妄想の一「趣味の産物」
-その1-

  完成というリストラ

「テレビの企画でもやろうかな」
 といったのは私である。この半分無責任な一言が「妄想代理人」というやや奇妙なタイトルの作品の始まりであった。
 私のいい加減な日誌をひもといたら、仕事として最初に「妄想代理人」という言葉が登場したのが2002年8月22日。まだ「千年女優」公開前のことであった。

8/22(木) 15時、妄想代理人(仮)打ち合わせ。増田プロデューサー、豊田君、吉野さん。全体を概観するようにアイディア出し。いい感じでアイディアが繋がる。とりあえず吉野さんにテキストとしてまとめてもらう。

 2002年の夏、当時の私は「千年女優」宣伝と「東京ゴッドファーザーズ」制作に勤しんでいた。「千年女優」宣伝はともかく、これ以後制作状況が激化す る「東京ゴッド〜」と並行して「妄想代理人」を立ち上げたことになる。かなり無謀といっていい。ろくに現場に来ない監督とか、自分では絵を描かない監督指 示するだけの監督名前だけの監督ならともかく、人の先に立って作業をしたがる監督が、同時並行して作品を抱えるというのはかなり危険とさえ言えよう。
 しかしこの暴挙にも致し方ない側面もある。一本の作品制作が終わって、次の作品の制作にかかる場合、どんなに早くてもたいてい準備期間として半年から一 年は「空き」が出来てしまう。私はフリーランスの立場でマッドハウスという制作会社で監督をさせてもらっているので、「空き」が出来ると私の仕事場が失わ れる。もちろん私一人の仕事スペース(作品を重ねた分だけ随分スペースも肥大してきたが)をけちる会社ではなかろうが、少なくとも「今 敏監督の制作現場」は一旦解体される。
 それまでの作品で有能な仕事を見せてくれた多くのスタッフも、仕事がない以上他の作品や制作会社へと移って行くことになる。これがいつも惜しいと思う。 スタッフだけでなくそこに出来上がった「場」が解体されるのが実に惜しい。「場」は何かを生み出す力を宿すものだ。
 なので「東京ゴッド〜」制作終了と同時に、次の仕事を用意して、すべては無理にしても「東京ゴッド〜」のスタッフの一部でも残れるようにしたいと思った。これがテレビシリーズ「妄想代理人」を企画した一側面でもある。
 また作品制作の合間という「空き」は私個人にとってはイコール「無職」を意味する。作品制作が終わった途端、私は無職になるのだ。つまりこういう風にも言える。
「無職になることを目指して作品制作に励む」
 歪な捉え方ではあるが一面の真実である。フリーランスで生きて行くとはそういうことでもある。無職ということはつまり収入がない状態で、何の保証もない フリーランスの身で収入を常に得て、日々生活して行くためには自分で仕事を確保し続けなければならない。私の場合はよそ様の作品や制作会社から仕事のお誘 いは来ないようなので、自分で企画を立てて作品を作らなければ、お仕事がないという自転車操業状態である。しかしこれはこれでけっこう健全な状態だと私は 思っている。
「仕事は黙って待っていてもやって来るものではない」
 そういうものだと思う。

