Interview 22

2007年9月 イギリスから『パプリカ』について

イギリスの新聞「ガーディアン」から主に『パプリカ』に関するインタビューです。

●まず、質問を受けてくださいまして、有り難うございます

こちらこそ取材をしていただき、ありがとうございます。

●アニメーションの仕事に就いたきっかけは何でしたか。元々は漫画家として活躍していたそうですが、漫画からアニメへと自然に移行したのでしょうか。

何故この業界に足を踏み入れたかというと、アニメーション業界の人間から誘われたから、というシンプルな答えが適切です。
ご指摘どおり、私はアニメーションにかかわる以前は漫画家として活動しておりましたが、決して活躍していたわけではなく、有名や裕福にも縁がなかったので移行にあたって何ら障害もありませんでした。まるで隣家への引っ越し。
元々漫画家を志したのは絵を描く仕事をしたいという理由が最も大きく、ストーリー作りや演出といった絵以外の要素は漫画家として続けるために後から学習して身につけました。
結果的に漫画家としてのノウハウがアニメーション監督をするうえでたいへん役に立ちましたが、アニメーション業界から誘われた時点では自分が後に監督になろうとは夢にも思っていませんでした。アニメーションの仕事も単に「同じ絵を描く仕事」として捉えていました。当時、私にとって絵を描くことと幸福はセットになっていたので、たいへんコンパクトな価値観の若者だったかもしれません。
日本の連載漫画制作は非常に限られた時間で行うことが一般的で、なかなか納得行くまで絵を描ききることが難しい状況です。ですから、絵をもっと描きたい、上達したいと願っていた当時の私は、アニメーションの仕事を理想的な訓練の場だと考えた次第です。何しろ話を作る必要もなく、絵だけを描けばいいのですから。
アニメーション業界での最初の仕事は美術設定でした。映画に登場する色々な舞台をデザインする仕事です。
漫画家という個人制作に慣れた身には、アニメーション制作の集団作業が非常に楽しく感じられました。何しろ、自分の隣に価値観を共有できる同じ絵描きがいたのですから。
ただ、我ながら少々不思議に思うのは、元々学生時代を通じて集団作業が苦手な質で、だからこそ個人制作である漫画という仕事を選んだにもかかわらず、集団作業の典型であるアニメーション制作が天与の仕事に思えたことです。
若い時分の好みなんて当てにならないものです。

●「責任」というテーマを良く使われるようですね。『PERFECT BLUE』では、未麻は自立して女優になると決意しますし、『パプリカ』では、人間はテクノロジーの悪影響に対して責任を持たなければいけないというメッセージがありますし、『妄想代理人』では、少年バットが人々を義務から「解放」してあげます。今監督の作品は「責任」について、どういうことを伝えているのでしょうか。もしかしたら、日本人の中で繁栄しているオタクライフは時々無責任な逃亡だと示唆しているのでしょうか。

これまであまり指摘されなかった点なので興味深く思います。
おそらく新聞やテレビのニュースなどを徴する限りそれは世界的な傾向のようですが、間違いなく日本においては「責任」の重さがダイエットされ続けています。「倫理」や「道徳」も激ヤセ指向。
日本では古来責任の取り方が西欧のスタイルとは異なるため、西欧的価値観が支配的になろうとしている現在、責任の回収の仕方に齟齬が生じることが目立つのかもしれません。燃えないゴミの回収日に燃えるゴミを出してしまうような。
伝統的な日本の価値観では、責任は組織や共同体の連帯が負うものであり、個人の責任にまで還元されることは一般的ではなかったように思います。
個人に帰せられる場合でも、その人個人ではなく、その人の「役職」が責任の最終単位でした。○○会社の××という役職がアイデンティティとして何より有効なのは現在でも受け継がれています。随分色褪せた保証書になってきたようですが。
日本においては、常に責任の所在を分散させ、曖昧にしておくことが狭い国土の中で全体を円滑に運営して行く上で有利だったのかもしれません。江戸時代が終わるまでは。
この価値観は個人主義に立脚した西欧の方々には理解しにくいのかもしれませんが、いい面も悪い面も含めてそれが日本の文化だったろうと思います。

