妄想の二「総監督の謎」

監督不在

「妄想代理人」における私の正式なポジションは「原作」「総監督」「世界が認めた才能」ということになっている。冗談冗談。(知 らない人がいると本気にする可能性もあるので念のため説明しておくが、「東京ゴッドファーザーズ」や「妄想代理人」の宣伝において、「監督・今 敏」には「世界が認めた才能」という甚だこっぱずかしい惹句が冠されていたのだ。あまりに恥ずかしいので自分で使い倒してギャグにしてしまおうという魂胆 である。くれぐれも本気にしないでいただきたい)
「原作」はともかく、しかし「総監督」というこのクレジットは少々不可解である。「総」監督というくらいなのだから「総」ではない「監督」がいて然るべきなのだが、実際には単なる「監督」というポジションは存在しなかった。
 監督が存在しないのに総監督とはこれ如何に。

「妄想代理人」全13話は、そもそも私が監督する予定ではなかった。
 企画の当初から、私は「原作」だけを担当し、せいぜい脚本の2〜3本も書けば良い、くらいのお気楽なつもりでいた。そしてテレビシリーズ制作中に私は別 な劇場作品の企画を進めるつもりでいたのである。ずるい、と言ってはいけない。世の中はそんなに甘くはなかったわけだし、おかげで私の白髪は増大の一途で ある。
 だいたいが「妄想代理人」は私の過去の監督三作品で吸収出来なかったアイディアの再利用として企画された面が大きく、過去作品とイメージで抵触する部分 が大きくなるのは目に見えていたので、私自身が監督しても目新しさはないと考えていた。平たくいえば、一度やったようなことを同じ人間が繰り返すのでは芸 がない。しかし、同じことでも別な観点を持った人間が監督をするのであれば、当然目新しさが生まれてこよう。それゆえ私は積極的な態度で原作というポジ ションに後退するつもりであった。後退はするが原作者の印税は確保するという下心も携えつつ(笑)
 なので、「妄想代理人」が企画され、実際に制作がスタートした時には監督のポジションは不在であった。監督なきままに「妄想代理人」のシナリオ制作はスタートしたのである。
 シナリオ制作にかかったのは2002年の10月のことであろうか。とりあえず自分で1話のプロットに手を付けた。その後シリーズ構成・脚本を担当する水上清資氏と初めて顔合わせしたのが11月も末のこと。
 脚本シリーズ構成を担当してもらった水上さんは実に得がたい方であった。水上さんとはこれが初めての仕事で、ザ・マッドハウス丸山さんに紹介してもらっ た人物であるが、今思うと他には考えられないくらい「妄想代理人」という作品にうってつけの才能であり、また水上さんにとってもこうした作品に関わる良い タイミングだったのではないかと思う。
 また「妄想代理人」で初めて脚本を書いた吉野智美さんも良いタイミングで本作に参加したのではないかと思われる。
 吉野智美、当時若干23歳。
「世界が認めた才能」40歳が監督する作品で23歳の若者が初めてシナリオを書く、というのは異例と言っても良い。私が言うのも何だが(笑)
 彼女は文芸志望の制作進行だと聞いていた。
「脚本書いてみたい?」
「書きたいです」
「では是非」
 簡単である。脚本を書いたこともなければ、書けるかどうかもよく分からない人間に、テレビシリーズとはいえオリジナルの脚本を任せるというのは冒険であ る。とはいえ元々各種の冒険を意識したシリーズ企画ではあるし、吉野さんは制作進行として「東京ゴッドファーザーズ」で非常に優秀な仕事ぶりを見せてくれ ていた。私は果敢に仕事に取り組む人間には門戸を開放するよう心がけている。反面働かない人間はすぐにパージする。怠け者は出て行け。仕事場に来ちゃあ カップ麺ばかり食ってグーグー寝ているようなバカ者に用はない。

