Interview 24

2005年4月、海外から監督作全般に関して

どこの国からか失念してしまいましたが、アダム・ティアニーさんという方からのご質問に答えたものです。多分、アメリカのウェブサイト用だったと記憶しております。

1・監督の作るアニメーション作品は『パーフェクトブルー』からも分かりますが、アニメとしては非常にリアリスティックな傾向があるかと存じます。なぜ、リアリスティックな世界を題材とすることが大切なのでしょうか?

ファンタジーを描きたいからに他なりません。
質問中でご指摘の通り、私はあくまで「リアリスティックな世界を題材」にしてはいますが、「リアリスティックなストーリー」を目指しているわけではありません。
私が意図している物語世界は、ごく簡単にまとめるとすれば「リアリスティックな世界を舞台にしたファンタジー」ということになるでしょう。
ファンタジーというのは「想像、空想、 幻想」といった意味合いで、「リアル」「現実」といった理性的な意味の言葉と対置されます。しかしだからといってファンタジーが「非現実的」「非科学的」だとか単なる「嘘」であるとは私は決して思いません。
人間にとってファンタジーは必要不可欠なものであると私は思います。そうでなければ、有史以来、神話や伝説や昔話、宗教さえも含めて良いと思いますが、そうした現実とは異なる位相にあるファンタジーがこれほど膨大に作られ、現代まで伝えられて来なかったでしょう。神話や伝説や昔話、宗教的な物語には「非現実的」「非科学的」「非合理的」なエピソードが溢れています。だからといって誰もそれらの物語が持つ意味を否定できません。否定したらたいへんなことになりますよね?
だから色々な意味でファンタジーは人間に必要不可欠なものだと思います。
そしてこれらファンタジーが持つ一番の大きな意味は、「人間の理解を絶したものが存在する」というメッセージではないかと思います。「もの」といって語弊があるなら、人間の理解を越えた「世界」「位相」といっても良いです。
古代、中世、近代であれ現代、そして未来においてさえも人間がその理性だけで世界を理解・認識しきることはないでしょうし、もし理性と科学があまねく世界を覆ったところで、人間の感情が100パーセントそれに与することはないと思われます。
頭で分かること(理性で理解すること)と、感情や感覚として納得することはイコールではありません。日本語には「理性的には分かるんだけど、感情的感覚的には納得できない」という意味で「腑に落ちない」という言葉があります。英語にそれと対応する言葉があるかどうか分かりませんが、「腑」というのは「内臓」のことで、つまり身体的に納得できない、というような意味です。日常的によく使われる言葉ですが、たいへん深みのある言葉だと思います。
人間を取りまく多くの事象や関係には、「理性的」「科学的」には理解できても、「感覚的」「感情的」「身体的」に納得が行かないことがたくさんあります。納得が行かなくてもそれら理不尽や不合理なものが我々を取りまいていることに変わりはなく、そうした「人間の理解を絶したもの」とどう向き合い、折り合って行くかというフェーズにファンタジーは大きな役割を持つものだと思います。
だから自分の監督するアニメーションや漫画において、私はファンタジーを目指しているのです。

ファンタジーは現実との水位差にあると私は思います。
だからファンタジーを描くためには、その物語世界における現実という、いわばベースとなる世界観をきちんと構築する必要があり、そこからどのくらい飛翔したかがファンタジーの「程度」である、と私は思います。
たとえば、前提となる世界観自体が異世界や未来世界といったすでにファンタジー的要素が強い世界ならば、話の流れやエピソード、クライマックスには、よりファンタジーの要素が増大されて行かなければなりません。いい方は悪いですが、ベーシックな嘘の上にさらに大きな嘘をつく、ということです。これはこれで悪いとは思いませんし、だからこそ壮大なファンタジーを描くことも可能でしょう。
しかし、こうした傾向はかならずエスカレーションの袋小路に捕らわれてしまいます。話の進行に連れて、嘘のレベルをより増大させなければならなくなるため、より大きなファンタジーを求め続けざるを得なくなる。こうなると最終的に現実とは全然関係のないファンタジーのためのファンタジーで作品世界は塗飾されるようになります。アニメーションであれ実写であれ、「大作」を売り物にした作品が往々にして陥るのはこの点だと思います。
私はそうした過度なエスカレーションに巻き込まれるのは不本意です。それに私の描きたいファンタジーは、そうした「声の大きな」ファンタジーではなく、もう少し落ち着いたトーン、「声の小さな」ファンタジーです。それを描くために、まずベースとなる世界をなるべく現実的なものとして描いているのです。

2・監督のストーリーテリングのスタイルを鑑みまして、今までに実写作品の制作を考えた事はありますか? もし、実写の監督をすることを考えたことがないのでしたら、監督にとってのアニメーションがもつ魅力とは何ですか?

