Interview 19

2007年8月 カナダから『パプリカ』について

カナダ、モントリオールの新聞「ミラー」からのインタビューです。

この度はご協力ありがとうございます。Paprikaは素晴らしく、とても惹きつけられる映画でした。作品に対する考えを聞けるのをとても楽しみにしております。 では、お願いします。
 
1. Paprikaでは様々な映画作りのテクニックがPaprikaと観客に説明されていたり、Paprikaが“dream movie star”と描写されていたりと映画と夢との関連性がとても明快に描かれていますが、映画と夢の共通点についてどう思われますか? 映画作りは夢みることに似ていると思われますか?

素敵な質問ですね。私は映画作りと夢を見ることに多くの共通点を見出しています。
我々が睡眠中に見る夢とは「予期せぬ私の映画」とでも言うべきものでしょうか。主人公は当人であり、画面もシナリオもその人の無意識に由来するものです。
起承転結がある方が珍しいくらいで、夢が何を訴えているかも分からないことも多い。しかしそれはすべて当人の中にあるイメージによって構成されている。すべては自分の中にあることなのに、自分では必ずしも理解できないというねじれ具合が実に興味深い。
一方、映画は多くの場合、起承転結があり、クライマックスでは盛り上がり、多くの場合見終わった後にどういうテーマだったのか表現することが出来ます。
夢を「予期せぬ私の映画」と言うなら、映画は「誰もが安心して楽しめる夢」とでも言えるかもしれません。「無意識の映画」と「意識の映画」と言い換えても良いでしょう。
しかし、本当に映画は安心して楽しむだけのものでしょうか。すべてが理解できるものであるべきでしょうか。
私はそうは思いません。
観客であれ映画制作者であっても、すべてを理解しうるような映画は実につまらないものだと確信しています。
もちろん夢とは違い、映画の表現内容の多くは観客に共有されなければなりません。しかし映画には必ず見終わっても残る「謎」のようなものがなければ、その映画が印象的なものにはならないだろうと思います。
もちろん「謎」といっても、ストーリーを混乱させるとか作者の勝手な都合で生まれたような謎なら何の価値も感じませんが、私が言う「謎」とは、言い換えると観客のための余白のようなものです。観客が想像するための余地です。
それは画面としての謎かもしれませんし、登場人物の心情、あるいはストーリーや設定上の謎であるかもしれませんが、いずれにせよ、それが分からなくても観客にとっては映画として成立しつつ、でもそこを観客がそれぞれの想像で補うことによって、その映画が他ならぬその観客「だけ」の体験となるのだと思うのです。
同じ映画を観ていながら、「その人だけの体験となる」というあたりもまた、映画と夢の大きな共通点だと感じます。
 
2.ある登場人物が「私にはたくさんの顔がある。だから人間なのだ。」と言うシーンがあります。この映画には二面性もしくは二重人格的なテーマが感じられます。PaprikaとChibaのアイデンティティーなどが例に挙げられますが、こういった要素は意図的に組み込まれたのでしょうか?

