妄想の十三「終わり無き最終回。」
-その4-

千年の遺産

 この「千代子の錦絵」は「KON'S TONE‘千年女優’への道」にのみ収録されている、いわばプライベートなもの。年賀状用に描いたもので、元々は来るべき「千年女優」版権物制作に備えて 「錦絵」の手法をシミュレーションするべく技法開発のために描いた一枚。BGは本篇素材だが、千代子は新たに描いたもので元の素材はアニメのセルと同じた だの塗り分けである。それではあまりに素っ気がないので、ここにテクスチャを使用することで味わいを出そうとした。
 無論、作成はパソコンによる。すべてPhotoshop。
 重ねているのは和紙のテクスチャだが、単に重ねるのではなく和紙のテクスチャをレベル補正で絞ってコントラストを極端にして、かすれた感じにする。その アルファチャンネルを利用して千代子の絵を「抜く」。千代子はかすれによって穴だらけの状態になる。その千代子の下に、元の千代子とは色彩がまったく異な る素材を敷いておくと、かすれた穴から異なる色彩が顔を出して、全体に深みが生まれる。
 同じ結果を得るにも別な方法が考えられるが、版画をシミュレートして考えているうちにこの方法に辿り着いた。この手法を基本に、下に敷いたことなる色彩のレイヤーもさらに別なかすれで穴を空け、その下にまた別の色を置くことで深みを出した、つもりである。

先ほどの絵の拡大。和紙のテクスチャがお分かりいただけようか。

  千代子のバックも同じ手法で加工している。私はけっこう気に入っている手法だったので、いつか使おうと機会を狙っていた。これを「記号の町」に適用してみ ようと思い立ち、美監の池さんに「千代子の錦絵」元データ(レイヤーが重なった状態で手法を解析できる)を渡して研究してもらった。池さんも大変面白がっ てくれたようで、使用するテクスチャを独自に開発、元の絵よりもっと「記号の町」にふさわしい方法論を研究したものと思われる。元の絵ではテクスチャは全 体に対して一律にかけられていたが、「記号の町」では、一律ではなく大雑把な立体に沿って、あるいは色味が異なる面積を分けて、それぞれにテクスチャをず らすなどして、さらに密度感を高めている。
 驚くべきはその進歩のスピード。11話で初めて試された「記号の町」の美術のスタイルは12、13話と進む間に手法としてこなれて来て、さらにいっそうの工夫がなされたようで、もっともシーンが多い13話では、立派に確立されたスタイルとなっている。
 13話の美術ボードのチェックで、イラストといっても良いほど立派に確立されたスタイルを見て、私はこう思ったくらいである。
「これで一本作りたいくらいだ」
 以前から版画的なスタイルに興味があって、是非やってみたいと思っている。誰か私にお金を出しませんか。短編を作りたいのですが。

「最 終回。」ファーストカットの背景。トレスライン(実線)の色を黒ではなく茶色っぽくしたことで、画面全体に重みが出なかったのは非常に効果的に思える。ト レスラインは単色ではなく、奥にあるものほど明るめになっている。テクスチャも建物やパーツで異なったものが使用されている。全体にデジタルで作った版画 のような手触りだと思う。

