妄想の三「金の苦痛」
-その2-

  作監、泣く

 2 話のコンテAパートが終わったのが12月も半ば過ぎで、すべてアップしたのは正月の4日だった。私は大晦日も正月も出社してコンテを描いていた。しかも私 は同時進行でオープニングとエンディングを抱えておりそのコンテ・演出、さらに1話の作業も随分と残していた。けっこう働き者だろ、私。
 ともかく本格的に2話が動き出したのが年明けからではなかろうか。そして2/1には新宿紀伊国屋サザンシアターのイベントには1話と同時に2話が上映されるのである。なかなか素晴らしいスケジュールではないか。
 作画監督が決まったのは、恐らくは12月も後半であろう。
 1話の作監作業が終わった鈴木美千代さんがその責任感の強さから、なり手のいなかった2話の作監を引き受けてくれたのである。功労者の多い2話スタッフ の中でも作画監督・鈴木美千代さんの仕事は群を抜いて特筆されるべきものがあるし、だいたい今日日話数を続けて作監をする人間も珍しいのではないか。
 作監作業は2週間もなかったのではないだろうか。私個人の日誌によると2話の作監アップは1/22となっているが、仕事始めからこの日まで非常に密度の 濃い時間であったろう。出社して仕事、そのまま会社に泊まって仕事、というサイクルで鈴木さんは見事に作監を終わらせてくれたのである。ただ終わらせただ けではなく何よりイッチーに愛着を持ってこの話数を守ってくれたのが何より素晴らしいと思う。
 とりわけ印象的だったことが一つ。「作監を泣かせた1カット」というのがあるらしい。これは本人に聞いた話。そのカットを含む前後をコンテから引用してみる。

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 最後にあるC.179というのが他でもない「作監を泣かせたカット」であるらしい。特にこの「優一の小さい後ろ姿」というキャプションもいいらしいのだ が、私にはよく分からない。私としてはイッチーのやりきれない感情、寂しさや怒りや悲しみなどあまりに複雑な心情をイッチーの顔や芝居で表現することは不 可能だと思うので、「小さな背」で表現しようとしただけである。だけ、というと何か投げやりな感じに受け取られるかもしれないが、私がよく使う手口だから である。
 あまりに複雑な心情などは、たとえば「複雑な心情を表現する表情」などを一所懸命に描いた途端にこぼれ落ちる物の方が大きくなる。なにがしかの表情を与 えた途端に、そこから読みとれる程度の感情に限定されてしまう。なので私の場合、そういうケースでどうしても顔を描く必要がある時は出来る限り「無表情」 を心がける。「無表情」は「背」で表現するのと同じくらい、見る側の想像力を喚起出来る。名著「ヒッチコック−トリュフォー」にだってそう書いてあったと 思う。
「肝心なのは何を描くかよりも、何が描いてあるように観客に思わせるかだ」
 といったのは私だが、これもどこかで聞いたことがあるのかもしれない。
 こういう複雑な心情表現など特に大切な部分こそ、お客さんの手に委ねたいと思うし、見る側に立てば委ねて欲しいと感じる部分だ。ただ、近頃のお客さんはそういう部分すらベタに言い切って欲しい人ばかりのようだが、そういうのは「品がない」と私は思う。

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上がセルとBGを組んだだけのいわば「素」のカット。
下が机に特効が入り、撮出しで諸々処理がかけられた状態。
結構な違いがあるのだがお分かりいただけるだろうか。