近年、大国生まれのグローバリズムや飽くなき成長を求める資本主義が、消費者を増大させるために共同体を分割し、家族を分断し、消費者の単位を個人にまで分解して来ました。4人家族にテレビや電話を一台売るよりは、4人それぞれがそれらを必要と思い込めば、「当社比」4倍の利益が見込めることになりますからね。
そうした経済効果と同時に、責任も徹底して個人に求められるようになってきました。当然の成り行きです。
その結果、テレビや電話は一人一台ずつ欲しいけれど、責任は一人で引き受けたくないという人間が大量に発生しました。
質問中にある「繁栄しているオタクライフ」を謳歌している人たちはその典型と言えるでしょう。現在流行のライフスタイル「ニート」や「ひきこもり」といった若者は、結局彼らの親が築き上げた余剰にあずかって生きている存在で、消費者としては一人前でも個人としては半人前以下です。
個人が責任を取らなければならない、という確固とした価値観が浸透していない中で、消費者としては過剰なほどに個人の権利だけが拡大されたのですから無理も無いことかもしれません。
しかし、その無理を他人に押し付けることは出来ません。すでに現状が消費の基盤と同時に責任の所在も(日本人が苦手とする)「個人」を召還している以上、その価値観に対応できるだけの個人の成長が望まれると私は考えます。
もちろん、かつての日本の共同体のあり方(個人が剝き身にならないような)を積極的に回復するという方法も社会の改善の一助になるとは思いますが、現実的には時間を逆行するような方策が有効とは思えません。現在、そして未来に向けて違った形での共同体のあり方や、個人の強化が必要なのではないかと思います。
それが私の監督作に「責任」というテーマが顔を出しやすい理由なのではないかと思います。

●少年バットというキャラのアイディアはどこから来たのですか。

具体的には日本で実際に起こった、「通り魔狂言事件」にヒントを得ています。閑静な住宅街に住むある成人女性が「通り魔に襲われた」と警察に届け、報道もされました。確か「長い棒のようなものを持った中年女性」とかいう犯人像が伝えられました。しかし被害者の証言には整合性が欠如していることが判明し、結局当人が捏造した事件であることが発覚しました。その人騒がせな狂言の理由はすこぶる子供じみたものでした。
「仕事が終わらなかったから」
腹を抱えて笑うには十分な三面記事でした。
この事件がさらに興味深かったのは、実際には犯人など存在しなかったにもかかわらず「犯人を見た」という第三者による目撃情報があったことです。一つや二つではなかったように記憶しています。事件に関わりたい野次馬の悪ふざけなのか集団ヒステリーなのか。日常すら劇場化しています。
この事件の顛末を報道で見ていた私は、狂言だったと事件が解決した後で、とても不謹慎にして愉快な冗談が浮かびました。
「目撃証言に合致する犯人が現れたら面白いのに」
それが『妄想代理人』に繋がったのは言うまでもありません。
先の答えにも重なることですが、『妄想代理人』のテーマもこの事件からそのまま拝借しているといっても良いです。「責任」から逃げたがっている人が何と多いことか。
一人前に権利だけは卑しいほどに要求するくせに、そこに同梱される責任や義務を拒否するような人間ばかりです。そんな連中なんかぶん殴ってやればいいのだ、という私の攻撃的な気分が少年バットを生み出しました。つまり私の妄想を代理しているから『妄想代理人』でもあります。
ただし、私はあまりストレートな発想は好まないので、少年バットという通り魔の凶行は同時に被害者に救済も与えるという矛盾した性格を与えました。つまり少年バットは被害者が無意識に望む気持ちによって召還される形而上の存在だと考えた次第です。

●『パプリカ』に出てくる「グループドリーム(団体夢)」のアイディアはとても印象的でした。なぜこれに焦点を置いたのでしょうか。

パレードは夢見がちで浮かれている日本の現状を象徴したつもりです。
しかし、パレードは非常に矛盾を抱えたモチーフでもあり、このねじれを抱えて演出するのは苦しくもあり、楽しくもありました。