「記 号の町」は背景だけでなく、「記号の町の住人」にもテクスチャを重ねようと考えていた。これによって猪狩と月子との際も際立つであろうという考え。もっと も、背景と違ってセルは枚数が多く処理がその分重くなるため、背景ほど複雑な加工は出来ない。テクスチャを一枚、撮影時に重ねているだけである。テクス チャは和紙を基本に組み合わせて作ったもの。ただ、テクスチャを重ねると元来の色彩から「ズレ」が生じるため、色彩設計はテクスチャ処理によって起こるズ レを込みで考えねばならない。
 また平面的に処理される「記号の町の住人」たちは、当然それに相応しい動き方を与えられねばならない。11〜13話でその芝居のさせ方は徹底されてはい ないが、基本的には一枚の素材を「スライド」させているだけである。住人がパタリと裏返ったり、砕けたりするのはもちろん作画で動かしているが、街を歩く 人々や車などはすべて一枚の素材を、撮影時にスライドさせているだけである。「だけ」というと撮影の方に申し訳ない。作画的には絵を一枚描いて、どうスラ イドさせるのかという目盛りを描く「だけ」という意味で、作画の負担が軽減した分だけ撮影の方には手間が増えることになる。撮影は原画マンが描いた目盛り に沿って止め絵に芝居をさせるのだ。一挙両得ということはなかなか無いもの。誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立つとはそういうことではないか(笑)
 話が前後するようだが、記号の町の絵柄は「妄想代理人」世界とは大きく異なっているし、私が携わってきた絵の世界観、そのどれとも異なっている。違った 絵柄を考えたり描いたりするのは、いわば別の言語で喋るというくらい難しいことである。特に自分なりの絵の世界観が確立されていればいるほど、別な成り立 ちで絵を考えるのは難しいと思われる。絵コンテの段階で私が悪戦苦闘を強いられたのはそのためである。私は元がアニメーターの育ちではないので、自分と違 う絵柄を描くということにまったく慣れていないということもあるし、単に私が不器用なだけなのかもしれない。
 自分の中には「ない」絵が欲しい。欲張りだ(笑)
 しかし一から違う絵を考える時間も能力も私にはない。そこで参考資料に依存することになる。他の絵を借りてきて、そこからスタートして考えようというわけだ。
「記号の町」の世界観は根岸達さんというイラストレーターの絵を参考にしている。懐かしき昭和の街並みや人々が、ほのぼのとした絵柄と柔らかい色彩で描か れた素晴らしいイラストである。この方の本は元々「千年女優」制作の際、たまたま本屋で見かけて「参考になるかもしれない」と買っておいたものだが、「千 年」の際には開かれることはなかった。「妄想」制作中、「記号の町」という概念が生まれてきて、さてその世界はいかに表現されるのかを考える段になってふ と思い出したのである。
 根岸氏の絵に触発される形で、「妄想」なりの解釈を加え手法を凝らし、また昭和の当時を記録した写真集を参考に作った「記号の町」だが、根岸氏の絵の柔らかい手触りには遠く及ばなかったと思う。
 この方の絵が中心となっている書籍には「昭和少年図鑑」、「町田忍博物館」にも多数収録されており、制作中には大変参考にさせてもらった。興味のある方は是非御覧いただきたい。素晴らしい絵である。
 絵柄や芝居、処理も含めて、記号の町もその住人たちも私は非常に気に入っている。

「千年」の版権イラストでテクスチャを本格的に導入して以来、錆、和紙、木目といった手描きでは出せない質感を重ねることを私は面白がっている。
 考えてみれば、手描きの絵に写真素材(CD-ROMに収録された版権フリー素材)を混ぜる、という発想は「記号の町」に通じるものであろう。本来は一緒 にするべきではないような異なる素材を混ぜ合わせる。つまり異なる世界観を同時に一つに収めるという考え方で、夢や幻想、妄想と現実をごちゃまぜにする私 が好む作劇方法とも共通している。絵にしろ話にしろ一つの価値観で統一されてしまったものを私はあまり面白いと思わないし、現実の世界に対しても同じよう に思う。
「グローバルスタンダードなんてクソ喰らえ」
 そう思うようになったから絵の手法が変化したのか、あるいは絵の手法がきっかけとなって世の一元化傾向に敏感に反応するようになったのか、よく分からな い。おそらく相互干渉によるのだろう。絵一枚といってもその向こうには大きな世界を読みとることが出来るような気になるのは私だけではないと思う。

