妄想の四「少年バント参上!」
-その1-

少年バント参上!

「妄想代理人」第1話、「少年バット参上!」というサブタイトルに引っかけた、ただの語呂合わせのように思える見出しだが、その通りだ。先の「金の苦痛」という駄洒落に揃えようとしただけなのだが、眺めていたらあながちそうでもないように思えてきた。どんどんそう思うことにした。
 先の黄色い爆弾事件から負の連鎖について考察してみたように……そんなたいそうなものではないが、私は身近に起きたどうでもいいようなことやつまらない ことから屁理屈を生むのがたいへん好きである。これまでの作品もだいたいこういう思い付きで生まれる。きっかけなど何でもいいとさえ思えてきたくらいだ。
「傑作となる思い付きがあるわけではない。思い付きを傑作に育てるのだ」
 といったのはスタンリー・キューブリックではなくて黒澤明ではなくて私である。
 ではこの発想の方法をこの場で実践してみよう。大きく出たね、また(笑)
 まぁ、傑作には育てられないし、ただの冗談に過ぎないのだが、私の発想の発端はいつも無責任であることを証明してくれる。別にしてくれなくてもいいだろうけど。
 駄洒落を解説してもあまり意味はないが、まず「少年バント参上!」という駄洒落の面白さ(別に面白くないかもしれないがそういう意味での面白さではなくて)、私が何を面白がったかを解説してみる。
 何より「参上!」というやや古風な言葉で現される勢いの良さと「バント」というやや情けない音の響きと勢いの無さの対比がこの駄洒落の生命線である。駄洒落に生命線もクソもないだろうが。「少年」という言葉がまた勢いの無さを助長するのも見逃せないぞ。
 そして結論から先に言えば、この対比こそがテレビシリーズにおける「第1話」にありがちな常識をうち破ろうとした「妄想代理人」第1話の態度を表している。そう思えるのだ。結論が早すぎて何だか分からないか(笑)

 往々にしてテレビシリーズの第1話というのは大仰なものである。何しろそのシリーズのイメージを視聴者に決定づける重要な導入部にあたるし、1話の出来 如何で視聴率も変われば評判も左右される。よって、どのテレビシリーズの第1話も力を入れて制作されるのも当然の理である。
 私は今回初めてテレビシリーズに関わったので、他のテレビシリーズがどういう状況で作られるのか、噂で聞いた以上のことは知らないが、それでも大規模ア ニメーション制作会社マッドハウスに長年いるおかげであれこれと情報は伝え聞く。マッドハウスのテレビアニメ制作量は尋常ではないほど多い。
 第1話の制作にいかに力が入るかといえば、「1話に半年かけた」「1話に1年かけた」といった期間的にゴージャスな話や、あるいは「8000枚かけた」「1万枚もかけた」といった物量的にゴージャスな話もよく耳にする。
 ちなみに「妄想代理人」1話「少年バント参上!」は4300枚。
 参考までに「妄想代理人」全13話の使用動画枚数を記しておく。

 1話「少年バット参上!」/4329枚
 2話「金の靴」/4690枚
 3話「ダブルリップ」/4758枚
 4話「男の道」/4459枚
 5話「聖戦士」/6347枚
 6話「直撃の不安」/6,002枚
 7話「Mhz」/3634枚
 8話「明るい家族計画」/8,893枚
 9話「ETC」/4888枚
 10話「マロミまどろみ」/5480枚
 11話「進入禁止」/3641枚
 12話「レーダーマン」/5032枚
 13話「最終回。」/7205枚