  私のこざかしい演出論などどうでもよいが、作監が心を動かしてくれたカットを作れたことは、コンテマンとして大変嬉しいことだし、また何よりその作品に とって非常に大切なことである。私はこのC.179で作監が泣いてくれた、という話を聞いたときに2話は良いものになるのではないかと感じたくらいだ。何 も「泣いた」ということが大事なのではない。作監という、描き手として非常に重要なポジションにある人間が、自分と自分が描く対象との間に深い関係を構築 出来ているというのが重要なのである。今時、こうしたことを意識化して考える人は驚くほど少ない。
 単純に「お仕事」と割り切れば、そういうことも考えずに与えられた作業内容をこなせるのかもしれないが、対象と自分との関係を考えるからこそ、作品は作 品たりうる。同じシナリオやコンテであっても誰がどう関わるかによって出来上がるものは大きく変化するし、それがまた関わった人間の個性といえる。無論、 技術の高低という問題もあるが、それとは別に何に力を入れるかといった焦点の取り方だけでも大きな違いであろう。まぁ、下手くそにかかったら個性もクソも ないし、実際そうしたケースは多いであろう。下手なことと個性を、わがままと個性を一緒くたにしている方々に分かるわけもなかろう。

 2話において作監・鈴木さんが守ってくれたものはイッチーの「健気なかわいげ」であると私は思う。
 シナリオ段階ではイッチーの性格を「いやな優等生」というイメージでとらえていたのだが、イッチーのあれやこれやの画策だとか思惑なんて、所詮は子供の 考える程度のことであり、むしろイッチーの置かれた状況が可哀想で仕方なくなってきた。これがもっと年の行った若者や大人が主人公だったら、本当に単なる いやな奴にしかならないのだろうが。安藤さんによるイッチーのキャラクターデザインもまたいい。
 私もコンテを描きながらイッチーは嫌なやつではなくしてやろう、と思い始めた。何しろイッチーが可哀想で……って、可哀想なことになっているのは私のせいでもあるんだけど。
 そういう意識が作監・鈴木美千代さんに伝わってくれたのか、悪い方向に働くことはなく、私の意図を台無しにすることなく、そこをさらに強調したり、その 土台にさらに建て増ししてくれるような仕事をしてくれたと思う。これがスタッフワークの面白みであり、健全な働きであると思う。
 これが、私の意図に気づくか気づかないかは別にして、もし私の考えを打ち消すようなベクトルで鈴木さんが仕事をしていたら、実にいやな仕上がりになった と思われる。シナリオ水上さんのバトンをもらったコンテマンの私がそれを落とすことなく作監鈴木さんに渡し、鈴木さんはそれを大切にしてゴールまで走り きってくれた、というのが私の印象。演出の遠藤卓司氏も堅実にこの話数を守ってくれていると思う。
 簡単そうに見えるリレーだがこうしたケースは少ない。「妄想代理人」でも他人からのバトンを拒むような人間は散見されたし、その代表が暴走代理人であった。こういう人の態度は得てしてこうだ。
「バトンは自分のじゃなきゃ嫌だ」
 だったら最初から自分で作品を作ればよいと思うのだが、その能力も実行力もありゃしない。自分で企画も出せない、シナリオも書けないくせして他人のシナ リオに手を入れて改悪しか出来ない。さらにいい気になって「自分の作品」気取りでいるようなバカ者を私は許せない。
 あ。いかん。また無能な連中のことを考えていたらムカムカしてきたので、有能な人の話に戻る。有能といえば私のことがすぐさま連想されるので、私なりに2話でこだわったカットも次に紹介しておく。

作画あれこれ

 私がコンテ段階で多少こだわったのがC.172。まずはコンテからその内容を紹介しよう。

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 コンテ尺で20+0、つまり20秒という比較的長いカットである。私は1話でもこういう、作画演出的に難しいカットはなるべく作らなかったし、ましてや 極度にスケジュールが圧迫された2話でこんな危険なカットを作ることは自制する方だ。けど、やりたかったんだよね(笑)。作監が鈴木さんだし、鈴木さんな らこのカットの重要性は分かってくれるだろうから、最終的にみっともないカットにはならないだろうと踏んでいた。手間かけてすまん、鈴木さん。
 誰が原画を担当するかにもよるが、得てして長尺のカットは面倒なことが多い。そのカット内でこなさなければいけない内容が増えるのが主な原因だ。その危険も考慮はしていたので、先に引用した字コンテでも分かりやすく原画の段取りを書いている。
 そういえばこのカット、シナリオではごく簡単にしか描写されていない。

