「境界線を曖昧にさせるというテーマ性」という言い方はあまり正しくないかもしれません。そうした境界線は人間が便宜上設定したもの で、自分と自分を取り巻く世界を認識する在り方はもっと多元的なものであり、実は元来曖昧なものなのだと思います。私がそうしたテーマに惹かれるのは、そ うした在り方を回復したいからなのかもしれません。

2.またもう一つのテーマ性として「パーフェクトブルー」と「千年女優」の両作品中、スターと崇拝者、オタクとアイコンの関係を描いています。このテーマ性についてお話ください。

「パーフェクトブルー」の場合は、元来私の企画ではありませんし、監督のオファーが来た時点ですでに内容は「B級アイドルと変態のファン」という設定が決まっていました。
「千年女優」の場合は、オリジナル作品ということもあるでしょうが、私と私の理想の作品という関係がはっきりと投影されていると思います。
私が追い求め続けるであろう理想の作品は、決して私には手の届かないものだと思っています。これは悲観ではありません。
作品を作っている最中にも作り手である私自身は変化しています。アイディアを思いついた時点で理想としたイメージに日々近づいていると同時に、イメージ自体も私の変化に伴って育って行きます。ですから決して追いつくことはない、ということです。
追いつくことはないかもしれないけれど、それを追い求める態度こそが大事であるという私の価値観が反映しているのだと思います。
「MEMORIES/彼女の想いで」、「パーフェクトブルー」そして「千年女優」と、スター・芸能人を扱う結果になっています。これは必ずしも私の意図ではなかったとはいえ、私にとっては興味深い対象だったと思います。
彼らは、ある意味、現代の神話における神々、あるいはおとぎ話の主人公のように思えます。これは精神分析家の岸田秀氏が指摘していることですが、彼等は、 一般市民が経験できないような世界や一般では許されないような不道徳なことをも体験して、それが逆に魅力にすらなっている。ご存知の通り、神話には神々の 不道徳な行為が多く描かれています。
現代では神話が失われてしまっているように見えますが、実は人々が求める神話性を生きているのが、彼等芸能界の人々じゃないのかと思えます。そうした現代の神話と、私自身が現代版おとぎ話を描きたいという欲求が響き合ったのかとも思います。

3.監督の映画では情熱的で一途な女性(ある意味ペテン師的な)が出てきます。ただ他のアニメ作品の一般的な描写より、感情豊かで心理的にも細かい人物描写をされていると思います。なぜ男性の精神より女性の精神を描くことに興味をお持ちなのですか?

非常に現実的な側面では、アニメファンには若い女性キャラクターが受け入れられやすいという事情が大きく手伝っているのも事実です(笑)
私自身女性が大好きですしね。
表現者の部分で真面目にお答えしますと、男性主人公を描くとなると私自身が男性なものですから、嫌な面やずるい面や弱い面や汚い面やスケベな面などが見えすぎてしまって、物語の担い手としてあまり相応しくない主人公になってしまいそうです。
なので女性の方が幻想を投影しやすいのかもしれません。

4.「千年女優」で、千代子は素晴らしいキャリアを持った女性にも関わらず、自分の運命をコントロールできない、または自分の欲望をかなえるような理解を得られません。これは日本の社会では結婚をした女性の一般的な扱いなのでしょうか?

一概には言えないでしょうし、私も結婚という形態をそれほど悲観的に見ているわけではありません。千代子のような魂の欲求が強い人間には、社会との折り合 いが付かないことが多いでしょう。私自身あまり上手に社会生活を送れていると思いませんしね(笑)。自分のそうした部分が投影されているのでしょう。

5.日本のみならず、西洋での「パーフェクトブルー」と「千年女優」の好意的な反応についてどう思われますか?二作目を製作する際に観客がどう反応するか心配になられたことはありますか?