よく聞かれる質問です。
ですが、私は実写を撮ろうと思ったことはありません。実写の監督に誘われたことはありますが、そのときも積極的には考えませんでした。もちろん、実写という表現方法に魅力を感じないわけではありませんし、一観客としては実写映画が大好きです。
確かに私の監督作におけるストーリーテリング、構図の取り方、編集の考え方などには実写映画の影響が濃厚にあると思います。しかしそれはあくまで実写映画のテイスト、アニメーションに取り入れられそうな(取り入れたら面白いと思われるような)部分だけを反映させているに過ぎません。また実写風に見えるからといって実写と同じようなロジックで出来ているわけでもないと思います。だいたい私は実写を、一観客という立場以外で学んだことはありません。だから実写のロジックについてはほとんど知りません。
私は大きくいえば「表現者」ということになるのでしょうが、だからといって私自身の内部にあらかじめ「表現すべき何ものか」があって、それを表現するにあたって「小説か漫画かアニメーションか実写か、あるいは音楽か舞台か」といった選択があるわけではありません。選択の余地はないといってもいい。というのも、まず他の表現方法に熟達もしていなければ、よく知りもしない、という理由が大きいです。
私は日本語でしか思うようにコミュニケーションが出来ませんが、それと同じように絵やアニメーションというのが私の使える言語なのです。
日本語で考えて日本語でアウトプットするしかできない。「どの表現方法を選択するか」という問題を言語にたとえるなら、馴染みのない表現を使うということは新しく言語を習得しなければならないのと同じです。言語の習得には時間がかかります。私が現在の日本語能力を形成するまでに41年、絵やアニメーションの技術やノウハウを獲得するまでにも20年以上はかかっている。自分の知らない表現方法を習熟するにしても、その時間が惜しいと思います。
ですから、表現すべきものがあってそれに相応しい方法を選ぶ、ということは合理的なように見えますが実際は表現方法や技術の習得自体のために失う時間も大きいですし、表現方法そのものからの影響ということが考慮されていません。この「方法そのものから生まれる考え」という点が何より重要だと思います。

確かに表現を行う主体があって、その主体の選択で表現方法が決まる、というモデルは誰にでも分かりやすい表現者の在り方のように思いますが、私はそれほど単純なモデルは信用していません。
単純化、合理化されたモデルは「誰にでも分かりやすい」ので重宝する場面も多いですが、その分取りこぼされている面もたくさんあります。
世の中には「誰にでも分かるわけではない」ことがたくさんあります。誰にでも分かりやすくする、というのは一見「正しい」ことのように思えますが、すべてにおいてその方法を適用するのは傲慢な態度です。分からないものを分からないものとして受け入れることが知性の節度というものでしょう。同時に分からないものでも何とか伝えようとするのが表現者であると思います。
表現者という主体は、表現する以前に何を表現するのかをあらかじめ完全に把握しているわけではないでしょうし、当の表現方法そのものにも当然大きな影響を受けている。制作中も、当の制作物そのものから大きな影響や刺激を受けています。作ることによって、何を作るのかが浮かんでくるとさえいえます。