この映画において、私がテーマの中核として位置づけていたのが物事の「二面性」や「多面性」、「対照性」、そしてそれらの「バランス」であり、当初から意図して映画に組み込みました。
それらの意味は広義ですが、『パプリカ』において顕著な二面性が見られるのはご指摘の通りヒロイン千葉敦子とパプリカです。この二人は同一人物内の異なる人格を具体化した登場人物ですが、監督としては二人の異なる人物として考えて演出していました。その方が、ある人間の内面における葛藤や対立をより明快に描けると考えたからです。
私は千葉敦子を心理学などで言われるような、「父の娘」というイメージで考えていました。父性的な価値観に同一化している女性を「父の娘」と言うそうですが、こうした人は「規範に従う」ことに対してこだわりがあると思われます。千葉敦子も「自分は何をなすべきか」を優先する人間であり、「自分は何をしたいか」という感情や欲望は抑圧されている。
それゆえ自分の感情面が弱い、というか感情をストレートに表出することを良しとしない人だと思います。だから恋愛のように感情が噴出しやすい部分で、自分をどう表現していいのか分からない。
千葉敦子のそうした性格が過度に傾いてきた分、その反面としてのパプリカがより感情的、奔放になってきたのではないか。そのように考えました。
そのため両者の乖離が大きくなって、いわば分裂してしまうわけですが、それらはどちらがネガティブというわけでもありませんし、双方それぞれに良し悪しがある。だからこそ、両者のバランスが大切になる。クライマックスで新生する巨大な女性像は敦子とパプリカが統合され、一回り成長した姿です。
敦子・パプリカの関係は同一人物内の対照性と二面性ですが、登場人物の性格設定や配置も同様の考え方に従っています。
たとえば敦子と時田、理事長の乾と所長の島という関係は性格的にも外見的にも対照的な関係です。乾と小山内も対となっていますが、こちらは外見的には老若という対照の関係にありつつ、人格的には相似です。粉川と島は親友同士ですが、彼らの見かけはまったく対照的です。敦子と小山内は見かけ上はバランスの良い美男美女ですが、立場的には対立している。しかし、実は「規範に忠実でありたい」という点では似た面もある。
また時田と氷室のように、外見も性格も相似という関係もあります。
このように『パプリカ』では基本的なコンセプトとして「対」という考え方を大事にしていたのです。
こうした対関係は良きものとして捉えている場合と、そうでない場合があります。
先の敦子の人物像とも関係してくるのですが、要するにその人物単体で全てバランスをとるのではなく、単体としてはバランスを欠いている人間同士が対となることで、その対関係としてバランスが取れるというのも悪くない、という考え方です。
敦子と時田の関係は正にそうしたイメージを具体化したつもりです。


3.今回「夢」という領域で仕事をされて、創造面の自由を感じられましたか?明快で論理的なストーリーでは表現に限度があることでも、このような形を通して表現することが出来ると思われましたか?

『パプリカ』制作の結果として創造面の自由を感じたわけではなく、ことの順番としてはまったく逆なのです。つまり、創造面での自由を獲得するために『パプリカ』を映画化しようとしたのです。
『パプリカ』以前に監督した映画は、すべてが「現実的な枠組み」の中であっても、見方を少しシフトすることで現実とは異なる大きなファンタジーが生まれてくる、という考え方で制作しておりました。
しかし、現実的な枠組みで映画の世界観を構築し続けていると、どうしても自分の描けるものが限定されてくる。技術的にはもっともっと色々なことを描写することは可能であるにもかかわらず、アイディアそのものが限定されれば技術の使いようもない。
こうしたディレンマもあり、自分の想像力を拡張するために選んだ企画が『パプリカ』でした。
その狙いに間違いはなかったと思うのですが、理屈を並べて済むほど実践は容易ではありません。身体になぞらえると、それまで鍛えてきていない筋肉を使うようなものです。現実的な枠組みの中なら想像力の使い方にも慣れているとはいえ、『パプリカ』で一番の見せ場である「夢の世界」は、現実的な枠組みから最も隔たった場所にあります。
この「夢の世界」を想像するために、無い知恵を絞って考え出したのが「チンピラ・エミュレーション」という概念です。
コンピュータの世界で言われるエミュレーションです。MacOS上でWindowsを動かしたりするエミュレーション。この「ある考え方の上に、別の考え方を起動して擬似的に動作させる」という構造が大変面白く、これを自分の脳の中で模倣してみようと考えたのです。
ベースとなるシステムは、『パプリカ』以前までに私が現実的な枠組みの中で構築してきた、いわば「大人」の私です。この想像力の範囲が固まりがちな「大人」上で、
「チンピラ」の私をエミュレーションしよう、と。「チンピラ」というと言葉は悪いですが、よく言えば若さというか若い想像力みたいなイメージです。全体をまとめることには適していないけれど、その場その場での思いつきはたくさん出てくる、というような。
 「大人」の方は、そうしたチンピラ的「これ見よがし」なイメージを排除することで、構築されてきたもので、こちらは全体をまとめるには適している。
これら両者を混ぜ合わせるのではなく、エミュレーションするという点が気に入ったところです。というのも、「大人」上で「チンピラ」を動作させる、というエミュレーションの構造が、『パプリカ』の主人公とまったく同じ構造になっていたからです。
何せ主人公は「敦子」という人格上で「パプリカ」という別なキャラクターが動作しているようなものですから。
私は、あまり演出している対象である登場人物そのものに感情移入などしない方ですが、人物が置かれた状況などには大きな共感を持って演出しているつもりです。ですから私が「チンピラ・エミュレーション」を採用したことで、「敦子−パプリカ」という構造に大変共感できるようになったことは大きな収穫でした。
というのも、『パプリカ』の劇中内、エミュレーションしたはずのパプリカは後半、敦子のコントロールが効かなくなります。私は自分の「チンピラ・エミュレーション」にもそれと同じことを期待していたからです。
「チンピラ」が「大人」の枠組みではコントロールしきれないような想像力を発揮してくれること。
これはある程度達成されたと思います。