まず、パレードは悪夢の象徴として登場します。長編の原作小説のように、様々な夢のイメージを展開できるほど映画には時間的な余裕はなかったので、全体を通して悪夢の柱となるイメージが必要となり、映画用に新たに有象無象たちのパレードというイメージを考え、これを中心に据えました。悪夢のキャラクターとして一目で分かるイメージだったと思います。
ただし、悪夢といったときによく思い浮かべられるようなダークで鬱なイメージではなく、躁鬱でいえば躁状態のイメージとしました。私はそれを「晴れやか過ぎて気持ちが悪い」と呼んでいました。これは『妄想代理人』のオープニングのイメージから引き継いだものです。

パレードは悪夢の象徴であると同時に、私にとっては「回復すべき良き物」というイメージも重ね合わされていたのが大きな矛盾でした。もちろん矛盾を排除すべきネガティブなものと捉えているわけではありません。白黒、0か1で切り分けられるような単純さは絵空事の世界の話です。解決できない多くの矛盾を抱えていられることが作品の豊かさに繋がると思いますし、つまり世の中とはそうしたものだと思っています。
劇中、理事長の乾が「あのパレードは現実を否応なく追われた難民なのだ」と言っている通り、パレードを構成している物たちは「捨てられたもの」の象徴でもありました。仏像や鳥居といった宗教的なイコンは、昔の時代に比べて色褪せてきた宗教性を含意したつもりですし、伝統的な風物が単なるファッションや安手の土産物になってしまったことを象徴してダルマや招き猫、七福神などが登場しています。あるいはまた、経済成長時に消費の欲望によってまだ使用に耐えるのに次々と取り替えられてきた家電や家具たちもその存在を主張しています。
「私たちを忘れてくれるな」と。
色々な意味で「捨てられたものたち」が騒々しいパレードを構成しています。そしてそれは夢に代表される無意識の世界を、合理性と科学によってないがしろにしてきたこととパラレルな関係にあります。

合理性や利便性、効率性を最大限にすることこそ進歩と幸福に繋がる、という信憑の元に世界は過剰に発展してきましたが、その代償として神経症を多発させているように思えます。人間は機械ほど都合よく出来ていませんので、意識のほうは納得できても無意識の方は拒否している、という齟齬の結果でしょう。精神科医やカウンセラーの経済発展には大きく寄与しているかもしれませんが。
ですから、パレードは必ずしもネガティブなイメージばかりではないのです。

さらにパレードは最初に申し上げたとおり、現代の夢見がちな日本の社会を皮肉に象徴させるものでもありましたので、含むところの多いモチーフです。
夢の世界に入るための小道具「DCミニ」の暴走の結果とはいえ、ラストでパレードが現実の街に現れて多くの人々を巻き込んで行く様は、『妄想代理人』の「被害者の望む気持ちが召還する少年バット」と同じイメージです。
人々が安楽な夢の世界を望む気持ちにシンクロしてパレードは現れるわけです。
ともかくパレードはポジティブな面もネガティブな面も備えたものですから、それを退治すれば済む、という性格のものではありません。
『パプリカ』の劇中においては無意識世界と現実のバランスが狂ってしまったことによる騒乱を描いたつもりであり、毒でも薬でもある無意識からの騒々しい使者たちには、程度を守って収まっていて欲しいと考えておりました。
要はバランスが大事であるというのが『パプリカ』の大きなテーマでした。

●多くのアニメと違い、今監督の映画は現代日本を舞台とし、キャラクターの日常生活とイメージ自身はとても写実的に描かれています。そして、そのリアリズムのなかで強力なファンタジーの要素があります。これはなぜでしょうか。

