Interview 20

2007年7月 海外から『パプリカ』について

「NEO Magazine」という雑誌のインタビューです。どこの国からか分かりません。

「パプリカ」はすごく楽しみました。終わったあとでも、帰らずにもう一度観たいと思ったくらいです。

(1)DCミニのヘッドセットは植物の形からインスピレーションを得てデザインされたものだと読みました。夢は植物のように無原則で自然なものなので、夢をコントロールする機械には良いイメージですが、携帯電話のイヤフォンやブルーツースの様な無線ヘッドセット等も想起させるつもりのデザインでしょうか。これらも自分の世界に潜り込む道具なので。

まったくその通りです。DCミニのイメージは植物(オジギソウ・別名ネムリグサ・学名Mimosa pudica)に由来しています。デザイン的に意識したわけではなく、あくまでイメージですが。
またヘッドセットのようなイメージも重ね合わせていますし、ご指摘の「自分の世界にもぐりこむ道具」という解釈の通りです。

(2)最近の日本の女性は、20代半ばで結婚するより、実家に残り仕事を続けることを選んでいると、話題になっていますが、千葉敦子はどちらにも当てはまらないようですね。千葉先生の場合、30歳に近く、優秀なキャリアウーマンですが、男性のことについてはまるでティーンエイジャーの様です。都会の日本人女性にはよくあることだと思いますか。

あまり女性経験がないのでよく分かりません(笑)
ただ、ご指摘どおり日本では一時期、結婚をしないことによる有利さが強調されていたように思いますが、現在では結婚指向が高まっているようです。若い女性たちが本当にそう考えているというより、単にマスコミに踊らされている感じもしますけれど。
個人的な見解としては、個人を過度に大事にすることが浸透した結果、結婚という共同生活に慎重になる人が増えたのは間違いないと思います。共同生活である以上、何がしかの制約は当然発生しますからね。
敦子への分析はご指摘の通りです。敦子は心理学などで言われるような、「父の娘」というイメージでした。父性的な価値観に同一化しているので、「規範に従う」ことに対してこだわりがある。「自分は何をなすべきか」が優先され、「自分は何をしたいか」はしまいこまれている。
それゆえ自分の感情面が弱い、というか感情をストレートに表出することを良しとしない人だと思います。だから恋愛のように感情が噴出しやすい部分で、自分をどう表現していいのか分からないのでしょう。

(3)親愛的な視点と突き放した観点、両方からのオタクライフを描いています。これはオタクとジャンクフードの密接な関係や、特定のものへの執着心の危険の警告ですか。

いえ、特にそういう意図があったわけではありません。
オタクとかマニアといった、一部の能力に突出している一方、社会的なバランスを欠いているような人を私はどちらかといえば好ましいと思っています。もちろん、その程度問題なのですが。
映画『パプリカ』では基本的なコンセプトとして「対」という考え方を大事にしていました。敦子とパプリカがその代表例で、敦子と時田、理事長の乾と小山内、時田と氷室といったように、対照的な関係、あるいは相似的な関係になるように人物配置をしたつもりです。
こうした対関係は良きものとして捉えている場合と、そうでない場合があります。
先の敦子の人物像とも関係してくるのですが、要するにその人物単体で全てバランスをとるのではなく、単体としてはバランスを欠いている人間同士が対となることで、その対関係としてバランスが取れるというのも悪くない、という考え方です。
敦子と時田の関係は正にそうしたイメージを具体化したつもりです。

(4)「東京ゴッドファーザーズ」での様に意外な配役をなさることもありますけれど、「パプリカ」ではタイプに添ったキャストみたいですね。大塚明夫さんはたくましい男役で有名ですが、特に粉川の夢の結論のシーンでは、強いだけでなく、感受性豊なパーフォーマンスですね。林原めぐみさんもすばらしかったです。キャスティングはどういう風に行ったのでしょうか。どういう特徴や性質を求めていたのですか。

