妄想の三「金の苦痛」
-その3-

音響あれこれ

 あれこれと工夫を凝らして見栄えと労力のバランスを考える、そうした知恵と、会社に泊まり込んで頑張るという肉体的な努力によって乗り切った2話。オンエア後の評判もいいようでたいへんホッとしている。
 2話はアフレコも印象的で非常に楽しかった記憶がある。イッチー役の山口眞弓さんとウッシー役の津村まことさん、このお二方が非常にいい味を出してくれ てキャラクターを表現してくれている。津村さん演じるウッシーはホントに人が良さそうで、しかし見ていてイライラしてくる愚鈍さもよく表してくれていると 思う。山口さんの芝居もイッチーの憎めないかわいげを良く出してくれていると思う。
 私はイッチーのモノローグで非常に印象に残っている箇所がある。シナリオには無かったセリフなのだが、コンテマンの心ないイタズラ心で追加された非常に 長い一文である。この長ゼリフにはさぞや苦労するであろうと思っていたのだが、おそらく本番前に相当練習してきたのであろう山口さんのプロ根性で、わずか ばかりの録り直しで成功を見たのである。完成品では早回し風になってほとんど聞き取れないかもしれないが、私が一所懸命に考え、山口さんが尚のこと一所懸 命に喋ってくれた長ゼリフである。折角なのでここに再録する。

C.83
苛立つ優一、寄り。
ワナワナとフリッカーっぽく振り返る、と同時にBGノーマルから暗黒BGにO.L.
優一(M)「なんでデブ牛がオレのポジション奪ってるんだよ!(振り返りつつ)なんでそんなことが出来るんだよ!」
以下、シーン終わりまでかぶるモノローグです。
優 一(M)「愚図で愚鈍でのろまで肥満な田舎もんのデブ牛で服はださいし貧乏くさいし、すぐに汗かきべそかきホントにくさいし、でかいなりして足は小さい ほっぺは赤い、男のくせしてもち肌で、歌も下手なりゃ方向音痴で運動音痴、小便近いくせして水はがぶ飲み学校で平気で大便するし、先生のことお母さんとか 呼び間違うし給食ばっかりおかわりするくせにてめぇと同じ牛の乳飲んでてゲボとかむせるし、こぼれた牛乳を拭いた雑巾みたいに息は臭ぇし、ゲップもするし それがたまたま受けたら得意な顔して連発するし、吐いた冗談に一人で笑うしくだらないつまらない、絵に描いたみたいに凡庸で、絵を描いたら尚のこと凡庸な くせに選挙のポスターは平気で自分で似顔絵描きやがってなにがウッシーだよ何がよろしくだ、よろしくなんかしねぇよおめぇなんかよろしくしくしくしくしく 泣いて頼んだって蹴っ飛ばして放り出してやるから牛に踏まれて死んじまえ!」
※途中からセリフ自体早口にもなりますが、後半は早回し、ピッチシフトなどで加工してモノローグというよりノイズになって行く感じです。

 最終的にはほとんど聞き取れなくなることが分かっていながら、何故こんな奇妙なセリフを考えたかというと、2話のコンテを描いていた当時、筒井康隆先生 の著作を何冊か読んでいたせいだと思う。言葉のリズムで異様な感じを盛り上げる筒井先生に少し倣ってみたかった、というより「ちょっとやってみようかな」 という他愛ない試みである。山口眞弓さんにはご迷惑をかけた。が、けっこう御本人も楽しそうであった(笑)

