妄想の四「少年バント参上!」
-その2-

捻れは楽し

 月子と川津の捻れた関係について書いているのであった。さて、では相方となる川津のスケッチ。

  後々シナリオ上で、川津の役柄等は伝わると思いますが、川津はいわば「目」を象徴しています。世間の下世話な目、好奇の目といったイメージです。なので、 キャラクターデザイン的にも、ギョロッとした目玉で、「川津」の名の通り、カエルみたいな造形がよいかと思います。こいつは見かけから不快な感じでもいい かと思われます。

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こいつが目玉の川津。

 これは見たままのキャラクターである。
 少し補足すれば、川津のイメージである「世間の下世話な目、好奇の目」はすなわちメディアの下世話な在り方のことだろうから、ここには「見る」という役 割だけではなく、「見せる」という機能も付随してくる。なのでAパート後半、電器屋店頭で小学生たちにアダルト画像を「見せる」というエピソードを挟むこ とにした。
 川津はこうした機能としてのキャラクターを主にして考えたのだが、描いているうちに味のあるキャラクターになってくれた。1話Aパートで川津の芝居を担 当してくれた江口寿志さんに触発された面も大きいし、内海賢二さんの声と芝居がさらに奥行きを与えてくれていると思う。私は割と川津というキャラクターが 好きだ。そばにいたらかなり嫌だけど。
 ついでなので1話登場人物についてのスケッチを以下に引用しておく。

 この(惚け老人の)息子の設定は年齢が53、4。会社で「苦情係」を担当しており、普段はお客様の無理難題をさんざん聞かされている。なので川津に対してここぞとばかりに言いたいことをぶつけている、という感じです。

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 亀井は「見るからにオタク」然としている風体が良いかと思われます。美少女フィギュアなどを偏愛するモデラー。こいつは後々の話でも登場する予定です。

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 とまぁ、この程度には考えていたらしい。
 えーと、何のために引用したんだっけ。あれ、どこまで書いたんだっけ。「○○○○○」の1話は白箱で見たがさっぱり意味が分からなくて度が過ぎるほどつまらないって話だったっけ。そんな話はしてないか。

 月子と川津の関係が捻れていて私にはとても面白かったという話。
 二人の関係が捻れている、と聞いて賢明な読者諸氏はいかなるイメージを持たれるであろうか。
「二人はまるで恋人同士として描かれていた」
 全然違います。
 説明してもしょうがないか。そんな気がしてきた。やめるか。やめよやめよ。説明は蛇足ってものだと自分でも書いたんだし。
 ということで、これは謎のままにしておく。
 ウソウソ。不親切にもほどがあるので、ちゃんと書いてみる。
 まず視聴者にとって月子は見かけ上の主人公である。実際には主人公とは呼びがたいが、視聴者から見れば月子に付いて見て行くことになるわけだし、私もそ ういうつもりでシナリオ・コンテを作っている。月子視点、という意味で月子は1話の主人公である。なのだが実際は視聴者の視点はほぼ川津にある。これが私 が面白みを感じた捻れである。
 これだけで分かりますね。え?もう少し説明しろ?
 捻れの大元はやはり月子の人物像に起因する。月子のような人物が現実にいた場合、あなたはどのように思うだろうか。好ましいと思う奇特な人も多いかもしれないが、私ならきっと疑ってかかる。
「妙なリアクションは自分が特別な人間だと見せかけたい、自分でもそう思いたいというポーズの現れである」
 私はまずそう思うだろうし、そう思う方が普通ではないか。月子の場合、著しく社会性に欠けていようとも(その実、会社員になって社会生活を送っているの だから、自分にとって有利な社会性だけは選択的に発揮出来ている)、周囲がそれを許容するのはひとえに月子の才能に金銭的価値を置いているからである。 「ゲーノージン」や「あーちすと」周辺によく見られる構図だろう。
「妄想代理人」最終話において月子は制服を着た姿でエピローグに登場するが、これは「普通」(みんなと同じ)になったという象徴的な表現のつもりであった し、マロミと少年バットという本来は同時に抱えているべきものが回復されたことによって、その特異な才能は消失したという意味でもある。

