Interview 02
2002年12月 イタリアから、主に「千年女優」に関するインタビュー

1.どのように、映画監督としてのキャリアをスタートなさいましたか?監督になられたきっかけは何ですか?

ある日、「“パーフェクトブルー”というオリジナルビデオアニメーション企画があるのだが、監督しないか」と誘われたので監督になりました。なぜ監督のオ ファーがあったかと言えば、制作会社マッドハウスのプロデューサーがそれまでの私の仕事を目にしてくれていたからであり、私が脚本・コンテ・演出を担当し た「ジョジョの奇妙な冒険」を気に入ってくれていたと聞いています。
仕事を続けて行くには一つの仕事が次に繋がらなくてはなりませんし、また次へ繋がるような仕事の在り方を心がけています。

2.「Memories」には関わられたいきさつを教えてください。

いきさつというほどのものはありません。大友克洋氏とは漫画の「AKIRA」で縁があって、以来時折仕事をご一緒したりさせていただきました。それで氏が オムニバスのアニメーション映画(後の「Memories」)を作るということで私も自然と参加することになった、というだけのことです。「彼女の想い で」監督の森本晃司氏も「是非一緒にやりましょう」ということでした。当初は私が脚本とキャラクターデザインまで担当する予定でしたが、キャラはラフス ケッチだけにとどまりました。
この作品が私の脚本第一作になるのですが、私のような未経験者が脚本を担当したのはアニメ業界の人材不足が大きな原因でした。もっとも、お陰で私はその後 の自分の監督作品を作る上で大きく触発されました。現実と幻想の混交というモチーフへの興味はここから始まったと言えるでしょう。

3.アート界において、監督が「先生」と呼んでいる方はいらっしゃいますか?もしいらしたら、お名前を教えていただけますか?

特にいません。
ただ「千年女優」の音楽を担当していただいた平沢進さんには私淑しています。氏の音楽や制作態度には多く学んでいますし、私の作る物語や発想は氏の影響に負うところが大きいです。

4.今までの人生において一番の困難は何だったでしょうか。また現在、有名な映画監督として、行き当たる問題はありますか?

これまでの人生における一番の困難は、あまりにプライベートなことに踏み入れることになるので内緒にします(笑)
また私は「有名な映画監督」でもありませんので、有名ゆえに行き当たるような問題はありません。むしろ知名度の低さが問題になっています(笑)
現在、監督として行き当たる問題は特に感じませんが、作品を作り続けるに従って問題になるのは、やはり次回作の企画の選定でしょうか。過去の作品とイメー ジが重なるようなものは避けたいと思っていますので、自然と選択範囲を新しい分野に求めることになりますし、かといってそれまでとまったく無関係なアイ ディアが生まれてくるわけでもありません。自分の方向性を考えた上で、企画段階から制作期間中に渡って自分が興味と意欲をもてるような企画を選ぶことはな かなか難しいことです。
また非常に現実的な問題としては予算とスタッフ集めということでしょうか。
CGなど新しい技術の導入、スタッフの人件費のアップ、納得の行く制作期間を確保するためには作品ごとに予算が増えてくれなければ困るのですが、興行的に回収が難しいなどの理由で、予算を思うように確保できないのは辛いですね。
有能なスタッフの確保はさらに問題です。劇場アニメーション作品をこなせるだけの技術を持ったスタッフが非常に少ないので、他の劇場作品とのスタッフの奪 い合いになってしまいます。なので、有能なスタッフを確保するためには、アニメーターが参加したくなるような作品内容を合わせて考える必要があります。

5.「千年女優」は日本の観客にどのように受け入れられていると思われますか?日本(日本での一般公開)と海外の映画祭での上映とを較べて、観客の反応に違いを感じますか。

「千年女優」に限ったことではないと思いますが、日本より海外のお客さんの方が反応がストレートだと思います。海外のお客さんの方が上映中、泣く、笑う、 驚くといった感情の表現がはっきりしているので、演出家としては上映に立ち会う楽しみが大きいですね。
「千年女優」についての国内のインタビューや、ネット上に書かれた感想などで多いのがラストのセリフに対する意見が多いのですが、それに対し海外ではその 件については一度も聞かれたことがありません。大きな違いなのかもしれません。日本ではラストのセリフに関しては賛否両論という感じですね。これは私も予 測していた結果です。
要するに反対派の意見は「身勝手だ」「自己愛が強すぎる」というような感情を前提にしているようです。このセリフは、もちろん私が非常に大切にしていた言葉ですし、重要な意味と明確な意図を持って入れたものです。
現在は倫理・道徳観の指針が揺らいでいると思いますが、特に日本は一神教的な神も持たず、社会的規範も弱体化している。そういう時代にはやはり個人という ものを強化してゆかざるを得ないと思いますし、そのためにはまず自分を正しく愛する態度が必要だと思うのです。日本では他者よりも自分は一歩下がる態度が 美徳とされてきましたし、私自身もそういう文化の中に育っていますが、それだけでは今後は通用しないでしょうし、伝統的文化の中にありながらもこれまでと は違った個人の在り方が求められるのだと思っています。

