妄想の五「唇からトンカチがパラパパッパパー」

 
  Hなリップ

 各話の雑感を少々書いてみる。
 まず、「晴美とまりあ」という二重人格の女を主人公にした3話「ダブルリップ」。 このサブタイトルは私が考えたのではなかったろうか。3話の内容を表すいいタイトルだと思う。造語のつもりだったのだが、ネットで検索したらクラリネット を奏する際に用いられる「ダブル・リップ・アンブシュア」(アンブシュアは口の形ということらしい)という用語が出てきた。
 う〜む、意味深。
 ホテトルも確かにその口で上手に……以下自粛。
 私のイメージでは無論「晴美とまりあ」という二人の人格を差して「ダブル」という言葉を思いついたのだが、同時に上の口と下の……以下自粛。
 このタイトルを決めるに当たっては、電話ボックスなどにひしめいているその手の風俗広告チラシを集めてきて、なるべくそれらしくしようと智恵を捻った記憶がある。
「う〜ん……どのホテトルがいいかな」
 いや、そういう悩みじゃない。まじめな打ち合わせの席上でピンクチラシを広げて頭を悩める姿は少々歪に見えたかもしれない。
 内容的には3話は「パーフェクトブルー」……へのオマージュか。自分の過去作品にオマージュというのもどうかと思うが、私の監督作品を見てきてくれた人にだけ分かるサインのつもりでもある。
 元々この話数のアイディアは二重人格ということよりホテトルをキーワードにして始めたように記憶している。そこに「東電OL事件」のイメージが重なって きたのではなかったろうか。なので「東電OL殺人事件」(佐野眞一・著)を読んでみたりもした。参考になることはあまり見当たらなかったと思うが、ただ、 普段の生活とはまったく異なる生活を持つ人が世の中には実際にいるのだな、という実感は強く持った。うっかり「普段の生活」と書いてしまったが、当人に とってはどちらも含めて「普段の生活」ということであろう。会社勤めが普段で売春行為が普段じゃない、というのは他人が勝手に引いた区別でしかなかろう し、見方によっては売春婦が普段の顔とも言える。そこに「どっちが本当の自分か」といった安手の問いは立てられないように思える。両方が込みでその当人で あろうし、だいたい「本当の私」なんてものはどこにもない。
 シナリオは二重生活を送る女の独り言を留守番電話と携帯電話を使って対話の形式にまとめようとした。モノローグというか「語り」が多いので、シナリオの ように文字で読んだ方が頭に入りやすい内容だと思う。絵にするのが難しい内容ではないと思うが、語られる内容と絵のハーモニーや対立や皮肉を生み出すのが 少々難しいシナリオだったかもしれない。
 シナリオから絵コンテにされる段階で大きく変更された点が一つ。元のシナリオには「精神科医」の登場はない。コンテ担当の高橋さんが色々と多重人格に関 して調べたとのことで、「晴美自身がもっと積極的に治したいと思うのではないか」また「尺的に元のシナリオの分量だと足りないように思える」という事情な どもあってコンテ時に精神科医のシーンを追加している。
 同じシナリオでもコンテの描き手によって、使うカット数や尺はかなり異なる。強調するシーンやあっさりと済ますシーンが各人によって変わるのは、シナリ オをどう解釈するかの問題で、そこに大きくコンテマンの個性が出ると言える。またコンテマンの生理的リズムというのもあって、こちらの方も大きく個性が反 映しやすい。「間」をたくさん取る人間もいれば詰め込み気味にしたがる描き手もいる。
 コンテや演出は担当する人間のいわば「語り口」や「口調」みたいなものである。個性にあたるものなので「これが正解」というものは無いが、話の上手な人 や下手な人がいるように、「語り口」「口調」にも技術はある。情報伝達で最低限必要な、いわゆる「5W1H」、「Who(誰が)」「What(何を)」 「When(いつ)」「Where(どこで)」「Why(なぜ)」「How(どうやって)」などはコンテだ演出だという以前の初歩的な技術であろう。コン テ演出といった職業的なポジションにおいては、その物語が語ろうとしていることのために、最低限提示しておかなくてはならない情報を把握して、手際よく、 かつさりげなく折り込むことが必要とされる。とはいえ、易しい技術ではないし、、技術や才能も重要だろうが経験と訓練が必要と思われる。また語り口や口調 は聞く側見る側の生理にもかかわる問題なので、良し悪しを判断するのは実に難しい。
 3話において本当に「尺的に元のシナリオの分量だと足りない」かどうか、私もよく分からない。自分でコンテを描けばまた違ったであろうが、私はコンテ担 当者のリズムや解釈を尊重して「精神科医の登場」に納得したのだが、後で考えたらやはり上手くなかったかもしれない。
 実は「本人(晴美)だって違う自分(まりあ)を望んでいる面がある」ということが大事だったのではないか。それを「精神科医」というそれらしい権威を登 場させ「多重人格」と明言してしまうことで、「障害」として描写したことになったのは、やはり作品として本意ではなかったように思える。早い話が「悪いの は病気のせい」にしてしまっては身も蓋もなかったかな、ということ。晴美はあくまで「多重人格的」であって、実は「望んで二重生活を送っている」という解 釈でなければ、少年バットによる救済も成り立たなかったように思える。本当の病気の人をぶん殴るんじゃあんまりだもの。コンテの読みが浅かった私のエラー だと思う。
 本篇中「私は誰?本当の私は?」などと繰り返される青臭い問いは、さきほど記したように勿論制作者にとっては本気ではない。我々もそこまで若くないしコ マーシャリズムに踊らされてはいない。いまだにそれが大まじめに通用しているらしき若い娘(若い男もだが)をむしろバカにしようとした態度の現れであろ う。本当の私を探したい方はラッキョウの皮でも剥いてみてください。そういうことです、きっと。