 一話あたりの平均動画枚数は5364枚だという。割と使ってる方なのかな。マッドハウス作品としては普通か、やや少ないくらいであろうか。だいたい「妄 想代理人」で通達されていた「使って良い枚数」は4000枚。実際はもっとマージンが取ってあったようだが(制約枚数は必ず超えてしまう傾向にあるので、 最初から制約枚数より少な目に通達しておくのが通例)、それでも5000枚使ってはいけないと私は思うのだが。え?お前がコンテ・演出の13話が7000 枚を超えている?それはいいのだ。最終回なんだから。1話と13話では作り方の態度がまったく異なるのだ。それはまた後に触れるかもしれない。
 通常のテレビシリーズなら3500〜4500枚がスタンダードであろうし、1本の制作期間は長くても3ヶ月というところだろうか。スケジュールが圧迫さ れれば一月もかけずに一本を上げることなどよくある話で、他ならぬ「妄想代理人」でもそういう事態は現実にあった。
 マッドハウスの場合、作品のクオリティを重視してものを考えてくれる制作会社だし、その信用度においても予算的条件が比較的良いものが多いこともあって、通常よりは枚数をかけられる方だ。制作期間については……う〜ん……どうなんだろう?
 スケジュールが極度に圧迫されても上げきってしまうという基礎体力の強さゆえにそこに甘える傾向は間違いなくある(笑)
 制作会社としては業界でも色々な意味でトップクラスに位置するので、マッドハウスの状況が業界一般だと考えるのは間違いかもしれないが、一般的な数字と かけ離れているわけでもあるまい。よその制作会社のシリーズでも第1話をゴージャスな条件で作るという話はよく聞く。

 さてゴージャスになるとどうなるか。
 得てして「プチ劇場」になりがちである。
 実際「劇場並み」という形容詞を耳にすることが多い。つまり手間がかかって作るのが大変なのは劇場作品と相場が決まっており、テレビの枠を越えて作るの は「劇場並みではないか」という意味である。ちなみにそこまで手間がかかってない場合は「ビデオ並み」。OVA(オリジナルビデオアニメーション)程度に 手間がかかっている、という意味。制作予算の少ない順にTV、ビデオ、劇場ということになる。
 テレビなのにちょっとしたビデオや劇場作品くらいに手間をかけて作られること。これが1話や最終回といった節目となる話数に期待されている使命といってもいいであろう。
 私はそういうのは嫌である。出たよ、また天の邪鬼が。
 だいたい私は大きくない規模とはいえこれまで劇場作品を作ってきているのである。何でわざわざダウンサイズしてテレビで作るものか。私は劇場作品のダウ ンサイズしたものをテレビシリーズで作る気など毛頭なかったし、テレビらしくテレビでしかできないものを私なりに作ろうと舵取りをしたつもりである。もっ とも、「世界が認めた才能」が作るテレビシリーズという触れ込みに、「劇場っぽいテレビシリーズ」を期待した方もいたであろうし、そういうことを期待され ているんだろうな、とは自覚していた。そこで是非期待を裏切りたいと思うのが人情ってものではないか。

 話が逸れがちだが、ともかくテレビシリーズ第1話は期間と枚数と手間をかけて目立つものにする。野球で言えば、いきなりクリーンアップクラスの強打者を1番バッターに出してヒットやホームランを狙おうというような態度だ。
 なのにバント。最初からバント。
 これが私の第1話における態度だ。なので「少年バント参上!」。
 屁理屈に過ぎると言ってはいけない。かなり核心をついているのだから。