6.ドリームワークス社との契約はどのようになされたのですか。

私自身がドリームワークスにプロモーションしたわけではありません。配給会社がプロモーションしたのだと思います。
「千年女優」は、まだアメリカで公開されたわけでもありませんし、結果的にどうなるのか予測が付きませんが、ドリームワークスとの契約は良かったと思っています。それだけ多くのお客さんの目に触れる機会が増えるでしょうから。

7. 未麻への異常なまでの愛情が描かれた「PERFECTBLUE」に対し、この「千年女優」では千代子と源也との純粋で深い愛情が表現されています。この全 く違う二つの愛情表現の違いの境界線は何でしょうか?監督の人生において、これら二つの作品における愛と似た様なご経験をされた事がありますか?

異常と純粋な愛情の間に明確な境界線は存在しないと思います。たとえば母親の子供に対する溺愛は、母親本人にとっては純粋なものかもしれませんがそれ故に子供が歪な成長をしたなら、それはそれで異常な形とも呼べると思います。
私の実人生においてこれらの愛と似たような経験をしたかどうかはプライベートなことなのでコメントする気はありませんが、私と作品との関係ということで言 えばそうした愛の形は経験していると思います。私が作品に取り組む姿勢は見方を変えれば異常でもあるでしょうし、純粋と呼びうるものでもあると思います。
私は「プライベートに仕事を持ち込まない」などと言う態度を持ち合わせていませんし、仕事はイコール日常であり、日常が仕事でもあります。この二つは互いに入れ子になっているのです。
それを異常だという人もいれば、仕事に対して純粋だという人もいるでしょうが、他人がどう言おうが私は私の気に入った生き方をするだけです。そこに正しいとか正しくないという判断はありません。人それぞれですからね。

8.「千年女優」では、すべての登場人物が同じ視点に置かれています。つまりそれぞれの登場人物が年上の登場人物を追っています。
カメラマン(井田)→監督(立花)→女優(千代子)→画家→政治的な考え(歴史)カメラマン以外は、それぞれが自分自身よりも年上の誰か/何かに対して愛 情を抱いており、そこには「届かぬ愛」の(追いかける愛の)はかなさを感じます。そしてその「はかなさ」が彼らの愛を高貴かつ痛みのあるものにしているよ うに思います。故に、もしこの作品が年長者の観点から若者への視点で描かれたのだとしたら、ということを想像せずにはいられません。
例えば、画家は千代子の事をどんな風に考えていたのでしょうか?
千代子の画家への想いは一途なものですが、画家も同じ気持ちなのでしょうか?
立花は千代子にとってどのような存在なのでしょうか?
立花が恋いこがれるような千代子への気持ちは明らかですが、千代子の立花への気持ちは語られていません。
愛される側(画家、千代子)の愛する側への気持ちをどのように設定していますか?


鍵の君といわれる画家や千代子、彼らがそれぞれ千代子や立花に対してどう思っていたのか、それはお客さんが考えることで私が答えるべきことでもないと思い ます。一般論ですが、愛される側が必ずしも愛する側に同じ愛を感じるわけもありませんし、それは「千年女優」においても変わりないでしょう。
ただ、少なくともラストの病院のシーンで千代子は立花に対する気持ちを口にしています。これは千代子と立花の関係で大きく変化した結果だと言っても良いで す。それまでの立花と千代子の物理的・心理的な距離の変化はとても大事にして演出していますので、そうした部分も見ていただける良いかと思います。
また「千年女優」における、追いかけるものと追いかけられるものとの関係には、私と私の理想の作品という関係がはっきりと投影されていると思います。
私が追い求め続けるであろう理想の作品は、決して私には手の届かないものだと思っています。これは悲観ではありません。
作品を作っている最中にも作り手である私自身は変化しています。アイディアを思いついた時点で理想としたイメージに日々近づいていると同時に、イメージ自体も私の変化に伴って育って行きます。ですから決して追いつくことはない、ということです。
追いつくことはないかもしれないけれど、それを追い求める態度こそが大切であると思っています。

9.この作品において、登場人物間の摩擦は主に「世代間の問題」(ジェネレーションギャップ)から起っています(千代子と母、千代子と詠子etc)。これは監督が世代摩擦にまつわる経験がおありになり、その経験が影響しているのでしょうか?。
もしそうだとしたら、どのような経験をなさったのですか?