これも言語にたとえると分かりやすいでしょうか。
日本語話者として生まれ育った人間の考え方は日本語という方法に規定されるのと同じです。日本語だから感じることが出来る情感や感情のニュアンスが当然あります。それは英語や他の言語においても同じことでしょう。その言語でなければ考えられないもの、世界、位相があり、いかに忠実に翻訳しようとしても同じニュアンスの言葉がなかったり、言い換えるとこぼれ落ちるニュアンスがあるわけです。
最近、「もったいない」という日本語を世界に広めようとノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイさんが提唱されていましたが、これなどは顕著な例です。「もったいない」に相当する言葉が他の言語にはない。「もったいない」とは「そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい」という意味で、他に「神仏・貴人などに対して不都合である」「過分のことで畏れ多い」といった意味もあり、日本の宗教性が反映されている言葉であると思います。
英語では「waste」という単語がそれに近いそうですが、「無駄(waste)」と「もったいない」では日本人にとって随分ニュアンスが違います。
たとえ「もったいない」という言葉を外国の方が覚え、正しく使えたとしても、子どもの時から「もったいない」という言葉とその概念の中で育ってきた人間と、まったく同じようにその言葉を共有することは出来ないと思います。
分かりやすくいえばこういうことになるでしょうか。
学習して「もったいない」という言葉を覚えた人間にとっては、いわばその人が「もったいない」という言葉を主体的に使うわけですが、母国語にあらかじめこの言葉が含まれている人間にとっては、「もったいない」という言葉はそれを使う主体そのものを構成している一要素にさえなっているわけです。
前者と後者で「もったいない」という言葉を使う水準が同じであるわけはありませんね。コンピュータでいえば前者はアプリケーション的であり、後者はシステムの水準といっていいでしょう。
私にとってのアニメーション、正確にいえば私にとっての「絵」も同じといってよいです。私のものの考え方が絵に適しているから漫画やアニメーションという方法を選択しているだけではなく、漫画やアニメーションという方法によって私の考え方は作られてきている、といえます。そして自分なりの考え方に変化を与え、深化させたりするために、実写や小説や舞台や音楽といった他ジャンルの要素を取り入れてきたわけです。
私が日本語しか使えないのと同じで、私は絵を媒介にしてしか物を作れないように思っています。単純な合理性に則れば、より多くの人と直接コミュニケーションをしたいと考えるならアニメーションよりは実写、日本語より英語を使う方が世界中の人々に届きやすいでしょう。
しかし、表現や文化というのは合理性の基準で計られる対象ではありません。その表現方法、その文化でなければ現れてこないものがたくさんあります。
そうした多様性こそが、言語や宗教、文化や歴史の異なる人間相互にとっての豊かな財産であると私は思います。それを否定するような現代の潮流に対して私は強い抵抗を感じます。
それぞれの文化の中からしか生まれてこないものがある、と書きましたが、しかしそれを何とか相手にも伝わるようにすることが表現者であるとも思っています。私たちの作った映画が、海外のお客さんの目に触れ、このインタビューのように興味を持ってくれた人たちが海外からリアクションを返してくれます。たいへん嬉しいことです。その喜びというのは、やはり言語や文化の越えにくい壁を、我々の場合はアニメーションという形で越えられたことが大きい理由ではないかと思います。作っているスタッフは日本語しか使えないにもかかわらず、映画は言葉の壁を越えてくれるわけですから。

3・今監督の作品では、主人公の心の内の葛藤、その人物をとりまく社会や環境が巻き起こす問題を設定なさりますが、分かりやすい敵役を登場させていません。何故監督の作品の中では、具現化された悪役はいないのでしょうか。

分かりやすい悪役ほどつまらないものはありません。私がそう思えるくらいの年齢になったのでしょうし、そういう世の中になってきたということかもしれません。
分かりやすい悪役が出てきて、それを主人公が苦難の末に倒してめでたしめでたし、という勧善懲悪的なストーリーには全然興味を覚えません。自分が作る作品においてはもちろん、他の方のアニメーションや漫画、実写映画でもそうした内容と思えるものはまったく見ませんし、馬鹿馬鹿しいとさえ思います。
そういう単純化されたストーリーは、ファーストフードみたいに思えます。実に手軽な話形です。お手軽なものは世間に広まりますが、悪影響が大きいのもよく似ています。
現実の世の中に分かりやすく具現化された悪は見当たりません。
確かに、ある立場から見れば「敵」や「悪役」に相当する立場になる人や集団はあります。しかし相手から見れば反対側が当然「敵」や「悪役」になります。
誰かが相手を「悪」と想定しているに過ぎません。
絶対的な悪や善という立場が存在するわけもなく、悪や善は相対的なものでしかないと私は思います。「絶対的な正義」を掲げるような人々はまったく信用できませんし、そもそも「絶対」があり得るわけがないと思っています。
このあたりの感覚は、「絶対」という概念を前提にして成り立っている一神教の世界観には馴染みにくいのではないかと思いますが、多神教をベースにして成り立っている地域や、物事すべてを相対化しようとする仏教が根ざしている地域の人間は、相対的な考えが基本になっていると思います。
私は相対的なものの考え方の方が好きですし、肌に馴染んでいます。「絶対」というものを私は信用していませんので、単純に悪役とか敵を設定する物語世界に強い抵抗を感じます。
確かに世の中には法律に反する犯罪という分かりやすい悪がありますし、その時代その地域の倫理感や常識から逸脱する分かりやすい悪はあります。
それらは排除、防止されなければならないと私も思います。