 3話のキャラクターイメージがテキストで残っていたので引用しておく。私が書いたものだ。

●まりあ
 蝶野晴美(25)の中のもう一人の人格。シナリオ上、晴美を白、まりあを黒というイメージで表現されていますが、必ずしも清楚な美女と、淫乱な悪女とい う対立でなくても良いかと思います。むしろそうした単純な二項対立になっていない方が良いです。まりあは性に対して奔放で、セックスを楽しんでいるという イメージでしょうか。
 多くの男性諸氏が望む「こんな都合のいい女がいてくれたらな」というイメージを体現しているというか(笑)。晴美とはまったく違うタイプながら、同じくらいのイメージ量を持った外見が欲しいです。
 打ち合わせでもお伝えしたとおり、髪型はかつらなどを使用しているという前提でかまいません。
 具体的なイメージがなかなか無いのですが、イザベル・アジャーニとかニコール・キッドマンみたいな感じでしょうか。成熟した悪魔的美女というよりは、コケティッシュでちょっと足りない感じ(笑)がある方がいいかと思われます。
 余計分かりにくいかな(笑)

 私の女優さんに対するイメージは変なんだろうか。聞くところによるとニコール・キッドマンって理知的な役が多いということだが、あの顔が頭良さそうに見えるのか? 私には疑問だ。

●秋彦
 哲学の世界に没頭して、世情に疎い学者タイプ。常日頃、形而上のことを考えていながら自分の好きな女(晴美)の内面はまったく分かっていない、という皮 肉な構図になります。私がシナリオからすぐに連想したのは佐野史郎みたいな外見でしょうか。ありきたりな感じもしますが、出番が多いわけではないので、あ る意味記号に負う方が無難に思われます。あまり「うらなり」みたいになってしまうのもどうかと思いますので、学者風で少しこざっぱりしてるくらいであれば 問題はないです。

