Interview 21

2007年7月 オランダから『パプリカ』について


「Aniway」というオランダのアニメ雑誌からのインタビューにウェブ用として加筆修正したものです。


●現実と幻想の境界のあいまいさをよくテーマとされる事は、どんなに無頓着な観客でも気づきます。夢に対するこの深い興味はどこからきたものでしょうか。そして、それは作品の精神的な複雑さと深みにどう関係するのでしょうか。

ご指摘の通り、私の監督作においては「夢と現実」「幻想と現実」「記憶と現実」といった、一般的・社会的には区別されるはずの両者の境界が曖昧になって行きます。その曖昧さ加減たるや、今 敏の私生活と仕事を隔てる境界の曖昧さに匹敵します。
しかし人間が自分と自分を取り巻く世界を認識する仕方は、実は本来そのようにデジタルに分節できないものではないかと思いますし、私の精神の健康や想像力の運用にとっては私生活と仕事に明確な境界線を引かないことが重要です。
境界の揺らぎによって興味深いことが起こりえます。

たとえば、それはアルコールを摂取したりすると近似的に実感できるのではないかと思いますが、酔うことで意識の抑制が弱まると、現実への対応と内面の考えや記憶などの境界面が揺らぐことはご記憶にあると思います。そういう意識の状態では色々な噴出してきます。
夢や繰り言、思い出や愚痴、希望や悲観、甘い言葉や下心、奔放な想像力や親父ギャグとかその他色々が。内面に抑制された本音たちは、外面の圧力低下によって顔を出します。私の監督作においては、その境界の揺らぎを利用して登場人物の内面を描写しようとしているのかもしれません。
実際、『パーフェクトブルー』の時は、主人公の内面を観客にも体験してもらおうという意図から「酩酊感」を演出しようとしていました。シナリオ制作時からのコンセプトです。
下戸の方には申し訳ない話ですが、そういう方々にもアルコールとは別の迂回路はあるはずです。たとえば極端な寝不足だとか。あるいは法律に抵触する煙などを吸入するとそうした迂回も必要ないようですが、残念ながらここはオランダではありません。
そんな変性意識の話はともかく。

常識的な社会生活を送る上で、いわゆる「客観的な現実」を他人と共有することはたいへん重要ですし、極力主観を廃さねばならない場面が多々あります。というより社会生活とはそうした自分の内面を「括弧」に入れることで成り立つものです。社会性を内面化した人を近代的な意味での個人というのでしょう。内面が剥き身になっている状態は「人間」以前です。
もっとも、近頃は「夢と現実」「希望と現実」の区別のつかない人も多いようですが。
日常的な仕事でのやりとりや知人とのコミュニケーションにおいて、主観ばかりが肥大して客観性が失われていくと社会が成り立たなくなってしまいます。しかし、一方で個人が世界を認識するのは何も他人と共有可能な客観的な事実ばかりではありませんし、それと同時に主観的な時間も生きています。
そこは他人が踏み込める場所ではありません。この二重性が面白い。

たとえば私はこうしてメールインタビューに答えてキーボードを叩いています。
「今敏が東京、武蔵野にある自宅でテキストを書いている」これは他人も共有しうる客観的な事実です。
しかし私の頭の中では質問への答えを考えていると同時に、他の仕事のことやこれから食べる御飯や納豆のイメージが糸を引いたり、種々雑多な考えが浮かんでは消えたりしています。
このインタビューはオランダから輸入されたものですから、オランダという言葉のイメージから、私の頭の片隅では色々な連想が生まれます。
「世界を作ったのは神様だが、オランダを作ったのはオランダ人だ」なんて言葉が思い出されます。
残念ながら私はオランダには行ったことがありませんが、日本の長崎には「オランダ村」というバブル極まりないテーマパークがあり、ここに行ったときの記憶が脳裏のスクリーンに泡のように浮かんできます。
「何だっけ?スヘーベニンゲンって?」
また、テレビや映画で見たオランダの自然や風物、歴史小説で覚えた人の名前なども思い起こされます。
「オランダといえば、風車とチューリップと木靴、そしてドラッグ」
「幕末の日本に来たお医者さんでポンペという人がいたな。カッテンディーケは海軍の軍人だったっけ。司馬遼太郎の本で読んだな」
「ゴッホとかレンブラントがオランダだったかな」
そしてそれらの記憶は別な記憶やイメージを次々と誘発し、私の頭の中には異なる時空間が混在してきます。一人で楽しい脳内多元宇宙。ミニ華厳はキラキラしています。
身近な関係では、オランダへ旅行に行った友人たちや彼らにもらったお土産のことが思い返されたり、彼らが今どうしているのかも気になったりもします。オランダに新婚旅行をしたときには仲むつまじかった二人もいまや他人の関係になっているあたりに時間の流れも感じられます。ああ、無常。