4.ひとつ前の質問の続きですが、ストーリーの混乱を防ぐために、何か夢の世界なりのルールの必要性は感じられましたか?自分を抑えることも必要でしたか?

想像力に裏打ちされたご質問、ありがとうございます。
『パプリカ』以前の監督作ではストーリーを語ることを主眼とし、映像はよりよくストーリーを語るための手段であると考えていましたが、『パプリカ』ではその主従関係を逆転し、映像イメージを見せることを主眼としていました。ですから、なるべくストーリーを単純化することで、イメージを楽しむための時間を確保したつもりですし、イメージの大小・強弱・明暗といった対比や流れを作ることで、言語的には解釈は難しくても、映像の流れ、ストーリーは観客にも伝わったのではないかと思います。
とはいえご指摘の通り、夢はいわば「何でもあり」の世界ですから、そこに『パプリカ』という映画なりのルールを設定しなくてはなりませんし、それは非常に困難なことでした。さながらあるスポーツをプレイしながら、その当のルールを作っているような感じとでもいいましょうか。プレイした時間分だけのルールが生まれ、それが次のプレイとルールに繋がって行く。
こうした変則的な作り方において、他のスタッフとそのルールを共有するのは大変困難であることは想像に難くないと思います。結局のところ、監督が一人で恣意的に決めるしかありませんでした。個別のケースに即して、私が「これは『パプリカ』の夢の世界において“有り”」、「こういうことは夢の世界であっても“無し”」といった判断をするしかありません。これらの判断は脚本段階ではゆるめに設定して、私が絵コンテを描く段階で最終的に決定しました。
そのため、絵コンテも詳細に描く必要があり、『パプリカ』の絵コンテはこれまでで最も細かく、かつ分量も大きなものとなりました。その分、予想外に時間がかかってしまったのは、悪夢のようでした。

5.Paprikaの様々なビジュアル的なモチーフの中で最も興味深かったのはパレードなのですが、あなたにとってパレードは何を象徴しますか?