 優一が名残を惜しむようにたたずんでいるが――
 やがて思いを振り切るように踵をかえす。

 シナリオ上ではこの2行で記されたものを膨らませたわけだが、これが演出というものである。偉そうに何をいうか、という向きもあろうが、これが演出とし て正しいと言っているのではない。シナリオからコンテに起こすというのはこういう作業だと紹介しているだけで、同じシナリオを元にしても別な演出なりコン テマンが描けばまた違った部分を強調したり伸張するであろう。無論逆に簡単に済ませたり削ったりということも当然あり得る。
 詳しい話は後に書きたいとは思うが、「妄想代理人」のシナリオの分量から換算される、2行に使用して良い平均の尺は4秒である。もちろん平均通りにカットを割るわけではないが、2行の描写に20+0かけるのはかなり特殊なケースだと思う。
 面倒なカットなだけに、コンテでなるべく細かめに芝居を入れて、失敗しないように気を遣ったつもりだが、ただ段取りをこなせばいいカットになるわけもな く、そこは原画マンなり作監なりが、こだわりを加味しないと良くはならない。これが自分で演出していれば、最終防衛ラインとして自分自身を想定出来るが、 2話の演出は私ではない。演出担当の遠藤さんも確実な演出をしてくれる方だが、何しろ絵を描かない演出さんなので、こうした部分では当てにするわけにも行 かない。頼れるのは作監だけだった。しかしそこは長年一緒に仕事をしてきた鈴木さんだし、何より飲み仲間である。ツーといえばカーで何とかなると思った次 第である。実際、何とかなった以上に出来上がった。
 作画面で目立ったのはやはり安藤(雅司)さんとMさんであろうか。Mさんはどういう事情か分からないが、2話のスタッフクレジットには名前を出していないので、アルファベット表記にしておく。
 安藤さんはイッチーがウッシーを校舎裏に呼び出して追いつめるシーンとウッシーがバットに殴られたところからイッチーがバットを追いかけ、そしてバット が消え去るまでの2ヶ所。Mさんがラストのグニャグニャに歪んだシーンを丸ごと担当してくれている(他にも担当カットはあるのだが)。
 お二方のシーンは私も非常に気に入っている。
 だが、これらのシーンは作画内容的にたいへん重く、スケジュールが極度に圧迫されている状況でこうしたコンテを描くのは危険ともいえる。実際、いかな安 藤さんといえどもイッチーがウッシーを追いつめるカットには難儀していたと聞く。地道な手間がかかるカットなのは私もよく知っている。
 難儀するのは分かっていたのだが、アニメーション的な見せ場も見応えとして必要である。なのでコンテマンとしてはそうした見せ場をお二方にお願いした 三ヶ所に絞ったつもりである。というよりは安藤さんとMさんに、ある程度のカット数を見込めるという前提の下にコンテを描いたのであるが。
 私はコンテを描くときは常に誰がどの程度のカット数を担当出来そうなのか、いわばキャパシティを考えるようにしている。考えないと描けないというか、理想を言えば、誰がそのシーンを担当するか分かった上でコンテを描きたいくらいだ。
 2話のコンテではそれ以外のシーンはなるべく手間がかからないようにしたつもりではある。何せモノローグが特徴の回なので、それを聞かせるためにもなる べく止めを多くして、芝居もワンカットワンアクション程度に留めて、持たないところはカメラワークで補うようにしたつもりである。

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2話ラストのグニャグニャに歪んだイッチーの主観による世界。
私もこのシーンのコンテを描くのはとても楽しかった。
時間が無い無いという割には随分丁寧にコンテを描いていると思う。