だからといって、私がテキストを書くことに集中していないわけではなく(そうは思えないかもしれませんが)、むしろ集中して考えるからこそ、私の考えは水平方向にも垂直方向にも広がっていると思うのです。ビョーキじゃありません。
もっとも、それらが抑制もなしに外部へ流出するとたいへんです。医学用語で言うところの「だだ漏れ」というやつですが、そうなるとシャブ中を疑われて警察を呼ばれるか、格子の嵌った病院に送られかねませんので、社会化された人は人前に出すべきこととそうでないことを弁えなくてはなりません。もちろん、夢の世界で抑圧の重石を取り除くのは大丈夫。大きな声で寝言を発したところで害は小さいでしょう。神経質な伴侶が隣に寝ていると離婚届に判を押すことになるかもしれませんが。

インタビューとは一見無関係なそうしたイメージや思考をも含めて、このテキストは成り立っている。成り立っている、と言い張るにはあまりに話題の行方が縦横無尽になっている可能性はありますが、これはウェブサイト限定のテキストなのです。
まさかオランダ人にこのままのテキストを送るわけがありませんからね。
ともかく、その時の私の状態によって、到来するインスピレーションは異なります。ですから、まったく同じ質問を別な人から別な日に受ければ、また少し違ったものになるでしょう。これは私の考えが一貫していない、ということではありません。つまりはこういうことです。
「その時々、色々ある」
論理的な考えは大きく変わらずとも、その場その時における偶然に立脚した一回性の出会いというものを大事にしているのです。日本には素敵な言葉があります。
「明日は明日の風が吹く」
脳内風来坊。
「今 敏が東京、武蔵野にある自宅でテキストを打っている」のと同時に、私の頭の中では隔たった場所や時間のイメージが生起している。それが私の経験している現在ですし、私はこうした個人的な体験を何より大切にしています。そうした多元的なイメージの体験こそがある人間にとっての真実ということになるのでしょうし、そしてそれを観客にも体験してもらうことが監督としての狙いなのです。


●『東京ゴッドファーザーズ』のホームレスの問題や『妄想代理人』の社会的なアイデンティティの欠落のような、エンターテイメントにはあまりみられないテーマを作品で取り組みますね。日本人の観点にチャレンジすることによって社会に変化を起こそうと、意識しているのですか。

社会の変化なんて、そんな大それた野望は露ほども持ち合わせておりません。
普通、お客さんは娯楽として楽しむために商業アニメーションを見ると思いますが、その楽しみの時間にわずかばかりの違和感なりノイズを混ぜたいというようなことでしょうか。
「ただ楽しいだけとはちょっと違うようだ」
そのくらいのことです。
それに、ただ楽しいだけのものはすぐに記憶の彼方に洗い流されますが、ノイズは意外と生命力がありますし、ノイズの効果によって実は娯楽性も高まるように思います。
ただ、社会的な問題とエンターテインメントの相性が悪いとは私には思えません。むしろ、その時代における社会的な問題を反映してこそエンターテインメントなのではないかとすら思います。社会性を反映していないエンターテインメントは、ただの作り話にしかならないでしょう。
もちろんその反映の仕方は様々ですし、物語の中に具体的な題材として見えるものもあれば、そうではないものもあります。