私は基本的にはファンタジーを描きたいと思っています。
私の監督作はあくまで「リアリスティックな世界を題材」にしてはいますが、「リアリスティックなストーリー」を目指しているわけではありません。
私が意図している物語世界は、ごく簡単にまとめれば「リアリスティックな世界を舞台にしたファンタジー」ということになるでしょう。
ファンタジーというのは「想像、空想、 幻想」といった意味合いで、「リアル」「現実」といった理性的な意味の言葉と対置されます。しかしだからといってファンタジーが「非現実的」「非科学的」だとか単なる「嘘」であるとは私は決して思いません。
人間にとってファンタジーは必要不可欠なものであると私は思います。そうでなければ、有史以来、神話や伝説や昔話、宗教さえも含めて良いと思いますが、そうした現実とは異なる位相にあるファンタジーがこれほど膨大に作られ、現代まで伝えられて来なかったでしょう。神話や伝説や昔話、宗教的な物語には「非現実的」「非科学的」「非合理的」なエピソードが溢れています。だからといって誰もそれらの物語が持つ意味や読み手に与える影響や効果を否定できるわけがありません。聖書の伝えるお話は非科学的であってもその影響力と効果はどなたもご存知でしょう。
人間が現実の生活を送る上でファンタジーは欠くべからざるものです。
これらファンタジーが持つ一番の大きな意味は、「人間の理解を絶したものが存在する」というメッセージではないかと思います。「もの」といって語弊があるなら、人間の理解を越えた「世界」「位相」といっても良いです。
古代、中世、近代であれ現代、そして未来においてさえも人間がその理性だけで世界を理解・認識しきることはないでしょうし、もし理性と科学があまねく世界を覆ったところで、人間の感情が100パーセントそれに与することはないと思われます。
頭で分かること(理性で理解すること)と、感情や感覚として納得することはイコールではありません。日本語には「理性的には分かるんだけど、感情的感覚的には納得できない」という意味で「腑に落ちない」という言葉があります。英語にそれと対応する言葉があるかどうか分かりませんが、「腑」というのは「内臓」のことで、つまり身体的に納得できない、というような意味です。日常的によく使われる言葉ですが、たいへん深みのある言葉だと思います。
人間を取りまく多くの事象や関係には、「理性的」「科学的」には理解できても、「感覚的」「感情的」「身体的」に納得が行かないことがたくさんあります。納得が行かなくてもそれら理不尽や不合理なものが我々を取りまいていることに変わりはなく、そうした「人間の理解を絶したもの」とどう向き合い、折り合って行くかというフェーズにファンタジーは大きな役割を持つものだと思います。
だから自分の監督するアニメーション作品や漫画作品において、私はファンタジーを目指しているのです。

●今監督は自分の映画は社会批評として考えますか。

正確に言えば社会批評として「も」考えているということになります。あくまで私は自分の監督する映画はエンターテインメントであると思っていますので、社会批評そのものが目的ではありません。
ただ、それがどんなにファンタジーの要素が濃い内容であろうと、現実とのリンクが切れていては創作の意味がないとは思っています。作り手も当然現実を生きているわけですから、その作り手が生きる現実や日常、そこで感じる思いや考えなどが作っている当の映画に反映しないとしたら、それはもはや作品とは言えないでしょう。
作り手を取り巻く様々な環境(私生活、属する組織の在り方、宗教性、社会事情、世界情勢などなど)、それらが作り手の感性や考え方、価値観に影響を与え、作り手の中で発酵し、具体的に作品として表れてくる。それが物を作るという行為の基本的な構図だと思いますし、そうでなければその作り手は取り替えの利く人間ということになります。
私そのものが社会から大きく影響を受けて日々生きているわけですから、私自身が特に意識しなくても、社会に対する私の考え方が映画に反映することになる。
もちろん最初から社会批評を意識する場合もありますし、具体的なタイトルでいえば、『妄想代理人』はとりわけその傾向は強いと思います。しかしその場合でも、根本的にはエンターテインメント性をもっとも大切にしていることは間違いありません。