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「最終回。」コンテよりC.322。エピローグで登場する月子。

「私は特別なの」という子供じみたポーズはお見通しの上で、それでもそうした人物を可愛がれるのは想像上の平面キャラクターに親和性の高いオタクさんか、立派なオッサンというものである。私は「不思議ちゃん」も面白がって見られる方だと思うが、無論後者の理由による。
 ともかく通常と違うリアクションをする人には疑ってかかるのがスタンダードだと思うし、ネガティブな反応が多いと思う。月子のリアクションに苛立つ猪狩はその典型であろう。
「なに不思議ちゃん気取ってんだ、このたわけ」
 これが普通の反応だと思うのだが、これとよく似たセリフを聞いたことがある。1話のセリフから引用する。

 川津「ちょっと不思議ちゃん入ってますって、男がシッポ振って
くるの知っててさあ!」
 月子「篠原さん」

 川津が喋っているが、月子の同僚・篠原さんが言ったであろうセリフだ。篠原さんの言っていることはとても正しい反応だと思う。同時に、才能がない人の僻みも正しく併せ持っている。この直前には安田さんの言葉として次のような言葉も出てくる。

 川津「人気キャラクターデザイナーだかなんだか知らないけどさ
あ! 自分のキャラ作る方が断然うまいじゃん!」
キョトンと見ている月子。ヘラッと笑って、
 月子「…安田さん。似てる」

 安田さんも全くもって正しいと思う。その妬み僻み具合も同時に。
 ここで紹介される月子の同僚たちも基本的には川津と同じ機能に属していると考えてもらいたい。川津にしても同僚の安田さん篠原さん三井さん山城さんも、 主人公・月子の視点から見ると「嫌な人たち」という属性にある。しかしこの嫌に見える人たちこそが実際の視聴者の視点である、と考えると捻れが見えてく る。
 そうは思わないか? 私は強く思う。私が面白がった捻れがこれである。
 視聴者的には(もし身の回りにいたら)実際は不快や反発を感じるはずの月子の目を通して、視聴者そのものの視点であろう川津や同僚たちを「嫌な人たち」 として見ているところに捻れの面白さがあるのだが、いかがであろう。まぁ、月子を疑いもせず「好ましい」と思える人もいるだろうが、そうした方に対しての 方が捻れの効果は大きいかもしれない。
 月子を好ましいと思うかどうかは別にして、演出としては視聴者が月子側に立ってしまうように視点を誘導しておいて、視聴者を本当の意味で代表する視点を 川津に置く。単に月子側に視点を置くだけでなく、出来れば月子を好ましく思ってくれれば尚のこと良い。好ましいと思っている人物を圧迫するのは実はあんた 自身の視点なんだよ、といったことを突きつけられるのではないか、という狙いがあった。だが、これはもしかしたら事後的に考えたことかもしれない。多分そ うだ。
 何か作者の方が画策して客を陥れようとしているように見えるかもしれないが、その通りだ。ウソウソ、半分だけ。実はこの視聴者という言葉を「私」に置き換えても何ら不都合はない。
 こういう言い方も出来ようか。
「一見好ましいと思えるものには罠がある」
 そういう意味ではマロミの存在も全く同じであろう。月子にとって心地いいことだけを言い続けるマロミが実は月子の成長にとってはもっともネガティブな存在であったのも同じパターンではないか。これも捻れというキーワードでくくりたい。
「妄想代理人」という作品全体でこうした捻れを私は面白がっていたのだが、だからといってそれがイコール作品の直接的な面白みとして伝わるものだとは思っ ていなかった。作る側の私の楽しみと思うようにしていた。特に1話における捻れなどは作品の面白さとしてどの程度貢献しているのか、私ははなはだ疑問であ る。
 だいたい私は1話については次のようなイメージを理想としていた。
「何が面白いのかよく分からない面白さ」
 別に1話をちっとも面白くないという人もいるだろうが、私は十分に楽しんだ。
 また1話の機能は単体としての面白さでは考えていなかったし、もっとも肝心なのは「次が気になる」と思ってもらうことにあった。なので何が面白いかベタに分かってしまうのはつまらないであろうという心配りで、なんだか分からなくしておきたかったのである。