たとえば、その物語世界の内に具体的な社会問題が現れておらず、先に記した「作り話」のようにひたすら娯楽に徹した内容だったとしても、もしそれが広く観客に受け入れられるなら、それだけストレスが高じた世の中の裏返しと見ることが可能です。要するにこういうことでしょう。
「現実なんか忘れさせてくれや」
それもたまには悪くないでしょうけどね。
映像作品に限らず、流行というものは世間を映しています。
私が具体的な形で、ホームレスやアイデンティティの問題を取り上げるのは、社会的な問題となっているにもかかわらず、実は個々人のレベルではそれらに対して目を閉じ、耳を塞いでいるように思えるからなのでしょう。
だからある意味私の監督作は、こういう態度も持ち合わせているかもしれません。
「君の見たくないのはこういうことじゃないのか?」
嫌な態度ですね、まったく。
でもこれもまた、たまには悪くないでしょう。

世界のどの国においても、商業アニメーションは「子供の見るもの」「夢を与えてくれるもの」といった前提があるように思えます。
漫画やアニメに溢れたこの日本でさえ、現在もそうした見方が一般的であり、見る方もわずかな時間、砂糖にまみれた夢を与えてくれる物と認識していると思います。
しかし「夢を与える」といえば聞こえはよいですが、実は単に物を考えなくても済む、いわば一時的な逃避の場所として捉えられている面が大きいように思います。特に子供ではない「大きいお兄さん」のような観客や視聴者にそうした傾向が顕著でしょう。商業アニメーションに限らず、実写映画やテレビ番組、ゲームや音楽、すべてにそうした逃避の機能が備わっている。
一時的な逃避が悪いと言っているわけではありません。
逃避、大いにけっこう。たまには。

先にも記しましたが、人間はいわゆる「現実」だけを生きているわけではありませんし、健康的な生活を送る上で逃避も含めたファンタジーという要素が欠かせません。
その意味ではアニメに熱中することも新興宗教で一心不乱に拝みまくることも機能として変わりはない。仕事に没頭することにだってその側面は大いにあります。
ただ、そのファンタジーの濃度や度合い、程度が問題です。
世界各国の人々を一括りにするわけにはいきませんが、少なくとも経済的な先進国ではファンタジーを必要とする度合いが非常に高くなっているように思います。
上手にファンタジーを楽しめない人が増えるとカウンセラーや精神科医が儲かるようになります。ストレスの増大に圧迫された無意識が発する「メーデー!メーデー!」のサインは、意識に翻訳されるとこうなります。
神経症。
要注意です。
衣食住が満ち足りているからこそ、精神的なストレスが高じる。作り笑いに揉み手をしたメディアは人々の欲望を過剰にドライブさせ、無用なほどに「もっともっと(金銭を!高級な住宅を!いい服を!美味しい食べ物を!高級車を!素晴らしい肉体を!……等々)」を増大させる。そして挙げ句に人々はその肥満した理想と貧相な現実のギャップに勝手に苦しんでいる。ストレス自動増大マシン。その名もヒューマン・ザ・コンテンポラリー。
つまりファンタジーの濃度が高まりすぎて、ファンタジーそのものに苦しめられているのではないか、とさえ思える。
他の国の事情は分かりませんが、私には日本の現状がそのように見えます。
魂のバブル。欲望の高利回り。
満期はいつですか?

人々の欲望をドライブするものは、メディアが垂れ流すファンタジーがその中心でしょうし、他ならぬ商業アニメーションもその一つです。だからこそ、高まりすぎたファンタジーの濃度を少しでも下げるために、ファンタジーの海兵隊ともいうべき商業アニメーションという形で、「社会性のある問題」「現実的な問題」、つまりは人々があまり向き合いたくない事柄を扱っているのかもしれません。
ファンタジーのマッチポンプ?
最初から商業アニメーションに対して糖度の高いファンタジーだけを期待している人々は受け入れたくない制作態度かもしれません。
そういう態度も許容されるくらい、豊かな国です。

世の中には少しでも物事を根源的に考えようとしている人たちも少なくないはずですし、ファンタジーの土石流に流され続ける人たちばかりではありません。私もそうした態度に大いに見習いたいと思っています。
公害にさえなりつつある過度なファンタジーを相手に色々な場所で戦っている人や、それらに追い詰められているような人たちに、わずかにでも届くようなイメージを作りたいと思って商業アニメーションを作っているつもりです。


●『PERFECT BLUE』と『パプリカ』はどちらも原作小説をアニメ化したものです。『PERFECT BLUE』はあらかじめ割り当てられたものでしたが、『パプリカ』は筒井先生のファンとして自ら選んだ作品だと聞きましたが。筒井先生の他の小説や、他のお気に入りの作家の本を脚色する企画はありますか。たとえば村上春樹先生の作品など。