分からない人

  私は「妄想代理人」においては、初回からいきなりバントという目も覚めるほど拍子抜けする攻撃を考えていた。勘違いなきよう断っておくが、だからといって 1話を楽して作ったなどと思っては大間違いである。動きを抑制してそれでも面白く見られるように工夫するのは、単純に手間をかけるよりはるかに「知恵」が 必要とされるし、一枚の絵、画面にかかる比重は大きくなるのだから、一層気を使ったりもするのだ。さらに1話ではまだ作品のトータルイメージが固まっては いないので、手探りで作る面が大きい。そのあたりも言い出しっぺであり原作・総監督が引き受けねばならない。
 視聴者それぞれ好悪はあろうが、私は第1話「少年バット参上!」を大変気に入っている。何が気に入っているといって、私なりに「テレビアニメならこう作 りたい」という当初の意図がほぼ達成されたのがたいへん宜しい。ではどう作りたかったのか。ごく簡単にいえば、「作画に大きく依存しない」。絵や動きの魅 力に頼って面白さを得るのではなく、キャラの作画や背景、レイアウトといった絵に関する部分はもちろんなのだが、間、会話、音楽、音といったアニメーショ ン作品を構成しているすべて、それぞれにバランス良く重心を置く、というようなこと。ただ、それは劇場作品であっても同じことになってしまうのだが、劇場 の場合は手間と暇をかけられる分、自分が得意とする「絵」の力に大きく依存出来る。時間の圧縮されたテレビアニメ制作では劇場ほどそこに依存出来ない分、 絵以外の要素をもっと活用する必要があると考え、同時にそれはいままで自分が鍛えてこなかった面なので、これを機会にそうしたことに意識をより振り向けよ うと考えたのである。その試みが思った程度には達成出来たことを喜んでいる。その結果が、面白く見られるかどうかは見た方にお任せする。
 最近のインタビューで私は「まずゴールを設定してそこへいかに合理的に辿り着くか、という態度だけではいかんのではないか」といった発言を繰り返してい たが、1話においてはまったく逆の態度を前面に出している。こういう「捻れ(ねじれ)」が好き。言ってることと逆なことをしてみるとか、初回からバント攻 撃だとか。

 1話本篇でもこうした「捻れ」を楽しんでコンテを描いた。とはいってもこの「捻れ」について、プロットを自分で書いた段階ではよく把握していなかった し、水上さんに書いてもらった決定稿を読んでもまだ実感として理解していなかった。コンテを描いている最中に発見した興味深い構図という感じであろうか。 日々面白さを発見し続けるという知的作業を重ねていかない限り、楽しい仕事なんてあり得ないと思うのだが、仕事が上手くない人はどうやら「どこかに面白い 仕事がまるまると用意されている」と思っている節がある。そんなものはない。
「面白い仕事があるわけではない。仕事は自分で面白くするものだ」
 といったのは誰だろう。私かもしれないが、どこかで聞いただけかもしれない。
 捻れ、ということを中心に考えてみるが、これは制作中もしくは制作後、事後的に得られた考え方で、当初からそのようなキーワードを考えていたわけではな い。ただ「捻れ」という考え方で色々見えてくるものが多いような気がするのだ。念のためお断りしておくが、この「“妄想”の産物」というテキストは、「妄 想代理人」総監督が作品を解説しているのではなく、単に今 敏という人が「妄想代理人」を振り返りながら「多分こういうことではないかと思う」という解説を試みているに過ぎない。なので私の解説が「正しい」わけで は決してない。
 そもそも月子というキャラクターが色々な意味で捻れている。各話作監からは「描きにくい」と大変評判の月子だが、私は月子のシーンを描くのがとても面白かった。何が面白いのか。
「月子はさっぱり分からない」
 私にはこの上なく面白い題材だったのだが、恐らくはまったく同じ理由でもって描き手には評判が悪かったと思われる。当然のことなのだが、絵描きは対象物 を把握して描くことを身上にしているし、それを美徳とするように育ってきている。私だって絵描きなのでそれはよく分かる。分かったものを描く方が快いに決 まっている。
「デッサンとは対象物を把握することだ」
 といったのは美術予備校の講師だったろうか。この言葉は正しいと思う。絵の基礎訓練、あるいは基本的な態度は対象物を把握することにある。なので「分かって描く」というのはたいへん正しいと思う。
 しかしそれを疑ってひねってみるのも面白いではないか、というのが月子のキャラクター設定の狙いである。月子は「分からない人」である。分からない人を 分かって描こうとした途端にすでに躓きとなってしまうわけで、ここが扱いにくくもあり楽しいところでもある。
 第1話のアフレコの際、月子役・能登麻美子さんにも「月子がまだよく分からないですねぇ……」と可愛い月子の声で言われた。けっこう萌え(笑)
 この光景自体ちょっとねじれたシーンで面白かったのだが、それはともかく、私は能都さんのその可愛い質問には可愛らしくこう答えた。
「分からない人だと分かれば良いのです」