蛇の足

 ではその素晴らしい第1話のコンテでも見返しながら、思いついたことをあれこれと書いてみる。

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「妄想代理人」最初のカットはビルの鏡面に映る空で雲が流れている。
 作品最初のカットに無意味に鏡面を持ってくることがあるはずもなく、正像と鏡像、陰陽とか光と影とか昼と夜といった「対」となるイメージを象徴したつも りである。これは作品全体が扱おうとしていた「捻れ」と同じ事である。対立するものを同時に抱えるということは捻れを抱えるのと同じことだろう。
 続くカットは鏡面に反射した光で陰と陽に二分された路面、その向こうにはやはり人々が陰陽に分断されている。これも象徴しているのは同じ事。電話をかけ ている男が言い訳を重ねながら陰に入って行くのも、作品全体というか「少年バット」を暗示したつもり。言い訳をする「後ろ暗い」気持ちを陰に入ることで示 している。これ以後、街の人々が言い訳を重ねて行くのも少年バットを誰もが呼びうるという下地を紹介したつもりだ。何せ「少年バットはどこにでも現れる」 ものなので。
 このシーンで横断歩道などを真横方向に歩いているモブたちは、すべて「東京ゴッドファーザーズ」の原画を使い回している。もっとも、「東京ゴッド〜」は 季節が冬で、「妄想代理人」1話は夏。なのですべて夏服に着せ替える必要があった。「東京ゴッド〜」の井上俊之氏などの原画を元に、作監・鈴木さんが夏服 の修正を乗せて再動画している。歩くモブに限らず、「妄想代理人」ではBGなども「東京ゴッド〜」から使い回しているケースがあるが、すべて「除雪」の手 間がかかっている。
 この街角の断片的なスケッチを積み重ねたオープニングシーンは、テキストでいえば、いわば「まえがき」とか「はじめに」にあたる。つまり「これからお話 しするのはこういう内容ですよ」といった意味合い。振り返って考えると、私の監督作品はすべてそういうオープニングになっていると思う。
「パーフェクトブルー」の「戦隊物のショー」はつまり「人間がかぶっている色々なマスクについてのお話です」というつもりだった。(不勉強なことについ最 近まで知らなかったのだが、英語の「パーソン」の語源はラテン語の「ペルソナ」にあるらしい。確かに「person」という綴りを見れば分かる。元々この 言葉は【「役者のかぶる仮面」→「役者の演じる人物」の意(研究社新英和中辞典より)】ということだそうだ)。
「千年女優」のオープニングは「思い出はまるで色々な映画の断片のようですね」ということであった。「東京ゴッドファーザーズ」は「人形」のアップから始 まる「聖誕劇」だが、これも「本物の子供ではなくても、心を込めて本物と思うことによって生まれてくる奇跡の物語ですよ」といったイメージである。
「妄想代理人」のこのシーンも「人間には陰も陽も両面があってその隙間から言い訳がたくさん聞こえてきますね」というようなことになろうか。

 言い訳が重なり合いノイズとなって高まり、そこに老人が黙々と数式を書く音が聞こえてくる。作品全体において非常に重要な位置を占めていたこの老人だがキャラクタースケッチによると次の通り。

 この老人はボケ老人でその言動に理性的な意味はありません。ただ惚けているだけに「あちら側」からの通信が頻繁で、まるで何か本作における「真相」あるいは「深層」を見通しているかのような存在です。見かけは本当にただのボケ老人です。

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 老人の書いている数式に無論意味などあるわけもなく、単に数式の答えがたまたま月子の病室や部屋番号と符合しているだけ。だけなのか、老人なりの回路によって得られた意味のあるものなのかは私も分からない。
 ちなみに老人の書いている数式の素材を書いたのは私。私の字である。意味のないもの、脈絡のないものを書くのは意外と難しい。なのでパソコン上で画像データをテキストとして開いて、文字化けをわざと作って変な漢字を参考にしている。
 この老人のイメージには何かの本で読んだアイヌのエピソードが反映している。確か河合隼雄先生の著書だったろうか。アイヌの間では惚けた老人が訳の分か らない言葉を口にする様に対して、周囲の者たちは「ああ、神様の世界に近づいたから神様の言葉を喋り始めたのだな」といった弾力的対応をすることがあっ た、と紹介されていたと思う。なのでこの老人が話し、考えていることも科学的には惚けであろうが、もしかしたら神様の言葉かもしれないと解釈することにし た。