一方で、普遍的な意味での邪悪さもきっと存在するとは思っています。問題はこちらの方が大きく深いことでしょう。
邪悪さというのは誰の中にでも生まれうる、「澱」のようなものかもしれません。邪悪さは内側にある。時と場合によっては、自分の中にも現れるかもしれない。そう思える節度によって初めて抑制しうるのではないでしょうか。
だからそうした邪悪さは特定の人や集団に押しつけたり投影されうるものではないでしょうし、悪者を排除すれば、ことが丸く収まるということではありません。
しかし、いまだに世の中は「我々の不幸はどこかにいる誰かのせいだ。それを倒せばよいのだ」という他罰的な考え方に支配されていると思います。そう考える方が簡単で楽なのでしょう。
実は、そういう考え方そのものが「敵」や「悪」を生み出している、私はそう思います。
先に記した「単純化・合理化されたモデルの危険性」と同様、簡単で楽な考え方はその分だけ多くのものを取りこぼしている筈です。
邪悪さを自分以外のものに投影して自分が邪悪さや罪から逃れるのではなく、「私にも邪悪さがある」「知らぬ間に罪を犯しているかもしれない」と認め、自分がその一端を引き受けることによって初めて倫理感は基礎づけられるのではないかと思います。
世界は相対的な関係の中にしか存在しない、という見方が私の世界観です。なので私が指向する物語世界に、分かりやすい善と悪、正義と悪が存在することはありえないと思われます。

4・今監督の作品中では日本の文化、地域性を前面に押し出した世界設定となっています。今後も日本を舞台背景とした作品を考えていますか? 日本以外を舞台とした作品制作の予定はありますか?

必ずしも日本を舞台にしなければならないとは考えていません。ただ、分からないものは描きようがないのです。
どこを舞台にするか。ある国、ある土地、ある場所という舞台は、場所そのものが一つの物語を持っているといっていいでしょう。ここでいう物語とは文化や歴史、宗教であり、その場所における人々の常識や倫理感という考え方も含まれます。
あるストーリーは、その舞台となる場所の物語と密接に関係しています。ストーリーと人物それぞれの物語、そして場所が持つ物語。物語と物語が関係するところに、新たな物語が生まれるものではないでしょうか。
だから、その舞台の物語を理解することなく、そこで展開する物語を考えることは出来ないと私は思います。
たとえば『東京ゴッドファーザーズ』は、そのタイトル通り「東京」でなくては成立しない物語だと思います。日本という風土や宗教性、東京という土地柄などを抜きにしてあの物語は考えられません。
もちろん単純な意味でのストーリー(ホームレス三人が赤ん坊を拾って親元に届けようとする…というようなお話)の翻案は可能だと思います。ただその場合、舞台をたとえばニューヨークに移したとするなら、ニューヨークという場が持つ物語、そこに暮らす人々の考え方や暮らし方との関わりによって、ストーリーそのものが変化するはずですし、また変化しなくては不自然なのです。
私が日本以外の土地を舞台にした映画をこれまで作っていないのは、その舞台となる場所の物語を自分のものとして身体的に把握できないからです。たとえ頭で理解したとしても、場所と密接に結びつく有機的な物語を語ることは出来ないでしょうし、ストーリーを作ることもできないと思います。だから私は私が把握している世界を舞台にすることしかできないのでしょう。
ただ、今後もその通りである、とは言い切れません。実際、未来世界や異世界に対する興味も多分にありますし、実際に存在する海外の土地であっても視点の取り方次第で描き得るのではないか、と考えています。

5・特殊な家族構成を扱った『東京ゴッドファーザーズ』ですが、いままでの監督の映画の中では、一般的に一番なじみやすい作品だったかと存じます。広いファン層からの支持を得る為に、何か意図的な判断をなさったのでしょうか?

必ずしもそうではありません。もちろん、より広い層のお客さんに届いて欲しいという願いはありましたが(それはいつも有ります)、そういう戦略的な観点を私はあまり持っていません。ですから、私個人の興味がシフトしたという面が強いと思います。
前作にあたる『パーフェクトブルー』や『千年女優』は「個人」にフォーカスした映画でしたが、そこから他人と繋がることに、より興味がシフトし始めたということでしょうか。そして、ある個人にとってもっとも近い位置にある関係というのが「家族」です。
ご指摘通り「特殊な家族構成」ではありますが、それを通じて、自分の家族というもっとも近しい他人を改めて考え直す契機になって欲しい、という願いがあったと思います。

6・『妄想代理人』の制作は楽しいものでしたでしょうか。また、新しいテレビシリーズに取り組む予定はありますか?

楽しいことばかりではありませんでしたが、「楽しかった」と言い切ってもよいほど面白く制作にあたりました。テレビシリーズの制作は、劇場用と全然違うスタンスです。とにかく短い時間の中で数を作らなくてはならない。
劇場用と比べると予算も時間も少なく、思ったイメージを徹底させることは難しいですが、反面多くのイメージを提示できるし、思いつきから画面になるまでが早い。このレスポンスの良さはテレビシリーズならではでしょう。
完成度ではもちろん劇場用には到底及びませんが、多くのアイディア、バラエティに富んだアイディアを表現することもまた非常に楽しいものでした。
現在のところ新しいテレビシリーズの企画は考えていませんが、また作ってみたいとは思います。

7・各々の作品において、どのような達成目標を掲げていますか? そしてその目標を成し遂げたと思いますか?

