第7話「Mhz」(メガヘルツ)とはまさに電波系アニメを象徴するに相応しいサブタイトル。「少年バット参上!」で幕を開けた事件が一応の決着を見る回であり、シナリオも完成品も私は大変気に入っている話数。コンテ・演出は「テクノライズ」監督などで知られる浜崎博嗣氏。
7話はコンテを読んだだけでその面白さと巧妙さが見て取れた。話を説明しようという態度ではなく、「感じ」を表現しよう様が大変好ましく、また画面作り
といいカット割りといい独特のムードを醸し出していた。いわばそうした映像の文体は私の好みとは随分違うものだし、ちょっとどうだろう?と感じるカットも
なくはないのだが、そうした些細なことより全体としての在り方が好ましく、非常に個性的である。私には真似の出来ない演出で大いに刺激された。6話と同様
に、この7話も通奏低音のようなある種の不安が必要なシナリオだと思うが、そうした感じも上手く表れていると思う。7話は異様なムードのある話数に仕上
がっている。
またコンテに読みとれた「巧妙さ」という点も私は非常に好ましく勉強にもなったのだが、それは「動かしても止めても持つように設計されている」ということ。時間的な制約の大きいテレビアニメにおいては大変重要な配慮のひとつだ。
作画の枚数をかけて画面を「持たせる」ことは容易であるし、アニメーションの魅力は動くことにあるといっても良い。しかし仕事として我々が携わっている
のは単なるアニメーションではなく「アニメーション作品」なのである。要するにアニメという手法を使った映像作品ということ。動かすことに魅力を求めるだ
けでなく、動かすことそれ自体を目的としたようなコンテや演出を私は嫌う。動かすことで持たせる、というコンテ演出は裏を返せば(時間的物理的事情で作業
軽減を計らねばならない事態においては)「動かさないと持たない」という危険性を抱える。無論、制作現場のキャパシティ等を考え合わせて、どのくらい動か
すのか止めるのかを随時判断して行くことが演出には求められる。それらはすべて作品の面白さのためにあると私は思う。
劇場作品であれテレビであれ、動かすことを目的の中心に求めたようなコンテに私は全く感心しない。というのも得てしてそうしたコンテ演出はこう言っているかのようなのだ。
「作品の面白さとはよく動くことである」
私は全く同意しない。先に挙げた原画原理主義者たちはたいがいこういうコンテ演出に傾きがちであるが、私はあくまでアニメーションで作品を作っているつ
もりなので、極端にいえば「全然動かなくたって作品が面白ければそれで良い」という態度である。作品から見ればコンテ演出も作画も美術背景も色彩設計も編
集も音響も面白さを作り出すための素材に過ぎない、というのが私の考えだ。念のため断っておくが、原画原理主義を否定する気はないし、よそ様でそうした態
度で作られるのは私には関係ないのでどうでも良いと思っている。むしろ眺める分には面白いとさえ思う。関わるのが嫌なだけである。
話が逸れたが、7話のコンテが優れているのは、現場の状況によってはより動かすことも可能だし止めてしまっても作品の面白さは維持出来る、ということ。
「作品の面白さ」ありきなのである。当たり前に見えることだが、他ではお目にかかったことはない。こうした制作現場への配慮までなされた上で独特のムード
まで演出してくれた浜崎氏に賞賛を送ると共に感謝したい。
7話のムードに欠かせないのが効果音であろう。7話の基調となる音はノイズ。馬庭の主観的な描写においてはノイジーな画面が多用されていたが、同様に効
果でもノイズが多用され、セリフなども歪みがかけられ目に耳にザラッとした手触りが演出されていると思う。お気づきになった方は少ないと思うが、この話数
では音楽はほとんど使用されていない。確か1ヶ所だけであったろうし、それも控えめに付けられていた筈。効果音のノイズそのものがBGMとしての役割を果
たしている。馬庭と猪狩が話す飯屋で聞こえる工事のノイズなどは浜崎氏のアイディアによるもので、うらぶれた感じを表すと同時に、猪狩の価値観が「壊れて
行く」というイメージも誘ってくれる。
絵の中にそうした音を発する物が映っているわけではないのに、その音を加えるのはムードを醸し出すための演出以外の何物でもない。私が意識していなかっ
ただけなのか単に不勉強なだけなのかもしれないが、映像的なことはよく語られることはあっても、絵と同じくらいに重要な音響、中でも効果音の演出について
あまり語られていないのではないだろうか。なのでこうしたことを意識している演出さんは非常に少ない。あらかじめ効果さんの方で付けてきてくれた音に対し
て「良い悪い」「大きく小さく」といったリクエストはあっても「無い音」を要求するような発想が欠けている気がする。音楽の使い方に関しても同様である。
絵を考えると同時に音のことまで考えている方はごくごく少なく、考えようとすらしない人がほとんどである。まぁ、それ以前にカット割りやレイアウトの意味
も分からない、自分の施した演出がどういう意味になるのかも分からない演出さんが大半だったりするのだから音がどうこういう以前なのかもしれないが。
さて7話について先にこう記した。
7話は「推理物」(ただし無論正統な論理的なものではなく非論理的な推理だが。非論理の推理というのは大きな矛盾だ)
各話のシナリオを考えるに当たって掲げたイメージである。()内に記した通り7話を「推理物」というには無理があるが、我々がシナリオ段階でイメージし
たのは「推理物」的な内容というよりは「形」とか「枠」である。正統な推理物とは客観的な証拠や手がかりを積み重ねて隠された事実に辿り着くというスタイ
ルだと思うが、7話も証拠や手がかりを積み重ねる形に変わりはない。客観的ではなく主観的な証拠や手がかりというあたりが「妄想代理人」たるゆえんなので
ある。無理矢理と言われるかもしれないが。
夢で手がかりを得る、というのは卑怯かもしれないが、何せ「夢告」という奇異な予告で次回を紹介するアニメ作品なのである。少年バットというメタよりの
使者、その謎に迫るには、現実的客観的な手がかりでは無理な話で、それゆえメタにはメタで対向するべく馬庭の夢、彼方からの電波という手がかりで迫ろうと
したのだ。とか何とか屁理屈を並べたところで、「夢で手がかりを得る」という考えは元々「ツイン・ピークス」のパクリなんだけど。