分かる人

「分からない人」を分かるようにした時点でキャラクターとしては間違ってしまうのである。厄介だ。
 同じ構図は一時流行ったサイコ映画などによく見られる。サイコサスペンスやサイコホラーとカテゴライズされる映画にはよく「狂人」「変態」が登場する が、狂人や変態は一般的には理解不能な領域に属するから狂人や変態なのであるが、分からないものを分からないままに描くというのは「いけないこと」と考え る制作者たちは、ものの見事に狂人や変態をかみ砕き、分かるようにしてくれる。
 分かったら狂人じゃないんだけどなぁ……というのがこの手の映画に対する私のいつもの感想である。もちろん上手に出来ているものもあるのだろうけど。
「分からないもの」を「分からないもの」として分かった上で扱う、ということも非常に大切だと思うのだが、こうした視点はあまり育ってはいないらしい。似 て非なるものに「分かること」をわざと分かりにくく描くという態度があり、こちらは賢い振りをしたがる制作者によく見かけられるが、私はあまり好きな態度 ではない。むしろ頭の悪さを喧伝しているようにしか見えない。
 また分かりやすいことを無自覚なままに分かりにくく描いちゃってるというのも尚のことよく見かけるが、こちらはもう少し技術と頭を磨いてもらいたいものである。
 しかし言うは易く行うは難し、とはよく言ったもので、口で言うほど「分からないものを分からないものとして分かって描く」ことは易しくない。私もその鳥 羽口でウロウロしているに過ぎないし、その奥深さもよく分かっていない。だいたいここで何を書けば少しは伝わるのか、それすらもよく分からない。

 月子の芝居では分かりやすい方法も多用している。リアクションのテンポを外すとか会話を噛み合わせない、とか。ただ、単に外したから月子が描けるわけも なく、外された間によって生まれるムードだとか、相手とのぎこちない関係の中で絵が描かれうるような性質ではないかと思える。これは月子に限ったことでは ないのだが、特にアニメーション業界的な発想で言えば、単体としてキャラクターになるような、分かりやすい性質が好まれるようで、関係によってのみ描かれ 得るなどと言い出すのは厄介に思われるであろう。私だってそう思うが、本来人間は関係の中でしか描けないものではある。
 分かりやすく好まれやすい性質というのはたとえば「正義感は強いが直情径行でおっちょこちょいな面を持った強面だが根は優しい人」といったようなこと。こうしたキャラクター像は漫画とアニメとゲームの中でしか生きられない記号だと思うがいかがであろうか。
 と、批判めいたことを言っておきながらすぐに混ぜっ返すようだが、「妄想代理人」の猪狩というキャラクターは正にこうした記号を体現して成り立っているといえる。実際、描き手からは「描きやすい」という評判を聞いた。
 違う言い方をすればこうした描きやすいキャラクターは何かをすることでそのキャラクター性を描写しやすいが、月子の場合は何をしないかによって描写され るキャラクターであるといえようか。概念としては間違ってはいまい。常識的に予測される態度から何かを欠落させることで月子は成立するのではなかったろう か。
 猪狩に限らず、記号として成り立っているキャラクターも多いし、月子以外はほとんどそうかもしれない。記号的な考えというのも非常に大切でまた有効なも のである。皆が共有しているから記号として成り立っているわけだから、その財産を使わない手はないが、そこだけに陥るのは凡庸のそしりを免れないと思うの である。