「千年女優」における世代間の問題は、意識的に作品に盛り込んだものです。
自分が経験したことが必ずしもストレートな形で作品に出るとは限りません。
誰しも世代間のギャップは日常的に感じることですし、私の場合も変わりないです。年寄りのやっていることは古くさく見え、年若い連中のやっていることは愚かにしか見えない(笑)。みなさんご経験がおありでしょう。
年寄りには年寄りの知恵がありますし、若い人間には年寄りが失ってしまった勢いや熱意があったりするもので、相互に上手くコミュニケーションがとれればそれぞれに価値観が豊かになるものだと思っています。
なのでそうした関係の回復を作品内で目指そうと思ったのです。

10.若いカメラマンのみが彼自身の意志ではなく、義務的に仕事をしています。これは、現代の日本の若者が伝統的なものに無関心な事への批判なのでしょうか?

批判ではありません。単に私が若い世代の多くに対してそういう認識をしているということで、それを良いとか悪いとかいうつもりはないのです。
過去の私自身もそういう若者でした。ただ、現在の歳になってみますともう少し若い頃から、自分の根(歴史的文化的背景)に対して積極的な関わりをすれば良 かったな、と思うことは多いです。しかしだからといって、年若い人にその考えを押しつける気はありませんし、押しつけても反発されるだけだと思います。

11.横田正夫氏のインタビューの中で、「瓦礫」は監督の学生時代から仕事の世界への移り変わりの中での価値観の大きな変化と関係があると述べられていますが、どの様な価値観が「一度完全につぶれ」、そしてどのような「新しい価値観」へと変化したのでしょうか?

プライベートなことに触れない範囲でいえば、私がそれまで良いと思い、大変価値を感じていた絵や漫画や映画、それらで描かれる価値観や感情など、そうした もの全てを違った角度から見れば、それほどの価値がないということを思い知らされた、ということでしょうか。これ以上具体的に述べる気はありませんが、自 分が価値を感じ、絵や漫画を描く上で目指していた方向性が実はさして面白くないものだ、ということに気付いた、つまりそれが価値観の崩壊と瓦礫ということ です。その後に生まれてきた「新しい価値観」がいかなるものかは、私のその後の仕事である「MEMORIES/彼女の想いで」の脚本、「パーフェクトブ ルー」「千年女優」をご覧いただければお分かりになると思います。

12. 「千年女優」の中で、監督は瓦礫と再生、死と生とを結び付けています。監督は「新しいものがうまれるためには、破壊がなくてはいけない。」と横田氏のイン タビューで語っていらっしゃいます。監督の映画は本当にクリエイティビティに富んだものですが、これらの映画は何らかの「瓦礫/破壊」から生まれたので しょうか?

前記の質問と重複しているように思えるので、少し別な角度からお答えします。
人間の成長過程はいわば死と再生の繰り返しです。それまでに積み上げた価値観が新しい局面において通用しなくなり、結果価値観を一度壊して再度作り上げて行き、そしてまた新たな局面においてそれが通用しなくなり……、という繰り返しです。
ただ、再生といってもまったく別なものに生まれ変わるわけもなく、それまでの積み重ねや個人の歴史の上に再生するわけです。歴史と無関係ではいられません。
たとえば瓦礫からの再生といっても、再生のための材料は無から生じるわけではなく、残骸を再利用することで別なものを組み立てて行く、ということです。
だから新しい価値観といっても、そこに含まれる成分は過去の自分にあったものと変わりはない、というイメージです。もちろん新しいものを手に入れ、捨て去る古いものもたくさんあるでしょうが、根本はそう変わるものではないと思います。

13. 「千年女優」において、「恋に落ちる」(人を好きになり、焦がれる。ティーンエィジャーの初恋のような、「愛」には至っていない想い。まだ未成熟の「恋」 の状態)事の情熱について表現されていますが、なぜ他の「愛の形」(夫婦のような、様々な事を乗り越えて続く愛、成熟した愛、等)ではなく、「恋に落ち る」事を表現することを選んだのでしょうか?

