妄想の三「金の苦痛」
-その1-

暴走代理人

「東京ゴッドファーザーズ」制作もほぼ終盤を迎えた頃、「妄想代理人」はすでに制作に入っていた。担当者が決まった話数は順次コンテに入っていたはずで、最初にコンテに入ったのが4話、次に2話であった。
「暴走代理人」が最初に現れたのはこの第2話「金の靴」である。暴走代理人は他にも存在したが、基本的に彼らには共通点がある。そしてさらに暴走代理人たちはまるで2話のイッチーを思わせるのが不思議なところである。イッチーみたいなかわいげは全くないが。
 10話「マロミまどろみ」の制作状況が10話の内容「スケジュールが壊滅した制作現場」とイメージが重なってしまったように、2話もしかり。不思議と制作している作品と制作現場は奇妙な偶然の一致を見せることが多い。
 さて暴走代理人とイッチー、両者のイメージがどうダブるか。ごく簡単にいえば次のようにまとめられる。
「自信があるのは本人だけであった」
 痛いわな(笑)
 しかも、多少自信を持つのが無理もない功績とそれに対する周囲からのレスペクトを受けていたあたりも、成績優秀スポーツ万能で人気があったイッチーと重なる。
 だが大きく異なる点が一つある。ちょっとここで2話本篇のあるシーンを振り返ってみる。


 C.180
 夕景。
 街並みの向こうを電車が横切って行く。
 優一(M)「なんでだろう……」

 C.181
 住宅街。
 トボトボと歩く優一の影、BG、FOLLOW←。
 優一(M)「なんでこんなことになったんだろう……オレには関係なかったのに」

 C.182
 トボトボと歩いている優一、FOLLOW←。
 優一(M)「通り魔なんて何の関係もない事件だったのに……」

 そうなのだ。イッチーは別に何も悪くないのである。ごめんな、イッチー。
 イッチーの悲劇はもちろん本人の性格に由来する部分があるとはいえ、基本的には少年バット通り魔事件という外因によってもたらされる。が、暴走代理人はそうではない。
「本人だけが悪い」
 本人だけが悪い、というのはあまりに一方的に思われる向きも多かろう。私も事の一面だけを見て白黒を決めつけるような態度は大嫌いだし、極力戒めている つもりではある。しかし、色々な事情を差し引き、周囲の反応を考え合わせてもやはり本人だけが悪いとしか言いようがないことは実際にある。どういう事情や 言い訳があれ、次のような行為は社会性の欠落として断罪されても仕方ないと思われる。
「引き受けた仕事と自分が頼んだスタッフを一方的に放り出して逃げ出す」
 2話における当初のコンテ・演出担当者はこれをしでかした。
 アニメーション業界において仕事を放り出して逃げ出したケースはこれまで多数ある。他ならぬ私もそうした真似をしたことがあるし、原画マンなどのレベ ル、メインスタッフではないレベル、という意味だが、そういうところでは「よくある話」として片づけられる。
 しかし、演出担当、しかも演出本人の希望で作画監督の人間までオファーして、作監がいざ明日から仕事を始めようか、という準備万端整えられた状況におい て、頼んだ相手になんの断りもなく、自分勝手に仕事を放り出して逃げ出す。これほど社会性の欠如した真似をしでかして許されるほどアニメ業界も人はよくな い。
 私は暴走代理人が仕事から逃げたことをとやかく非難するつもりはない。決して褒められた真似ではないだろうが、しかし「仕事をしてみたら合わなかった」ということはどうしたってあるだろう。これがそのケースにあたるかどうかはともかく。
 私がどうしても引っかかるのは、暴走代理人自身が頼んだスタッフを放り出した点にある。広い意味での演出家(監督も含む)はスタッフなくして成り立たな いポジションであるにもかかわらず、そのスタッフからの信用をゼロにするのは、演出能力以前に「失格」であると私は思う。