それぞれの監督作において、特に明確な目標を掲げているわけではありません。何よりはっきりとした目標、言い換えると到達点ということになると思いますが、スタートする前からゴールを設定するような考え方が好きではありません。
先にも書きましたように、制作者は作っている当の制作物から大きな影響を受けます。制作中も制作者は変わり続けるということです。作っている自分の変化まで予測して、監督作の到達点も設定するということは不可能です。何せ、予測する主体自体の考え方が変化するわけですから。
違う言い方をすれば、達成する目標自体が制作中においても常に書き換え続けられるということになる。ですから、「達成目標」というのがどの時点においてなのか、という問題に行き当たります。企画当初、シナリオ制作時、コンテ執筆時……と制作プロセスを追うごとに、目標は常に高くなって行きます。
「ここまで来たからには、もっと先へ」
いつでもそういう考え方になります。『千年女優』において、追いかけていたその人に辿り着くことそのものより、辿り着こうとする態度にこそ意味がある、と描いたのは、私の制作態度に重なるからだと思います。
目標には決して到達しない構造になっているんです。ある目標を設定してそこへ向かい、到達しそうになったときにはより高い目標を設定する。その新たな目標に向かって進んでそこへ到達しそうになれば、より高い目標を設定して……。そうした運動を繰り返し続けることになるわけですから。
それが楽しいのです。

そうした深い意味での目標とは別に、もう少し分かりやすい目標も用意してはいます。『パーフェクトブルー』は監督デビュー作ということもあって、まずは「一本を作り上げる」という、目標とすら呼べないような目標だったと思います。ただ、それまで見たり、実際に参加してきたアニメーションで私が本当に面白いと思える物はほとんどなかったので、「面白い物を作ること」、それは難しいかもしれないけれど(何しろ他の人だってそれを目指していてなかなか出来ないわけですから)、せめて「見るお客さんの興味を最後まで引っ張り続ける」ということが演出的な目標だったと思います。
『千年女優』においては、アニメーション的な、というより映像的なイメージの飛翔、想像力の運用が目標だったと思います。本来同時には存在しない時制、過去現在未来が個人のうちに同時に在るということをどうやって映像化するかが私の楽しみでした。
『東京ゴッドファーザーズ』の場合はもっとはっきりしていて、キャラクター芝居、アニメーション的漫画的な活力を豊かにしたいと思っていました。写実的な背景と漫画的な活力を持ったキャラクターたちの対比を狙っていました。
『妄想代理人』の時は「多様性」というのが一番のキーワードでした。同じ『妄想代理人』というシリーズでありながら、各話数の個性にどれだけバリエーションを作れるか、という目標です。話の内容、語り口それぞれにバリエーションを盛り込めたと思います。
ここに上げたいずれの目標も制作にかかった当初に考えていたものですが、どれも概ね満足が行く程度に達成できたと思っています。

8・以前に大友監督とのコラボレーションをされていますが、2人の関係はどのようなものだったのでしょうか? 2人が再びタッグを組む可能性はありますか?(大友さんのマンガを原作に今監督がアニメ化するという噂が数年に流れておりましたが)

私はもともと漫画を描いておりまして、時折私は大友氏の「AKIRA」の漫画連載を手伝ったりしていました。アニメーションの「AKIRA」に私は一切関わっていません。
漫画の方の縁で、大友氏には懇意にしていただきまして、その大友氏の紹介で『老人Z』(原作・脚本/大友克洋)というアニメーションに美術設定として参加しました。私がアニメーションに関わったのはこれが初めてということになります。
以後、私はアニメーション制作に携わるのが面白くなり何本かのアニメーションに参加した後、「MEMORIES/彼女の想いで」で再び大友さんの仕事に参加しました。脚本と美術設定が主な仕事でした。
その後は、私は自分の演出・監督作が主になり、大友氏と仕事はほとんどしておりません。アメリカ資本で大友克洋監修、私が監督という企画もあったのですが、立ち消えになったようです。その映画の監督として氏から誘われ、打ち合わせも数度したものの、知らない間に企画自体が無くなっていたようです。しかし誰一人として「無くなった」と伝えてくれる人はいませんでしたね(笑)
大友氏と仕事をする予定はありません。
数年前に流れたという「大友さんのマンガを原作に今監督がアニメ化するという噂」は、まったくのデマです。私は数年前のパリのアニメーションイベントで同じことをフランスのライターから質問されましたが、初耳で私が驚いたほどです。

9・脚本に関しては、共同執筆と単独での執筆のどちらが好みですか?