●蛭川
 48歳の制服警官(※実際にはもっと年上の設定になったと思う)。仕事上ではまるで出世していないと考えて良いでしょうね。打ち合わせでも出ましたが、 プロ野球解説の江夏豊みたいな外見をイメージしました。ほとんど「ヤクザ」みたいですが、ヤクザ的な人種はある意味非常に家族とか仲間を大事にする人たち ですから、蛭川のイメージに外れてないと思います。
 猪狩が仕事に求道的なのに対して、蛭川の場合は実生活における形而下の楽しみ、金銭とか女といった実利をひたすら求めている。それはもちろん個人の欲望 のためでもあるけれど、外で悪事を重ねても自分の家族の幸せは何より大事に思っている、というある種、金の亡者に成り下がった日本人の典型といえるかもし れません。
 田舎の成金おやじみたいなイメージでもいいかもしれません。知性や教養は低いですね。ただ何か強運も持っている。
 猪狩に対して仕事上、コンプレックスを感じてはいるのだけれど不器用な生き方をバカにしてもいる。
 猪狩と蛭川の関係でいいますと、猪狩はそれまで積み上げてきた仕事の在り方が「少年バット事件」で通用しなくなってしまったことを改めて認識しているよ うな感じです。時代に追いつけなくなっている、と。なので、「少年バット」を捕まえることができれば今後もやっていけるかもしれない、というような思い詰 め方です。
 一方、そんなことなんかまったくお構いなく、世を享楽的に渡っている蛭川がその少年バット(実は模倣犯ですが)を捕まえてしまう、という皮肉な構図を考えています。

歌えよトンカチ男道

 蛭川は4話「男道」の主人公になる。警官がささやかなマイホームのためにささやかな悪事を重ねる話だ。
「男道」、実にストレートで男らしいタイトルだが、なんだか男色もイメージされる。昔、確かビートたけし氏が言っていたと思う。
「最も男らしい男とは、オカマである。だって男じゃなきゃなれないんだから」
 私はそういう物の考え方が好きである。別に4話には関係ない。
 4話で目立つのはやはり作監・三原三千雄氏の仕事ぶりであろう。
 4話はもっとも早く制作に取りかかった話数で、13話中でもっとも制作期間もかかっている。が、原画担当はたった二人。それも作監の三原氏が大半を一人 で原画を担当している。時間をかけられた話数とはいえ大変な腕力である。レイアウトにしろ原画にしろ三原氏の画力が遺憾なく発揮され、コンテ・演出の高橋 氏も堅実で、まとまりよく出来の良い回になっていると思う。私は4話はたいへん面白くなったと思う。

 先にも引用したように主人公・蛭川は元々は見たまま「ヤクザ」的な風貌を想定していたが、猪狩とイメージが近寄ってしまうことや悪事に奔走する滑稽さを 出そうということで、キャラクターデザインのイメージをダニー・デビートとか荒井注といった方向にシフトした。安藤氏のキャラデザインも秀逸だが、作監・ 三原氏によって蛭川はより蛭川らしく描写されたと思える。安藤氏も4話を非常に気に入っているとのことで、おそらくは自分がデザインした蛭川が三原氏なり の解釈でより活き活きと描かれたのが面白かったのではないか。
 何しろ蛭川は三原氏の風貌とダブって見えてくる。顔の造作がよく似ている、というわけではないし、無論三原氏は悪徳原画マンでもないのでイメージが似て いるということでもないのだが、何というか面差しが似ているというか。描いている絵が本人に似てくるのはよくあることだ。表情変化の際、顔の筋肉がどう動 くのかとか皺はどう生まれるか、といったことは描き手が自分の顔を参考にすることが多い。実際、机の上には鏡を置いているアニメーターは多いし、私もそう だ。ちょっとしたポーズなども確認のために鏡で見てみることも少なくない。なので真面目に観察しながら作画すればするほど、どこか描き手本人のイメージが 色濃くなってくる。通常ならキャラクターのイメージが偏った場合、作監がそれを修正したりするので偏りは多少是正されるが、4話の場合、原画も作監も三原 氏なので本人の味が非常に濃く出たのであろう。
「妄想代理人」制作中に、私は多くの取材を受けたのだが、その一つ「Time/アジア版」の記者が取材に来た折のこと。「妄想」の制作現場も見学したいと いうことで、制作中の4話の現場を見に行ったらしい。その記者は三原氏と描かれていた蛭川を交互に指さして言ったそうな。
「You? You?」
 外国の人にもそう見えるくらいやはりよく似ているのだろうが、「失礼ですよね」とは三原氏の弁。しかし、私もよく似ていると思う。
 私は三原氏の絵が非常に好ましいと思うし、関わったスタッフの持ち味がいい形で出た幸せな話数だと思っている。