痛い喜劇

 事の発端は暴走代理人の描いたコンテにある。
 ほとんど使えない内容であった。
 その旨を伝え、具体的に修正箇所も提示し、改稿をお願いしたら翌日返ってきた答えがこうだ。
「出来ないのでやめる」
 ただそれだけである。
 第2話における暴走代理人登場と逃亡の顛末はこれだけだと言ってもいい。
 暴走代理人が描いたコンテを使えないと判断したのは最終的に私だ。
 なので、私にも原因があるし、私のやり方が間違っていた面もあると思う。だいたい人を見る目がなかった私の責任はあまりに大きい。私は彼を信用してしっ まっていたし、「自分の好き勝手にして良い」と勘違いさせてしまった責任は私にもあろう。迂闊に人を信用してはいけないし不用意な発言は慎まねばならない という教訓を痛感した。暴走代理人を演出失格という以前に私も総監督失格である、と言われても仕方ないとは思う。後々、私はその欠格を贖うためのツケを払 うことになるがそれは後述する。
 さてその問題のコンテ。私の好悪を別にしてもコンテとしての機能が著しく欠損しているものに対して、「これでは機能しないので修正してください」というのは監督の機能である。
「監督とは指示を与えることよりも作品を形作るフレームとして機能するものだ」
 といったのも私である。
 お。なんだか名言に思えてきた(笑)

 つまり監督は「何をするべきか」の指示を出すことより「何をしてはいけないか」という枠組みを提示する形で機能する、ということだ。確かに実作業におい てはこういう面の方が大きい。(どういうイメージの作品にするのか、いわば「何をするべき作品なのか」という方向を指し示すのは、絵の実作業に入る前にか なりの部分が終わっていると言っても良い)
 こうした「枠組み」としての機能は監督よりもプロデューサーに顕著だろう。大雑把に言えば、監督は「作品の在り方」の枠組みとして機能するのに対し、プロデューサーは「制作の仕方」の枠組みとして機能する。
 制作の仕方、というのは具体的に言えば、この作品ではセルや動画を何枚使って良いのか、スケジュールはどこまで使えるのか、各スタッフにはいくらまで払えるのか、スタッフは何人投入できるのか、といったこと。
 例えばある演出家が「3Dをふんだんに使いたい」と要求しても「そういうスタッフは予算で贖えないからダメです」といった形でもっとも顕著に機能する。
「あと二日だけ作画期間を伸ばしたい」「動画と仕上げの時間を考慮するとこれ以上伸ばすのはもう無理です」
「演出助手を一人付けてもらいたい」「そこに割ける予算はありません」
「この話数はスペクタクルで行くか!モブシーンもドーンと!」「人も金もありませんってば」などなど。
 主に期間的、予算的な問題が多いと思うが、制作現場においてプロデューサーは制作状況全体を俯瞰する専門職といえる。納期を守れるように、赤字を出さな いようにしながら、選択しうる範囲の中でもっとも作品を良い形にするために、弾力的な判断を心がける。俯瞰する専門職は杓子定規な判断では勤まらない。
「何かをしてはいけない」という形で機能するということは、健全かつ十全に作品が運営されている状態ではプロデューサーというのは存在が消えて行くもの だ。「してはいけない」という「壁」に当たらないということは、その制作状況は枠組みに上手く収まっているということだ。「収まっている」と書いたが、絵 を描くスタッフが収めているから枠組みに「収まっている」とは限らない。収まるようにプロデューサーなり制作サイドが枠組みそのものを上手く広げたりずら してくれているから「収まっている」ことが多いのだ。しかし絵描き側はそういう知らぬ間にされた配慮に気付かないことが多い。
 見えないファインプレー、といういい方があるが、賢明なプロデューサーとはそうした「問題が起こりそうな部分を先回りしてフォローする」ような人間を言 う。誰にでも分かりやすい「ギリギリのファインプレー」は、「ギリギリ」にまでしてしまった方に問題がある、と考えるのがプロデューサーの立場と思われ る。
 なので賢明なプロデューサーは制作現場においてはその存在感が希薄になるのである。同様に、各話数において監督の仕事や関わりが増えるのはあまり健全な状態ではないといえる。

