記号の陥穽
確かに場合によっては先のような驚きをすることはある。たとえば。
「会社から疲れて帰ってきたいつもの我が家。ドアを開けると玄関にシマウマがいた」
驚く前の顔→目をギュッとつぶって顔を少し下げる→大きく目を見開きつつ大きく顔を上げてセリフ“わっ!?”
これはこれで正しいと思う。
しかし、次のようなケースはどうだ。
「学業優秀で聞き分けの良い自慢の娘(14歳)から告白される父親。“私、子供が出来ちゃった”」
驚く前の顔→目をギュッとつぶって顔を少し下げる→大きく目を見開きつつ大きく顔を上げてセリフ“何だってぇっ!?”
そんなやつはいないと思う。これじゃコントかギャグの世界である。
もし私が演出するなら前者も後者もリアクションはこうなる。
「(ポカンとして)……え?」
よく使う手口である。この「(ポカンとして)……」は認識の間である。あまりに驚くべきことに接したとき、得てして人間はその事態をにわかに呑み込むことが出来ず、どういうことなのかをしばし考えてしまうものではないか。
「驚く」という行為も実に多様であり、確かに「驚く前の顔→目をギュッとつぶって顔を少し下げる→大きく目を見開きつつ大きく顔を上げてセリフ
“わっ!?”」もあるが、「(ポカンとして)……え?」もあれば「単に目を見開く」もあれば「息を呑む」、「無表情になる」など様々である。であるにもか
かわらずすべてを「驚く前の顔→目をギュッとつぶって顔を少し下げる→大きく目を見開きつつ大きく顔を上げてセリフ“わっ!?”」で押し通すアニメーター
が実に多く、これを私は記号の濫用と言っている。
特殊なケースを除いて、私は「驚く前の顔→目をギュッとつぶって顔を少し下げる→大きく目を見開きつつ大きく顔を上げてセリフ“わっ!?”」と驚く人を
あまり見たことがない。見たことがないが、この芝居は紛れもなく驚いているように見える。驚くという行為を見事にデフォルメして誰もが使える記号にまで昇
華されていると言えるだろう。
記号は誰でも使える、ということが肝心であろう。
多くのことが記号化され共有されている。歩く走るという行為はどういう絵を描いてどういうタイミングを打てばそれらしく見えるのか、爆発はこう描くとそ
れらしいといったアクションの記号もあれば、こういう風に描くと女の子は可愛く見える、だとか手の描き方はこうだ、といった絵の描き方も無数の記号に溢れ
ている。
これら数多にある記号を数多く覚えれば覚えるほどアニメ職業人として成立すると言ってもいいだろう。実際そういう人がほとんどである。業界に入ってくる
若い人やこれから業界に入ってこよういう人などは特に顕著だが、記号を覚えることが絵やアニメートの勉強であるとすら思っている人ばかりである。
昔に比べて、素人さんの絵を描く技術が見かけ上向上しているのは間違いないと思うが、これは上手に見える絵を描くための記号がそれだけ広く流布した、と
いうことだと思う。実際の絵の上手さではなく、バリエーションが豊富になった記号(こう描くとリアルに見える、といった記号まで多種多様だ)と、絵を描く
プロセスさえ記号化されたことによって、素人さんでもそれらを覚えて組み立てればそれらしい絵が描けるようになったということだと思う。マニュアル化とい
い替えても差し支えない。
では実際の絵の上手さとは何だという話になろうが、それを詳らかにするほどの頭も表現力も私にはないので、記号表現の限界や弊害を上げることでそれに替えたい。
煎じ詰めていえば記号は新しい表現を生まない、ということだと思う。誰もが認知し共有している記号(だから記号なのだが)をいくら積み重ねても、それゆ
え誰もがすでに分かっていることにしかならない。ここに新しい表現が生まれる余地は少ないと思う。新しいというと大袈裟かもしれないが、少なくともそれま
でになかった表現がされることはなかろう。無論、記号の新しい組み合わせはあり得るし、凡人の私が作品で繰り返しているのはせめて新しい記号の組み合わせ
を模索する、ということだと思う。「千年女優」にしろ「東京ゴッドファーザーズ」にしろ、断片のそれぞれは記号的でありまたそれを意図してもいた。使い古
された記号でも組み合わせ次第でそれまでになかったものになるのではないかというささやかな祈りを持って作ったつもりだ。記号にコンパクトにパッケージさ
れた知的内容物を大いに利用させてもらうことで多くの情報量を少ない時間に込めることが出来たような気がしているだけかもしれなくもないかもしれないが。
それは見た方の判断にお任せする。
念のため断っておくが記号が良いとか悪いとか言っているのではない。記号を疑うこともなく使うことが褒められた態度ではないと言いたいのである。無自覚
な記号の乱用は、記号に含有されている知的作業をオミットすることになる。要するに自分の頭でものを考えることがなくなるのである。