あのパレードは「捨てられたものたち」であると考えていました。
そう思うようになったのは、絵コンテ執筆段階でいざパレードの絵を描く段になってからのことで、そのイメージにたどり着くまでには多くの困難がありました。
最初に考慮しなくてはならなかったのが、時間的な制限も大きい映画において、原作のように色々な夢をさまざまな形で描くのは難しいという問題です。そこで、映画『パプリカ』においては、映画全編を通じて柱となるような夢、特に悪夢のイメージを中心に据えることにしました。それが出てくると一目で悪夢と伝わるような。
しかし、だからといってなぜそれがパレードになったのか、私にもはっきりとは分かりません。確かに、映画『パプリカ』において、悪夢を他の映画や漫画などでよく見られるような、ダークなイメージで描くことはやめようというつもりが当初からあり、「晴れやか過ぎて却って気色が悪い」という悪夢のイメージを考えていました。そのイメージにパレードは実にふさわしい。また、映画のクライマックスで夢が現実の世界に流入してくることは原作にもあるとおり決まっていました。
つまり最終的な目的地として「現実世界」が設定されるわけで、そこへ向かって行くものとしてもパレードというイメージは実に都合が良い。パレードはどこかから来てどこかへ向かうものですから。目的地が決まっているということは、後は出発点が必要になります。そこでたくさんの人間が住む都市から最も遠い場所として「砂漠」がイメージされました。人間たちから隔絶された場所というイメージです。そんなイメージと相まって「捨てられたものたちのパレード」というコンセプトが生まれてきたのだと思います。
『パプリカ』のパレードには神社の鳥居や仏像など宗教性にまつわるもの、招き猫やダルマといった日本の伝統的なイメージ、あるいは時代遅れの車や家電など様々なものが描かれていますが、これらはほとんど「捨てられたものたち」という基準で選択したものです。
たとえば100年前より宗教性は薄くなっているし、伝統的な風俗も本来の意味合いを失いただのファッションのアイテムになっている。あるいは高度経済成長期、まだまだ実用に耐える家電や車を、消費の欲望にドライブされて捨てては買い買っては捨て、次々と取り替えてきました。それら捨てられたものたちが夢の世界を通って現実に戻ってくる、というイメージが膨らんできました。それは現代人が、夢や無意識といった理性で理解しがたいものを抑圧し、ないがしろにしてきたこととパラレルな関係にあると考えたからです。
この「捨てられたものたちのパレード」というアイディア、そして本来動くはずのない物たちのパレードというイメージが確立してきたことで、アニメーション映画としての『パプリカ』に自信を持ちました。そして、完成した『パプリカ』をごらんいただいた多くの方から、「パレードが印象に残った」という感想を賜り、監督としてはたいへん満足しております。

6.映画の中で同じイメージやシーンが微妙に変化を遂げながらも何度も出てくるところ(例えば廊下のシーンなど)がとても印象深かったのですが、実際の夢で見るような繰り返されるストーリーの流れを意識して試みられたのでしょうか?もしそうではなかったのなら、何を意識されたのでしょうか?

実際に我々が眠っている間に見る夢でも「反復」はよく見られる現象なので、夢らしさの一つの特徴として『パプリカ』においても意識的かつ積極的に採用したアイディアです。
『パプリカ』に限らず、私がこれまでに監督した『パーフェクトブルー』や『千年女優』でも「反復」のイメージはしばしば使っています。また、単なる反復ではなく同じシーンが微妙に変化して行くのも夢的な展開だと思いますが、同時に時間経過とともに、そのイメージを見る人物の内面の変化を表せるのは、映画表現としてもたいへん有効な方法です。ほとんど同じシーンでありながら、わずかに変化した箇所があると、観客は当然そこに注目することになります。
こうした表現は「一目で分かる」ことが重要で、たいへん視覚的であり、小説などの文章表現ではなかなか難しいかもしれません。
ほとんど同じであるからこそ変化が際だつ。音楽において同じモチーフがA、A'、A''……と変化しつつバリエーションを展開するのに似ていますが、夢や映像表現は、同時に音楽的であると私は思っています。

7.画家として、Paprikaを作るにあたって例えば無意識の状態からインスピレーションを引き出したり、何らかの形でシュールレアリスムに影響を受けましたか? その他の芸術の形態には?