 暴走代理人は御本人なりの解釈があって、彼なりに筋の通ったコンテを描いたつもりであったかもしれないし、素晴らしい傑作を描いたつもりだったのだろ う。だが御本人以外誰一人としてまったくそうは思わなかった、どころか周囲はその機能不全に頭を抱えていたのである。
 もし私だけがそれを「ひどい」と思い、周囲が「そこまでひどくはない」というのであれば、いかに総監督というポジションであっても一方的に断罪すること など不可能である。しかしこのケースでは満場一致でNGなのである。別に民主主義で作品を作っているわけではないので、だから私の主張が正しいという気も ないが。
 皆が頭を抱えており、そして本人だけがそれを知らない。痛い悲劇ともいえるが、かなり滑稽でもある。周囲の様子に気を配れない人間には演出というポジ ションはけっこう難しいと思うのだが、そういうことには気がつかないのか、気がつきたくないのか。おそらく両方なのであろう。
 この周囲とのズレが彼だけには分からなかった原因は、彼には次のことを考慮する態度が欠落してからではないか。
「私は無能かもしれない」
 暴走代理人は今回が初演出になる予定だった。彼は原画マンとして優秀なキャリアを重ねてきたと思うし、実際素晴らしい原画の技術を持っていると思う。要 求される芝居を飲み込む能力も高いと思う。だからこそ彼を信用し、彼がなるべく自由にコンテ演出を出来るように私も可能な限り配慮していたつもりである。 それが仇になったのは返す返すも残念である。
 原画マンとしての能力と演出としての能力はイコールではない。仕事として重なっている部分はあるが、まったく違う種類の仕事なのである。実写や舞台の役 者を考えればお分かりいただけよう。役者と演出家は全く別の能力を必要とされることくらい素人にも想像がつくはずだ。また役者で実績のあった人が監督をし ても必ずしも上手くないことなどよくあるケースだ。
 自分の知らない新しい仕事にかかるときは、それまでのキャリアは一旦脇によけて「ずぶの素人」として再出発しなければならないと私は思う。そうした謙虚 な態度でなければ「習う」ことは出来ない。自分の無能さを自覚することから「習う」という態度が生まれるのではなかろうか。
 ここでいう「習う」は、教えてくれる特定の誰かがあってのことではない。もちろん、監督や周囲のスタッフなど多くの人に教えを乞うこともあろうが、「作 品」そのものも含んだ広い意味での「場」で習う、というようなことである。しかし私が思うに暴走代理人の態度はこうだったろう。
「習わなくても私は最初から演出が出来る。なぜなら私には原画マンとしての実績と評価を得ている有能さがあるから」
「なぜなら」以後の部分はまったく根拠になっていないと私は思う。

監督の機能

  そのコンテがシナリオ内容の半分にも応えられていない、だとか、カットの繋がりが明らかにおかしいところがある、といった機能不全の具体例を細々とここに 記してもさしたる意味もないしそんな無駄なこともしたくないので、素人さんにも分かりやすく簡単に記すとこういうことだ。
「度が過ぎるほどつまらない」
 シナリオ通りにカットを割って行けばさほど問題のない筈がシナリオの10分の1以下の内容になっている、というより何の話だか「さっぱりわからない」ことになっている。作品どころから商品にすらなっていない。
 ここで少しばかり暴走代理人の側に立って弁護もしてみる。確かに当初の予定では「総監督−各話監督」といったイメージで各話数演出担当者に仕事をお願い していたかもしれない。人手不足の折、「監督」というクレジットで甘言を弄したケースもあるだろう。しかし、である。
 仮に各話数に対して「監督」という立場が許容されたとして、本当に「監督というポジションは何でもして良い」と思っているのだろうか。
 監督は権力者ではないし、ましてや専制君主でも独裁者でもない。仮に予算も企画もシナリオもコンテもすべて自前で用意した監督がいたとしても、その内容 がつまらなくて制作の運営の仕方が独裁者的であるなら、いかに賃金が良くてもスタッフは集まらないし、ついても行かないものである。健全なことに、有能な 人間は金で動かないことが多いのがこのアニメ業界である。だからといって金で動く人間に有能な人材がいないわけではないし、金に媚びず我を張る人間がすべ て有能なわけでもない。当然だが。