「パーフェクトブルー」が世界でも注目されたのは意外という他ありませんでした。
この作品は元来ビデオアニメーションとして作られたものですし、狭い市場で少し話題になって消えて行くのが関の山だと思っていたので、映画として公開され たこと自体が想定外でした。ましてや数多くの海外映画祭に招待されることなど夢にも思っていませんでした。
「パーフェクトブルー」での好意的な反応や評価に自信を得られたので、「千年女優」制作に際してはそれほど心配はしていませんでした。むしろ「パーフェク トブルー」の次回作ということで楽しみにしてくれている観客を、どう裏切るか(もちろん良い意味でですが)を考えるのが楽しいくらいでした。

6.「パーフェクトブルー」と「千年女優」の両作品で脚本家の村井さんとお仕事を一緒にされていますね。彼の仕事についてどう思われますか?

両作品とも物語の構成が複雑で、その複雑さこそが魅力であり、私のやりたかったことでもあります。村井氏も構成で見せるのが得意なライターだと思いますの で、作品にはまっていたと思いますし、彼と私とでなければ両作品における複雑に絡み合ったシナリオは出来なかったと思います。
ただ村井氏にしても私にしても、人物描写というかキャラクターに対する愛着が薄い方で、「千年女優」の千代子のような欲求が強い人物を描くには少しエネル ギーが足りなかったかもしれません。ただ、千代子というキャラクターは生身の人間というより、昔話の主人公のような象徴的な意味合いが強いイメージでした ので、むしろあのくらいで良かったとは思っています。押しつけがましいキャラクター描写ほど嫌いなものはありませんので。

7.「千年女優」では千代子の思い出を数々の印象的な歴史の出来事の中で反映させているのと同時に、日本という国の思い出を浮き彫りにできる映画の力を上手く表現しているように思いました。
監督が影響を受けた日本の監督や西洋の監督、または映画について教えていただけますか?

あまりに多くの映画や監督に影響を受けているのでとても手短には言えません。
直接私の監督作品にまつわるようなものに限ってお答えしたいと思います。
「パーフェクトブルー」や「千年女優」において描きたかった「普通と違う時間感覚」、「主観による時間」という言い方が出来ると思いますが、これはジョージ・ロイ・ヒル監督の「スローターハウス5」に触発された面が大きいと思います。
本人の中では、現在も未来も過去も同時にあるという感覚、そしてそれを具体化し得た映像表現は大変素晴らしいと思います。
夢と現実の混交、という面ではテリー・ギリアム監督に大きく触発されていると思います。「バンデットQ」「未来世紀ブラジル」「バロン」の3本が素晴らしい。その後の作品には刺激を感じないのですが。
この3本は基本的に同じ題材を言い方を変えて描いていると思うのですが、特に「バロン」は人間の想像力の豊かさを再認識させてくれる傑作だと思います。映 画としての出来については色々な批判もありうると思いますが、そうした問題は些細なことだと思いますし、現代社会において死に瀕している想像力というもの に再生の光をすら投げかけている映画として私は大好きな一本です。
ジャン・ジュネ監督の「デリカテッセン」「ロストチルドレン」も素晴らしいですね。特に「ロストチルドレン」は非常に素晴らしい。想像力を刺激されます。

日本の映画監督、特に黒澤明監督には多くのことを学んだと思いますが、私が自分なりの映画の文法を身に付ける上で、多く参考にしたのは海外、とりわけアメ リカ映画です。ある種、明解すぎるほどのアメリカ映画の文法を参考にしてきたにもかかわらず、私の描く映画世界は現実と夢の混交や時間の曖昧さといった、 実は非常にアジア的なものになっているのが自分でも面白いと思います。

8.あるインタビュー中、監督が「日本は第二次大戦で敗戦した後、自国の歴史や文化から切り離されている」というお話をされているのを拝読しました。このことをもう少しお話していただけますか?

