妄想の十三「終わり無き最終回。」
-その12-

月よりの使者

 不意に「チビ」を思い出してしまった。「チビ」は私が幼少の頃、釧路の家で飼っていた犬だ。私がせがんで近所からもらい受けて飼ってもらったくせに私は ろくに世話をしなかった筈だ。子供は自分の都合でしか動物に接しない。「チビ」はある時、猫に襲われて片目が潰れてしまった。冬の雪の日にもその目を消毒 してやったのはお袋だった。親父の転勤で札幌に移ることになったが、そこは集合住宅だったので「チビ」を連れてゆくわけには行かなかった。「チビ」と小学 校4年生の時に別れたきりで、その後どういう最後を迎えたのか分からない。
 私が大人になれないのは正しく「チビ=子供時代の死」を迎えなかったからだろうか。そうかもしれない。
 そんな話はともかく。
 C.270は空舞台にマロミがイン。このシーンはシナリオでは特に舞台が指定されていないが、「草の匂いをクンクンと嗅いでいるマロミ」とあったので何 となく公園がイメージされた。公園は緑が多くて大変好都合だと考えた。背景が比較的楽だ(笑)という些細な事情ではなく、草や樹木の「緑色」が重要であ る。このシーンで印象づけたい血の「赤色」を際だたせるために、赤と補色関係にある「緑色」を画面に配置するという狙いである。なのでシーンを始めるにあ たっても緑を配するようにした。
 ただ、撮出し時に私の加工で全体に黄色くなりすぎている。ちょっと失敗。
 マロミの後ろ姿に月子のセリフがかぶる。
「ほらぁ〜もう行くよ、マロミィ」
 能都さんの甘ったれた感じの声が非常にいい感じだった。キャプションにもあるように、ここでの月子は「わざとらしく困って」みせている。子供が動物に接 する際、動物を「子供扱い」する態度はよく見られると思うが、この月子も同様で、つまりは「お母さんごっこ」である。お母さんごっこをしていたら、本当に お母さんになるための準備が来てしまった、という皮肉が重ねてある。

 私はこれまでに初潮を迎えたことがない。これからもないだろうし、それがどういう感じなのか決して分かることはない。だいたいそれが訪れる時、こんな劇的な様なのかどうかも分からない。もっと緩やかなものかもしれない。私にはさっぱり分からない。
 分からないものを描くとは言っても、分かったように描く必要もあるのだが、参考にするようなものが身の回りにない。飲み会で女友達が失恋などについて 語ってくれることはあってもさすがにそれについて私に向かって喋るようなことはない。あんまり飲み屋のテーブルに相応しいネタじゃあない。
 お恥ずかしい話だが、私にはそれを描くための雛型としてはたった一つしかない。くらもちふさこの名作漫画「おしゃべり階段」で主人公が初めてそれを迎えるシーン。これだけ(笑)
 なので、ここでの演出もその記憶に依拠している(笑)

 ここの月子を描くにあたっては「肉」を大切にしたつもりである。特にふくらはぎ。腿に圧迫されて平たく潰れた感じのふくらはぎ、ここに「肉」を表そうとしてみた。月子の背後に見える公園のスツールが赤色なのは無論「血」の象徴。
 血と肉から逃れられない、という感じを重ねてみた。さらに次のカットでマロミが車に轢かれて死ぬ、という繋がりで「血」「肉」は「死」から逃れられないことも暗示したかったが、したかっただけに終わっているかもしれない(笑)

マロミの死

 C.276は無論マロミの死に気づいた、ということであるが、先の流れを考え合わせると「この時点で月子はほとんど(“血”“肉”は“死”から逃れられ ないという)事態に気づいて」しまった、というイメージでもある。ではそれが作画や芝居にどう影響するのか、といっても、そんなイメージを伝えても描き手 も困るだけだろうからそういうことは頭の中に閉まっておくことにしている。
 コンテはなるべく具体的な方がいいと思うので、ここでは単純に「マロミの死」に絞って芝居を付けている。「ハッと目を見開く」「しばし固まる」「ゆっくりと画面左手を向く」といった具合。だが私としてはこの芝居にこういうイメージも託している。
「内部で起こった何か分からぬ変化に出会い、自分はいつか必ず死ぬのではないかということに一瞬にして気が付いて“ハッと目を見開”き、そのあまりの衝撃的な直感に“しばし固まる”。そしていま目の前にもたらされた死へ“ゆっくりと”目を向ける」
 その月子の視線を受けて次カットは血のカット。

 流れ落ちる血は月子内部を流れているそれを暗示してもいる。
 もっとあざとくやるならば「ドロッとした」血にするのだろうが、下品に過ぎる気がして(十分下品かもしれないが)、「薄め」の表現にしてみた。私は何も忌まわしいものとしてだけそれを捉える気はないので、くどい血は避けたいと思った。
 血の表現にはいつも考えさせられる。セル表現では「濃いめ」の血は表現しやすいのだが、サラッとした血はなかなか上手く行かない。濃いめの血は加工を足 して行けば何とでも出来る。作画なら影やハイライトを入れるといった工夫も出来るし、特効で質感を加えればさらに感じは出るだろう。だが、薄目のサラッと した血は加工すればするほど遠ざかる。なのでここでは作画的には細い影を入れるだけにとどめて、厚ぼったくならないようにして、さらにノーマル色を撮出し 時に分離してここだけ「透ける」ような処理を施している。
 また構図を縦に深めにしているのは、奥の方まで血の繋がりを見せることで「続いて行くこと」を暗示したかったからだが、ちょっと奥行きが足りなかったかもしれない。

上がセルと背景を組んだだけの素の状態で下が撮出し後。上の画像はjpg圧縮の都合でセルにテクスチャ風の質感が乗ってしまっているが、本来フラットな塗り分けの状態。セルの塗り分けだけだとどうしても「ベッタリ」とした質感になるので多少加工したのが下の状態。

  またもや念のため断っておくが、こうした言語的解釈はこのテキストを書くために当時を思い返し、補足しつつわざわざ言葉にしているのであり、言語的なイ メージから絵を作っているわけではない。絵を描きながら同時にその意味が言語的にも了解されることがほとんどで、ほとんどビジュアルイメージが先行する。