私は『東京ゴッドファーザーズ』のキャスティングが意外なものだとは思っていません。
声優としてなじみの薄い人を起用したのは、主人公たちがホームレスという、いわば社会的には「埋もれてしまっている」人たちだったからです。埋もれているような人の顔から、他のアニメでよく聞き知った声が聞こえて来ては台無しです。
逆に『パプリカ』では『東京ゴッドファーザーズ』とは対照的に、映画全体を華やかなイメージにしたいと考えていました。ですので、声優として有名な方を起用することで他のアニメ作品のイメージも取り込み、よりイメージが厚くなるのではないかと思いました。
また、この映画では何より夢のシーンをたっぷりと描く時間を確保するため、なるべく人物の説明や描写を省こうと考え、キャラクターデザインは内面とが意見の一致を心がけました。クールな美女・敦子、コケティッシュでかわいい感じのパプリカ、自己管理が出来そうにない時田、あまり頼りになりそうにはないけどひょうきんな所長・島、見るからにいかめしい理事長・乾……などなど、人物の外見を見れば一目で内面も想像がつくような在り方です。
なので、声優のキャスティングにおいても、外見のイメージに素直に従っています。

(5)パレードにでてくるアンチークの器具や昔ながらの人形に、素朴な過去への追懐が見られますが、過去の世界にとどまるのも危険だということも教えられます。前進的に生きる事に対しての義務についたこのような印象的なメッセージは意図したものですか。それとも、今敏の潜在意識から生まれたものでしょうか。

それは意図的なものです。
あのパレードは「捨てられたものたち」であると考えていました。現在、人間が社会を構成して生きて行く以上、進歩や発展を求めるのは必然だと思いますし、その分廃棄されるものが山のように積み上げられて行くこともまた仕方のないことでしょう。
ただ、本当は必要なもの、先において実は必要になる大切なものを一時の判断で切り捨てているのではないか、という危惧も常にあります。
長い年月受け継がれてきたような文化や財産、精神性や価値観を簡単に葬り去ろうとすれば、手痛いしっぺ返しがあるのではないか、という考えが、あのパレードに投影されていると思います。

(6)原作に対してとても尊重してアニメ化された作品です。他にも脚色したいと思っている小説はありますか。

ありがとうございます。そう解釈していただけるとたいへん嬉しいです。
私は『パプリカ』のみならず、筒井康隆先生のファンですので、敬意を持って映画『パプリカ』の制作に取り組みました。
原作を尊重するということは、必ずしも原作のストーリーやエピソードのディテールに忠実であることを意味しません。原作を尊重するからこそ映画として作り替える部分が必要になることもあると思います。
『パプリカ』の場合は原作のボリュームが大きく、映画一本に収まるものではありません。もし原作のエピソードに忠実に映像化するとしたら、TVシリーズ26本は必要になるでしょう。ですが逆に、TVシリーズレベルの画面のクオリティであるなら作る必要も感じません。というのも、『パプリカ』という原作の魅力はやはりその夢のシーンにあります。夢の世界をディテール豊かに描いてこそ成立すると思っていたので、映画以外に選択肢は考えませんでした。
そして我々に許容されていたのは「90分以内」という時間枠です。それ以上の長さの映画を作る予算的時間的な余裕はありません。
しかし、何より問題だったのは、『パプリカ』の一番の魅力である夢のシーンを原作に忠実に映像化することが不可能だったことです。もちろん、原作の夢の描写は実に素晴らしいのですが、それはやはり小説という文章表現だから成立するケースが多いのです。特にごく個人的な夢の描写においてそれが顕著です。
夢の夢らしさとは、その夢を見る個人の生い立ちや人間関係、物の考え方といった背景に由来します。奇妙に見える夢のイメージも、個人の背景と照らし合わせることでその解釈が浮かび上がってくることも多い。
小説の場合、こうしたケースで随時補足的な説明が可能です。子供の頃、学生時代、仕事場でのエピソードなどなど、その夢の背後にある事情を必要に応じて紹介が出来る。
もちろん映画においても、ある程度はそうした説明は可能ですが、基本的に映像は流れて行くことそのものに生命がある表現媒体です。そして説明は得てしてその流れを止めてしまうものです。説明が映画の首を絞めるのです。
だから原作『パプリカ』の夢へのアプローチと同じ仕方では映像的には上手くいかないと考え、映像的な表現に相応しい夢のエピソードを新たに考えることにしたのです。そしてそれは説明抜きで「夢のようだ」と観客が感じられるようなものではなくてならない。
夢というのは見ている最中に、不可思議を不可思議としたまま流れて行くわけですから、映像においても同じようにありたい。ただし、娯楽映画として最低限の情報やストーリーの流れなどを把握できるようにしなくては意味がありません。
ストーリーの流れはだいたい把握できるけれども、必ずしも映像の意味をすべて理解できるわけではない、といったイメージで夢のシーンを考えたつもりです。
原作『パプリカ』が、娯楽小説であると同時に、読者に夢の世界を体験させるようなアプローチであったように、映画『パプリカ』では映像的に夢の世界が体感されるようなものにしたかったのです。
つまり、私としては原作の個々のエピソードに忠実であるよりは、原作の持つ態度に忠実であろうとしたわけです。