企画意図あれこれ

「妄想代理人」の企画意図は「場の継続」の他にもいくつかある。
 まずアイディアそのものが面白いと思えたことは言うまでもないが、これまで私が監督してきた劇場作品三本(「パーフェクトブルー」「千年女優」「東京 ゴッドファーザーズ」)の制作中に、惜しくも吸収できなかったアイディアが溜まっており、これをリサイクルしたいというのも企画意図の一つ。
 完成した作品を100としたら、そこに絞り込むまでにアイディアは200〜300は考えるであろうか。だからこそ作品の密度が高まるが、切り捨ててきた ものや盛り込めなかったアイディアがたくさんある。そして私の場合、アニメーション作品以前、つまり漫画家時代に形にすることが出来なかったアイディアの 残骸が随分散在している。これらを色々な形で取り込むために、バラエティに富んだテレビシリーズというコンセプトにしたと思われる。
「人脈の開発」というのも大きな狙いの一つであった。劇場作品三本を作ってくる中で、スタッフの顔が固定してきたことは大きな財産である。スタッフ個々人 ではなくスタッフ相互の関係の中に蓄積されたノウハウや信用は、予算では贖えない貴重なものだ。しかし一方で閉鎖した制作環境になりつつあるとも言える。 二つ良いことはなかなかないものだ。
 新しいスタッフが入ってこない。これは大きな問題である。
 たとえば「東京ゴッドファーザーズ」の場合、中核となるスタッフの平均年齢はおそらく30代後半くらいになると思われる。20代の中核スタッフは制作進 行のポジションにいたくらいで、絵描きの中核スタッフには一人もいない。30代後半というと労働条件が過酷なアニメーション制作現場においてはちょうど働 き盛りと言えるが、問題なのはたとえば10年後を設定した場合である。新しい人がほとんど入ってこないような状況で作り続ければ、同じ顔ぶれで10年スラ イドするだけである。平均年齢40代後半。仕事の量は落ち始めていると思う。20年スライドしたら50代後半である。こうなるとそのスタッフ編成で密度の 高い仕事は非常に難しいと思われる。もっとも20年後まで私が自分の監督作品を作り続けられる環境にあるかどうかはまた別の大きな問題だが。
 またスタッフの高齢化と共に人件費も高騰するだろうし、予算を圧迫することになる。売れないアニメーション監督としては潤沢な予算を想定することはあまり考えられない。
 20年もすればその間に新しく有能なスタッフも現れるであろう、という予測も当然あるだろうが、そう簡単に楽観できない経験もある。というのも私が 1990年に「老人Z」というアニメに初めて参加して以来約10年の間、業界内で有能とされるスタッフの顔ぶれはほとんど変わっていないといっていい(誰 を有能とするかには私の主観によるところが大きいが)。90年当時に「上手い」としてすでに名の通っていた人以外で、この10年間に頭角を現して注目さ れ、作品の中核を担うようになったのは10人に満たないのではなかろうか。また作品の中核を担うような有能な人間は、それぞれ自分が大きく関与する作品を 持つことになるので、なかなか仕事を一緒にすることがなくなってくる。また有能であっても相容れないタイプというのもあって、一緒に仕事をしてみたくなる 人はさらに限られてくる。
 人材不足が嘆かれ続けている、というか人材に困らなかったことなど多分ないのではないか。
 ともかく今後作品を作り続けるためには新たな人材発掘が必要なことは痛感していた。そうした閉塞的な状況に風穴を空けるために、若い人から見れば劇場作品よりは「敷居が低い」とされるテレビシリーズを考えた次第である。
 こうした背景とは別に、いわゆる作品本意の企画意図ももちろんある。一言で言えばこういうことだ。
「言い訳探しに躍起になっているやつをぶん殴って笑おう」
「やつ」というのは特定の誰かということではなく、人間誰もが多少なりとも持っている部分というようなことだが、「言い訳探しに躍起になっている」人間は 実際に増えているような気がする。与えられた仕事をするより、それを「どうやったらしなくて済むか」、その理由を懸命に探している人が多い気がする。私は 狭いアニメ業界にだけいて世間のことには疎いので、もっぱら業界内で実見したことと噂話によって感じる傾向に過ぎないが、おそらく世間一般も同様であると 思う。
「一所懸命働くのはイヤだが、立場と評価は欲しい」
 なんて図々しいんだ(笑)
 近頃はもっと低いレベルになっているかもしれない。
「そこそこのポジションでいいから自分の居場所が欲しい」
 そういう生き方もあるだろうが、私はこういう人とは仕事を一緒にしたくないとは思う。
 イラクの日本人人質事件が契機となって「自己責任」という言葉が流行した。このケースにおいては少々歪な流行り方であったとは思うが、しかし「自己責 任」という言葉が流行する背景にはそれが欠如している自覚も多少あったのではないかと思われる。誰もがどこかで「これって…ホントは私の責任なんだろう な」といううっすらとした罪悪感みたいなものを感じることが多いのではなかろうか。
 そんな世の中にバットでガツン、と(笑)
 自己責任を放り出して逃避している人には少年バットがやってくるかもしれませんゾ、だから逃避している人々の様を笑って自己責任を回復しましょう、という至極ポジティブな企画意図である。本当に。