共同の方がいいですね。
私が単に脚本として他の監督の仕事に参加するなら単独の執筆でもかまわないと思うのですが、自分で監督する映画のシナリオを私が単独で執筆すると、どうしても価値観が狭まってしまいます。自分にとって都合のいい見方だけで物語世界を構築すると(もちろんそうならないように気をつけますが)、結局自分にとって面白いものになりにくいというか、不本意なものになりがちです。
違う言い方をすれば、どこか世界が「閉じてしまう」ような気がします。「閉じた世界」を描く場合なら、それも有効に機能するとは思うのですが、現在の私はいかに「開かれた」余地を残して、なおかつ自分の価値観も反映された物語世界を作るか、という命題を自らに課しています。
それには複数の視点が必要です。「私には思い至らない考えがある」という節度を堅持したいと思いますし、その思い至らないフィールドを共同執筆する相手に期待していると思います。
また、ごく単純な問題として、自分単独で脚本を執筆して自分でコンテ・演出した場合、どうしても脚本段階でのこだわりや失敗した箇所などに引っかかってしまい、大胆に演出するのが難しくなってしまいます。
なので私は共同執筆の際も、最終的な決定稿は共同執筆者にお願いするようにしています。そうすれば、また新たな気持ちで絵コンテに取りかかることが出来ますので。

10・DVDフォーマットの普及により、アニメーション制作プロセスに変化はありましたか?

特別大きな変化というと、テレビシリーズで画面サイズが16:9のワイドが主流になったことでしょうね。それまでは4:3の画面をスタンダードとしていましたが、これから先は16:9が主流になるのではないかと思われます。
劇場用アニメーションはもちろんのこと、ビデオ、中にはテレビでも5.1チャンネルによって音響を制作するものが出てきましたね。
一般的な制作現場に対して、DVDフォーマットの普及がどういう影響を与えているのか、私にはよく分かりませんが、ごく個人的な感想をいえば、DVDの高画質はどうも画面が「見えすぎる」のが長所でもあり、制作者にとっては頭の痛いところでもありますね。画面の粗まで映し出してしまう気がします。
だから、その分画面をもっと作り込む必要を感じますし、見せるべき部分と沈める部分を意識して画面を作る必要があると感じています。

11・今監督はアメリカでの監督の評価が急速に高まっています。アメリカでのアニメの人気ぶりは、企画段階で何らかの影響を及ぼしておりますでしょうか? それとも、日本の観客を主に考えてアニメ制作をなさるのでしょうか?

私の監督作がどのくらいアメリカで人気があるのか、正直なところ私にはよく分からないのです。こうしてインタビューの依頼があるということは好んでくれる人も少なくないという証なので、励まされる面があります。
アメリカに限らず海外での評価、また日本国内での評価にしてもそうなんですが、そうした評価(ポジティブにしろネガティブにしろ)が、私の企画に大きな影響を与えているとは言えません。もちろん影響はあります。期待してくれているお客さんに向かって映画を作りたいと思いますからね。
ただ、企画の選定については観客よりも、私の興味が優先されます。ある意味、私が想定する観客の筆頭は「どこかにいるかもしれない今 敏のような人」なんだと思います。私にはそうとでも考えるほかにやり方がないのです。そして自分が興味を持った企画内容(あるいは今 敏のような人が興味を持つであろう企画内容)を、映画として具体化して行く際に多くの観客にも伝わるようなやり方を考えるのだと思います。
その際には、日本国内のお客さんのことも考えますが、同じくらい海外のお客さんのことも考えています。私はこれまでに何度か海外の映画祭などに招待をいただきまして、自分の監督作の上映にも立ち会ってきました。韓国や台湾、ドイツやフランス、アメリカの観客の顔がいまも脳裏に刻まれています。なので、新しい映画を作るときにはいつも「あのお客さんたちはどう思うだろう?」「こういう表現をしたら面白がるんじゃないか」といったことは考えています。

12・監督の作品では『パーフェクトブルー』と『妄想代理人』の英語吹き替え版が出ています。英語吹き替えについてどう考えていますか?

映画を吹き替えで見るか字幕で見るか、それは文化的な好みもあるでしょうし個人的な好みの問題が大きいですね。
なので「良い悪い」という話ではありませんが、制作者個人の立場でいえば我々スタッフが作った生の形として、字幕で見てもらえたらいいな、とは思います。声を担当してくれたキャストの皆さんも一緒に作ったスタッフですし、その仕事を海外の人にも聞いてもらいたいと思いますからね。
ただ、吹き替えにも良さがあると思いますし、私は決してネガティブには捉えていません。私自身、子どもの頃からテレビで放映される映画を吹き替えで楽しんできましたし、俳優に対して決まった声優さんが演じるのは楽しみの一つでした。
経費のことを度外視して理想的なことをいえば、字幕版と吹き替え版がDVDに収められるのが望ましい。それをユーザーが選ぶのが一番良いと思います。

13・マッドハウスとあなたの関係は? これからもマッドハウスで仕事をしていくのですか?