敗戦によって多くの日本人自身が「日本はダメな国」「間違っていた国」だと思ったのではないかと思います。もちろん戦争に関しては何から何までダメな国だったと思います。
しかしだからといって日本の全てがダメなわけもなく、歴史にしろ文化にしろいい面はたくさんあったはずなのですが、戦争に負けた「ダメな国」を払拭しよう として、折角あったいい面までも「西洋に比べれば見劣りがするもの」という見方をしてしまったのではないかと思います。何しろ西洋、特にアメリカを手本に してそれに追いつくことが「正しいこと」のように刷り込まれてきたように思います。私自身そういう教育の下に育ってきました。
日本の歴史的文化的遺産も、日本人である自分との直接の関係で見るより、もしかしたら日本人の上に西洋人の仮面を被って見るような、歪な接し方をしていた かもしれないとすら思えてきます。そう、まるで畳の上にジュータンを敷いて椅子で生活しているような。
そうした間接的な接し方ではなく、日本人直接の視線で自国を見られるようでありたいと思うのです。そういう意味で私にとって「千年女優」は自国の文化を積極的に意識し、コミットする絶好の機会になったと思います。

9.現代的な舞台設定や考え方にも拘わらず、監督の映画は寓話的な要素があると思いました。監督自身、物語を考える時日本の昔話に影響を受けていると思いますか?また監督は日本と西洋の昔話の違いや物語の語り方に違いがあると思いますか?

そういう風に見てもらうのは嬉しいですね。
特に「千年女優」は昔話的な要素を意図的に盛り込んだつもりです。リアルなドラマや人物描写より、エッセンスを切り取るような単純化されたものが好きで す。もちろん人物やエピソードの意味を一度単純化した上で、そこに説得力を持たせるためのリアリティのある描写を心がけていますが。
また「千年女優」は日本の昔話である「竹取物語」を意識してもいます。竹から生まれた“かぐや姫”が権力者たちの求婚に無理難題で応え、最後には帝まで袖 にして故郷の月へ帰る、というお話です。老千代子の山荘へ向かう途中に竹林があるのはそういうイメージがあるからで、月へまでも走るというのもそうです。 千代子は“月さえも越えて行くかぐや姫”というイメージでした。
日本と西洋の昔話の違いは大いにあると思いますが、それについて書き始めると膨大な量になりそうですし、詳しく語れるほどの知識があるわけでもありませんので、印象的な違いを一つだけ挙げます。
西洋の昔話では主人公が多くの苦難の末に美女と結ばれてハッピーエンド、というパターンが多いようですが、日本の昔話には少ないですね。むしろかぐや姫のように異界から来た女が去って行って終わる、というパターンが多いように思います。
それと昔話ではありませんが、旧約聖書などでは罰として人間に「労働」が課せられたのとは対照的に、日本の神話では天上界の神々が率先して労働(農業)を しており、働くことには聖なる神事という面があるとなっている。なので西洋人がワーカホリックと呼ぶ病に、私はむしろ自信とプライドを持っています。

10. 「パーフェクトブルー」はもともと実写の映画にする予定がアニメーションに変更したと伺いました。今監督の作品はスペシャル・エフェクトを使えば実写映画 にもあるように同じような感じました。マンガとしてのあなたの仕事と違うセルに描かれるアニメーションは違うと思われますか?また監督の描くイメージの表 現するにあたってアニメーションのどこが一番適している部分だと思いますか?また物語を語るに当たって実写を撮った方が自分のイメージを表現するに当たっ ていいと思いませんか?