●村上隆さんの「スーパーフラット」のアイディアについて、どう思いますか。今監督の作品もこの中に当てはまるのでしょうか、あるいは、影響を受けていますか。

申し訳ありませんが、私は村上隆氏については名前しか存じておらず、氏の仕事は全く存じ上げません。ですから「スーパーフラット」という概念も私は全然知りません。
ウェブで簡単に調べたところ「遠近法的な把握を避けた平板な捉え方や余白の多さ、といった点で伝統的な日本画とアニメーションの画面に共通点を見い出す概念」ということが分かりました。私の認識に間違いがないと良いのですが。
そういうことであれば「スーパーフラット」と名づけられた概念とは関係なく、自分が絵を描く中で、日本画との類縁性は感じたことがありますし、特異な概念とは思えません。漫画の絵は現代の浮世絵であるということは随分昔から指摘されていたことですし。
私の場合は特に映画の宣伝用にイラストを描く際に、日本画などから積極的にアイディアを取り入れたこともあります。日本画のアウトラインで対象物を捉える描写法に好ましさを感じます。アニメーターの知り合いのでも日本画の描写を好む人は多いようです。
絵描きに限らず、日本人全体にそうした伝統的な把握の仕方に心地よさを感じているからこそ、日本において漫画が独自かつ豊かに発展してきたのではないかと思います。漫画を母体として生まれたアニメーションも同様です。
また、浮世絵などに顕著ですが、奥行きの表現を透視図法によらず、幾重にも重なり合った「ついたて」のように捉える方法は、アニメーションの撮影技法に通じる物があると思います。2Dアニメーションでは、セルや背景をレイヤーとして何段にも重ねて空間を作り出しますからね。
ただ、私の監督する映像において遠近法からの脱却を意図していることはありませんし、特にフラットなイメージを目指しているつもりもありませんが、一度は日本画的、浮世絵的なスタイルを意識してアニメーションを作ってみたいと思ってはいます。

●シュールレアリスムはどのように今監督の映画の夢、個人的なファンタジー、責任等のテーマに影響を与えますか。

シュールなアイディアやイメージは好きですが、特にシュールレアリスムを意識したこともそれについて考えたこともありません。私は何事に付け「ism」と付くものに抵抗を感じてしまうようです。
シュールレアリスムが私に与えた影響と効果については答えようがないので、話題を少しシフトしてお答えしたいと思います。
アイディアやイメージはいつどこからやってくるか、分からないものです。シュールなイメージとなると尚のこと容易に思いつくわけではありません。論理で考えるには厄介な相手ですからね。
たまたまやって来たイメージを捕まえられれば、その後それを育てたりストーリーに合致するように加工する術などはある程度経験によって蓄積が可能ですが、どうすればそれを思いつけるのか、その方法は経験的に積み重ねることは困難のようです。かつての大家がその才能の輝きを失って行く様はよく見られますが、やはり常にアイディアを生み出し続けることはいかに才能があっても困難なことのようです。
私の場合は、元々の才能にも乏しいのでせめてそれが枯渇したりしないよう、ささやかながらも対処は心がけています。
私は自分の中に「箱」があると考えています。
そこに何かを入れると別な形となって出力されてくる、そんな箱です。しかしその箱の中に何があるのか、どういう仕掛けになっているのか私には知ることが出来ません。ブラックボックスです。
同じ物を2回続けて入力しても、出力される物は異なったりするのが面白いところです。日によって、気分によって絶えずそれは変化しているらしい。
また必ずしも自分が必要としている物が出てくるとは限らないし、無用であることも多い。私にはその出力の結果を選ぶことは出来ません。出力されたものを見て判断するしかない。
しかし、時にはその出力結果によって、それまで全く予定もしていなかった方向性を考えつくことさえあります。
シュールについてでした。シュールなイメージを考えるのは苦手なのですが、以上のような方法で、画集や写真集、映画や音楽、文章、他人との会話、独り言、などなど色々な物を入力することによって、私が論理的に考えても得られなかったであろう、イメージやアイディアを収穫しています。『パプリカ』の制作過程では特にこの方法を多用しました。
コツとしては、箱の作用をなるべく無意識に任せることです。普段機能している論理的文章的な意識を働かせると、箱は途端に常識的かつ凡庸な出力しかしてくれなくなります。
しかも箱の出力は微弱ですから、なるべく自分の意識の声を下げることで箱からの出力に耳を傾け、虚心になることでイメージをすくい上げる。しかもそれはいつ到来するかもよく分からない。机に向かっているときとは限らず、夢に現れることもあれば、眠りから覚めた途端に思いつくこともありますし、入浴している最中かもしれない。だから常にアイディアの到来に対して開かれた態度を心がけています。一見、無駄に思えるアイディアも素晴らしい可能性を秘めていることだって多いですね。
シュールであるということは、イメージやアイディアそのものだけで成立するわけではありません。得られたイメージをどのような文脈に配置するかによって、そのイメージは初めて活力を獲得します。だからアイディアはイメージそのものとして浮かぶこともあれば、文脈として浮かぶこともある。
シュールである、ということは文脈の逸脱に由来します。本来そこにあるはずのないものが挿入されることによってシュールなイメージが立ち上がる。ということは、いかに常識的な文脈を知っておくかも大切なのです。
「普通はこう思う(思うであろう)」という常識的な文脈を把握しているからこそ、そこから逸脱するアイディアも生まれるのではないかと思います。
非常識なこと、超現実的なことを発想するためには、常識と現実をよく知ることが必要ではないでしょうか。それらの枠組みを知っているからこそ逸脱も可能である、と。
私は「箱」を通してわずかに届いてくるシュールなイメージと、意識によって強固に構築するリアリスティックな世界の結合が理想としている世界観です。