 2話の音楽も私は非常に気に入っている。繰り返し使用される「イッチーのテーマ」はサントラではそのタイトルも秀逸な「条件童子」。音響監督・三間雅文 氏から出された「ヒップホップ風」というオーダーによって作っていただいた。私ならとてもじゃないが「平沢進」に対して「ヒップホップ風」などと少々場違 いな依頼は出来ないが(笑)、結果的に非常に面白い曲を作っていただけたと思う。「ヒップホップ風」というオーダーに摩訶不思議な曲で応えてくれる平沢さ んの捻れたセンスはさすが秀逸。サントラに収録にあたってバージョンアップされた曲は聴き応えも増して一段と素晴らしい。
 曲もいいが、使いどころも気に入っている。基本的には「イッチーのテーマ」として使用されるが、それを繰り返し視聴者に対してイメージを刷り込んでおい て、ラストに少年バットが楽しげに滑ってくるところで同じ曲が使われる演出がとてもおかしくて私は大いに受けた。音響監督のアイディアによる。摩訶不思議 な楽曲と、歪んで動くポップな風景の中を邪悪な少年バットがにこやかに滑ってくる姿は捻れていてたいへん「妄想代理人」に相応しいと思う。
 また「拍手と喝采」の音もイッチーの栄光と没落の落差を表現するのに効果的に使えたと思う。シナリオ制作に入った初期の段階から各話数には固有の、テー マとなる音を設定しようとしていた。各話数を特徴づけようという意図だが、同時に業界全体に「音」に対する配慮が足りない演出さんが多いような気がしてい たので、あらかじめテーマとなる「音」を設定することで、配慮しなければならない状態にしておこうという意図であった。比較的上手く機能したアイディアだ とは思う。
 各話数で設定されていた「音」を列記すると次の通り。

 1話/ローラーブレードの「ゴオォォォ」という滑走音
 2話/拍手と喝采
 3話/電話の音
 4話/金槌の音
 5話/レベルアップのファンファーレ
 6話/台風による風の音
 7話/ノイズ
 8話/カラスの鳴き声
 9話/小鳥のさえずり(諸事情によりダビング時に削除)
 10話/ワイパーの音
 11話/ホイッスルの音
 12話/1話〜11話までの音が混じり合ったノイズ
 13話/特にないが強いて言うと「ゴオォォォ」という少年バットのテーマ音

  絵描きが大半を占める制作現場では、画面のムードや色調、処理などについて多く語られることはあっても、「音」について口にするものはほとんどいないと 言っていいと思う。それほど絵の制作現場で音は考慮されていないし、「音なんかついてりゃいい」くらいにしか思ってない人が大半である。音に対するセンス や配慮はそれくらいひどい。かくいう私も自分で監督をするまではその程度の認識だったと思う。なので作品を作るたびに音響(アフレコ・効果音・音楽)に対 するセンスを養おうと思ってきた。絵を仕事にしてから今まで20年、音を仕事の一部として意識しだしてから10年足らず。バランスがいいわけがない。
 監督をして初めて実感したことだが、アニメーション作品における表現は「絵が半分音が半分」なのである。絵を専門職にしているときには絵が8割くらいに 考えていた。お恥ずかしい限りである。しかし現在のアニメーション業界では、そう思っている人がほとんどなのである。改善の余地はあまりに大きいと思う。

 ついでにもう一つ。絵の専門職から監督という俯瞰する立場になって分かったことは音の占める割合についてだけでなく、アニメ作品による興行やプロジェクト全体において、作品の占める割合は半分程度だという少々不愉快な事実もある(笑)
 つまり興行全体から見れば「作品半分・宣伝半分」とまでいうと大袈裟かもしれないが、そのくらい宣伝が大事だということも実感した。