撮出し

 2話に関しては「総監督」以外に私のクレジットはないが、コンテの他に撮出しも手伝っている。
 撮出しとは、素材がすべて揃った段階で撮影に入れる前に素材を確認したり、加工したり、撮影指示を入れたりするプロセス。アナログの昔なら、実際にセル とBGを組んで撮影用のタップ位置をマークしたりして、素材を撮影所に入れる前になくてはならない工程だったが、現在は仮に撮出しせずとも特殊なカットを 除く通常撮影なら撮影は可能になっている。撮影が可能になった、というより、撮影のデジタル化によってリテイクが簡単になったため、「とりあえず撮っちゃ うことにした」というのが真相では無かろうか。アナログの頃は撮影自体が現在より遙かに手間のかかる過程だったし、リテイクを重ねるとセルもBGもその度 ごとに痛んでくる。さらに撮影の後、現像してプリントを起こさなければ撮影したカットを見られなかった。それほどの手間がかかるため、なるべく撮影は1回 で済ませるために素材の不備などがないように撮出しが重要視されていた。

「東京ゴッドファーザーズ」や「妄想代理人」の1話などでは私がすべてのカットを撮出ししている。
 現代の撮出しはパソコン上で行うことになる。セルとBGを仮組みしてPhotoshopでデータを開いて加工したり指示を入れたりする。撮影さんに対し て、「こういう画面にしたい」という具体的なイメージを静止画で作り、それをサンプルデータとして撮影に入れる。このデータを見れば処理などについて具体 的な方法などが分かるようになっている。
 2話は時間的な制約によって基本的には撮出しをしないことにしたと思うが、それでも撮影前に加工と指示が必要なものが数十カット以上はあったろう。演出 担当の遠藤さんが担当してくれたカットも多いが、私も多分50カットくらい担当したろうか。私の場合、撮出しといいつつ背景の直しまですることもあるの で、かかる手間も大きいのだ。背景の直しといっても、背景にボケを加えるといった可愛いものではなく、あっちこっちから背景の断片をコピーペーストしたり して、「そのまま画面になってはいささか困る」背景を直すのだ。2話の背景も私は随分直した。セルに対してだって色の調整から、影を描き足したりモブを描 き足したりもして随分直した。便利な総監督だ(笑)

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 校舎内に貼られた選挙用のポスターも撮出し時に私が作ったものである。撮出し以前に用意されていた素材が甚だ問題があったので作り直したのである。Bパー ト冒頭で、主婦の噂話がかぶりながら、児童がワイプする度にイッチーのポスターに悪戯描きが増えて行くカットがあるが、あのカットはシナリオ時に確か私が 出したアイディアで、そうしたこだわりもあって、とりわけ失敗したくないカットであった。なので、私の撮出しにも力が入り、非常に心ない子供心がよく現れ たカットになったと思っている。子供の悪戯は本当に純粋な気持ちが表れるから実に心ないものだと思う。描き加えられる楽描きは私がPC上で描いた、まさに 楽描きである。
 その他、撮出し時の加工の例ではイッチーが捨てたゴミ袋に入ったローラーブレードなどが顕著であろうか。ゴミ袋の処理は「東京ゴッド〜」で鍛えたのでそ れほど苦労はしなかったが、しかしあまり上手くいかなかった。もっと「ゴミ袋に入れられた過去の栄光」といったニュアンスを出したかったのだが。自分に ガッカリ。

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自分にガッカリしたゴミ袋の処理。
ゴミ袋の中味は多分「東京ゴッドファーザーズ」で作成した「ゴミ素材」の使い回しと思われる。

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上が素材を組んだだけの状態。下は撮出し後の状態。
イッチーの奥に見える背景を、ぼかしただけでなく、パースも詰め気味にしている。ポスター類も夕暮れの色に合わせたり、黒板に締まりがないので下方を締め気味にしている。