●西洋のアニメーションには、例えばピクサーの作品等の大衆的なミュージカルやコメディーが多いです。これらのようなアニメーションは観ますか。そして、もしそうならば、どう思いますか。

西洋のアニメーションだからといって熱心に見ることはありませんが、あえて見るのを避けるということもありません。洋の東西を問わず、実写もアニメーションも映画の一部であると認識していますので、そこに差別はありません。面白そうなら見る。ただそれだけです。
ピクサーのアニメーションは『トイ・ストーリー』や『バグズ・ライフ』など初期のものは積極的に見ていましたが、作品を重ねるに従って興味を失ってきました。何というか、初期のものには見られたアイディアの肌理の細かさや極端さが失われてきたように感じます。『Mr.インクレディブル』はたいへん面白かったですけどね。
西洋、特にアメリカのアニメーションはほとんどが3Dに移行しているようで、ピクサー以外にも多くの3Dアニメーションが製作されています。しかし、予告編を見る限り、どれも当たり障りのなさそうな内容で、私が興味を引かれるような刺激は見受けられません。ある種の「毒」、同時に「薬」にもなるような何かが見えなければ私には必要がありません。
おそらく、世界中の誰もが見て楽しめるものを目指して作られた創作物は、平均的なものになってしまう傾向にあります。巨大な予算をかけて巨大な利益を得ようとすれば、当然そうなることでしょう。アニメーションであれ実写映画であれ。
私はそうしたものに興味がないのです。私は文化に興味があるのです。
文化とはつまり、「いかに非合理か」ということの別名です。「偏り方」といってもいい。ある国家や地方、民族、宗教などといった集団に固有の文化は、そこに属さない人から見れば非合理であり、共感し得ない面も多々あります。
私はそうした違いと、違いがありながら共感しうるもの、その双方とそれらのバランスに興味がありますので、平均化に向かう傾向にはあまり共感はしません。

●数年前には、日本のアニメが西洋の世界を「乗っ取る」というような話がよくありました。しかし、『イノセンス』、『APPLESEED』、『ハウルの動く城』、『スチームボーイ』等は、成功せずに消えていったようにみえました。予想されていた日本のいわゆる「侵略」は起こらなかったようです。これに同意しますか。

同意するも何もそのような「侵略」は最初から存在していません。どこかの国にあると言われた「大量破壊兵器」のように。
もし日本のアニメーションの穏やかかつ慎ましやかな海外進出について、そうした不穏な形容がなされ、それがあたかも存在するかのように思いこまされたとしたら、それは日本のアニメーションの作り手ではなくそれを扱うメディアの言い分、それも主に「侵略されるかもしれないと感じた」側の喧伝でしかないと思います。
報じる側は常に大仰であり、ただそれだけのことです。
私はメディアから流れてくる笛や太鼓の音に乗せられて踊り出す趣味はありません。
ですから、私の元に取材に来られる方がそのような発言をされてもまったく信じておりませんでしたし、そうした考え方を迷惑にすら思っておりました。無いものをあると言われても同意するわけには行きませんからね。
それと申し上げにくいことではありますが、「日本のアニメが西洋の世界を「乗っ取る」というような話」の背景には、はっきりとした西洋中心主義、もっといえば歴史的年輪に刻まれた人種差別が幾重にも積み重なっているように思われます。
というのも、西洋の側の文化がそれ以外の地域で支配的なポジションを取ろうとする場合、「乗っ取る」だの「侵略」ということはあまり言わないようですからね。
それが立派な武力侵略でも。「民主化」とか何とか。
世界情勢がその雄弁な証人ではないでしょうか。もっとも実際には証言台に立たせてもらえないようですが。