極端な言い方をすれば、『パーフェクトブルー』は原作が私を選んだ形ですし、ご指摘の通り『パプリカ』は私が原作を選びました。
原作に選ばれるしかなかった監督は、8年後には原作を選べるようになったということでしょうか。いいえ、違います。
やはり私は『パプリカ』に見出してもらったのです。
『パプリカ』のみならず、私は筒井康隆先生の作品のファンですし、特に二十歳前後の頃、集中的に筒井作品を読み大きな影響を受けました。自分でもどこをどう影響されたのか分からないくらい、物を作るための根本的な部分での影響だったと思います。
それはたとえば、「どういうアイディアを面白いと思うべきか」といった、基本的な部分での影響といっていいかもしれません。妙な言い方かもしれませんが、私は素直に面白いと思うことを野放しにするのではなく、自分の好みも植木よろしく「剪定」が必要だと思っています。
自分の好みを作り上げる、という言い方もあるでしょう。もちろん、自分の意思だけで剪定できるわけではありませんが。

筒井作品の中でも『パプリカ』はとりわけ思い入れがあります。というのも、監督デビュー作である『パーフェクトブルー』や第2作のオリジナル『千年女優』で、「幻想と現実」「記憶と現実」の曖昧さや境界の揺らぎを描こうとしたのは、実は小説『パプリカ』のようなことを映像的に実践してみたかったからです。
だから『パプリカ』制作は私にとって本卦還りみたいなものなのです。60年かかるはずの本卦還りがわずか8年では、あまりに小さな回帰かもしれませんが。
何事につけ私はスケールの小さな人間なのです。

実は『パーフェクトブルー』完成後、次回作として『パプリカ』の映画化を考えたこともあります。今回、他ならぬ筒井先生のお言葉がきっかけで、『パプリカ』を自分が監督して映画化出来たことは非常に光栄でした。
筒井作品には『パプリカ』以外にも映像化に向く素晴らしいものがたくさんありますが、私は『パプリカ』において、他の筒井作品から触発されたアイディアをたくさん投入しましたし、『パプリカ』は筒井作品へのオマージュのつもりで作っていました。
だから、現在のところ筒井先生の他の小説を映画化することは考えてはいません。また、他の作家の方の原作を映像化する予定もありません。

ご質問中、たとえばとして挙げられている村上春樹氏の小説は私も非常に好きです。
特に『ねじまき鳥クロニクル』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『羊をめぐる冒険』などは大好きです。『海辺のカフカ』もワクワクしながら読みました。
もっとも、私が初めて村上春樹作品に触れたのはわずか3年ばかり前のことで、その時期に集中的に読んで大いに嵌りました。ちょうど『パプリカ』を作り始めてすぐのことでしたので、映画『パプリカ』には村上春樹作品からの影響も随分あるように思います。
そのくらい敬愛する作家ですし、映像化してみたいと思うことも稀にありますが、同時に私程度の能力で映像化するのは非常に難しい、奥行きのある世界だとも思います。ある意味、村上春樹作品の映像化は映像制作者の査定に繋がるかもしれないとすら思います。
怖いです(笑)
『海辺のカフカ』などは破格の予算でTVシリーズにすればたいへん面白くなりそうなので、どなたか是非作って欲しいと思いつつ、小説のままにしておいて欲しいとも思ってしまいます。
後者、濃厚。


●監督としてのデビューから十年ですね。ここ十年ほど、アニメ産業では優秀な人材がどんどん減っている、と困っている人が多くいます。有能なスタッフを必要とする大掛かりな長編映画をつくる監督として、このことについての意見を聞かせてください。