黄色い爆弾

 2話制作においては実に色々なことがあった。とりわけ忘れようにも忘れられないのが青梅街道に出現した「脱糞男」である。黄色い話題で恐縮である。
 制作している作品と制作状態には不思議なシンクロニシティがあると常々感じていたが、それが異様に実感できたのが2話制作中であろう。コンテ・演出担当 者の敵前逃亡に始まり、結果2話制作がペンディングになったまま放置状態となり、スケジュールは極度に圧迫された。そのことで制作全体が混乱状態となり、 通常ならあまり起こらないアクシデントが起きたりして、現場はさらに混乱する。これがもっと後半の話数なら「妄想代理人」の制作スタンスが固まってきたり するので、多少のアクシデントには慣れっこになって対応にも余裕が生まれたりしていたが、何しろ1話も完成を見ない状態で、色々なことを手探りで制作して いる有様であった。なので一つのアクシデントが別なアクシデントを惹起し、それがまた……といった負の連鎖になってしまったようである。
 ただ、負の連鎖といっても合理的に説明できることばかりではないのがまた面白いところ。面白がれる事態じゃないのだが。
 2話制作も修羅場を迎えた頃。我々「妄想」制作スタッフは、マッドハウス本社からほんの少し離れた分室と呼ばれる場所にいたのだが、私が本社でラッシュ チェックかなにかをして分室に戻ろうとしたときのこと、朝の6時とか7時であったろうか。通勤のため人々が駅へと急いでいる青梅街道に、異臭が漂ってい る。
 私の緊張度が一気に高まる。
「危険な事態が出来している!」
 体内をアドレナリンが駆けめぐる!危険だ!注意しろ!って何もそんなに劇的に描写するほどのことじゃないか。
 分室に近づくに連れてさらに異臭が増す。はて?原因は?
 と見ると、歩道に点々と残された黄色い物体。あれ?これはもしや……。それを辿って行くとそこに一人の男。「吉野屋」(まだ牛丼を販売していた)の前に 蓬髪の男が何をするでもなく、ただボーっと立っている。年の頃は三十代半ばであろうか。陽に焼けているのか垢にまみれているのか顔色は黒い。何も見ていな いような虚ろな目で、何らの意志も感じられない。そして白いジャージの裾には「黄色い染みと塊」がこびりついている。ジャージの中を通って黄色い爆弾が漏 れているのだ。
 おげぇ。思い出してたら吐き気がしてきた。まるでPTSDだ(笑)
 私はすぐさま分室に戻り、スタッフに報告した。4階では(4階と5階が「妄想」班である)2話の作監の追い込みで頑張ってくれていた鈴木さんと安藤さん がおり、彼らがもし外に出た際に黄色い爆弾でも踏んだ日には、頑張る気力さえ失われるではないか。あるいは誰かがそれと知らず、あるいはただの犬の糞くら いに侮って踏んだその足で分室に入って来ようものなら臭気による被害甚大である。
「外に脱糞男がいる!」
 私は4階に入るなり、もうさながら小学生みたいな状態で、「ウンコウンコ!」と大はしゃぎである。「世界が認めた才能」なんていったって所詮はそんなもんだ。
 安藤さんと鈴木さんも青梅街道側に面した窓から下を眺めるが、分室からは陰になっていて脱糞男の姿は見えない。見えるのは我が「妄想」班の制作進行二人が歩道で立ち話している姿だ。
 ひとしきりウンコ男に要注意、と話したところに先ほど立ち話をしていた制作進行の一人が分室に入ってきた。私はまだ大はしゃぎだ。
「見た?見た!?脱糞男!」
「あ、はい」
「踏まないようにみんなに伝えるのだ!」
「あ、はい、それが……」
「……え?」
 何とすでに犠牲者が出ていた(笑)
 しかも我が班から(泣)
 名前を挙げるのは気の毒なので、「うちの可愛い制作の女の子」としておくが、この子が本社から戻る際に踏んでしまったらしいのだ。人糞を。先ほど立ち話 をしていたのはそのことだったらしい。黄色い地雷の被害に遭ったため、そのまま分室に入ることも叶わず、履き替える靴を取ってきてもらいたいと話していた らしい。賢明な判断である。まったくもって「うちの可愛い制作の女の子」である。
 普通ならもう帰りたくなるくらいの情けない被害だ。私ならもう我と我が身が情けなくてうちに帰る。
「今日はもう帰る」
「どうかしたんですか?」
「だってウンコ踏んだんだもん」
 泣けてくるに決まってる。誰もが納得するに違いない。
 交通事故に遭ったとかスリの被害に遭ったとか置き引きにやられただとかだったら、まだ諦めもつくし今後注意するとか、そこから生きる上での教訓を引き出 すことも可能だが、そうした知的活動が一切及ばないような事故ではないか。ウンコだぞ。犬の糞じゃないんだぞ。人糞だぞ。何で地方から東京に出てきて、し かも青梅街道の往来で人糞を踏むなんて想像できるものか。都会生活マニュアルがあったとしても書かれてなんかいるものか。
「歩道の人糞に注意すること」
 絶対、ない。