作品を作るときに、最初にテーマ性から選ぶことはほとんどありません。面白いと感じたアイディアを物語として育てて行くうちに、自然とテーマも浮かび上 がってくるのです。テーマを掲げておいてから作られた話は、堅苦しくなったり過度に観念的になったり、得てして魅力がないように思います。なので、「千年 女優」において成熟した愛ではなく、未成熟の恋が描かれたのは私自身がそういう状態にある、ということの反映かもしれません。無論、映画をご覧いただけば お分かりになるように、愛と呼ぶか恋と呼ぶかはともかくその情熱は他人に対するよりむしろ自己へ向けられたものです。他人がどう思うかは分かりませんが、 これはエゴやわがままよりも程度の高い、気高さも厳しさも持った自己愛だと思っています。

14. 横田氏のインタビューの中で監督はご自身と女性登場人物;未麻と千代子との比較をしています。「PERFECTBLUE」の中では未麻と御自身の監督とし てのめざめ、そして今回の監督ご自身が原案(脚本)された「千年女優」においては、監督と千代子の二人が、監督ご自身の考え方や感じ方について表現してい ます。そしてこうした創造的な流れを次作においても続けていきたいとおっしゃっています。では、次の段階はどういったものを考えていますか?「東京ゴッド ファーザーズ」について少しお話いただけませんでしょうか?。

私が「東京ゴッド〜」において何をしようとしているのか、それは完成した映画をご覧いただかないと分からないと思いますし、言葉だけで伝えられるものなら映像を作ったりはしません。
ストーリーは単純です。東京、新宿に暮らす3人のホームレスがクリスマスの夜にゴミ捨て場で赤ん坊を拾い、何とかその赤ん坊を親元へ返そうと東京都内を探して歩く、というものです。コメディです。
主役の3人はそれぞれ、中年のオッサン、家出少女、中年のオカマ。
彼らは血は繋がっていませんが、まるで家族のように暮らしている。赤ん坊の親を捜す道中、赤ん坊がきっかけとなってもたらされる奇跡のような偶然によって、彼らそれぞれが失ってきてしまった本来の家族との繋がりを回復して行く、という物語です。
ホームレスは言葉通り、家がないということですが、この作品においては単に“家”を失った人というだけではなく“家族”を失った人、という意味で捉えています。失った家族との関係を回復する物語といって良いです。
重要なモチーフとなるのは「家族」と「偶然」です。
「東京ゴッドファーザーズ」ではこれまで2作とは違い、劇中劇や夢と現実の揺らぎといった仕掛けはありませんが、やはり客観的な現実とは別の流れを大切にしている作品ですので、目の肥えた方ならばそうした多元的な物語世界を楽しめると思います。
完成は2003年春の予定で、公開はまだ未定です。

15. 別のインタビューで、監督は次のようにおっしゃっています。「千代子は男ではありえないキャラクターです。なぜなら“伝説の男”はいつも自分自身の手で歴 史を変えようとする。私からしてみると、男はどんな時代、社会においても自分の存在意義を証明すべく、“何かをする”のであって、“そこに存在する”ので はない」と。これについてもう少し詳しく監督のお考えを聞かせて下さいますか。男と女の違いについてどの様にお考えですか?

単純に男性女性というより、男性女性を問わずその内面にある男性性女性性と考えてもらいたいのですが、男性性は能動的であり、人や物や事に働きかけること でなにがしか「切断」する働きをする傾向にあると思います。切断とは切り分けて分析し、それによって何かを選択をする、というような意味です。何かを選ぶ ということはそうではない物を切り捨てるということですからね。また左脳右脳でいえば男性性は言語的・理性的な左脳の働きが強いでしょう。
対して女性性は受動的で、「呑み込む」働きをするものだと思います。どれかを選ぶのではなく、それらを共に呑み込む、というようなことです。右脳のイメージ的・直感的な働きもこちらの側でしょう。
男性も女性も内面にはそれぞれを併せ持っているでしょうし、両者の働きによって行動を決定している。「千年女優」の千代子ももちろん片方だけで出来上がっているわけではなく、両者が複雑に絡み合っています。
千代子は頑なに「鍵の君を追う」ということにこだわり続けますが、これはいわば理想を掲げてそれを目指す男性性とも言える(しかし千代子の場合、観念や理 念ではなく感情的な部分が大きいので女性性の強さともいえるのでしょうが)のですが、同時に理性的な現実認識を欠いてしまうのは女性性と言えるでしょう。 だからこそ強いのだと思いますが。
このバランスが変わって、女性性が後退すれば胸に理想を抱きながらも現実認識の力が高いだけに、目の前のことに関わりすぎてしまうことになってしまうと思 われるのです。千代子が目の前のことに関わり始めたらとても千年を駆け抜ける物語にならなくなってしまいます(笑)