私はどの会社にも所属しない立場、「フリーランス」ですが、これまでの監督作はすべてマッドハウスで制作しています。96年に『パーフェクトブルー』制作開始以来、10年近くもマッドハウスにお世話になっておりますので、半分以上マッドハウスの一員であると勝手に認識しています。マッドハウスさんがどう思っているかはよく分かりませんが(笑)
私はマッドハウスに愛着がありますし、長所や短所といった特性も実感しているので、制作の流れを考えるのが何より楽です。他の会社で監督という立場で制作をしたことがないので比べようもありませんが、私にとっては大変に心地の良い会社です。ですから、マッドハウスの方で私を不要にしない限り、私としては同じ場所で映画を作りたいと思っています。

14・近年の「イノセンス」、「アップルシード」などにも見られる大掛かりな3D使用作品がありますが、今監督もそのトレンドを追われるのでしょうか?

どちらの映画も見ていないので、3Dがどういう形で使われているのか分かりませんが、現在のところ私はそれほど3Dアニメーションに大きな関心は抱いていません。
もちろん、現在制作中の作品において3Dは少なからず使用されていますし、3Dを抜きにしてアニメーションは作れないと思っています。
ただ、3Dをどう位置付けるか、という程度・水準には大きな幅があります。私は、あくまで2D、平面の絵を描いて動かすアニメーションに関心があり、3Dアニメーションはその中の一表現として考えています。2Dアニメーションというベーシックな世界に3Dアニメーションがどう共存するか、といった関心です。
だから、3Dをベーシックとするようなアニメーションには今のところ興味はあまりないのです。
私自身が3Dのツールに馴染みがないことが一番の原因かもしれませんが、フル3Dで作られた画面にあまり魅力を感じないことも大きな原因です。私が欲しいと思う画面は手描きの絵によって実現されています。あえて、現状思うようにならない3Dに手を出す必要を感じません。一方で手描きのアニメーションでは表現できないイメージも頭に浮かぶので、この先より3Dに負う部分が増えてくるとは思います。
2Dと3Dがいかに共存して行くかが大きな課題だと思っています。

15・「Genius Party」とは何なのかお教え願えますか? このプロジェクトにまだ関わっていますか?

「Genius Party」という名称は聞いたことがありません。
何かの間違いではないでしょうか。

16・近年で優れていると思われる作品タイトル、また監督を教えて下さい。

私は近頃あまり映画を見ておらず、見ても大半が古いタイトルで、新しい作品はほとんど見ていません。
アニメーションに限っていえば、去年見たシルヴァン・ショメ監督の「ベルヴィル・ランデブー」は刺激的でした。映画としては後半に多々疑問もありますが、とにかくアニメーションとして面白かった。ディズニーに代表されるアメリカスタイルや日本のスタイルともタイプの違うアニメーションで、大変な刺激を受けました。
ただ、その刺激をどういう形でこれからの制作に反映させて行くのか、その見当がつかないですけどね。そのくらい自分たちが作っているものと違うスタイルのアニメーションのような気がしました。

17・もしあるとすれば、日本のアニメ業界に足りないものは何だと思いますか?

足りているものを探す方が難しいでしょうね(笑)
シナリオ、絵コンテ、キャラクターデザイン、レイアウト・原画、美術背景といったアニメーション制作における重要なセクションすべてにおいて、能力のある人材が非常に少ない。
それを補って行くはずの若い世代は、現行の中核を担っている世代よりさらにレベルが低くなっているように思えます。
足りない人材を補うための時間・予算はなく、人材を育てるための動きもほとんどありません。あったとしてもそれが短い期間で機能することはないでしょうし、その間に最先端の技術レベルは伸びて行くので結局は人材が足りないという状況が続いて行くと思います。
かなり悲観的かもしれませんが、それが現状だと思いますね。
一番大きな問題と思えるのは、中間層がいないことです。
演出にしろ作画にしろ、飛び抜けた才能や能力の人は少数ながらもおられますし、そういう人を中心にアニメーションが作られれば、多様性のある面白い物が出てくるでしょう。実際いまもそうした形で目立つ作品も出てきているとは思います。
劇場作品で注目されるのはそうして作られた物ではないかと思われます。
ただ、そういう映画を支える中間層のスタッフが空洞化してきているんです。
トップレベルの作画監督やアニメーター、美術監督や背景マンだけで映画が出来るわけではありません。クオリティのレベルを維持しながら堅実にカットを上げてくれるスタッフがいなければ、大半のカットは成立しません。
映画制作において攻守というものを考えると、こうした大半のカットは「守」にあたります。「攻」にあたる部分は特異な能力をもったスタッフが受け持つ部分でしょう。
どちらかだけでは映画は成立しません。これら攻守のバランスを取ることが必要なわけですが、守りの部分が薄くなっているため、攻めに回すはずの戦力を守りに割かなくてはならないという状況になっています。
アニメーション制作現場に限らず、豊かな中間層を失ったシステムはものを生み出す力が衰退して行くのではないかと思います。若い人たちには、一時のブームや流行に流されない画力やアニメートの技術を身につけて欲しいものです。