買い物かごいっぱいの幸せ

 撮出しというと私は夜食が思い出される。撮出しで作成したサンプルデータは、セル素材と共に翌日の朝から始まる撮影に入れるので、必然的に撮出し作業は夜から朝方にかけて行うことになる。なので撮出しには夜食が付き物なのである。
 夜食は都市生活者の慣習に倣い、主にコンビニがその供給源だ。コンビニは便利な冷蔵庫みたいである。吉野屋が牛丼を販売していた頃は、随分牛丼も食べた が、狂牛病なんか知ったこっちゃないしどうせ発病までには何年もかかるんだしその時はどうせ責任の所在なんか分かりゃしないし全頭検査なんて俺達の懐が痛 むし勿体なくて出来るもんかうるせぇぞジャップという態度のアメリカのせいで、吉野屋の世話になることはなくなってしまった。夜中に開いているファミレス などもごくたまに世話にはなるが、基本的には忙しい作業の合間にそそくさと済ませるので、スタジオの机で食べる。コンビニ弁当やカップ麺だ。だがさらに忙 しくなると作業をしながら食べることになるので、必然的に手軽なものになりがちだ。
「東京ゴッドファーザーズ」の追い込みの頃から、私は自分が夜食を買ってくるついでに差し入れを買うようにしていた。別に差し入れをしたことを自慢したい わけではなく、プロデューサーも時々していたしお菓子を差し入れてくれるスタッフも多い。要するにスタジオには手軽に食べられるものが常時用意されている と大変便利なのである。仕事は「乗り」が大切なので、空腹のために中段を余儀なくされるのはあまり面白いことではないし、買いに行くのも面倒で、何より何 を食べるかを考えるだけで面倒くさい。
 仕事中は忙しい上に、食べられるものなど限定されているし、何を食べるにしても飽き飽きしている。考えずに手近にあるものをサッと食べられるとたいへん 都合がよい。差し入れされるおにぎりや総菜パンにだって飽きているし、わざわざコンビニに足を運んだとしたらそれを買わないかもしれないが、手近にありゃ 食べるのだ。また、新人に近いスタッフは金銭的な余裕も少ないので、多少金銭に余裕がある人間が差し入れによって夜食を手助けをする、という構図もある。
 そういうわけで私は深夜のコンビニで買い物かご一杯分、時には二杯分の食物を購入した。物をどっさり買うのは楽しいものだが、甚だ不自然な客であったろ うと思う。マッドハウス関係者が日常的に利用するのは最寄りの「ミニストップ」。ここはアニメスタジオが近在していることを理解しているのでそれほど驚き もしないだろうが、何しろ同じコンビニの食事が毎日ではうんざりするので、私は近場にある「セブンイレブン」「ファミリーマート」などを使い分けていた。 時折、深夜の2時3時に現れて買い物かご一杯にパンやおにぎりを購入して行く私の姿に不審を覚えたかもしれない。
 買うものはパン、おにぎりがメインだが、さすがに変化に乏しいし保存も利かない。おにぎりのお供にカップみそ汁や副食にソーセージ、保存用にカップ麺、 デザート用にイチゴやミカン、お菓子などもよく購入したろうか。私用にビールやワイン、おつまみ用にスルメなどの乾きものも忘れない。スルメは酒のつまみ だけでなく、仕事をしながら噛むとたいへん良い。仕事場にはあまり相応しい香りではないが、固いものを噛むと眠気が多少覚める。
 差し入れは4階と5階(「妄想」班のメインスタッフは2つのフロアに別れていた)用に分け、それぞれに一塊りにして積んでおく。翌朝までにはたいてい無くなっていたろうか。まるで野鳥の観察みたいだ(笑)
「おお、皆よく食べるなぁ」
 これはこれで楽しいものである。だからまた差し入れようという気にもなる。
 差し入れられた食物が消費される順番には傾向がある。やはり「もっとも手軽なもの」から消えて行く。パンやおにぎりで、これらは作業をほとんどお中断せ ずに食べられる。次がカップ麺。お湯を沸かすという手間がかかる分だけ敬遠されるのであろう。パンやおにぎりが無くなってやっと手が出るらしい。こちらは まずカップラーメンが手始めらしい。お湯を捨てる、というプロセスが一つ増加するカップ焼きそばは最後まで残る傾向にあった。私もその気持ちはよく分か る。私もホントに仕事をしてる最中は他の何をするにも面倒くさいと思う方だ。
 疲れを補うためであろう、甘い物もよく売れていたようだ。エンゼルパイなどは人気の一つで、瞬く間に消費されていた。プロデューサーはよく「リポビタン D」などの栄養ドリンクを差し入れていたようだが、こちらも人気が高かったようで、飲み終わった栄養ドリンクの空き瓶が、まるでバルカン砲の薬莢のごとく にあたりに転がっていた。別にバルカン砲の薬莢なんて見たことないけど。
 私の夜食は、おにぎりや総菜パンにも飽きて来た末期には、ロールパンとサラダとハムやウィンナーといった具合に個別に買ってバリエーションを楽しむよう にしていた。寝る前ならこれにワイン。けっこうおフレンチな取り合わせだ。少しでも好みの味になるようにと、バターやマヨネーズや醤油なども取りそろえた ろうか。
 しかしこうなると「作業途中に手軽に」といった当初のコンセプトをすっかり通り越して、思い切り作業は中断する食事になってしまっている(笑)
 得てして当初の目的などどこかに消え失せ、方法そのものが目的化する典型的な例だが、そのくらい飽き飽きする夜食の連続だったのだ。