もちろん覚えておかねばならない記号、知っておいた方が便利な記号など、すでに流通している記号の群を身につけることも追いかけることも最低限必要だと
思うが、その数多に溢れる記号のうちに「何が無いのか」といった問いや観察眼は同時に忘れてはならないものだと思う。何があるか、同時に何が無いか。この
後者の視点は恐ろしく欠落していると思う。気をつけたいものである。
マニュアルが好き
記号にだけ陥らないようにするには記号を疑ってかかることがその第一歩だと思う。たとえば絵の基礎訓練の一つ、デッサンというのは記号的な物の見方を一度
解体して対象物を自分の目でよく観るという態度を養うためにある。記号化された見方や描き方を一旦分解して、そこに含まれていた知的内容物を検証し、自分
なりの見方描き方を見つけて行く。初心者であれプロフェッショナルであれ、こうした努力や研鑽は日々求められるものであろう。
記号は繰り返せば必ず形骸化する。そこには新しい表現やらそれまでにない表現やらが生まれることはほとんどない。無論形骸化した記号だけを組み合わせることで逆に「虚ろ」であることを表現しようといった場合もあるだろうが。
また新しい表現やそれまでにない表現をしなくてはならない、というそれこそ記号的な前提を疑ってもかまわないと思うし、これまでに見たものとほとんど同
じだけど少し違うものを見たい作りたいという方はなるべく多くの記号を携えればそれで良いと思う。私はそれが楽しい仕事だとは思わないが。
記号的な表現だけを重ねてくるような人は私の作品ではあまり歓迎はされないと思うが、記号を無視しようと躍起になるようなやつはもっと歓迎されないと思う。難しいな。
「妄想代理人」制作中に何度か若い人に向かってこんなことをいったと思う。
「マニュアルを100覚えたところで101番目の事態には対処できないのだぞ」
相手が素直に聞いたのかどうか私には分からない。
もっとも、私がその相手くらい若い時分に先達からそんなことを言われたら、こう答えたことだろう。
「だったら、それまでの100の組み合わせから101番目を考えればいいじゃないですか」
口の減らないやつだなぁ(笑)
が、先にも書いた通りここには「組み合わせ次第でそれまでになかったものになるのではないか」という私の基本的な態度があるとも言える。三つ子の魂百までとはよくぞ言ったことだよ。
私としては新しい記号を作るとか記号に陥らないようにするといった、たいそうなことは出来ないかもしれないし、せめて記号の新しい組み合わせを探るくらいのことしかできなかろうが、そんな私ですら憂えてしまうのは業界全体に蔓延している風潮である。
「記号の組み合わせもすでに記号化している」
記号の積み重ねを覚えることには皆熱心、というか自分の頭でものを考えるより遙かに楽なのであろう。折角親からもらった大事な頭なんだから、もう少し使
えばいいのではないかと思うのだが、自分の頭でものを考えようとする業界人は極めて少ない。みんな記号が好き。マニュアルが好き。
話を急に戻すようだが、私が記号の町を面白がった背景にはこうした事情と「そんなに好きなら記号だけで出来た世界を作ってくれる」という捻れた態度が
あったと思われる。だいたい何でも極端にしてみるのは私の好きな発想の一つだが、記号に陥らない、あるいは新しい記号の組み合わせを生み出すには比較的簡
単な方法である。何か一方向に傾斜させることで目立ったものが出来るということは、アニメーション作品がまだまだ成熟というものに遠いからかもしれない
が、現状作り続けて行かねばならぬ立場としてはものを考えるのもまだ楽である。
だって、極端にしただけで目立ちやすいんだもん。
記号の町
11話から初お目見えする「記号の町」は、しかし当初の予定からは随分イメージが変わり、記号というよりは単に懐かしい街という感じになってしまっているが、エッセンスは十分に表れていると思う。
「ちび太の持っているおでんは串に△○□だが、実際にそんなおでん、見たことある?」
もう十数年前のことになるだろうが、ラジオ番組「オールナイトニッポン」(私は大好きでよく聞いていた)で伊集院光がそんなことを言っていたのが印象的であった。
「なるほど確かにそうだな。見たことがないな」
これを聞いて以後、私はそうした「よく目にするが現実には見たことがない」ようなもの、記号的なものに興味を惹かれるようになったのかもしれない。
11話でこんな会話が出てくる。
猪狩「おまえは昔から時代がかってたぜ。頬っかむりに唐草模様
の風呂敷包みなんて、挙げたこっちが驚いた」
犬飼「(憮然と)泥棒っつったら唐草模様でしょう」
猪狩、フッと笑って、
猪狩「そりゃそうだ…泥棒っつったら唐草模様、酔っ払いっつっ
たら寿司折り、おでんっつったら丸、三角、四角。それが
お約束ってもんだ」