18・アニメのみならず、今監督は成功したアーティスト、ペインターです。近年マンガや画集での活動はされていますか?また、音楽や、玩具、ゲームなどの他の媒体を使用することのご興味はありますでしょうか?

私は別に「成功したアーティスト、ペインター」などではありません(笑)
ここ最近、私が人前に出すために完成させた絵は一枚もありません。アニメーション制作上で絵コンテ、レイアウト、原画などで絵を描くことはあっても、その絵がそのまま公の場で人の目に触れることはありません。
私が完成させて人の目に触れた絵というのは、多分、『東京ゴッドファーザーズ』のポスターが最後ではないでしょうか。漫画や画集といった活動はまったくありません。
以前は時間を見つけては、自分のウェブサイト用に絵を描いたりしていました。純然たる趣味というより、技法の開発や研究のためでしたが、いまではそうした試みをする時間もありませんし、欲求も感じません。それほど自分の絵に執着がないのかもしれません。
何よりアニメーションを作ることがいまはもっとも面白いと感じています。
仕事以外では絵を描くよりも、こうしてインタビューのためとかウェブサイト用にテキストを書いたりしている方が面白いですね。
ただ、自分の興味にも波があって、文字に興味が向くときもあれば、絵に意識が向くときもあって、そのうちまた自分の絵に関心が高くなるときが来るのではないかと思います。
他の媒体については、もちろん興味がありますが、本業のアニメーション制作だけで手一杯という状態で、新しいことにチャレンジする余裕はないですね。
現状、自分からそうした企画を出すことは考えにくいので、他の媒体からお誘いがあれば是非関わってみたいとは思います。
まぁ、そんな余裕があれば次の企画でも考えた方が実りが多い気もしますが。

19・話せる範囲で結構ですので、現在進行中のプロジェクトについて教えて下さい。

現在制作中の物は、劇場用長編アニメーションです。タイトルなどについてはまだ発表できない状態ですが、去年の秋から本格的に作画作業に入っています。
この映画は、私のオリジナルではなく、私が尊敬する日本のSF作家の小説を原作としています。
実は『パーフェクトブルー』が完成後、次回作としてこの小説をアニメーション化したいと考えていたのですが、当時付き合いのあったスポンサー会社が無くなったりして、計画は何ら実行化されぬまま立ち消えになりました。それが、二年ほど前にこの作家と対談させていただく機会を得まして、その席上、当の作家の方から「アニメーション化」という話題が出ました。不思議なものです。私はこういう奇縁に確信を得てしまう傾向がありまして、この原作をいただいて次回作とすることにしました。
内容は「夢」を題材にしたSFですが、舞台は現代の東京ですし、いわゆる「SFアニメ」とはまったく異なるものです。唯一、他人の夢に入り込むためのアイテムがSFらしい部分といえるでしょうか。
『パーフェクトブルー』以来試みてきた「夢と現実の混淆」というモチーフを中心にして、これまでの技法やスタイルを集大成しつつ、これまでよりさらにエンターテインメント性を高めた映画になる予定です。
メインスタッフは、美術監督や色彩設計などはこれまでの監督作とほとんど同じ顔ぶれですが、撮影監督に加藤道哉氏を迎えています。加藤氏は『妄想代理人』のアイキャッチを担当してくれた方です。私は『妄想代理人』のアイキャッチを非常に気に入っておりまして、さらに新作ではデジタル処理するカットが増えると予想されたので加藤氏に撮影監督をお願いすることになりました。
またキャラクターデザイン・作画監督には安藤雅司氏を迎えています。私は安藤氏の「妄想」のキャラクターデザインが非常に気に入ってまして、氏の驚異的な作画力をたいへん尊敬しています。新作のキャラクターたちも非常に魅力的です。
現在の制作状況としては、絵コンテが三分の一(約400カット)しか上がっていませんが、その大半は作画作業に入っており、引き続き絵コンテが上がったところから順次作画に入る予定です。
完成予定は来年、2006年頭を目指しております。
公開の予定はまだ決まっていませんが、楽しみにしていて下さい。