趣味の産物

「仕 事」として「妄想代理人」が立ち上がったのは先に記したとおり、2002年夏のことだが、作品としての企画、つまり「ネタ」を思いついたのはそれよりも ずっと前のことである。ハードディスクに残されている一番最初に「妄想代理人」と名付けられたファイルは、その作成日が2001年の7月ということになっ ている。
 この雑文は完成を見ないまま放り出されることになったが、実はこれ、アニメーションや漫画のための企画とはまったく関係が無く、ウェブ用の企画であっ た。つまりその雑文そのものがウェブで公開するために書き溜めていたもので、純然たる趣味の産物になる予定だった。
 このウェブ用企画の主旨(ただの趣味だが)は、いわば「お話を作ろう」とでもいったもので、私が大元のアイディアを出して話の雛形を作り、それを公開し て読者からのアイディアを募り、それらのアイディアを反映して話の続きを作る、というすこぶるリアリティの薄い企画であった。
 リアリティが薄いと思うのは、どうせリアクションなんかあるもんか、という悲観的かつ現実的な予測による。ともかく一つのアイディアをどうやって「話」 にして行くか、そのプロセスを実際に進めながらテキストにしてみようと思ったのである。悪くない企画だと思うが、しかしそんな暇があるなら仕事をしろ、と 突っ込みたくもなるし、話を作るなら仕事にすれば良いではないか。その方が家計も助かるじゃないか。
 結果的に仕事になった。家計も助かった。
 ここで書いていた「妄想代理人」の雛型を少し紹介してみようと思うが、諸々事情があって大元のアイディアは伏せておきたいので、ネタとして多少形になった一文から紹介したい。いわば「妄想代理人」の核となった一文である。

「ある人が言い訳のために通り魔事件を自作自演するが、実際にはいない筈のその犯人が次々と凶行を重ねて行く」

 簡単なものと笑ってはいけない。「千年女優」の場合だって、初めはこんなものだった。
「かつて大女優と謳われた老女が自分の一代記を語っているはずが、記憶は錯綜し、昔演じた様々な役柄が混じりはじめ、波瀾万丈の物語となっていく」
 私の場合、作品の始まりは得てしてこの程度のものだ。
 そして先の一文に続けてこのように書いている。

「実際にはいない筈のその犯人が次々と凶行を重ねて行く」ということは、つまりは幻想の実体化したものが殺人を犯したということになる。「パーフェクトブルー」である。
 同じことをしてはいかん。
 しかしまぁ、結果的にはそうならざるを得ないだろうが、そう単純に話を進めるわけには行かない。ということでもう一つアイディアを付け加えてみる。
「報道された犯人の特徴を真似して第三者が愉快犯的な犯行をしないだろうか」
 この第三者はもちろん実在する人間という設定である。
 結果的に犯人は「幻想」(それは個人が生み出したか複数の幻想によるものかは別にして)ということになるだろうが、観客あるいは読者のミスリードを誘うために設定されるのがこの第三者、である。

 便宜上、この幻想が生み出した犯人のことを以後「妄想代理人」と呼ぶことにするが、第三者の犯人もきっとその「妄想代理人」の手によって始末されなければならないはずである。
 先の話の核に付加すれば、
「ある人が言い訳のために通り魔事件を自作自演するが、実際にはいない筈のその犯人が次々と凶行を重ねて行く。が、ある時その犯人が実際に捕まる。しかしその犯人すらも妄想代理人に始末され、犯行が続けられる」
 犯行が続けられてばかりでは話に終わりが見えないので、おそらくは主人公が最後に妄想代理人と戦わなくてはならなくなる、筈。一応はオーソドックスな話 のスタイルで進めるつもりなのでそうなるだろう。ますます「パーフェクトブルー」みたいだが、同じ人間が考えていることなので致し方あるまい。それに 「パーフェクトブルー」は幻想が殺人を犯したように見えるが、実際に犯行に及んだのは実在する人間ということであった。妄想代理人は純然たる妄想の産物で ある。

 思いついた当初から「模倣犯」(本篇では「狐塚」になる)が考えられていたらしい。そうか、すっかり忘れていたが、視聴者を惑わす良いアイディアに育ったと思われる。
 ネタを思いついた当時から随分と「パーフェクトブルー」との相似は意識していたようだ。確かにテレビ企画として提示した際も「“パーフェクトブルー”の ような作品」を売りにしたように思う。「パーフェクトブルー」宣伝当時、「アニメ初のサイコホラー」といった売り文句に眉をひそめたものだが、その間二本 の劇場作品と5年という歳月を重ねた分だけ私も大人になったかもしれない。だって、昔の私ならきっと「恥ずかしいからやめて欲しい」というささやかなク レームの一つもいったと思うもの。
「感染するサイコサスペンス、“妄想代理人”」
 おう、いいともさ。