もう一つのご質問についてですが、今のところ、特に脚色したいと思うような小説や漫画はありません。読書は毎日欠かさずしておりますが、一般向けに書かれた学術書や社会批評などが中心で、小説や漫画はあまり読みません。ですから私が原作物の企画を考える可能性は少ないように思います。
ただ、映像化したいと思える原作に出会うのは縁やタイミング次第ですし、原作物は避けるつもりはありませんので、いつかまた原作を元にした映画やテレビを作ってみたいと思います。

(7)テレビの企画はありますか。「妄想代理人」に続いて、次のテレビ作品の予定はあるでしょうか。

今のところテレビの企画は考えにありません。
『妄想代理人』の制作はスケジュールや人材の面でたいへん苦しかったとはいえ、制作そのものは非常に楽しく、私自身収穫も大きかった。完成した物への満足度も悪くありません。なので、またTVシリーズを制作したいという気持ちはあります。
ただ、『パプリカ』を作り終えた現在の私の指向は、ストーリーを語ることよりも、映像的なイメージを考え出すことに向いています。それを実践するには、TVよりも映画の方が向いています。
先ほども少し触れましたが、TVシリーズの制作現場はスケジュールも予算も人材も非常にタイトで、画面のクオリティを維持するのはたいへん難しい。『妄想代理人』の場合、画面の高いクオリティを求めるのは無理なことをあらかじめ承知した上で、その分シナリオで全体のレベルを守ろうとしていました。
その点において、『妄想代理人』は比較的上手くいったのではないかと思うのですが、絵描きの私としてはやはり画面の完成度でストレスを抱えることが多かったのは間違いありません。
映像的なイメージの展開に興味が移行している現状では、そうした意味でTVシリーズは考えにくいわけです。
もっとも、興味というのは仕事を重ねるごとに移行して行くものでもありますから、いずれまたTVシリーズを作りたくなることもあるだろうと思っています。

(8)経費とスケジュール以外、テレビの為にアニメを制作するのと長編映画のアニメ制作の違いは何でしょうか。イメージを創るときに、フォーマットや画面の比率に影響されますか。

アイディアの育て方に大きな違いがあると思います。
私の場合、作品のアイディアを思いついた段階で、それが映画向きかTV向きか、あるいは漫画向きかを判断していることが多いのですが、同じアイディアでもアイディアやストーリーの育て方、膨らませ方次第で映画にもTV仕様にもなると思っています。
映画の場合は、総尺がせいぜい90〜120分が限度ですから、人物の描写やエピソードの切り取り方、全体における分量の配分などにメリハリをつけ、なるべくコンパクトに表現する必要があります。その分エピソードや画面の密度が高くなる。私が映画の方を好むのは、高い密度を好ましいと思うせいでしょう。
一方、TVシリーズの場合、映画よりも総尺が長い分、盛り込める内容も大きくなるので、色々なエピソードを通して登場人物の表現も多様になり、登場人物に対する視聴者の理解や共感も深くなるように思います。
物語る上で、TVシリーズが映画と大きく異なるのは、その連続性にあります。一回分のエピソードに何を盛り込むのか、どうすれば視聴者が「次を早く観たい」と思ってくれるか。こうしたことを考えながら、シリーズを構成して行くことは映画にはない楽しみであり、『妄想代理人』制作の際、一番心がけていたことです。
ご質問において「経費とスケジュール以外」という制約がありましたが、実はそこが一番の問題であり、そこに端を発する問題や制約がほとんどです。私がストーリーやイメージを考えるに当たっては、それらの問題をなるべく回避するために頭を絞っているといって間違いありません。