アメーバみたいな

 13 話冒頭、記号の町で猪狩は昔を懐かしむだけの「ダメ人間」と化しており、月子はそれに付き従って、少年バットから逃れた束の間の安心の中にいる。記号の町 の住人たちが折に触れて、月子をお嬢ちゃん呼ばわりするのは、月子が猪狩に父親像を投影させるようにしむけているためで、これは「記号の町」を作り出して いるマロミの策略である。後に分かることだが、世間に溢れていたマロミが寄り集まって形成しているのが「記号の町」である。世間からマロミという対立物が 失われた少年バットは増大に歯止めがかからなくなり、その被害は加速度的に広がって行く。これもまた月子と猪狩の安心と幸福の皺寄せが生んだものといえ る。またしても誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立つことを暗示している(笑)
 大雑把にいえば「妄想代理人」の話は月子がその自我を頑なに守ろうとした結果、少年バットなるものを生み出し、世間の人々に多大な迷惑を及ぼした、とも いえる。もちろんそこには月子の幼さに共感してしまう世間の人々の心が大きく関与しているのだが。便利な言い訳を探している人はさぞやたくさんいるに違い ない。
 さて「記号の町」から舞台が現代へと移ると、そこでは増大したバットが猛威を振るっている。黒い塊、ストレスボンドである。このC.20からサブタイトル「最終回。」が出るC.42までの23カットはすべて井上俊之氏の原画である。

前 半でストレスボンドが猛威を振るうシーンはすべて井上俊之氏の原画による。ストレスボンドをただの真っ黒なものにしてしまうとさすがに芸がないので、明る い面にかぶった際に若干透ける感じにしてみたが、手間のかけ方が足りずあまり上手く行かなかった。撮出し時に私が加工したのだが、撮影の方でもっと工夫を 考えてもらえば良かったかもしれない。

 13話における井上氏のクレジットは「エフェクト作画監督」となっているが、実際には作監修正はあまりしていないはずで、どちらかというと「エフェクト 世話役」という感じであった。13話のエフェクトの多くを井上氏に担当してもらったが、それでも足りない部分を色々な方にお願いして少しずつ原画を担当し てもらっている。この「色々な方」の名前を挙げたり実際に声をかけて連れてきてくれたのが「エフェクト世話役」井上氏である。井上さんを初め、エフェクト を担当してくれた原画マン様、本当に助かりました。
※エフェクト系の人たち
 エフェクト、エフェクトといっているが、しかしストレスボンドはこの世にあるものではない。つまり誰も見たことがない。手がかりになるのは私の拙いコン テだけで、それなりにイメージは伝わるとは言え、解釈の幅は広い。その質感は煙とは全く違うし、液体でもないしボンドよりはもう少し粘性があってスライム よりももう少し固めで、ネバネバしているわけでもなく、サラサラしているわけでもないし、だいたい少年バットのなれの果てなのだからそれ自体に意志がある ように動く。はっきりと既存の何かに喩えられるとイメージも共有出来るのだが、適当なものが見あたらない。
「スライムよりはもっと固そうだね?」
「アメーバみたいな感じ……かなぁ」
「“人喰いアメーバの恐怖”だっけ?リメイクもあったね」
「ああ“ブロブ”?あれの方が近いかな」
 そんな会話もなされたはず。知らない人にはさっぱり意味が分からないだろうが、上記は映画の話である。「マックイーンの絶対の危機(ピンチ)」 (1958年製作/別題/「人喰いアメーバの恐怖」 原題/THE BLOB)とそのリメイク「ブロブ/宇宙からの不明物体」(1988)のこと。ご存じの方も多いだろうが宇宙からやってきたアメーバ状の奇怪な生物が人々 を襲うというB級映画で、リメイクの方は大変元気があって楽しめる。元の「マックイーンの絶対の危機」も小学生の頃にテレビで見てたいへん怖かった印象が ある。
 あれこれストレスボンドの作画についてイメージを打ち合わせして、まず井上氏に最初に作画してもらって、それを参考とすることにさせてもらった。「千年女優」「東京ゴッドファーザーズ」そして「妄想代理人」と井上氏には世話になりっぱなしである。
 またこのストレスボンドが猛威を振るうシーンは背景の手間も大変かかっている。何しろ昼間の街中なので、描写を逃げようがない。いや、逃げるどころでは なく普通よりちゃんと描いてもらわなくてはならない。というのもストレスボンドという見たこともない異様で奇態なものが、ごくごく見慣れた風景の中にあ る、という違和感が大切である。ここで街の描写をおろそかにしたらストレスボンドの存在感が非常に希薄になってしまう。13話は全体に美術背景が大変な話 数だと思うが、特にストレスボンドが暴れるシーンでは念入りに背景を描いてもらっている。