「チャンスは誰にでも必ず訪れる。それを捉えて次に繋げられるかどうかが問題なのだ」
 といったのは私である。何の捻りも含蓄もない平凡な意見だ。平凡だがこれを実現できている人はあまり見かけない。吉野さんは5話を掴んだ。かなり苦しみ ながらのキャッチだったかもしれないが、ともかくチャンスの尻尾を離さなかった。だから10話のシナリオに繋がったといっていい。実際、5話でもう懲りた かと思ったのだが、10話のシナリオ担当が不在の時、吉野さんは「私やりたいです」と手を上げた。チャンスは繋ぎ続けてこそ、である。
 吉野さんは5話と10話という実に微妙な話数を担当してくれた。5話など初めてシナリオを書く人間にはあまりに重荷という気もしたが、水上さんと「世界が認めた才能」がバックについているのだ。何とかなる、と踏んでいた。わっはっは、大人だな。
「大人になると余裕が生まれるのではない、余裕を持つことで大人になるのだ」
 といったのは私である。これも含蓄はないのであまり本気にしないように。
 各話数のシナリオに対する雑感やエピソードなどは後に譲るとするが、作品制作のプロセスにおいてシナリオを非常に重要視している私が、自信を持ってこう言う。「妄想代理人」全13話の脚本にまったく不満はない。
 無論たいへん良く出来ている回もあれば、まあまあの回もあろうが、レベルを保つことが重要である。わずかばかりの傑作があって、他はひどい、というので はシリーズとして成り立たない。各話それぞれも無論大切だが「妄想代理人全13話」というトータルイメージこそが私にとっての作品である。何しろ私は原作 者にして総監督だ、わっはっは。
 そして全話数のシナリオが想定していたレベルを堅持できたことで、私としては「妄想代理人」の企画意図は半分以上達成できたといっても過言ではない。
 タイトな時間的人材的金銭的制限が予測されるテレビシリーズにおいて、至らない点が続出するであろう演出・作画・背景などなどを補えるのはシナリオしか ないという心づもりであった。つまり、「あまり絵は良くないことがあっても見ていて面白い」、これを防衛ラインと心がけた。視聴者においてはそれぞれ好悪 はあろうが、私は「妄想代理人」のシナリオはどれも良く出来ていると思う。
 水上さんが加わってくれたあたりから、話作りは本格化したように記憶しているが、その前段階で制作プロデューサー豊田君と、設定制作となる吉野さん、そ して私とで雑談しながらアイディアを出し、どういった方向でどういうネタを扱うかを大雑把に進めていた。2、3、4話あたりはその時に出したアイディアが そのまま生かされているのではないかと思える。といってもアイディアの状態は概ね次のよう。
「少年バットのせいで一転していじめられることになる小学校の優等生」
「いじめられることになってしまった小学生の家庭教師は夜の蝶」
「ささやかなマイホームのために悪事を重ねる悪徳警官」などなど。
 要するにどういう人間が追いつめられて少年バットを呼んでしまうのか、といった被害者のバリエーションは用意していたように思える。
 全13話のうち水上さんが11本、吉野さんが2本という内訳だが、1話に関しては私が初稿に近い形でプロットを書いた。何しろ原作者にして後に総監督に なる人間が、作品をよく把握していないのでとりあえず自分で書いてみて感触を確かめようという腹づもりであった。
 原作者のくせして作品を把握しもせず制作に取りかかったのか、と思われる向きもあるかもしれないが、それは順序を取り違えているというもの。
「把握しているから作品を作るのではない。作ることによって把握するのだ」
 といったのは私であるが、どこかで聞いた言葉なのだろう。

少年バットによる被害者第一号

  シナリオは順調に進んだと記憶しているが、一方、「監督」はいつまでも不在のままであった。候補は具体的に幾人かの名前が挙がったが、能力のありそうな人 間は当然他の仕事を抱えており、未知数の人はあまりに能力的に不安が大きいなどの理由もあって実際にオファーに至ったケースはほとんどなく、あってもプロ デューサー側からNGであったりして決定打が出ることがなかった。いや決定打どころかヒットもなければゴロもファールもありゃしない、という状態でバット にかすりもしないのである。
 少年バット、不発。
 この事態に業を煮やした少年バットが、その凶悪な金属バットで殴りつけたのが、誰あろう! 私であった。少年バットの持つ金属バットが“くの字”に曲がっているのは、最初に私を殴りつけた際に曲がったのだ。きっと。
 監督は私。私になってしまった。まったく一寸先は闇なことだよ。本当は途中から段々と「そうなるんじゃないかなぁ……」と予測はしていたのだが。
 私のいい加減な日誌から引用する。