(9)コンピューターやネットにより、映画会社無しでも作品を創り、観客にみてもらえる人が増えてきてます。これには良い事もありますが、問題もあります。アニメ産業にはどういう影響があるでしょう。

今のところ実感として影響は感じていません。
もし影響があるとしても、歓迎するべきことのほうが多いような気がします。現在の日本のアニメ業界は、作られる物も作る人間の能力も変化に乏しく停滞した状態にありますので、商業的な枠組みに囚われないものが現れてくることで刺激になると思います。
ただ、見る側の価値観がすでに商業的な枠組みに大きく囚われているように思いますので、結局は注目される作品も、商業的な枠組みに準拠したものになりやすいでしょう。だとすれば、現在のアニメ業界と似たような価値観ということになりますので、それはあまり興味の対象にはならないように思います。
もっとアート性の高いもの、ごく個人的な表現としてのアニメーションから興味深いものが生まれてくることを期待しています。

(10)「パプリカ」と同じく原作モノである「PERFECT BLUE」を観ますと、違う原作者でありアプローチも異なっていますが、似たテーマがみえます。どちらの作品でも、幻想が暴れだして、そして現実の世界から幻想を操るために新しい技術がつかわれます。この二つの原作をお選びになった今監督は、このようなことが実際にある可能性があると思いますか。

『パプリカ』や『パーフェクトブルー』のような極端に劇的な形ではありませんが、すでにそうしたことは起こっています。ストーキングや性犯罪、年少者の凶悪犯罪などには、かなりの割合でインターネットやゲーム、携帯電話などの普及が関係していると思われます。もちろんテクノロジーの方に罪があるとは思いませんし、問題は常に使う側にある。私はテクノロジーに接する上で個々人が節度を持つべきだとは思いますが、それらを公が過度に規制するようなことには反対の立場を取っています。
それが理念ではありますが、現実には個々人が欲望や自我を抑制することは非常に困難にも思えます。
パソコンとインターネットの普及によって、それらはごく日常的なものになり、ネット上では普段とは大きく異なる別人格になっている人々がどこの国でも多くなっていることでしょう。それが悪いことだとは必ずしも思いません。問題は、その仮想的だったはずの人格が現実の人格を乗っ取る形で社会的影響、特に犯罪と結びつくことです。
ストレスフルな現実的社会生活をなるべく健康に営むためには、夢や幻想といったフィクションが少なからず必要です。小説や映画、音楽、TV、ゲームなどは日々のストレスを手軽に和らげる緩衝材となっています。ただ、それらに対する依存度や没入の度合いが過ぎると、障害が発生しやすい。
ある個人が、バーチャルな世界にその幻想を投影する。主体が幻想を抑制できるうちは全く問題がありませんし、精神の健康にとって必要なことです。しかし、没入の度合いが高まり幻想が肥大すると、主体からのコントロールを失い、逆に幻想によって主体がドライブされてしまうようになる。
そうしたことが精神的に危険であり、現実の犯罪につながりやすいのではないかと思います。
幻想のない生活は無味乾燥なものになるでしょうし、逆に幻想が過度に肥大するとたいへん危険なことになる。
その両者の間に横たわる無段階のグラデーションがありますが、誰にとっても幻想の適切なレベルが設定できるわけではないでしょう。同じ個人であっても、時と場合によって必要な幻想なレベルは変化する。現実の生活で精神的に大きな傷を受けたり、ストレスが非常に高じたりした場合には、必要とされる幻想も大きくなる。
そうした揺らぎの中で、危険なゾーンに入らないようにバランスをとり続けることが必要なのだと考えています。