 4話でテーマになった音は金槌の音。蛭川が小さい悪を重ねて稼いだ金で建てているささやかなマイホーム。その建設を表す音であると同時に悪事に奔走する 蛭川を乗せて行く、この話数の基調音になっている。建設が進むにつれて悪事も重なって行く、というあたりが捻れがあって面白いと思うし、実に小市民的で笑 えると思う。
 私としては現実音としての金槌の音が、徐々にリズムを形成してBGMに変わって行く、というアイディアを是非やってみたかった。実は遙か以前にコンテ・ 演出した「ジョジョの奇妙な冒険/花京院、結界の死闘」で元々やろうとしていたアイディアで、この時はバイクのエンジン音が徐々にリズムになってBGMを 導入する、という予定だった。コンテにもそう書いていたのだが、監督が理解できなかったのか音楽担当の白人が理解できなかったのか、あるいはする気がな かったのか、ともかく実現されなかった。当時は別に惜しくもないアイディアだと思っていたが、「妄想」の各話に音のテーマを決めようと思いついたときに再 びやってみようという欲求が浮上した。
 もう一つ上手くはまらなかった気もするが、だいたいシナリオで金槌となっているものを釘打ち機にしたのが失敗だったかもしれない。
 私がこの話数で最も気に入っているのは真壁が蛭川に迫ってこの台詞を吐くところ。真壁の顔も芝居も良いと思う。シナリオから引用させてもらう。

 真壁「自分の幸せってのはねえ、蛭川さん」
と、煙草に火をつけ、
 真壁「他人の不幸のうえに成り立ってるんですよ。奥さんや娘さ
んのためにも、誰かを不幸にしなきゃ…ねえ」

 真壁は「小市民」の現実をよく知っている。そしてこのことに気付いている「小市民」は極めて少ないと思う。たとえば日本の幸せのためにどこかよその国で 誰かが不幸に陥る構図はよく見かけられる。日本からの安い輸出品によって、仕事を奪われる労働者の映像などはニュースでお馴染みだろう。同様に、自分を含 む同じ構図がもっと身近にあるのは想像に難くない。
 それが良いとか悪いではなく「ただそういうもの」だと私は思う。「小市民的」幸福は「みんなが幸福」な状態では成り立たない。誰かが持っていないものを 自分が持つことにささやかな特権的幸福が立脚するのだから、自分の幸福の演出のためには周囲にそうでない人が必要とされる。この持てる者と持たざる者の関 係は「羨望」や「欲望」を推進力にして常に変動し、コマーシャリズムがその変動を促進するべく煽りたてる。いわばシーソーゲームみたいなものだと思うが、 ここから降りるのは容易ではない、というより不可能に近いのかもしれない。
 第一、羨望と欲望をバネに他人より良いモノを手に入れることは「正しい」と教育されてきている。競争社会とはそういうことだろうし、そこに取り込まれて しまった人間は、常に自分は満たされないという欠乏感によって駆動し続けることになる。嫌だなぁと思うが、世の中はそういうことになっていると思う。
 ただ、自分の不幸が他人の幸福になってしまったことが嘆かれることは多いと思うが(恋人を他の人に取られた、とか)、自分の幸福のために他人に不幸を押しつけていることはなかなか自覚しにくいものだと思う。
「自分の幸せってのは他人の不幸のうえに成り立ってる」という、このセリフが4話のテーマそのものだと思うのだが、当初コンテでは拾われていなかったのでコンテチェックで打ち合わせして修正してもらった。だって。私が考えたセリフなんだもん。