ここでは「お約束」と言っているがこれが正に記号である。ただ、これらは必ずしも「よく目にするが現実には見たことがない」ではない。実際、私の子供の時分、うちの父親は酔っぱらって寿司折りを揺らしながら帰ってきたものである(笑)
それら多くの物が記号と認知されるからにはその元は現実によく見られたものだと思われる。きっと唐草模様の風呂敷を背負った泥棒も、△○□のおでんも
あったのだろう。ただ、現実の世界からはそれら元になったものたちは時代と共に姿を消し、記号だけが残ったといえるのではないか。そして共有され得なく
なった記号も少しずつ姿を消して行ってるのだろう。元が失われたにもかかわらず、生き残っている記号、これこそが面白いのではないか。
生き延びている記号たちは、「サザエさん」「ドラえもん」といった大人たちが推奨するマンガや大人たちがあまり推奨しないコントなどの世界でよく観察される。
「空き地には積まれた土管が3本」
「三角屋根の工場から突きだした煙突からは煙」
私は現在40歳だが、子供の頃にそんな光景を確かに見たことがあるような気はする。しかし今時ないんじゃないか、土管。こうした「工事」や「建設」を待つ空き地といった光景が日常的に見られたのは高度経済成長の証だったのだろう。
コントに出てくる映画監督はいつだってベレー帽にニッカーボッカーでちょびひげを生やしている。今時いないだろうが、しかし昔そうした監督がいたのは写真で見た。「千年女優」制作中に見た資料でまるで監督コントそのままの姿の人が映っていた。
マンガやコントに限らずこうしたイメージは今も流通しているのではないか。ベレー帽にスモックを着用している人は絵描きだし、職人はねじりはちまき、出前といったら高く積まれたざるそば、等々。
ともかく記号を用いれば不用な説明は要らない。その背後にはお約束が機能しているからである。みなまで言わずとも分かる、というエートス。これが重要な
ことは言うまでもないし、そうした型や記号を覚え「らしさ」を身につけることは社会的機能を有する大人になるために必要だと思う。
一方ですっかり形骸化した記号は、それがポピュラーであればあるほど虚ろにも感じられる。
「妄想代理人」における「記号の町」も私は虚ろなものとしてイメージしていた。決して昔を懐かしむことが虚ろだということではなく、ものを考えなくても済
む記号だけの世界は虚ろではないか、ということである。猪狩は「記号の町」に逃げ込んだのである。頭を使わなくてはならない場所には誰も逃げ込んだりはし
ないだろう。
逃避の三種の神器、セックス、ドラッグ、アルコール、どれをとっても頭を使わなくてもいいものばかりだ。金はいるけどね。
ホイッスルの警告
先にも記した通り、記号の内容物を検証するのは自分の頭でものを考えるという知的作業を要する。記号は楽なのである。考えなくていいから。記号だけで済め
ば世の中楽であるし、実際、江戸時代の身分制度や戦後解体された封建制などは記号と型に裏打ちされた「あまりものを考えなくてもよい」楽な世の中だったと
思われる。自分の頭で考えなくても記号と型がその人間を保証してくれる世の中は楽であろう。だから良い悪いということではなく、単に型や記号に従えば大き
な間違いをすることなく生きられた世の中だったと想像するだけである。
自分の頭でものを考えるのは面倒くさい。そして人は低きに流れる。アニメーション業界に限らずそれが世の常である。そして「妄想代理人」の猪狩も楽な記号の世界へと流れて行く。
猪狩は彼を取り巻く状況にすっかり疲れてしまって、何も考えなくてもいい「記号の町」へと足を踏み入れて行くのだ。ホイッスルの警告に耳を貸さずに。
気が付かれた方もおられようが、11話後半で猪狩と犬飼が並んで酒を飲む居酒屋のシーン。ここで時折、遠くでホイッスルが鳴る。
シナリオを引用させてもらう。
猪狩「正直、もうどうでもいい」
犬飼「――?」
猪狩「あの事件のことも、少年バットのことも。ただひとつはっ
きりしてるのは…俺の時代はもう終わったってことだ」
ピピッ! どこかでホイッスルが鳴る。
猪狩「子供のころ俺があこがれたのは、それこそおまえみたいな
唐草模様の泥棒を追いかける警官の姿だった。だが、そん
な風景は永遠に失われてしまった。俺の居場所は、もうど
こにもない…」
ピピッ! またどこかでホイッスルが鳴る。
猪狩は女房や少年バット事件で疲れ果て、「正直、もうどうでもいい」と投げやりな気持ちになり、現実への対処に思考が停止しかかっている。しかも、ありもしなかったはず(あったと思いたいだけ)の「俺の時代」が「もう終わった」と言うのだからかなり危険な状態といえる。
そしてここで鳴るホイッスルこそがこの話数の基調音になっている「入っちゃいけない」という警告の音なのである。なのでサブタイトルも「進入禁止」。
分かってましたよね? |