 上がC.36、下がC.37の背景。どちらも美監・池氏の修正が加えられた後の本番用。単純な筆による描写だけだと単調になりがちな道路面などにもテクス チャを貼ることでナチュラルな密度感を高めている。同様に筆の描写では「ちゃち」になりがちな看板類なども、街で採取してきたデジタルカメラのデータなど から切り抜いて貼り付けることで、ここでも「目立たない密度」を獲得している。
「目立たない密度」というのは非常に重要な考え方ではなかろうか。得てして「目立つ密度」には情熱を傾ける描き手も多いと思う。たとえば大変に描き込まれ た高層ビルや街並みなどは、それこそ描き手として、絵としての分かりやすい「見せ場」として力を入れられる。しかしそうした分かりやすい見せ場を、よりよ く見せるためには目立たない部分にこそ密度が必要である。また美術背景はそれ単体で機能するわけではなく、当然セル(作画)とセットで画面を形成する。
 上のC.36の場合、完成画面では道路中央にストレスボンドが蠢く。そのストレスボンドのスケール感や存在感を生んでいるのは、背景を構成する横断歩道 やビルの一つ一つの窓、看板といった個々のエレメントの密度感による。レイアウト時にこうした物の大きさの対比を損ねると台無しになるので、特に注意した いところだし、本番背景時に「目立たない密度」を上げることは非常に大切。ただ要注意なのは、看板に手間暇をかけたとか窓の中を細かく描いたといった「自 分なりの努力や工夫」を見せたいがためにそれが「目立つ密度」に傾いてしまっては元も子もない。そういうこれ見よがしにはったりをかましたり自慢をするよ うなスタンドプレーを称して私は「チンピラみたいな態度」と呼ぶ。チンピラがこれ見よがしに刃物をちらつかせるのによく似ている。自分の「武器」、アニメ なら作画や背景の技ということになるが、そうしたものが画面からこれ見よがしに浮かび上がるようでは失敗だと私は思う。「武器」や「技」はそれが直接見え なくても、画面の奥に「あるように」感じられるのが上品ではないか。
 作画にしろキャラクターデザインや美術背景、色指定、あるいは声優の芝居や音響効果や音楽も含め、それらはアニメーション作品を構成する一素材に過ぎないと私は思うし、作品はそれらが相互に関係するハーモニーとして成り立つものである。
 絵に限って言えば、作画や背景はそれぞれを合わせた「画面」を考える必要があろうし、そこにおける主従関係を常に念頭におく必要があろう。
 下のC.37はコンテの絵を見ればお分かりの通り、ビルの上に馬庭がマントを翻して立っている。このカットの場合だと、マントの動きが大きいので馬庭を すぐに認識できると思うが、ロングショットなどでキャラクターを配置する場合、その人物がどこにいるのかが「一目で分かる」ようでないと困る。テレビのモ ニタなら大きくてもたかが知れているが、劇場のスクリーンのようにサイズが大きく、人物のサイズが小さくなると見る方が視線を彷徨わせることがないように 特に注意を要する。視聴者に見るべき対象物を探させるようではコンテの、もしくはレイアウトの失敗である。しかし対象物をあざとく強調すれば甚だ不自然に なることも多く、自然に見えながら同時に視聴者の視線を誘導する必要がある。構図の取り方やライティング(光の設計)、前カットから想定される視線の流れ などを考慮して、視聴者が迷子にならないような画面作りが望ましい。
 ちなみに右端に見える青地の看板は、元来「マロミの看板」だったものからマロミが抜け落ちている。黒っぽいシルエット部分がマロミがいたであろう面積。 12話「レーダーマン」後半で「街からマロミが一斉に消えた」という事件を受けて、このような描写になっている。13話の後半、猪狩と月子が走って逃げる 地下通路に連貼りされたポスターからもマロミが抜け落ちていることがお分かりいただける。だが、こうした制作者側の説明もなしに視聴者がそうしたことに気 が付くとは思ってはいない。