妄想の十三「終わり無き最終回。」
-その6-

猪狩はつらいよ

 インサートされる花火の間には猪狩と美佐江の回想のカット。どちらかの回想ではなく猪狩主観の回想から始まって、美佐江主観の回想で終わる感じだろうか。回想シーンの原画は作監の鈴木美千代さんの手による。
 私は回想後半にかけての雨の中ふとんを干している美佐江、夕暮れ時の茶の間の2シーンが気に入っている。

 つらいよな、猪狩。
 無論、女房の頭が少々いかれているという事態が何よりつらいだろう。猪狩にとっては背負ってしまった重荷である。それを自分に科された運命として「そういうものだ」と引き受けて生きて行かねばならない、そう分かっていてもしんどくなることはあるだろう。
 猪狩のそうした特殊な事情と同時にここで重ねたかったのは、どこにでもあるようなコミュニケーションの不全だと思う。男女が結びつくときは実に簡単であ ろう。互いの引力に引かれて互いを「唯一の相手」だとのぼせて関係し、結婚に至る。二人で乗り越える危機があり、関係がより深まることも多かろう。しかし そうしたロマンチックな愛、劇的な愛ともいえるだろうがそうした強い感情がいつまでも持続するわけもなく、繰り返される日常生活の中でそうした劇的な愛情 が後退して行くと共に、それまで目に見えなかった互いの欠点や不快が浮上する。
「そんな人だと思わなかった」
 そうではないと思う。無論年月と共に人間は変化するが、得てしてその人が最初からそういうものだったことが見えなかっただけなのである。ここで選択は分 かれる。自分の幻想を壊したくない者は、新たに「唯一の相手」という幻想を投影できる相手を求め、再び劇的な愛に身を浸す。そして再び同じことを繰り返す ことになる。よくある構図だろう。
 猪狩はそういう選択をしない。

日常の重み

 猪狩のこの態度が正しいと思って描いているわけではない。
 猪狩とて当面の現実とは別の可能性を考えてはいるだろうし、そのことは「どんなに苦しくても(目線を外しつつ)目をそむけず、一緒に乗り越えて行くんだ」という裏腹な芝居に表そうとしている。
 その猪狩の様を「素敵だ」と思ってみている美佐江が皮肉だとは思うが、美佐江が感じているのはおそらく、猪狩の劇的な言葉そのものではなく、そういう言 葉を言おうとしてくれた猪狩の気持ちではないか。まぁ、思い込みが著しく強くなっちゃってる人だから言葉の額面通りに受け取ったのかもしれないけど(笑)
 日常生活はこの言葉のように劇的なものではないと思う。長い年月の中で起きた数々の問題や出来事を、振り返って煎じ詰めれば劇的に見えることは多いだろ うが、しかし現在進行形においてはその一つ一つはさして劇的な問題には見えないものではなかろうか。そうした小さな出来事の積み重ねが偉大な日常生活だと 思う。しかしこの日常の重さを実感して暮らしている人間はそう多くないだろうし、日常生活の偉大さは時折刻まれる「傷」によって改めて感じられる、そうい う性質なのかもしれない。「健康」と似ている。
「健康のありがたさは病気になって改めて実感できる」
 失って初めて分かることが多いのではないか。失ったときにはすでに遅いことも多々あろう。顕著な例は「死」である。
「死んでみて初めて生きていたありがたさが実感できる」
 できないってば(笑)
 覆水は盆に返らないし、死んだら元には戻らない。人間そのものであれ、人間の関係であれ、壊したら元には戻らないものである。自分が積み重ねてきたもの を無にするような真似はなるべくしたくないと私なら思う。それは積み重ねにしがみつくということではない。
 無論、積み重ねた大切なことも、時に、より「ましな」未来のためにぶち壊さねばならないこともある。ぶち壊すことも積み重ねの一つではある。その選択の 見極めは難しい。しかし「ここではないどこか」に幸福が隠されているわけではない。それは自分で積み重ね構築するものではないか。
 自分が選択した、というより自分が選択してしまったことを引き受けて生きて行くしかない。便利なリスタートなどあるわけないのだし。

 柄にもないことを書いてしまったが、この短い回想の間にうっすら提示したかったのは「男女関係の危機と乗り越え」みたいなものである。
 大きな危機にあって猪狩はすっかりおかしくなっている。美佐江は前からおかしくなっている。関係の回復は困難だ。しかし、それも猪狩が選択した結果なの である。逃げちゃいかん。関係を切るにしろ、回復や新たな関係構築に向かって努力するにしろ、猪狩は現実に向き合わなくてはならない。生きる時間はまだ終 わりではないのだ。

 美しき花火の連鎖に導かれて猪狩が辿り着くのは、現在の美佐江との対話、そして知らされる死である。
 ここで美佐江が口にする「私がよく知っているあなた」とは「いつだって現実に向き合ってきたあなた」である。美佐江は死を自覚している。死によって関係 が切れることを分かっているからこそ、せめて別れの時くらい「おかしくなっていない」あなたでいて欲しい、ということであろう。
 おかしくなっているのは美佐江か猪狩か(笑)。美佐江は常軌を逸している部分があるとはいえ、その言葉は常に「正しい」。美佐江の迫力はここにあるよう に思うし、私が最終回をたいへん気に入っているのは、おかしな人が非常に真っ当なことを言い、おかしくなっている人を真っ当に導くという捻れた構図であ る。
 死の瞬間に、別れを告げに来た美佐江の立派な態度は、己の情けなさを浮き彫りにし、猪狩は情けない自分と向き合わざるを得なくなる。覚醒の第一歩である。
 ポジティブな覚醒はネガティブな己を自覚することから始まる。