16.村井さだゆき氏との関係についてお話下さい。彼との共同制作のご経験はいかがでしたか?

「パーフェクトブルー」「千年女優」両作品とも物語の構成が複雑で、その複雑さこそが魅力であり、私のやりたかったことでもあります。
村井氏も構成で見せるのが得意なライターだと思いますので、作品にはまっていたと思いますし、彼と私とでなければ両作品における複雑に絡み合ったシナリオは出来なかったと思います。
ただ村井氏にしても私にしても、人物描写というかキャラクターに対する愛着が薄い方で(笑)、「千年女優」の千代子のような魂の欲求が強い人物を描くには少しエネルギーが足りなかったかもしれません。
ただ、千代子というキャラクターは生身の人間というより、昔話の主人公のような象徴的な意味合いが強いイメージでしたので、むしろあのくらいで良かったとは思っています。押しつけがましいキャラクター描写ほど嫌いなものはありませんので。

17.「PERFECTBLUE」と「千年女優」は(私の目から見て)まさに日本的な映画であり、と同時に外国の観客からも広く愛されています。この成功の鍵は何だと思われますか?

両作品とも成功しているのかどうかは私にはよく分かりませんが、日本的な映画であることは間違いないと思います。これは言語の差によるものだと思います。
先ほどの男性性女性性のことと重ね合わせていうと、頻繁に主語が曖昧になる日本語は女性性の強い言語であると思われます。対して、まず主語を明確にし結論 から先に述べる形になる英語(その親類であるイタリア語やフランス語、ドイツ語なもども含めて)は男性性が強く合理性の高い言語に思われる。もちろん先の 話と同じように、それぞれの言語・文化圏においても男性性女性性の両者のバランスで成り立っているのですが。
「パーフェクトブルー」「千年女優」両作品が持つ現実と幻想の曖昧さは、やはり私の母語である日本語から来ているのだと思います。私は日本語しか話せませんし、考えるのも全て日本語ですからね。
海外のお客さんが、もしも特にそうした曖昧さに興味を持たれるのだとしたら、男性性の強い文化圏において女性性の回復が望まれている、という現れなのかも しれません。しかしそうした広範に渡る文化論を私が語れるわけもないので、あくまで想像にすぎませんが。

18.ここ最近、日本のアニメはロトスコープを頻繁に使い始めていますが、監督は率先してこの手法を使っていらっしゃるとお見受けします。なぜこの手法を取り入れる事にしたのでしょうか?この手法を使う事で、(視覚的に)違いが生まれますか?

まったく違います。私はロトスコープは一切使っていませんし、他の日本のアニメーションでも使われたケースは聞いていません。せいぜいビデオを参考にしながら作画するという程度です。それもごく一部に過ぎません。
「パーフェクトブルー」におけるステージシーンは、振り付け師に依頼して、実際に踊ってもらい、それをビデオ撮影して作画参考にはしましたが、いわゆるロトスコープと呼べるようなものではありません。
もし「千年女優」のキャラクターの芝居にロトスコープのような動きの生々しさがあるのなら、それらはすべて作画を担当したアニメーターや作画監督の積み重ねられてきた技術によるものです。

19.今日の日本と世界、双方のアニメ産業ついて、どのように思われていますが?