正直なところ、諦めが半分以上かもしれません。
ただ、優秀な人材が減っているというのは、あまり正確ではないかもしれません。需要に比してあまりに増えていない、という方が適切でしょう。どっちにしても足りないことには変わりないのですが。
実際の仕事において、あるいは専門学校の講義を通じたりして能力がありそうな若い人の発見・育成に協力しようとはしているのですが、効果は少ないようです。己の未熟のせいもあるとは思いますが、教えてどうなるものでもありませんから、基本は勝手に育つことに協力するしかありません。せめて邪魔しないとか。
しかし反面、この「勝手に育つ」ものだという考え方が現状を招いて来たとも思うので、「教える」ことについてもっと考える必要があるとも思っています。
もちろんそうした地道な努力がまったくの無駄ではありませんし、今後にわずかな期待もしています。ただ、私が直接後進に接する範囲は少ないとはいえ、また、雑誌や他のアニメーション作品を見る機会も多くないとはいえ、それでも注目に値するような人材はものすごく少ないように思います。いないわけではありません。全体に対する率の問題です。
以前より、アニメーション業界に入ってくる人が増えているにもかかわらず、優秀な人材は反比例するように減ってさえいる印象です。
現在の日本では大学生の学力が底抜けなほど低下しているということですが、アニメも一緒です。画力底抜け。
もちろん、私が考える「上手さ」と若い人のそれとがずれているという可能性もあります。多分そうなんでしょうとも。世代の差はいつどこにでもありますからね。

そうはいっても、絵の「精度」みたいなものは時代や流行と関係なく存在するように思いますし、好き嫌いを別にしても絵を描く能力の巧拙については多くの人の意見が一致すると思います。問題なのは、現在優秀な人材が少ない、ということではなくて(それも切実な問題ですが)、実は「優秀になりそうな人が少ない」ことなんだと思います。つまり、10年後はもっと状況は悪くなるような気がする。以前から良くなかったのに、もっと悪くなる。
良かった時期なんて実はありはしません。
「良くなるかもしれない」と思える「アニメ高度成長期」があっただけです。
一般的に中年になると浮上してくる「昔は良かった」式の繰り言も同じではないかと思います。実際に良かった時期があるのではなく、「これから良くなる」という希望に信憑性があった時期を振り返っているのでしょう。

「何をして上手いとするか」という基準自体が下がっているように思えてなりませんね。その背景には、「誰もがクリエイターになれる」といった惹句によって、若者たちの親からより多くの金銭を吸い上げるために、商業第一の安直なファンタジーを垂れ流し続けてきたことがあると思います。そのファンタジーにすっかり染まってしまった若い人たちは決して「いまの自分は無能だ」という自覚を持つことはありません。子供の頃の「全能感」を引きずったままなんですから。そうした「全能感」はどこかで断念させられる、あるいは「去勢」されなければならないものです。
そして己の無能を覚知する機会を得られなかった人は、先人から学ぶということが出来ません。それが上手くなる芽が感じられないことの大きな要因でしょう。
どうすればいいのか、私には分かりません。
個人的に出来ることといえば、アニメーションや媒体露出の機会を通じてそうした現実をアナウンスして行くことと、私が監督するアニメーションに共感してくれる人を集めて行くくらいしかないかもしれません。
単に問題を解決するための可能性ということであれば、もう一つあります。
「下手クソでも参加できるレベルのアニメーションを作る」
私は見たくない方です。


●アニメの監督のトップ5の一人として、今監督は世界中の国々でアニメーターに影響を与えています。オランダもそのうちの一国です。読者のなかでも、台本作家やアニメーターになろうと頑張っている人も多いです。その人たちに何かアドバイスをください。

「アニメの監督のトップ5」がどなたのことを指すのかよく分かりません。間違いなく宮崎駿さんは入るのでしょうが、私がその一人に数えられるのかどうか、尚のことよく分かりません。
だいたい、現代の日本人が一番好きな「収入」という尺度で考えると、私なんかはアニメ監督ベスト50に入るのも難しいかもしれません。
私は過去約10年の間に、劇場用を4本、TVシリーズを1本監督してきました。ハイペースな方でしょうし、よくこんなことも聞かれます。
「どうしてそんなペースで作れるのですか?」
作らないと食えないからです。簡単な話です。
私がトップ5に入る可能性があるとしたら、「アニメ監督ノッポ5」くらいかもしれません。
体長約183センチ。どうでしょう?
そんな私です。
ましてや私の監督作が世界中のアニメーターに影響を与えているなど想像もつきません。私に影響を受けた、なんて奇特な人がいるなら是非お知らせいただきたいくらいです。
だいたい、影響なんて「受けたこと」は自覚できても、「与えたこと」なんて分からないものです。