●日本のアニメ産業について、どう思いますか。

あまりに守備範囲が広すぎる質問で答えに窮しますが、私が最近感じている問題についてポイントを絞って考えてみます。
何より大きな問題は深刻な人材不足です。制作されるアニメーションの数があまりに多すぎて、人手が足りなくなっているという説にも一理はあると思いますが、私はむしろ単純に能力のある人の絶対数が足りないことが問題だと思っています。
素人に毛の生えた程度の絵描きが一人前のつもりで仕事をしている。人材はいなくとも、商業的経済的その他様々な要請によってアニメーション番組を作らざるを得ない以上、下手くそでも一人前扱いしないとならないという状況のようです。さらには一人前扱いされた方もその気になった結果、つまりはこういう事態に至りました。
「誰でもアニメを作れる」
クラフトマンシップは粗大ゴミ扱いです。
この悲劇的滑稽さは当然、質の低下を大歓迎する。そして粗製濫造の横行は結果的にアニメーション産業自らの首を絞めることになると思います。すでに十分絞まっていると言えますが。
もっとも、何事にも別な側面があるのが世の常で、アニメーション制作の裾野が広がっているおかげで、私のような非主流の作り手が存在する余地も生まれているとも言えます。
人材不足の大きな原因には、日本の社会全体でそれぞれの職業に対するそれこそ「責任感」が低下しているという事情が大きく関与していると思いますが、特にアニメーション業界ではあまりの低賃金故に人材が育つのが難しいのもまた事実の一つです。また、現在のアニメーションを支えている中核スタッフは、元々がアニメファンでありオタク的な気質の人が多く、自分と自分のごく周辺にしか意識が届かず、結果的に新人や後輩を育てることを怠ってきたという面もあります。
もちろんここにもまたやむを得ない事情があって、絵描きのスタッフはほとんどがフリーランスであり、自分を食わせるだけで精一杯なのです。
本来、こうした新人の育成はフリーランスの個々の努力に負わされる性格のものではなく、アニメーション制作を請け負う会社が地道に続けておくべきことだったように思います。
これまで「スタッフは勝手に育つもの」であり、「どこかで育った有能なスタッフを連れてくればよい」という考えの下に人材育成を怠ってきた制作会社には少なからぬ責任があるのではないかと私は思います。
自分のところでは育てるための代償は払わないけれど、よそがやってくれるに違いない、と誰もが思っていれば事態の帰結は明らかであり、現状が雄弁にそれを裏打ちしています。
「私がやらなくても誰かがやってくれる」
「誰もやらないんだから私がやる必要はない」
これらごく簡単なプログラムがあればアニメ業界を、ひいては世界を破滅させるに十分です。
しかし、だからといって制作会社も経済的に余裕があるわけではなく、そこにだけ責任を押し付けて済むものではありませんので、最近になって技術の継承を真面目に考え出している人たちも少なくなくありません。私もその一人です。
ただ、技術の伝達は電子メールのようなわけにも行きませんので、上手くいっても時間がかかることでしょう。
これらは予算が多くなれば解決する問題でもないと思いますが、アニメーションの中核をなすべきはずの絵描きにもっとも大きな経済的なしわ寄せが押しつけられる現状が改善されない限り、日本のアニメーションの質を維持するのは不可能だと思います。
先行きは決して明るくありませんが、目の前にある使える手段を最大限に活かして、現状で求められる可能な限り良いものを求め続けて行くしかない、私はそう考えています。

以上です。質問が多くてすみません。有り難うございます。よろしくお願いします。