 ここで貴重なレポートを紹介しよう。他ならぬこの「うちの可愛い制作の女の子」別名「踏みの宮さま」から寄せられた、当時の貴重な体験談である。

それは朝の6時頃。本社から分室に戻るところだった。その途中に異様な目をした男を見かける。
男は「吉野家」の脇にあったダンボールの上に手を股に挟むようにして座っていた。よくよく見ると、なんと男の白いズボンの股部が黄色く染まっているではないか。
私は彼が糞をちびっているところを想像した。私は歩きながら、彼があの格好で街を歩く姿や電車に乗る姿、警察に捕まる姿などを想像しては失笑していた。
突如それを断ち切るように異臭が鼻を突く。異臭なんて生易しいものではない、吐き気がするほど臭い。
「まさか」と思いとっさに足元を見る。眼前に黄色い爆弾が迫っているではないか!不恰好になりつつもこれを回避する。安堵するのもつかの間、背後にはすで に三箇所も黄色い爆弾が張り巡らされていたのである。即座に足の裏を確認。右足のスリッパのかかとに黄色くやわらかいものがっ!
脱糞の痕跡がねっちょりと残っていた。辺りを見回す。幸いにも人通りはない。しかしどうやって分室に入るべきか・・・
1−“うん”つきのまま分室に入る
2−スリッパを抜いで分室に入る。
「1」では床が異物にまみれる上に異臭がする。これではプロデューサーに怒られる上に自分で掃除をしなければならない。
「2」ではあきらかに様子がおかしいため、監督にまでばれる=素敵なニックネームがつく。
「どっちもいやだ〜」と思っていると制作進行の後輩がやってきたではないか。「らっきぃ〜」彼は笑いもせず私の靴とゴミ袋を持ってきてくれた。
「なんていい奴なんだ。これからはやさしくしよう」と心に決める。
そして私は無事分室に帰還した。皆もくもくと仕事をしている。私は何事もなかったかのように自分の机に戻り、先ほどの出来事をきれいさっぱり忘れることにした。
しかしまだまだ罠は張り巡らされていたのである。
一週間後。
監督と作監の鈴木美千代さんが、陽気に酒を飲みながら
「うんこ踏んだんだってね」

 その後脱糞男がどうなったのかは分からない。多分警察が捕獲でもしてくれたのであろう。嫌な仕事だな、それも。臭いだろうな、脱糞男。鼻つまみ者とは正にやつのことだ。
 先に何気なく「知的活動が一切及ばないような事故」と書いたが、屁理屈好きの私としては、知的活動が一切及ばないような事態に対して果敢に知的活動を行って、なにがしかの知見を捻り出したいと思う方だ。
 脱糞男には何か目的があったのだろうか。私が見かけたときには「吉野屋」のすぐ脇に立っていたので、一瞬、悪質な営業妨害であろうか、という考えもよぎった。可能性が無くはないだろうが、私には牛丼業界に暗闘があるのかどうかよく分からない。
 普通に考えると、糞を撒き散らしながら歩くことにおよそ社会的な目的はなかろうし、恐らくは精神に障害を来した人であろうと思われる。「電波系」だ(笑)
 我々が作っているのは監督自らが名付けたように「電波系アニメ」である。
「呼んでいるのではないか!?」
 そう考えるお前が電波来てるんじゃないか、と言われればそれまでだが、私は勝手にシンクロニシティを感じることにした。それにあながち勝手とはいえない 根拠もあって、この黄色い爆弾事件と前後して、「妄想」制作スタッフを小さくない悲劇が連続して起こっている。
 原画の回収ために外回りに出ていた制作進行がガラスで頭を切った、なんておよそにわかには想像できないような事故が起こったり、相前後してこんなことも あった。やはり回収に出ていた別な制作進行が戻ってきて、プロデューサー豊田君にうなだれて報告していた。撮出しをしながら、その話を聞くともなく聞いて いた私は、パソコンのタブレットペンを取り落としそうになった。
「人轢いたぁっ!?」
 車で外回りをするのが主な仕事だけに、車の事故は制作進行には付いて回るし、よく聞く話ではあるのだが、だからといってあって良いわけもなく、しかも負 の連鎖の真っ最中である。幸いこの事故は、小さな事故で済んだようだが、私は本気でプロデューサーに通達を出してもらうように伝えた。
「予測できない事態に注意せよ」
 我ながら何を言っているのかよく分からない(笑)
 予測できる事態だからあらかじめの注意が可能というものだ。しかしこうした負の連鎖の真っ直中にいては、予測できないことに注意するのが賢者の心得。注 意していると思っている自分という主体そのものを常に疑って、その疑っている仮の視点もさらに別な視点で疑って、その視点も……という具合に意識を張り巡 らせる努力をしないと穴は深まるばかりに思われる。それでもやはり予測できない事態は起こるもので、せいぜいが、「予測できない事故が起きるかもしれな い」という予見と覚悟を携えておけば、実際に事故が起きたときにパニックになることは少ない、という程度かもしれない。それでも意識しないよりはましであ る。
 この頃私はどうだったのか。日誌をひもといてみたら、1月中旬の時期が虫食いばかりになっているので、余程忙しく会社に泊まり込んでいたのであろう。多 分、私は事故にも遭わず、大きな失態もしていないと思うが、小さなところでは私とプロデューサー豊田君の二人が揃いも揃って予定を忘れて、取材を一つ飛ば している。雑誌「サイゾー」様、すいません。
 改めて考えるまでもなく、こうした事態が連鎖するのは、やはり関わっている人間がみな意識レベルが下がっているのが原因と言えるのではないか。平たく言 えば「過労と睡眠不足による注意不足」ということになるのだろうが、我々は制作している作品に因んで、こうした状態を次のように呼び慣わしていた。
「バット来てる!」
 真面目なんだか非常識なんだか(笑)
 普通なら忘れられるはずもないダビング用の差し替えがなされていなかったというエラーもあった。これも同時期に起こった事故だが、そのことで現場が騒然として、そのせいでNHKの取材が中止になったりもしている。NHKさんもすいません。

