妄想の四「少年バント参上!」
-番外-
掲示板より

「私はこう思う」

まさひろさんと椿さんから旬の話題が提示されたので少しだけ考えてみました。

>「妄想代理人の少年バットに憧れて、金属バットで人を殴りました」とかいう小学生が出てきたらどう思いますか?ということを聞いてみたかったのです。

実際にもしそんな事件が起こったら、私は「妄想代理人」を作ったことを後悔したり反省したりすることはないでしょうが、ひどく嫌な気分になるのは間違いありません。
被害者が気の毒だと思うし、加害者は頭が悪いと思うしその親はもっと頭が悪いと怒るかもしれない。同時に「作品の宣伝になる」とも思うでしょうね。
「作品の宣伝になる」と思うことが不謹慎だとは思いません。
「宣伝になって良かった」という態度は不謹慎だと思いますが、その事件の影響の一つとして「作品の宣伝になる」という可能性を認識するのは当たり前のことでしょう。
それにもしそれで作品が売れたら、作品が売れたこと自体は内心喜ぶと思います。
もっともらしく粉飾すれば「素直に喜べないけどね」という言葉になりましょうか。
よく聞かれるいい方ですが、裏を返せば「素直じゃないけれど喜んではいる」ことに間違いはない。
それを表に出すかどうかが常識や見識、教養を問われるところだと思います。

長崎の小学生殺害事件についても、似たようなことを考えましたね。
この痛ましい事件について、識者などがもっともらしい言葉を並べているのを目にしました。
「バーチャルな世界と現実を子供たちにどう対応させていくのか……」
「命の大切さを子どもたちに教えて行くことが……」
どれも正論なんでしょうが、私はつい笑ってしまいました。
「妄想代理人」1話に登場させたコメンテータそっくりだったせいもあるんですが(笑)
私はどうも肝心な認識が抜け落ちているように思えるのです。
その一つがこういうようなこと。
「子供はすぐに人を殺したくなるものだ」
正しい認識の一つとしてもっともっと考慮されて良いことだと思うのですが、世間ではどうも言ってはいけないことになっているのか、寡聞にして聞いたことがない。
子供は嫌いな相手をすぐに「殺してやりたい」と思うし、奴隷のように相手をひれ伏させたいと思うものじゃないでしょうかね。私はそんなもんでした。
そんなことを思わない子供も大勢いるかのもしれませんが、そう思う子供だって多いでしょう。
こういう大事な前提が抜け落ちていると得てして次のような言葉だけを子供に押しつけることになる。
「殺したいなんて恐ろしいことを思ってはいけません」
そりゃ無茶な相談というものでしょう。
思ってはいけないことだと教えられたところで、自然に湧いてくる感情が消えて無くなるわけではない。
教えるべき肝心なことは「思うこと」と「実行に移すこと」の間に横たわる天地の開きほどの「溝」だと思います。
しかし「子供はすぐに人を殺したくなるものだ」という前提がないと、「殺したい」と思ってしまったときにどう対処するかを教えられる筈もない。
対処を学んでいなければ行為に直結しやすくなるのも無理はない。
鋭い感情や激しい感情が湧いて、それを具体的な行動に移す間で歯止めが利かなくなってしまう原因にはこうした背景も大きく影響していると思います。

>映画やアニメなどの「表現」は、多少の影響は与えても本質的な動機には為り得ない、と私は思うので、「気にしない」というのが正解でしょうか?

気にしないということはありませんが、気にしたところで仕方がないとは思いますね。
映画やアニメやマンガやゲームに手本がなければ現実に起きる事件を模倣するだけでしょう。アメリカ兵の真似をして、よってたかって相手を裸にして狼藉の限りを尽くすかもしれない。模倣の元なんていくらだってあるんじゃないでしょうかね。
カッターナイフが無ければ鉛筆で刺すでしょうし、針金で首を絞めるかもしれないし、凶器になるものがなければ相手を窓や階段から突き落とすことだって出来る。
やりたくなったらどうやったってやるでしょう。
方法なんてたいした問題じゃないし、本質的な動機は幼児性にあるのは先に書いたとおりです。

特に子供が被害者や加害者の事件の場合、「あってはならないこと」「繰り返されてはならないこと」といった正論が繰り返されます。無論、再発を防ぐために検討は重ねられるべきでしょうし、それに則した教育も強化される方が良い。
しかし、正論や理念などはまるで役に立つことなく痛ましい事件は繰り返されるものです。どうやったって必ず起きる。
そういう事件や事故はある。先の「殺してやりたい」という感情だって必ず生まれてくる。
あるものはあるものとして認識した上で、そうしたことが起きたときにどう対処するのかといった教育も同時になされないと意味がないと思うんですけどね。
その前提としてもっとも欠けているのが次のようなことだと思うのです。
「世の中には理不尽と不公平と矛盾が溢れている」
これを多くの大人がもっともらしい理念で隠蔽していることが一番良くないと私は思います。
「理不尽や不公平はあってはならない」という理念は無論理解できますが、「理不尽や不公平や矛盾はない」という前提で教育するのは非常にまずいと思います。
だって子どもたちの目の前には子どもたちなりの「理不尽と不公平と矛盾が溢れた」現実があるわけですから。
分かりやすい例は差別でしょう。「(人種、男女、宗教、職業といった区別による)差別があってはならない」という正論は誰もが否定しないでしょうが、だからといって世の中に差別がないわけじゃない。
大人たちは「ない」と言ってるのに、現実には「ある」。そして大人たちは「ない」を前提にしている以上、「ある」場合の対処を何も言わないし言えない。そりゃあ大人だってそんなことを教えるのは面倒くさいですからね。