 監督は多くの専門職の上に立っている。しかしそれは他のスタッフより立場が上であり権力的ポジションにあるということではない。監督はいわば「俯瞰する 専門職」であり、いわば調整役であり作品の舵取りである。全体を俯瞰し完成へと導くように各セクションに指示は出すが、偉いから指示するわけでもないし、 指示するから偉いわけでもない。単に指示を出すポジションだ、というだけなのである。
 各セクションの専門職の人は、隣やその隣のセクションの事情が分からないのだから、そうした全体を俯瞰する人が適切に指示を出さないと、制作現場が全体として機能しなくなる。作品や制作現場は生き物だ。
 それを勘違いして短絡する人が多い。「監督は好きにして良い」。馬鹿げている。
 監督は何より、各セクションに対してまず敬意を持たなければ成り立たないポジションであり、同時に各セクションからの敬意と信用を手に入れられなければ 成り立たないのである。俯瞰する立場の人が信用できなくて、自分の仕事を安心して預けるわけがない。私は専門職の立場で仕事をする時にはそう思っていた。
 今回の場合のように初心者素人演出が、ろくに作劇やシナリオのことも知らなければ日本語すら覚束ないにもかかわらず、プロで飯を食っているシナリオライ ターが書いたものに対して、自分だけの都合で手を入れて良い筈がない。ここに相手に対する敬意はない。自分がシナリオを読めていない、という可能性もまっ たく考慮されていない。習うという態度が欠如している。あるのは「自分が監督だから」という子供じみた思い込みだけである。

 逆の立場で嫌な経験を多分にしてきたであろうに。
 過去自分が専門職という立場で参加してきた時に「信用できない俯瞰的立場の人」にたくさん出会っているはずではないか。そういう人間によって自分の折角 の仕事が憂き目に遭い、不快な思いを重ねてきたいわば「被害者」であったにもかかわらず、自分が俯瞰的なポジションに立ったとき、自分が「加害者」になっ ているという逆の可能性がまったく考慮されない。想像力が貧困に過ぎる。
 私もこれまで他人の脚本に手を入れてきた。それは「監督」というクレジットによって許された面はあるにせよ、シナリオライターを納得させるために能力と 技術を積んで得た結果である。仮にライターが納得しなくても共に仕事をしているプロデューサーやスタッフたち周囲は私の修正に納得した筈である。そうでな ければいかに「監督」というポジションがあったところで、私が指示を出すべき相手が、作品にとっていい仕事を協力的にしてくれるわけがない。
 もちろん各スタッフはプロなのだから、それぞれの専門職において最低限の仕事は果たす。たとえ良くない状況でもそれ以上に仕事をする人も沢山いる。しか し、それは監督の指示でするのではなく、単に仕事だからするのだ。それを監督に対する敬意と履き違えてはいけない。