響けファンファーレ

 パラパパッパパー!というファンファーレは、少年バットの模倣犯・狐塚が異世界へと誘う第5話、「聖戦士」のテーマ音である。ゲームのレベルアップのSEを擬している。平沢さんに作っていただいた実際のファンファーレをなるべく正確に表記すると、「パッパッパッパラパー」といった感じか。平沢さんにお願いするには心苦しくもあった。
 5話本編内、異世界で呆れた猪狩が口にする。
「パラパパッパパーじゃねぇってんだ」
 BGMで聞こえている筈の音が猪狩にも聞こえているというのも妙な話だが、ある世界と別な世界のズレ、繋がる筈のない世界が繋がる様を楽しむ話数であるからこのくらいのことは当たり前。
 アフレコの際、猪狩役の飯塚さんがこのファンファーレを上手く再現できず何度か録り直したのが印象的。若い者にはあまり苦にならないのかもしれないが、 なかなか耳で聞いてすぐに覚えられないものなのであろう。しかし、語弊があって恐縮だが、不器用そうにファンファーレを再現してくれた飯塚さんのおかげ で、やる気をそがれた猪狩の疲れがよく表れたように思える。
 5話のシナリオは我が「妄想」班の可愛い設定制作、吉野智美。おばあちゃん子である。関係ないか。いや、そうでもない。年寄りの価値観も受け継いできて いるだけに、年の離れたスタッフ(プロデューサーの豊田君とか私など)と価値観を共有できる面が多いのだろう。中年スタッフから受けがよい若い子はたいへ ん貴重である。
 5話で吉野さんは脚本、設定制作、制作進行にクレジットされていることになる。二足の草鞋を履くという言葉があるが、変わった三足の草鞋である。私も 「彼女の想いで」で「脚本・美術設定・レイアウト」という妙なクレジットを頂戴したが、吉野さんの三足の草鞋にはかなわない。
 冒頭でも書いたが吉野智美、若干23歳が「妄想」でシナリオを担当するのは異例と思える。原作漫画付きのテレビアニメでは若い子がシナリオを書くことは 珍しくはないが、こういう場合は得てして原作漫画からの抜き書きがその主な仕事になるからであろう。それに比べると「妄想」はオリジナルでシナリオを組み 上げねばならない。セリフ一つト書き一つとっても自分で考えなければならないため、要求される能力は格段に高くなる。実際、決定稿が出るまでにはかなり時 間がかかったし、稿も重ねた。他の話数よりも少し多い5稿まで行っている。私も途中でラフな形で直しを書いたと思う。そのくらい難しい話数でもある。
 水上さんや私の手助けがあったとはいえ、吉野さんはよく書いたと思うし、この経験は大きなレベルアップに繋がったのではないかと思われる。
 ここで吉野智美さんのレベルアップを祝して、私がキーボードを叩こう。
 パラパパッパパー!
 吉野智美はシナリオデビューを手に入れた!