 だいたい仕事が忙しいと食べるくらいしか楽しみがない。夜食は旨さだのバリエーションだのを期待するだけ無駄なので、夕食だけは出来るだけ楽しむようにしていた。
 仕事場近辺で旨い店というと、ニラ餃子がたいへん旨い中華料理屋「潮州」。何を頼んでもたいてい旨いが、近頃はいつも混んでいて入れないのが少々困る。 焼肉の「太田家」も非常に美味しいが、「妄想」制作終盤の頃であったろうか、ご主人が病気で入院されたとかで、同じ名前で店は残ったが、経営が替わってし まった。その旨わざわざ自宅に葉書で案内が届いた。時折、阿佐ヶ谷で出会うが律儀な女将さんである。ご主人が快復されたらまた店を出したいと仰っていたの で楽しみにしている。しかし、経営が替わってしまったということは私が溜めていたスタンプは「太田家」ではもう使えないのだろうか。¥4,000分くらい あったのに。しくしく。
 うどんの「和田」は「妄想」制作中に初めて行ったのがこれは大ヒットであった。讃岐系のうどんで、出汁が利いており面が非常に太くてこしがあり、絶品。 「鴨せいろ」は関東風の味付けだが、これがもっとも気に入っている。私は「パーフェクトブルー」以来足かけ8年ほど阿佐ヶ谷で仕事をしているが、今までこ こを知らなかったとは迂闊であった。
 私は非常に麺類が好きなのだが、「妄想〜」制作中は体調が弱っていたせいなのか、起きて一食目に米を食すとお腹の調子が悪くなるという希代な現象に見舞 われ、昼は必ずと言っていいほど麺類だった。ラーメンかそばかうどんばっかり。阿佐ヶ谷駅近くのラーメンの「航海屋」「げんこつラーメン」などはよく利用 し、週に2〜3回くらいはラーメンを食べてしまっていた。駅近くだとそばの「すが原」も「妄想〜」制作中から利用するようになったお店で、「鴨せいろ」を 初めここの鴨料理はなかなか美味しい。
 ふぐの「にしぶち」も8年目にして初めて入った店。ふぐ自体はそれほど好みというわけでもないが、ふぐの雑炊はたいへん美味である。南欧料理の「シェナーベ」も何度か利用した美味しい店。
「錦天」という天ぷら屋も落ち着ける店で時折利用した。仕事中の夕食で落ち着けるも何もないのだろうが(笑)。ここの刺身はいつも美味。女将さんに「“東 京ゴッドファーザーズ”、見てきましたよ」と言われたのは、たいへん嬉しくもあったが少々気恥ずかしかった。他にもNHKなどに出演させていただいた後に は「見ましたよ、監督」などと声をかけられることがあり、たいへんありがたいことだと思う一方やはり何だか気恥ずかしさがつきまとう。普段の仕事では当然 「普段の顔」でいるのだが、そこに突然「よそ行きの顔」を差し出されたような気がする。奇妙な違和感だと思う。