多くの理不尽や不公平などを教えてくれたはずの童話や神話は、無惨なまでに改竄されて、多くの叡知が失われすっかり無口になってしまっている。それも教育 者や識者とやらが「教育的配慮」「民主的」といった「子供のためを思う正義」を掲げてボロボロにしたんです。
大人たちから何も聞けない以上、子どもたちが身の回りにある映画やアニメやマンガやゲームから「理不尽と不公平と矛盾が溢れた」現実への対処法を学んだとしても仕方ないことだと私は思ってしまいます。それが良いか悪いかはまた別の話です。
親にしろ教育機関にしろ自分たちの怠慢と欠陥を棚上げにして、簡単に映画やアニメやマンガやゲームのせいにするのは筋違いも甚だしい。面倒くさいことは「バーチャル」に押し込んでおけ、というか押し込んでおきたいという態度が目に見えます。

私個人の立場としては、今後は作品を通して子どもたちにもっともっと「世の中には理不尽と不公平と矛盾が溢れている」ことを伝えたいと思いますが、それ以 前にその子どもたちの頭の上で頑強に蓋をしている大人たちにまずそのことを伝えたいと思いますね。しかし近頃流行りの「バカの壁」は厚そうですけどね (笑)

>送り手側も受け手の人間を選べないということで、怖いなと思うことはあるのでしょうか?

「親と観客は選べない」といったのは私です。なので覚悟は出来ています(笑)

>例えば観ている人間全てが現実とTVの中の出来事の区別が出来ているとも限りませんし、良い方向へ影響を与えられれば喜びになりますが、反対を考えるとなんか怖いですね。

私は最近「現実とバーチャル」という対立のさせ方がかなりおかしいのではないかと思っています。「現実」にはバーチャルが「込み」でしょう。
なので区別するといっても無理があるように思えますね。まぁ、程度問題なんでしょうが。
いい年こいた大人がキャバクラという「バーチャル空間」と現実を混同してキャバクラ嬢に本気になって入れあげるなんてケースなら区別も容易だと思います が、出来てない人も大勢いるんですからね(笑)。入れあげて貢ぐために会社の金を着服するとかいった事件はよくあると思うのですが、こちらは「現実とバー チャル」の問題にはされないみたいです。
長崎の事件についてインターネットでの出来事を「バーチャル」とくくっていた意見を紹介しましたが、しかしインターネット上での付き合いがこれほど日常化しているのに「バーチャル」も何も無いと思うんですけどね。
そうしたものを込みで現実を捉えないと、「バーチャル」さえ切り離せばことは解決するという至って子供じみた考えにしかならないですよね。
「バーチャル」(便宜上ここではテレビ、映画、アニメ、ゲーム、マンガ、ネット等々を含みますが)は現実を映すものではありますが、しかしすでに識者が言う「現実」とやらが「バーチャル」の影響を大きく受けて成り立っているわけです。
たとえばテレビでお馴染みの恋愛ドラマは元々は現実の恋愛からエッセンスを取り出して構築されていたかもしれませんが、いまではすっかり恋愛ドラマみたい な恋愛こそが恋愛であると思わされている人も多いでしょう。世の中の一番の関心事が恋愛であるがごとき世の中になっているのは、典型的な例じゃないかと思 います。
もうすでにどっちがどっちを映しているんだか分からないというのに(笑)、それを明確に区別しようって態度がすでに履き違えていると思うんですよね。

「良い方向へ影響を与えられれば喜びになりますが、反対を考えるとなんか怖い」という点も、確かに私もそう思います。しかし良い影響なんて表に出てこないんです。特筆すべき悪い影響だけが世に伝えられると言ってもいいでしょう。
アニメを見たから犯罪を思いとどまった、なんて話が表に出てくるわけがない(笑)
事件になったときだけ表面化するのですから、悪くしか言われようがないのかもしれません。
それに第一、何が良い影響で悪い影響か、見方次第で変わるわけでしょう。そりゃあ犯罪の場合ははっきりとした悪い影響とは言えるでしょうけれど。
私の監督作品を見て感激した方が、もし思い立ってアニメの道に進んだとして、それが良いか悪いか分かったもんじゃありません(笑)
本人はそれで良かったと思えても、親はそう思わないかもしれない。
二親とも反対したら1対2でアニメのせいにされるし、後に本人もアニメ界でさっぱりうだつが上がらなかったら0対3でボロ負けですわ(笑)
というようなことを考えると作品が与えるすべての影響なんて、私には想像もつかないですし、ましてやそうしたすべてに責任を感じるなんてあり得ない。そこに責任を持つなんてむしろそれは不遜で傲慢な態度だと思います。
なので、私としては私の倫理観、常識、教養、節度などに照らし合わせながら作品を作っていくしかないと思っています。
そして見る方には自己責任を持って見てもらわなければいけません。

>だからと言って、過剰な規制で表現の自由が侵害されてもいけないと思いますが

まったくその通りですね。規制を呼び込まないように作り手として節度を堅持したいと思います。
やや関係のない話。
「妄想代理人」の企画の当初から「模倣犯」を出して、それが本物の少年バットに無惨に殺される、というアイディアは考えていました。もしかしたらこれは作品による悪影響を懸念しての配慮だったかもしれません。
つまり、「少年バット」の影響すらも作品内に閉じこめてしまおう、という作戦(笑)
もちろん「単に面白い」と思った側面の方が大きいんですけどね。

思いついたことをあれこれと書いてみましたが、微妙な問題ですし言葉足らずな部分や無知や誤解も多いとは思います。今後も作品を作りつつ考えてみたいと思います。