先月(2002年11月)アメリカのドリームワークスを見学させてもらいました。ドリームワークスのアニメーション現場は私が普段馴染んでいる日本のアニ メーション制作現場とはまるでかけ離れた、素晴らしく贅沢な環境でした。クリエーションのために整えられた設備や大きな予算に支えられた制作体制に目を見 張るばかりでした。しかしだからといって私がそのシステムや環境に憧れるわけでもありません。もし私がドリームワークスのスタジオで仕事をしても、自分の 実力を最大限に発揮できるとは思いません。彼らのシステムで見習うべき点は多々あると思いますが、日本の制作現場にも大きな長所があり、私は日本の現場に おいてこそもっとも自分の力を活かせると思っています。
またアニメーション作品が目指している方向性が、ドリームワークスやディズニーなどアメリカ製のそれと、私のそれではまったく違いますし、アニメーション そのものに対する考え方も随分違うと思います。なので同じアニメーションといっても日本製アニメーションと他の国のアニメーションはまったく違う性格を帯 びているのではないかと思います。アメリカの映画業界でも日本のアニメーションに注目しているなどといわれることもあるようですが、しかしでは実際にアメ リカで日本のアニメのようなスタイルや方向性でアニメが作られたことはないでしょうし、これからもそういう可能性は低いように思われます。逆に日本でアメ リカのアニメーションのような方向でアニメが作られることもないと思います。そうした明確な違いがあるから棲み分けも生まれるでしょうし、異なった文化で あるからこそ相互に刺激や影響が生まれるのだと思います。
私個人の立場でいえば、海外からの大きな資本を背景にして、日本の制作現場でアニメーションを作れるようになれば嬉しいとは思いますが、その場合予算も出 すが内容にも大きく口を出す、ということになるでしょう(笑)。私はかなり苦しい現状とは言っても、現在のスタイルでアニメーションを作ってゆくことにな るでしょうし、そこに大きな不満はないのです。自分がおかれた状況の中で最大限に出来うることを実践すればよいと思っています。

20.イタリアのアニメ産業はとても小さいのですが、多くの若者がアニメを見て成長し、アニメ監督や作家になることを夢見ています。彼らに対して優れたプロになるためのアドバイスをいただけますか?

アニメーションには画力だけでなく動きを捉える観察眼、映像の技術やセンス、人間の内面を捉える力やそれを演技に昇華する能力、あるいはまたストーリーを 考えたりそれを物語る能力も必要でしょうし、そしてそれらを探求し続けるどん欲な態度が必要です。巷に溢れる見慣れた凡庸なアニメーションを作りたいなら ばこれらのことはあまり必要ではありませんが、面白いものを作りたいならば、通常当たり前だと思われているような常識を疑うことから始めるのが良いかと思 います。少なくとも私はそうでした(笑)

21.「千年女優」は低予算で作られた作品とのことですが、それにもかかわらず、本当に質の高い作品であり、予算を考えるとこれは信じがたい快挙であると思います。何が(普通ならば)「不可能」(なことを)を「可能」にしたのでしょうか?

一言で言えば有能なスタッフのお陰に他なりません。
「千年女優」は当初の予算で1億3千万円、最終的には1億数千万円の制作費で作られました。日本の劇場アニメーション作品としては最低ランクといえるでしょう。
「千年女優」を質の高い作品と思っていただけるのは光栄です。予算が低くてもそれをカバーするために多くのアイディアを考えました。企画の選定からプロッ ト、脚本、絵コンテの作り方など、いわゆるプリプロダクションの段階から当然予算的な制限を考えましたし、作画作業においてもいかに効率よく労力を画面に 反映させるかに心を砕きました。極端な話、制限があるからこそ面白くもなるのだと思います。
制限によってキャラクターを思う存分動かすことが出来ないならば、いかに動かすかではなくいかに止めるかという発想も生まれます。静から動への変化にこそ 力があると考えれば、無用に動かすことほどアニメーションの邪魔になることはない、とも考えられます。
これは何も私が思いついたわけではなく、予算的制限の厳しい中で長年培われてきた日本のアニメーション制作現場の考え方、その一例に過ぎません。そうした知恵やセンスを自分なりにアレンジして組み合わせているのです。
そうした私の作り方に賛同してくれる優秀なスタッフがいてくれることは大変心強いことです。日本のアニメーター、特に有能な方は職人気質の人が多く、決し て金銭の多寡だけで作品を選ぶわけではありません。彼らの能力を発揮でき、なおかつそれに見合うだけの作品全体の魅力によって仕事を選ぶのではないかと思 います。
私の作品が、参加してくれるアニメーターの方々にどれほどの魅力があるのかは分かりませんが、彼らが参加してみたくなるような作品づくりを心がけていま す。「千年女優」、そして現在制作中の「東京ゴッドファーザーズ」に参加してくれた優秀なアニメーターに心の底から感謝しています。
技術や才能はお金だけで買えるものではありませんし、予算の低さは知恵でカバーしようというのが私の態度です。