自分にどのような刺激を与えれば、あるいは自分をどのような状態におけばインスピレーションが引き出せるのかが自覚できれば、創作や表現に苦しむことは少なくなるでしょうし、仕事の締め切りを守ることも容易になると思うのですが、残念ながらいまだ私はその方法を会得していません。
『パプリカ』においては、特に夢のシーンのイメージを思いつくのには苦労させられました。何せ相手は我々が覚醒した意識で使っているような言語的・論理的な繋がり、展開、文脈を有していないのです。言い換えれば、夢は左脳ではなく右脳が司る映像的な繋がりによって展開しているものです。
ということは、そのイメージを考えるにあたって言語的・論理的にイメージを懸命に積み上げるだけでは、夢の特徴からその分どんどんと遠ざかることになってしまいます。だからといって眠りながらアイディアを考えるわけにも行かないので、『パプリカ』の絵コンテ執筆においては何より「連想」を積極的に活用しました。
画集や写真集、音楽など自分の仕事場にある創作物、あるいは自分が見た夢や実体験、スタッフとの会話などたくさんの材料の中から、何か一つ、気になるイメージが浮かんでくる。そのイメージをそのまま形にするのではなく、そのイメージからぼんやりと色々なことを連想して行くうちに、自分でも予想しなかったイメージに出会えることがあります。
そのイメージを絵にしてみます。さらにその絵から連想されるイメージを出来るだけ多く思い浮かべ、一つに絞り込んで先に?がるイメージを絵にして行く。この繰り返しです。
イメージを決定する上で重要なのは、シナリオ的・ストーリー的にぴったりはまるということよりも、映像的にしっくり来るかどうかです。またイメージの繋がりは、前後のイメージ同士が近く、直結すると飛躍が無くなるし、遠すぎると繋がりが分かりにくくなるので、観客にとって意外なイメージの展開でありつつ、分かるような気もする、という微妙な基準で考えなくてはなりませんでした。
絵コンテの執筆が遅れに遅れたのも無理はないかもしれません。
 
8.Paprikaと探偵が同じベッドで目覚めるシーンをはじめ、映画の中には幾度か紛れもなく性的な雰囲気が漂うのですが、それについてのコメントをお願いします。ストーリーにとってそれらは重要な要素だったのでしょうか?

特に性的な隠喩や換喩がストーリーとしてどうしても必要だとは考えてはいませんでしたが、フロイトによるまでもなく日常において抑圧された性的な欲望が様々な形で夢に反映するものですし、夢を題材として扱う映画としては性的な表現はなくてはならないものだと思っていました。
しかし、原作小説において性表現はもっともっと顕著で、それが大きな魅力になっているのですが、そのテイストをそのまま映像化すると、場合によってはポルノにもなりかねない。だからといって、性的表現を排除してしまえば、夢はただの奇妙なテーマパークに過ぎなくなりますし、夢の怖い面、ダークな面が失われてしまいます。夢は楽しく不思議なものでもあり、同時に想像もつかないほど恐ろしいという二面性を持っています。先に「対」という考え方を大事にしていたと記しましたが、同様に夢の二面性、多面性は何より大切に考えていました。
映画『パプリカ』において、もっとも顕著な性的な表現は小山内が捕らえたパプリカの体内に手を突っ込んで、その体を割くシーンでしょう。ほとんどレイプといえるイメージですし、原作に見られる直接的な性的表現を何とか性行為そのものではない形で表したいと思って考えついた表現です。
ただ、このシーンで重要なのはショッキングな性的表現そのものであると同時に、力によって相手を支配しようとする小山内の子供じみた欲望や人格の表現であり、相手の全人格ではなく自分が好ましい部分だけを相手に見出そうとする身勝手さを表すことです。つまり、小山内は「パプリカ+敦子」という全人格ではなく、部分としての敦子だけを欲望しているということです。だからパプリカの体内から敦子だけを取り出すわけです。
この小山内と対照的なのが、自分でも「何でも呑み込んじゃう」と口にする時田です。時田はパプリカだけでも敦子だけでもなく「パプリカ+敦子」という全体を受容している。だから敦子は最終的に時田への愛を自覚するのだと思っていました。

性的表現に関して、もう一つイメージしていたのが「聖娼」という考え方です。クライアントの夢に入り込んで治療を行うパプリカは「聖娼」である、と。
古代のギリシャやアジアにおいて、神の化身として神域で巡礼者と性的に交わることで、相手に啓示や神託といった神の恩恵を与える役割を持った巫女がおり、それを「聖娼」といいます
ヒロインであるパプリカに性的なイメージをまとわせることに躊躇しなかったのは、彼女の存在はいわば現代の「聖娼」というイメージで考えていたからだと思います。