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 サブタイトル「少年バット参上!」はブロック塀に書かれた落書きとして出しているが、これはもう「東京ゴッドファーザーズ」のオープニングで味を占めた手法。シナリオ段階から全話数、劇中内に登場する何かでサブタイトルを出そうという計画であった。
 ちなみにこの「少年バット参上!」の文字も私が撮出し時にPC上で描いたもの。
 月子の乗ったミニバスの前をローラーブレードの少年が3人ほど横切るのは無論少年バットを暗示させるため。誰に暗示させたかったかといえば視聴者ではな く、月子に。出社するのが気重の月子は、このローラーブレードの音で「少年バット」を呼び覚ました、というイメージ。
「そんなことが視聴者に分かるわけがない」と仰る向きがあろうが、その通りだ。別に私だって分からせようとしているわけではない。だが、こうした積み重ねが視聴者の無意識に伝わらないとは考えない。
 それにこのケースでは、ここで初登場する「ゴオォォ……」というローラーブレードの滑走音を紹介するきっかけとしてこの子どもたちは重要な存在。この音 が心理的効果をともなってこの話数で何度となく繰り返される。1話の通奏低音とでもいうような非常に重要な音である。キャラクターとしての「音」といえ る。キャラクターが最初に登場する場面では、紹介も丁寧になされるものだ。

メタへの扉

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 シーン変わって月子が勤める「M&F」社内。眠そうな目をしたマロミの大写しから月子のいるブースを紹介してキョトンとした月子のアップ。マロ ミと月子も真正面から捉えているのは、実はどちらも似たもの、というより同じものであるというイメージ。完成品では音量が小さいと聞こえにくいが、平沢さ んの「Gemini 2」(アルバム「SOLAR RAY」収録)が社内に流れるBGMとして使われている。ダビング時、ここに「Gemini 2」が使われていて私は驚いた。音響監督がその意味を分かった上で使用したわけではなく、シンクロと思われる。ジェミニとは勿論「双子座」のことで、ラテ ン語では「双子」だそうである。
 月子のブースに貼られているスケッチや月子がモニタ上で描いている絵は私が描いたものである。「かわいい」と形容される絵は私には描けないので大変苦労した。苦痛だったといってもいい(笑)。その手が得意な描き手を頼むべきだったと深く後悔した。
 私はこのシーンを初めとして、月子が月子らしい形で出てくるシーンを描くのは実に楽しかった。先に引用した月子のスケッチの中で、次のように書いている。

 その「よく分からない感じ」の表現として、表情などは控えめにして、なおかつ表情の変化といったプロセスをなるべく描かない方が良いかと思います。カットが変わると「すでに変化していた」という捉え方が基本かと思います。

 M&F社内の月子の描写はこの方法で描いてみた。
 モニタに向かっている月子の表情は変化するプロセスを描かず、内心のイライラをデリートキーを叩く芝居と、絵を描いて消すスピードが速まっていくという 間で表し、次にカメラが月子を捉えると表情は「すでに変化していた」という具合。月子のキャラクター紹介の場面としては悪くない演出だったと思うが、どう か。どうかって聞かれたあなたも困るだろうが。
 上司の鳩村の登場で、月子には次回作のプレッシャーがかかっており、同僚にはとげのある視線を向けられ、彼女の置かれた状況を紹介する。こうしたことに 対しても月子のリアクションは特に描かず、その「いやだなぁ…」と思っている内面は「つぶれたマロミ」で表したつもり。グッタリしたマロミとoffで聞こ える鳩村の「マロミを越える大ヒット間違いなしですよ!ははははは」というセリフで対比を強めたつもりだが、いかがか。いかが、って聞かれても困るでしょ うが。
 お気づきになった方も多かろうが、鳩村は「ゲイ」のつもりである。身のこなしなどもう少し凝った方が良かったかもしれないが、「記号的」なポーズと芝居に頼っている。
 月子の気重な気分を、続く「満月が雲に覆われて行く」というベタなカットでさらに強調。当たり前の話で恐縮だが、「妄想代理人」で月子に絡んで月が描かれる場合、それは月子の内面の象徴のつもりである。
 もう少し上手にモチーフとしての「月」を使えたと少し後悔もするのだが、1、12、13話で登場する月、その満ち欠けで少しはイメージを表現出来たとは 思う。1話の月は満月。12話では確か2カットほど月が登場すると思うが、陰の部分が増えている。そして13話、海面に浮かび上がった月子が見るのはちょ うど半月。月の陰陽のバランスはそのまま月子内部における少年バットとマロミの比率である。
 1話では満月(マロミでいっぱい)を雲が覆うことで、少年バットを求め始めている月子の無意識を表したつもりだが、どうか。だから一々尋ねなくてよろしいっちゅうの。