「5話は“千年女優”のパロディにしよう」
 といったのは私である。そりゃあ、他の人が思いついたところで「千年」の原作者にパロディを持ちかけるのは気が引けるであろう。
 パロディであることは、これまで私の監督作品を御覧いただいている方にはすぐお分かりいただけると思う。何しろパロディであることがすぐ分かるように 作ったのだ。とはいえ、へそ曲がりといわれる私が、ただいたずらにパロディにしたわけもない。5話は「千年」を裏返していると言っても良いと思うし、また そういう狙いでもあった。すなわち、ある意味「千年」で掲げたポジティブなテーマを台無しにするように作ってやろうと考えた。捻れは「妄想代理人」の世界 の中にとどまらない。だいたいが「東京ゴッド〜」の表面に見える「善人面」をぶち壊して、人の悪い面を前面に出そうとしたのが「妄想代理人」である。世間 的に言われる「ポジティブ」な面だけ取り上げられるとむずがゆくなってくる体質らしい。
 5話の基本的な構図はまず「千年」を踏襲している。語り手の主観的世界に聞き手が入り込むというパターン。聞き手は「千年」では中年男・立花と若者・井 田、「妄想代理人」ではやはり中年男・猪狩と若者・馬庭。語り手は千代子、狐塚と思い込みの強い人であるのは両者共通だが、こちらの方にはあまり捻れは込 めていない。
 裏返したのは、主導する聞き手。「千年」では千代子の話を、千代子をよく知っている立花が主導する形で井田を引っ張って行く。井田は千代子の話に置いて けぼりにされながらも、徐々に引き込まれ、最終的には千代子に感動するような流れにした。その流れの中で、断絶していた世代(中年と若者)の溝が少しだけ 埋まるというイメージも重ね合わせていた。これが先に記した「ポジティブなテーマ」といえる。これを「ネガティブ」にするのが5話における狙い。
 5話で主導する聞き手は馬庭にする、ということは中年だったものを若者の方に裏返すこと。語り手が子供になっているのだから、年がより近い若者・馬庭に なるという考えでもあるが、馬庭を、語られるゲーム世界に詳しい人という設定にすることで馬庭の幼児性も同時に重ね合わせている。
 結論を言ってしまえば、「千年」では話の進行に従って世代の溝が埋まるようにしていた構図を、裏返してより断絶が深まって行くとしたのが5話である。
 なぜ同じ作者がその作品でまるで裏腹なことを言うのか。それを矛盾しているというのは子供じみた考えであろう。矛盾したものを同時に抱え持つ、捻れを抱 えながら常にバランスを考えつつ生きるのが大人というものだと私は思う。この件に則していえばこんないい方もできる。
「世代間のギャップは深まるばかりの現状だが、その間にせめて架橋する努力はしたいものだ」
 というのが「千年」の態度で、
「世代間に架橋することで双方にとって有用な知恵やアイディアの交流が生まれて行くことを期待したいが、どうせ互いに理解なんか出来るわけもないし、理解しようという努力もしやしないのさ」
 というのが5話の態度である。私にはその両方の態度がある、というだけのことだろう。
 さて最初から関係を裏返してしまっては芸がないので「千年」よろしく中年男・猪狩が主導する形で話は進む。「千年」の立花、「妄想」の猪狩、どちらも声優は飯塚昭三さんというのが皮肉を際立たせると思う。
 狐塚に対する尋問は猪狩によって始められる。少年の取り調べに弁護士がいるはずだ云々といったことは作劇の都合でオミットした。
 猪狩はおそらく彼が今までそうであったような態度で取り調べに挑んだと思われるが、その態度は狐塚には通用しない。ここですでに中年と少年の大きな断絶 を込めている。ふざけているのか本気なのか、狐塚の現実と空想をごちゃ混ぜにした供述に猪狩は振り回され、いいように子供に愚弄される。
 たわけた空想を振り回しても良いとされてしまった世間、子供じみた価値観が支配的な現在とないがしろにされがちな中年世代の在り方を込めたつもりであ る。ここで子供に愚弄され嘲弄されたかっこうの猪狩だが、中年男をなめてはいけない。後の7話で猪狩は子供に対して本気になって怒る。7話の取り調べで、 凄みのある声と顔で猪狩に任せて狐塚に迫る猪狩はかっこいい。私はいいと思う。だが同時に私はこうも思う。
「オッサン、そんな単純なものの考え方じゃやっぱりダメなのよ。オッサンも現実に深く関わって生きるならもう少し謙虚に学習した方がいいよ。言うでしょ?生涯学習ってさ」
 さて価値観や方法論が通じないことにすっかり落ち込んでしまう猪狩に代わって、青年・馬庭が主導することになる。以後、馬庭は狐塚の証言に話を合わせ、 猪狩から見ればアホに見えるほど狐塚の空想世界に無理なく馴染んで行く。馬庭の幼児性が大きく手伝ってはいるが、それは半面程度に過ぎない。むしろ馬庭は ちゃんと知っているのである。ガキなんかろくなこと考えてるもんじゃないことを。
 それは多分馬庭が自身の子供時代を考えれば容易に想像が付くことだからだろう。猪狩はあまりに時代が違いすぎて自身の子供時代を想像したところでとても狐塚に近づけないと思われる。
 なので馬庭は上辺はともかく、本心の半分では大人の意識を保っているだろう。狐塚が傷ついて倒れたところでこんなシーンがある。