生めよ月子、育てよバット

 趣味の雑文では肝心な主人公についてはこう書いている。

 この話の主人公なのだが、どう設定すべきか。ある意味主人公は「妄想代理人」ということになるが、実際に話を進めて行く上での核となる人物が必要になる。
 単純に想定されるのは、主人公としての必然を持った最初の被害者にして妄想代理人の生みの親ということになる。読者受けを考慮してここではやはり若い女性を設定することにしよう。男性というのは想定しにくい。男はやはり「生まない」のである。
 この発端となる女性を仮に、“月子”と名付ける。取りたてて深い意味はないが、妄想代理人を生み出した彼女の背景には女性特有の苦しみがあったことにし たい。「生理」については私は実感をもって考えることは出来ないが、大変な苦痛を伴う女性もいるようだし、狂言を演じてしまった、あるいは演じざるを得な かった月子の事情としても考えられよう。
「生む」というイメージには血もつきまとう。
 通常の作劇ならば、この月子をドラマの中核に据えて話を進めることになるが、それではまったく「パーフェクトブルー」みたいなので、ちょっと変化球を使いたい。
「主人公リレー方式」である。
 以前からこのスタイルを使ってみたいと思っていたので試しに使ってみる。文字通り、話の進行に沿って各エピソードに一人の主人公を立てて繋いで行く、というやり方である。
 もっとも、先に、最後に妄想代理人と戦うのは主人公になるはず、としたので、最終的には月子のところに話は戻ってくるであろう。ブーメランである。妄想 ブーメラン。自分でまいた種は最終的には自分で刈らねばならない、ということで、これは私の価値観にもよく合致する。

 月子の名前は最初から月子だったようだ。また最終話で描かれる少年バットの出自にまつわる「血」のイメージも当初から持っていたものということになる。
「主人公リレー方式」は上記の通り、この「妄想」のネタとは関係なく、以前から考えていたアイディアだが、おそらく、色々な社会的な問題を話に取り込んで行くために好都合なスタイルとして導入したと思われる。
 一方の主人公、少年バットの具体的なイメージについては次のような背景の下に生まれたようだ。

 月子が「生んだ」以上、それは「育つ」ものでなければいけない。
「育つ」ということは、襲われるそれぞれの被害者の内面が反映されて、そのイメージが付加されて強力になって行くということだ。発端となる月子の狂言にお いてはどんなイメージであろうか。最後で大変強力に育ったものが出て来るであろうから、逆に発端は対照的なイメージの方が良いと思われる。
「育つ」という言葉からイメージされるように最初は「子供」が良いのではなかろうか。「子供」といっても幼稚園児や小学生低学年では説得力が無い。中学生 ならどうか。実際に新聞を賑わすように凶悪な暴力を働くことが多いし、説得力もあるが、体格的には最初から大人に近いものを備えていることになってしまう ので、育つイメージに相応しくない。よって小学校高学年ということにしよう。彼が妄想代理人である。うっかり「彼」と書いたが、「妄想代理人」に女性のイ メージはないので男ということにしておく。
 彼は小学校5〜6年の男の子だ。

  当初は通り魔事件が連続して行くうちに少しずつ育って行く、と考えていたようだが、このアイディアは本篇ではあまり反映されてはいないと思う。噂によって 変化する様は後半で描かれているが、「少しずつ」という感じにはならなかった。だが肝心なのは噂によって育つ、ということだったのだから十分意図は達せら れたと思う。