 怖いのは事故が連鎖することだ。一つの不注意が事故を呼び、その事故に気を奪われているうちに不注意から別な事故を誘発する。食い止めるには意識レベル の低下の波に飲まれないよう自覚することくらいしかないように思える。意識化していないと、感染する。正に感染するサイコサスペンス(笑)
 だから笑い事じゃないんだってば。
 こういう連鎖を描こうとしていたのが正に「妄想代理人」である。「呼ぶ」とはこういうことなんだなぁ、としみじみ作品を実感次第である。しみじみしてどうする。
 先にも書いたが、こうした負の連鎖のただ中にあっては浮き足立たずに我が身から疑ってかかることをお薦めする。
「少年バットはどこにでも現れる」とはよく言ったものである。
 出来する事故や事件について、西洋近代因果論的に理解できることも多いと思うが、しかしだからといって脱糞男の出現に合理的な説明は加えられないことに変わりはない。

 脱糞男の黄色い痕跡は間もなく洗い流され、それと知らない人々に踏み固められ、夕方には道路によくあるただの汚れとなり、その上を多くの人が往来してい た。同じ場所を生活圏にしていても彼らは脱糞男の存在を知らないし、何の影響も受けていない。私だって知らなければその往来の流れの中にいたであろう。何 に出会うか、出会わされるかは我々の意識にかかっているのだなあ、とぼんやりと思った。

※補/もしかしてこういう捉え方の傾向を「確証バイアス」というのだろうか。このテキストを書いている時、たまたま読んでいた本で知った単語だ。
 養老孟司・著「ガクモンの壁」という、あんまりなタイトルの文庫である。同じ著者のベストセラーにあやかろうという態度がこれほどまでにあからさまだと買うのも恥ずかしかった。ハードカバー当時は「学問の格闘」というタイトルだったそうだ。
 この本の注にこんな説明があった。
「人が予期を持ってものを見たり考えたりする時には、その予期に合致した例や部分が強く認識され、反証例にはほとんど注意が払われない。この傾向は確証バイアスと呼ばれ、人の認知過程で広く観察される」
 なるほど経験のある傾向だ。「確証バイアス」なんて言葉を付けられているとは知らなかった。しかし話や作品の創作は、ほとんどそういう傾向によって練り上げて行くのだから、仕事上普段からそういう傾向が強くなっているのかもしれない。
 この場合のように、シンクロニシティはあるという予断を持ってみれば、そういう風に読みとれるだけのことなのかもしれない。注意しようと思う。