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 夜道を歩いていた月子は物音に驚く。見るとホームレスの、異様に背の低い婆さんがゴミ袋を漁っている。この婆さんは私が通勤途中に見かけた、やはりものすごく背の低い老婆にヒントを得ている。
 画面上では謎の老婆の物音に気付くのは月子ではなく、月子のバッグから顔を出しているマロミ。「物音に気付いてマロミが驚いた」ようにしたつもりであ る。この段階ではまだマロミは「ただの」ぬいぐるみだが、視聴者に「マロミが動いた感じがした」という、ちょっとした「引っかかり」を与えたかった。後に マロミが動き出すことの伏線である。
 謎の婆さん登場で月子は気重に加えて不安感が広がって走り出す。

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 何かっちゃあ、女キャラが走るのが私の監督作の特徴らしい。1話作監・鈴木美千代さんに笑われた。
「走りフェチとか言われるんじゃないですか」
 私の監督作においてはキャラが空を飛んだりメカに乗ったりしないので、せいぜい走るくらいしかさせられないだけである。半分冗談だ。
 走ることには色々な効果がある。ここでは月子の「息」が何より重要。
 月子は走った上に転んでしまい、息が上がる。「…はぁ…はぁ…」という息づかいが当然繰り返される。この(;´Д`) ハァハァ……じゃなくて「…はぁ…はぁ……はぁ…はぁ…」という音の繰り返しがメタの世界へと誘う導入路になる。
 メタの世界、あるいはその人物の主観的な世界、幻想といったことであるが、映像の流れにおいて現実世界からいきなりこうした世界を繋いでしまうと、さす がに不親切なので「入りますよ」というお断りが必要になる。オーソドックスな映像の考え方だ。回想に入るのにも同じような導入部があるのはご存じの通りで あろう。
 さもさも思い出しているような顔のアップからオーバーラップして回想シーンに入ったりするではないか。ご丁寧に「そういえばあの時……」なんてセリフまで入れたりして。
 アニメ界では一時期「目玉のアップ」になってメタや回想に入るのが流行していたように記憶しているが、こういう手法は一遍見たら決して真似しない方が賢く見えると思うのだが。
 こうしたメタ・回想への大切な導入部もあまりにご丁寧にやると、凡庸のそしりを免れないので、それとお断りしつつもあまり観客が意識しない方法を取る方が上等だ思う。近頃じゃあお断りも無しに唐突に繋いで事後的に回想だった、と描いたりする場合もあろう。
 このあたりのさじ加減は観客をどう設定しているかにもかかってくる。高齢者を対象にしたたとえば「水戸黄門」などにおいては回想に入る際には「いいです か?これから回想ですよ。入りますよ、いいですね」とくどいほどにお断りしなければ、観客は付いてこられないことになる。あまりにスピーディに、あるいは それとなくメタや回想に繋いだりすると、高齢者においてはこんな悲劇が生まれる。
「あれ?この人さっき死んだ人じゃなかったかい?」
 気の毒だ。しかし映像に慣れ親しんだ者には、あまりにくどいお断りは退屈でくどく感じられ、次のような悲劇を生みかねない。
「もういいや」