後進の方に何かアドバイスを、とのご所望ですね。
劇場用4本、TVシリーズ1本を監督しただけの単なる拙い先人として、お答えしたいと思います。脚本家とアニメーターではその仕事に就くための具体的な方法は全く違いますが、それらに限らずアニメーションの仕事に絶対に必要ないくつかは共通しているように思えます。
それは、物を見る力を養うことです。
画力においては、よく「デッサン力」という言葉が使われます。要するに対象物の形や量感を捉えて、紙の上に再現する力です。同じように、文章表現の脚本では、もちろん構成力やアイディア、気の利いたセリフなども重要ですが、描写の基礎となるのは普段からの観察であり、それを文字によって再現することだと思います。脚本を始め、絵コンテや演出、アニメーターや背景スタッフ、色彩設計や撮影などなど、あらゆる職種においても物を見る力を養っていないと、決していい仕事は出来ません。
物を見る力を養うためには、ただ観察しているだけでは足りません。漠然と見るのではなく、「他ならぬ私」がそれをどのように見るのか、見てどのように感じるのか、といった「対象物と自分の関係性」が重要になってきます。対象物との格闘とさえ言えます。組んず解れつの大乱戦になることだって必要です。その激闘の末にこんなことだってある。
「ハァ…ハァ……お前もなかなかやるじゃないか」
「ハァ…ハァ……そっちこそ……フフ」
「……フハハ…」
「……フハハハハ」
「(二人共に)ワッハッハッハッハッハ」
青春バカ一代のようなシーンですが、しかし冗談ではなく自分でそのくらい対象物と格闘してみないと分からないことが多いのです。分かる、というのは頭で分かるとか、知識を仕入れるということではなくて、他ならぬ私の体験として身体で知ることです。
ただ、初心者が最初からこうした考えを迂闊に用いると、単に自分勝手な見方になる恐れもあるので、最初は先生や先達、手本などによって見方を養うことが絶対に必要だと思います。好き勝手に見れば良いというものではありません。
あまり流行らないやり方みたいですけどね。
それにそういう道筋を選んでも、「ダースベイダー」になるケースだって多いみたいです。それも弱いダースベイダー(笑) 濁点を抜いた感じです。タースヘイター。
私の身の回りにだってある話です。たいして能力もないのに自意識だけ肥大して落後するのがオチだったりする。ちょっと褒めればすぐに図に乗る人の何と多いことか。
かくいう私もその口かもしれません。

もう一つ、あらゆる職種に共通する大切なことがあります。
物を見る力とも大きく関連しますが、自分の思いこみや常識とされることを疑ってみることです。そのためには「他ならぬ私」が、対象をどう捉えるのか、という態度がここでも重要になるわけですが、「他ならぬ私」に接近するためには、他の人は同じものをどう見るのかという「他人の目」を迂回する必要があるのです。客観性のない主観は独りよがりでしかありません。若い人の作るものを見ていると、この点が抜け落ちている気がします。
自分が「描いたつもりのもの」ではなく「描いてしまったもの」に向き合う回路が失われている感じすらします。
そうだとしたら、自分の見方を疑うことなど出来るはずがありません。自分と他の人の見方を比べられないわけですから。
だから、「自分の見方や常識を疑う」と言葉で言うのはたやすいですし、本人としてはそのつもりで努力することも全然難しくありませんが、しかし実は当たり前や既定の知識や技術を疑うことは本当に難しいのです。
矛盾した言い方に聞こえるかもしれませんが、自分を一時的に「括弧」に入れることでしか、実は「他ならぬ私」に近づけないように思います。
当たり前のことを当たり前に繰り返していては、凡庸の謗りを免れません。
凡人とは自分が当たり前だと思っていることを疑う習慣のない人のことです。凡人の思いこみは頑強です。
そうした人の言い分はこんなです。
「当たり前のことは当たり前だ」
優しい言葉をかけてあげたくなりますよね。
「ずっとループしてなさい」
自分が昨日まで当たり前だと思っていたことや、多くの人が常識だと思っていること、当然としていることを、自分の目で一つずつ検証して行く。そして同時にその自分の「目」をすら疑うこと。充実した仕事に至るのは生易しいことではありません。
だからこそ、そこへ到達しようとする道程は楽しいんですけどね。