月の影から幾たびも

 ここで余話が一つ挿入される。

 イ メージが随分簡単に繋がって出てくると思ったら、これは昔漫画用に考えたアイディアであった。「パーフェクトブルー」の元ネタとしても使ったではないか。 「月の影」というタイトルの短編漫画であった。平沢さんのアルバム「シムシティ」の中にやはり「月の影」という曲があったが、まったく関係はない。
「MEMORIES」「パトレイバー2」の仕事の後くらいに漫画に復帰しようと思って、ネームも2/3くらいは描いていたはず。予定では60枚の短編だった気がする。
 ここにその話を書くとパクられる可能性もあるので詳しくは書かないが、若い女性が「自転車に跨ってバットを持った小学生」と戦わなくてはならなくなる話 で、やはり彼もある意味「妄想代理人」という設定だった。「パーフェクトブルー」に出てくる「もう一人の未麻」はこのバリエーションである。この「月の 影」における妄想代理人も主人公の「一部」という設定だった。
「パーフェクトブルー」で、もう一人の未麻を追いかけていって鏡にぶちあたるといったシーンはこの漫画で考えたものだし、主人公の周囲の人たちが次々に襲われるのもこの漫画を踏襲したものであった。
 使いすぎだな、このネタ(笑)

 ネタがないのではない。リサイクル上手と言って欲しい。
 その「妄想代理人」こと「少年バット」(これはアニメ企画として立ち上げてから考えられた名称だが)は当初、自転車に乗ってやって来るというイメージだったが、後に作画的な事情を考慮してローラーブレードに変更されている。
 そして少年バットが何故人を襲うのか、その理由についてはこうだ。

 妄想代理人は人を襲わねばならない。何せ通り魔なのである。襲わねば話にならん。
 実際の通り魔が何故人を襲うかは定かではない。定かではないから通り魔なのだろうが、お話に登場する以上なにがしかの一貫性を持たせた方がいいであろう。
 例えば映画「セブン」でいえば七つの大罪に沿った被害者が設定されていた。つまりは被害者を繋ぐ共通点である。もっとも、「セブン」の場合、七つの大罪 のという符合はあるが、ではだからといって何故他ならぬその被害者が選ばれたのかは提示されていない。それがあの映画の瑕瑾というわけでもないが。
 一体、妄想代理人は何故襲うのか、といえばそれはすでに理由は提示されている。何しろ彼は何かの「言い訳」のために生み出された通り魔である。
 いわば子供が学校に行く段になって「お腹が痛い」と言い出すようなものである。なので「学校へ行こうとするとお腹が痛くなるの法則」が生んだ妄想代理人である。これが彼を動かす原動力である。
 つまりは「学校に行きたくない人」を襲うのだ。無論「学校」は比喩であり、それが会社であったり運動会だったり何かの大舞台だったりしてもよいわけだ。
 少々困った事態に陥った人がいて、そこへさらに別な不幸が訪れると周囲の人間の同情を買うことが出来る、という甘えが妄想代理人のパワーの源だ。日本人の無意識から現れるのだ。

  今の世の中、あまりに言い訳が多すぎると思うのは私だけだろうか。私自身もついあれこれと言い訳めいたことを口にするとは思うが、しかし身の回りにいる、 特に若い人たちを見ていると、仕事に励むよりも言い訳を探すのに励んでいるようにしか見えない。「自分探し」と「言い訳探し」に忙しい人たちであることだ よ。
 こうした言い訳を重ねて粗末な自我を頑なに守ろうとしている子供じみた人々を取り上げてバットでぶん殴ろう、というのが当初からの作品イメージだった。 もっとも、この時にはまだバットは「くの字」に曲がっていないが。バットが「くの字」になったのは、アニメ化企画として立ち上げる際、私がイメージイラス トを描くことになったのだが、まっすぐなバットでは絵にならないので一部をひしゃげてみたのがきっかけ。描いてみてこう思ったのだ。
「この方が痛そうだし、たわけ共をぶん殴るにはちょうどいいじゃあないか!」

moso_01

これがその企画書用に描いたイラストレーション。
特に月子をイメージして描いたわけではない。
当初はローラーブレードではなく単に金の靴だった。
「自転車は作画の手間が大変になるのでローラーブレードにしましょう」と賢明な提言をしたのはプロデューサー豊田君。
蛇足ながら絵の解説。背景に配された「月」と女性の頭部に広がる「血」というのは「逃れらないもの」の暗示…のつもりだったと思う。頭から血を流している にもかかわらず、笑っている様は「妄想代理人」本篇のオープニングのイメージに回収されている。月の下にある濃い緑色の面積、色々なノイズがかぶせてある が、この下地は「人々」である(元データはデジカメの映像だったろうか)。割と正しく作品を表している絵だと思う。