 重要なことを忘れていた。監督には、単純に「俯瞰し指示を出す専門職」という意味合いとは別に、もう一つの意味が付帯している。「作家」といったニュアンスの方だ。「監督になりたい」と思う人の大半が思う監督とは作家的な立場のことを指すのだろう。
 こちらを手に入れるのは容易ではない。だいたい手に入れるといった類のものでもないし、職業的立場でもない。そうした作家的な監督は、クレジットによっ て監督として見なされるのではなく、その仕事の仕方と成果によってのみそう認められるものだ。「周囲が認める」のだ。自己申告でなれるものではないし、決 まった段階を踏めばなれるものでもない。
 こうした監督に憧れちゃってる暴走代理人なんかはさながら作家気取りだったのだろうし、作家の言うことは周囲は納得して聞くものであるという、そら恐ろ しい前提に立っていたのであろう。だから「改善」のつもりで脚本に対しても好き勝手にしていたのかもしれないが、目の前にいる総監督一人納得させられない のでは話にならない。周囲を納得させるだけの能力がなくて、なぁにが「監督」だか。ましてや私は「世界が認めた才能」だ、わっはっは。
 私がもし「世界が認めない才能」だったとしても、改悪どころか商品にすらなり得ないコンテを黙って看過するわけには行かない。よって監督の機能を全うす るために私はNGを出し、具体的な修正案すら提示しつつ改稿を要求した。その結果が「出来ないのでやめる」という答えであったと先に書いた。暴走代理人が 要求したスタッフも、彼のために制作が声をかけ準備していたスタッフもすべて無駄になった。
 そして2話は宙に浮いたのである。

 さて不愉快な話はこのくらいにして……え?もっと聞きたい?
 ダメ。このテキストに「パーフェクトブルー戦記」のような内容を期待してはいけない。実際、私は「妄想代理人」制作において、それほど嫌な思いもせず、 ひどい局面にもあってはいないので、いかに楽しかった、何を得たかをポジティブに振り返ろうと思っている。そのくせのっけから暴走代理人の話もないだろ う、という突っ込みには耳を塞ぐことにする。
「何ごとにも例外はある」
 そういったのは誰かは知らないが、私もその通りだと思う。

コンテのハードル

 ではその後の2話の顛末に進む前にシナリオとコンテの関係についてなど。
 あくまで私個人の感想だが、「妄想代理人」全13話中、もっともコンテ・演出が難しくないと思われるのが2話であった。他には3、4、8あたりがさほど高度な演出をほどこさなくてもこなせるシナリオと思われる。
 勘違いしないでいただきたいが、内容が楽だとか作るのが簡単だと言っているのではなく、シナリオをコンテに起こす際要求される難易度の問題であり、面白 さともあまり関係がない。それにどの話数も決してコンテ・演出が易しいとは私も思わないし、全体のレベルとしてコンテ・演出を初めすべてのプロセスが易し いテレビシリーズではなかろう。「編集」をお願いした大ベテランの瀬山さんがまずこの仕事を引き受けるにあたって躊躇されたと仰っていたし(内容的なこと よりが肉体的に負荷が多いという予測もあったであろうが)、こんな言い方もされていた。
「こんな難しいものを、みんな(話数演出担当者)よく簡単に引き受けるなぁ(笑)」
 そんなにいうほど難しいとは思わないのだが。