2003/5/7 (水) 14時から打ち合わせ予定。14時から「妄想」打ち合わせ。5話のシナリオチェック。アイディアは出揃っているのにもうひとつ。5話は一度私が預 かることに。7話のプロット。サブタイ「MHz(メガヘルツ)」。7話で猪狩や馬庭たちのくだりにひとまず区切りをつけて、8、9、10、出来れば11あ たりまで「フリーな回」にする方向でまとまる。引き続き18時から4話の演出・作監と打ち合わせ。
「妄想」における私のクレジットは「総監督」にする方向で決まる。

 しかし、ここでも私は態度が煮え切らなかったのかもしれない。だいたい、劇場作品のように自分が監督してすべてのカットをチェックするならともかく、シリーズの監督としてチェックの対象になるのは各話の演出さんの仕事内容である。
 それぞれ個性を持って作家意識すら芽生えているかもしれない演出さんに、同じ演出、それもたかだか劇場を3本作っただけのキャリアの浅い人間が、監督の 立場として各話のコンテにOKを出したり、NGを出したりするのが不遜な気がしたのである。どんなに私の目にはおかしく見えるコンテであっても、その人な りの価値と意図があって設計されているに違いない、と思っていた。しかし。後になって随分考えを改めざるを得ないことはよく分かった(笑)
 元々自分が監督するのではなく、出来れば私とは違ったタイプの演出家に監督をお願いしようと思っていたこの「妄想代理人」という企画は、まず監督の人選 で大きく方向転換を余儀なくされ、さらには上記のような心理的背景もあって、私としては「監督−各話演出」という図式を呑み込むのに少々時間がかかってし まい、「総監督−各話監督」というイメージで考えようとしたのである。しかし蓋を開けてみてすぐにこれも方針を転換せざるを得なかったのである。
 というのも。「各話監督」とは「好き勝手にしてよい立場」と思いこむ人間がいたからである。確かに私は各話の演出さんに対して「好きにして良いですよ」 といった発言をしたと思うし、出来る限り各話演出さんが意図する方向で各話に個性を出して欲しいとは思っていた。演出にあたってはなるべく自由度が高い方 がいいことくらい、私自身が経験してきている。だが、あくまで「作品」「仕事」という枠組みは自覚した上での「自由」である。
「自由とわがままの間には天地ほどの開きが横たわっている」
 といったのは私である。
 日本は広く自由が許されている国だと思うが、気に入らない人間を殺す自由だの税金は払わなくても良い自由などあるわけもない。最低限のルールはある。ア ニメーションの仕事では、最低限のお約束が明文化されているわけではないので、人によって、最低限のルールが異なるのは仕方ないとは思う。
 だが作品の枠組みを考えもせず自分の都合で作品を好きに仕事をしても良い、そんな監督がありうるわけもないだろうに。監督や演出に憧れちゃってる人の中には監督は一番エライ「権力者」くらいに考えてしまうのだろうか。
 恐れ入った。世の中と人間に対する己の無知を痛感した次第である。
 こうした方々を「暴走代理人」と呼ぶことにする。
 この「暴走代理人」たちを許容しては「妄想代理人」という作品が、作品として成立しなくなってしまう。私は多様性に対しては出来る限り開かれた態度であ りたい、と常々望んではいるが、私自身の社会的機能も全うしなければならない。よって、原作者・総監督として作品を守るために通常のシリーズに倣って「監 督−各話演出」という考え方に落ち着いたのだが、何故かクレジットにだけ「総」の字が生き残ってしまった、というのが「総監督」という不可解なクレジット の背景である。

 長い前置きが済んだところで、まずは1話から順に振り返ってみる……のがオーソドックスな展開かもしれないが、「暴走代理人」の話題が出たついでに、まさにそれが現れた話数から振り返ってみる。