狐塚「くそぉ……セーブしてた場所からやり直しだ」
      立ちあがる馬庭。
馬庭「(恐ろしく冷めた口調で)お前にリプレイの機会はないよ」
      馬庭、異界への門へ入って行く


 この馬庭のセリフは私が考えたもので、こだわりもあった。青年・馬庭は幼児性も多分に持ち合わせているが、同時に社会的機能も持ち合わせてはいる。大人とはいえなかろうが、子供ではなく一応社会人である。
 それまで幼児性を前面に出していた馬庭が、その必要がなくなったと見るや社会的機能を復活させる、というイメージだった。こういう手のひらを返すような態度は、子供をつけあがらせないためにも大変いいと思う(笑)

 5話のシナリオで一カ所残念だったことが一つ。5話は4稿目を私が手伝っているのだが、この稿で描き足したアイディアに猪狩が歌を歌う箇所がある。完成 品で歌われる曲は「かごめかごめ」。実はこれシナリオでは「日本の国歌」であった。さすがに私もまずいかなと思ったのだが、やっぱりまずかった(笑)。 (笑)いごとじゃないのだが。
 私は国歌に関して政治的な意見は何もないし、このシーンにおいては「かつて権威があるとされたものが、色々なところでないがしろにされるようになってし まった」そんな世の中を嘆く猪狩の気持ちを表現したかったのだが、各方面から注文が付いたのでそこはあっさりと後退することにした。当然であろう。
 後退したのはいいのだがでは何と交代させるかであれこれと頭を悩めた。劇中内で既成曲を使うのは権利問題等でたいへん面倒なのである。そうした面倒につ いては「東京ゴッドファーザーズ」で痛いほど経験したばかりでもあった。「東京ゴッドファーザーズ」の場合は「きよしこの夜」「第九」「ろくでなし」と3 曲も既成曲を使っており、その使用権を獲得するために多くの手間と金銭をかけている。「きよしこの夜」は曲自体は版権フリーになっているとはいえ、日本語 詩については許諾が必要になったし、「第九」も曲は著作権フリーなので新録すれば問題ないとはいえ、新たにオーケストラで録音する余裕があるわけもなく、 既成の演奏からセレクトしたため原盤使用権を確保しなければならず、「ろくでなし」の使用許諾は海外にいるエージェントに交渉してもらわなければならな かった。こうした交渉事が必要なことくらい理解してはいたが、「東京ゴッドファーザーズ」の場合は国内だけでなく全世界に配給されることは最初から決まっ ていたことなので、その許諾権やインターネットでの使用権利など様々な問題があることを勉強させられた。己の無知を恥じることしきりであった。
 なので、「妄想代理人」においては使用に当たって何の許諾もない曲が望ましいという判断から、版権に抵触しない「童謡」から選ばざるを得ないことになり、結果、その歌詞も意味深な「かごめかごめ」にしてみた。
 確かに当初の意図からは変更になったこの曲だが、後に11話で猪狩が「記号の街」に最初に入って行ったシーンで、効果さんがBGMとして「かごめかご め」を使ってくれたおかげで、まるで意図したような別な流れが出来たのである。あたかも「かごめかごめ」を歌った猪狩は無意識にそうした童謡を歌ったかつ ての昔を求めていた、という感じがするではないか。私にはそう感じられた。皆さんもそう感じてくれたまえ。