 私は「妄想代理人」という企画の一側面として、演出を志す者、腕を磨きたいという向上心のある演出さんに練習場所を提供するという性格も考え合わせていた。無論私も含めてだ。私ももっとコンテ・演出の数をこなしたいのだ。
 そのためにも揺るぎの少ないシナリオを用意しようとも思っていた。コンテを描く際、シナリオの修正から必要なようでは演出初心者にはまず荷が重すぎる、 どころか無理といって間違いない。カットを割ることもおぼつかない人間にシナリオを触らせると必ず改悪という結果を招く。
 シナリオに書かれたことに従ってただ素直に絵を作っていけば面白さを外すことはない、コンテ・演出が難しくないシナリオとはそういうこと。無論、作画的な演出はまた別の話。
 逆にコンテ・演出が難しいと思えるシナリオは1、6、7、11、13話あたりだろうか。5話も難しいか。「千年女優」でこうした手法をとって来ただけに 私はあまり苦にしないが、やったことがない人には少々面倒かもしれない。本来繋がらないようなカット同士をイメージや動きを重ねて繋いで行く、という手法 は慣れも必要なら、そうした手法そのものへの興味がないとやはり難しい。オーソドックスだけでは通用しないこともままある。
 10話は違う意味で難しい。演出技術というより同業者に対する気の使い方が難しい。実際、10話を依頼した人の何人かはその内容ゆえに固辞したと聞く。
 曰く「一緒に作る制作スタッフをバカにするようなものは出来ない」
 そうではないだろうに。10話は決して制作進行をバカにしているわけではない。単に困った人はどこにでもいる、という話である。
 とりわけ難しいのが6話であろう。タイトル「直撃の不安」が示す通り(このタイトルもやや不自然で不安なのだが)、この話数において描く対象となるのは 「不安」である。不安を直接描くというのはまず無理な相談である。直接描写できないものをどう描くのか。コンテ・演出に慣れた人間でも恐らくおいそれと出 来まい。私ですら6話を担当するとなるとよほど頭を捻らざるを得ないし、上手くできるかどうか、それこそ不安である。
 不安は直接描くのではなく視聴者に何だかよくわからない不安を感じさせることによってのみ描き得るのではないか。この何だか分からない、という性格にこ そ不安は現れている。対象がはっきりしている場合は「心配」ということになる。心配なら描きようもあろうが、不安となるとどうにも難しい。
 そのあたりのことはまた後に記すとするが、6話が困難であることはシナリオの段階から分かり切っていたことで、私としては立場上1、6、13話を担当せざるを得ないと考えていた。私の能力の問題ではなくあくまで「原作・総監督」という立場に起因する。
 1話と13話は内容的にどうこう言うより、その第1話と最終回というポジション、性格上、引き受け手がないだろうし監督が引き受けねばしかたのない話数 である。そして量的なことを考えても私は3本以上コンテ・演出は出来ないだろうし、残る一本と言えば余人にはお願いしづらい6話を引き受けるつもりでい た。1と13のちょうど間にある話数だし、スケジュール的にも問題もないだろう、という判断もあった。
 しかし、その予定は制作がスタートし始めてすぐに脆くも崩れた。2話のコンテ・演出が敵前逃亡したことによる。
 初期段階でのこのつまづきによってその後のシリーズ制作に大きな支障を来たし、しかし結果その深手を各スタッフがフォローし合って2話を乗り切ったことがその後の制作に大きな自信をもたらしたと言える。

鰐が淵からこんにちは

 2話を救った功労者はたくさんいようが、最初にその名を挙げねばならぬのはやはりコンテを担当してくれた鰐淵良宏氏であろう。
 当初のコンテ・演出担当者が逃亡の後、2話はコンテ・演出の後任も作監も決まらぬまま長らく放置されていた。2話は2月の半ばにオンエアの予定であったが、11月も終わろうとしているのにまるで手がついていなかったのである。制作期間、残り2ヶ月。
 残り日数が少なくなればなるほど、コンテも演出も作監も引き受ける人間がいなくなるのは当然のこと。短い期間で荒れた仕事になるのが分かっていながら二 つ返事で引き受けるお人好しはいない。「どうするよ?2話」「困ったね」という実りのない言葉だけが積み重ねられていた。
 そうした最悪ともいえる状況でコンテを引き受けようという剛のものが現れた。鰐淵良宏氏である。
 最短距離で完成へと辿り着かねばならない2話制作において、多少なりとも手掛かりとなるのは逃亡した前任者が残した使えないコンテと資料写真のみ。キャラクター設定は無論揃っていたが、美術設定は一つもない。
 この前任者のコンテは内容的にほとんど使えないとはいえ、多少なりとも使えるシーンやカットがあった。コンテの画面は比較的丁寧に描かれたものだったの で、カットを切り貼りしたり、間にカットを上手に足せば、一からコンテを描くよりは早いしレイアウト作業も楽になる。ただ、他人の文章に手を入れるような もので、自分のリズムや文体ではないものに手を加えるのは非常に難しい。技術的というより生理的に難しい。早い話、誰のものでもない気色の悪いテンポやリ ズムになりかねない。そのあたりの調整に難儀して下手をすれば一から描いた方が早かったということにすらなりかねない。
 その困難な仕事を鰐淵氏は見事にやってのけてくれた。
 大胆にシーンを丸ごと描き直し、時には使えないコンテの間に見事にカットを足し、モノローグが多いこの話数の特徴を最大限に活かしつつ止め絵を活用し、 また何一つシナリオ内容を落とすこともなく見事にコンテを描き上げてくれたのである。しかもコンテの小さな画面に描かれた絵は、拡大すればそのままレイア ウトの下描きとして機能するくらいに計算されている。上手い。私は舌を巻いた。「世界が認めた才能が認めた才能」である。
 そして何より重要なのは残された短いスケジュールでも作りきれるようにという心配りから、作画内容をたいへん楽にしてくれていたのである。だからといっ て見劣りもしないようにと張り巡らされた工夫の数々に頭が下がる。何と素晴らしいバランス感覚であろう。恐れ入る。このような人材がアニメ業界にいたのは 本当に驚きである。