「パーフェクトブルー」に実写化の予定があったというのは、作品が完成後にたまたま耳にしましたが、それは私の関知するところではありません。私に監督の オファーが来たときには「オリジナルビデオアニメーション」という企画でした。私はいまでも「パーフェクトブルー」はビデオアニメだと思っています。ビデ オアニメとして作ったのですから。
また私の作品が実写でも作りうる、とのことですが、私はそうは思いません。もちろん単純な意味で実写に置き換えられるかといえば、それは可能だと思います が、そういう表面的な見方は映画制作をよく知らないかアニメに無知か、なのではないでしょうか。
私は実写を撮りたいと思ったことはありませんし、撮ることに憧れてもいません。アニメがもっとも気に入った表現方法です。現在は漫画よりもはるかに面白い と思って作っています。漫画は漫画の良さがありますが、動きと色によって視覚に訴え、言葉と効果音と音楽で聴覚に訴えられるアニメーションの表現の幅は非 常に大きい。しかもそれらの相乗効果はそれ以上に大きい。
絵描きの私にとって、アニメーションはコントロールもしやすいですし、私の意図も表現しやすい。少なくとも下手くそな役者に幻滅することは避けられます (笑)。実写では役者が下手だからといって、監督が替わりに演じるわけにはいかないでしょうからね。
それは半分冗談ですが、私は実写という表現手段を使ったことがないのでよく分からないですし、漫画にしろアニメーションにしろ絵を媒介にした表現手段が一 番適していると思います。よく知りもしない表現手段を自分の思うようになるまで修得する時間が勿体ないということもあります。何しろ私がいまの絵を描ける ようになるまで30年以上かかっているのですからね。私はその技術に自信とプライドを持っていますし、その技術があるからこそアニメーションを作っている のです。
インタビュー(特に海外)の度に毎回毎回「実写を撮るつもりはないのか」と聞かれるのですが、この質問の背景にはやはり「実写はアニメより上のもの」とい うつまらない考えがあるようですね。確かに世の中のほとんどの人がそう思っているでしょうし、実写で表現した方がより多くの人間に見てもらう機会もあるの でしょう。
毎度毎度実写のことを聞かれるので、そんなに言うなら撮ってやろうかな、という気さえしてきました(笑)。あまり本気ではありませんが、実写向きのアイ ディア(アニメには向かず、なおかつ低予算でも撮れるような、という意味ですが)を思いついたので、シナリオにしようかとは思っています。いつになるか分 かりませんが。

11.監督の大人向けの素材を物語に入れることは今までのアニメの物語と違い画期的なことだと思いました。それは意識的に観客に挑戦していることなのでしょうか?

私の作品が大人向けかどうか、また私の作品が画期的かどうかは他人が判断することですが、私が作品を作る上での基本的な態度は「何より私が見たいと思う作 品を作る」ということですので、私が大人になった分だけ作品も子供向けではないものになるのでしょう。
観客への挑戦という意識はあまりないですね。
ただ「分からない人に無理してでも分かってもらおう」などという過剰な親切は持ち合わせていないので、商業主義の過剰なサービスに馴らされた人には挑戦的 に見えるかもしれませんが。そういう人はボックスオフィスだけ気にしていれば良いのです。もちろん私も自分の作品をより多くの人に見てもらいたいと思いま すし、興行的な成功を望んでいますが、そのために作品が歪むほど自分の制作態度を曲げる気はありません。

12.新作の「東京ゴッドファーザーズ」についてお話ください。またそのテーマについても教えていただけますか?

テーマは完成した映画を見なければ感じることは出来ません。言葉にしきれるテーマなら映像にはしません。
ストーリーは単純です。東京、新宿に暮らす3人のホームレスがクリスマスの夜にゴミ捨て場で赤ん坊を拾い、何とかその赤ん坊を親元へ返そうと東京都内を探して歩く、というものです。コメディです。
主役の3人はそれぞれ、中年のオッサン、家出少女、中年のオカマ。
彼らは血は繋がっていませんが、まるで家族のように暮らしている。赤ん坊の親を捜す道中、赤ん坊がきっかけとなってもたらされる奇跡のような偶然によって、彼らそれぞれが失ってきてしまった本来の家族との繋がりを回復して行く、という物語です。
ホームレスは言葉通り、家がないということですが、この作品においては単に“家”を失った人というだけではなく“家族”を失った人、という意味で捉えています。失った家族を回復する物語といって良いです。
重要なモチーフとなるのは「家族」と「偶然」です。「東京ゴッドファーザーズ」ではこれまで2作とは違い、劇中劇や夢と現実の揺らぎといった仕掛けはあり ませんが、やはり客観的な現実とは別の流れを大切にしている作品ですので、目の肥えた方ならばそうした多元的な物語世界を楽しめると思います。
完成は2003年春の予定で、公開はまだ未定です。