分からなくする分かりやすい方法

  記号の面白さは私も分かってはいるつもりだし、だからこそそれを面白がって後半の話数で「記号の町」という形で登場させて楽しんでいる。やや逆説めいた面 白がり方ではあったが、「妄想代理人」全般に通じる「捻れ」をそこに込めたつもりでもある。「記号の町」についてはまた後に触れるとして、1話における捻 れを振り返りたい。
 月子自体も「よく分からない人」(もしくは分からない人を演じている人かもしれない。が、それもよく分からない)という妙な設定だが、1話における月子 と川津の関係も私には実に面白い捻れを内在してくれていた。シナリオ段階では意識化できなかったのだが、コンテでその面白みを発見したというか、サルベー ジしたというのはこの関係のことである。以前記したが、把握しているから作るのではなく、作りながら把握していくものだと思う。
 1話の初稿につけたキャラクタースケッチがあるので引用してみる。私が書いたもので作品世界理解の一助としてシナリオの水上さんやキャラクターデザインの安藤さんに向けて書いたものである。
 まず「よく分からない人」月子のイメージは次の通りであったらしい。自分で書いておいて「らしい」というのもどうかと思うが、このテキストの存在をもうすっかり忘れていた。

 月子は演出する側も理解できるような人物ではありません。
 無理に理解しようとするとつまらないものになるので、「よく分からない人」をそのまま「よく分からない人」として描くというリアリズム(笑)の態度こそ相応しい。
 その「よく分からない感じ」の表現として、表情などは控えめにして、なおかつ表情の変化といったプロセスをなるべく描かない方が良いかと思います。カットが変わると「すでに変化していた」という捉え方が基本かと思います。
 また、言語的・感情的な文脈が観客に分かりやすいほど「よく分からない」感じが薄くなってしまうので、セリフや感情の流れはかなり「飛び気味」の方が適していると思われます。

 なるほどなぁ、いいこと書いてるなぁ、私。
「プロセスをなるべく描かない方が良い」なんてよく分かってるじゃないか、今君。
「言語的・感情的な文脈が観客に分かりやすい」とごくごく当たり前になってしまうので、それを断絶させることで月子を描こうという戦術は「千年女優」の千代子を描く際に学んだもの。
 しかしこれは何も特殊なキャラクターにのみ適用されるものではなく、リアリティを獲得したい場合に比較的有効な考え方ではないかと思える。そもそも人間 の感情の発露なんて、段取りを順序よく追ってなされるものではなく、時に突発的であったり、大きなタイムラグをともなったりするものである。「ついカッと なった」「後になって考えてたらムカムカしてきた」なんてよくある話ではないか。
 なのに劇中においては「観客に分かりやすいように」という配慮から順序よく段取りを示しながら感情が発露されたりする。しかしそれを「分かりやすい」と いうのはまったく履き違えていると私は思う。私ならそれを「説明」といいたい。話や物語や人物を説明することほど、あるいは説明されることほどつまらない ことはない。そういうのがお好みなら「水戸黄門」とか「NHK朝の連続テレビ小説」でも見ていた方がよろしい。
 しかしまぁ、得てして多くの演出さんや原画さんは説明がお好きなようで、何ごとも説明すればすべては通じてくれる、という他愛もない幻想を大事に抱えている。養老孟司氏のベストセラーのキャッチコピーにもある通り「話せば分かるは大ウソ」だと思うのだが。
 とはいえ、観客のほとんども感じることより納得することに重きをおいて見ているようなので、説明したい制作者と納得したい観客というバランスでちょうど良いのかもしれないが、私は苦手だ。
 改めて断る必要もないだろうが、「妄想代理人」は犯人探しの話ではないし、謎解きでもない。だってそういう話の構図を使っているじゃないか、という反論 は子供じみている。定型のルールに従ってしか物を見られないのは飼い慣らされたブタである。あ、違う違う。非難すればいいってもんじゃないや。定型のルー ルにしか従ってしか物を見られないのは想像力の貧困である。私は観客にも自分自身にも、少しでも知的活動を要請したいと思う方だ。