 制作の事情を知る人が読んでいたら、こう思うだろう。
「いい加減にしろよ、おまえ」
 私もそう思う。いい加減に自画自賛はやめる。
 すでにご存知の方もいようが、2話コンテにクレジットされている鰐淵良宏とは私のことである。いわばペンネームなのだが、この名前は第10話「マロミま どろみ」に演出さんとして登場する人物の名前でもある。なぜその名前を使ったのかと言えばただの冗談である。
 あまりに圧迫されたスケジュールゆえに、2話にメインとして関わるスタッフはその本来の仕事を出来ない、責任を持ちきれないことは容易に予測された。自 分の仕事にプライドを持つのは当たり前のことで、誰も己の看板である名前をわざわざ傷つける真似はしたくない。しかし2話を作らないわけにはいかない。な ので、一時、2話に関わるメインスタッフはすべて変名で行こう、それもすべて10話の役職の名前に因む、という冗談だか本気だか分からない約束がなされて いた。

 コンテ・演出 鰐淵良宏(今 敏/遠藤卓司)
 作画監督 蟹江瞳(鈴木美千代)
 美術監督 熊倉武則(池 信孝)
 色彩設計 鹿山里子(橋本 賢)
 撮影監督 龍田慎一郎(須貝克俊)

 といった具合になる予定だったのだが、これが歓迎すべき理由によって反故になった。つまり、思ったより遙かに2話の出来が良い(笑)
 恐ろしく圧迫されたスケジュールにもかかわらず、2話はそれほど時間がない中で制作されたように見えないこと、しかも我々スタッフが見ても面白い話数で あることが実感されてきたのである。実際、編集後のラッシュではほとんどラフ原画やコンテであるにもかかわらず私はゲラゲラ笑えた。
 出来が良くなりそうなので、名前を出す、と。
 現金なものだと言ってはいけない。見てもらいたい自分の仕事を自分の名前で出したいのは人情である。それにどんな状況であれ、一所懸命に作っていれば愛 着も湧く。しかし時間がなかったように見えないからといって、余裕があったわけもなく、2話は恐ろしく短いスケジュールで完成させている。もっとも、後に 10話というもっともっともっと時間のない中で作らざるを得なくなった上手(うわて)がいるのだが。不思議なことに、こちらも出来上がりを見る限りそれほ ど時間がなかったなどと分からないほど出来は良い。こうしたことは不思議とよくあるケースだ。時間がなかったからといって面白くないとは限らない。逆に時 間があれば質は向上するかもしれないが面白くなるとは限らない。手間暇かけた駄作の多くがそれを証明していると思うが、勢いは時に大事にした方が良いもの である。
 ただ2話が面白いという確信があっても、私だけがペンネームのままにしたのは、やはり私の描いたコンテとは言い難いからだ。コンテにしろ完成品にしろ、 私も面白いとは思うのだが、100パーセント私が描いたわけではなく、前任者が残した「使えないコンテ」を切り貼りして穴埋めして作ったコンテであり、さ らに私は自分がこういう「ベタ」なコンテを描くことが好ましくない。捻りがないと描いていて高揚感がもう一つ感じられない(笑)
 しかしやや皮肉なのはこういうストレートな方が評判が良かったりすることである。ちぇっ。