TAKE IT EASY!×末満健一『千年女優』公演に足をお運びくださった皆さま、不肖の原作者からも心から御礼申し上げます。
本当に素晴らしい舞台で、御覧になった方は深い感動と満足を体験されたのではないかと思います。
私も原作という立場からも一観客という立場からも、また同じ創作に携わる者という立場からも深い感銘を受けました。
舞台版『千年女優』に関わったすべての方々に心から感謝したいと思います。
聞くところによると舞台版『千年女優』に関して、ネット上での評判もすこぶる宜しいようで、原作とその監督をした者としてたいへん喜んでいる。
何度でも何度でも言いたくなる。
「いやぁ、本当によかった」
よかった、というのは舞台そのものも勿論、その評判がよかったこともよかったのであり、舞台化してもらったこともそれを楽しめたことも評判を喜べるようなことも含めて、そんな経験をさせてもらったこともよかった、なのである。
幾重にも重なるレイヤーのように喜びが、相互干渉して満足が増幅される。
その構造はひどく『千年女優』的である。
我がことのように嬉しい、という表現があるが、原作を提供しただけの立場でそういうと何だか図々しい気がするし、それにこの喜び方は我がことのようにというのとちょっと違う。
というのも、もし本当に「我がことのように」となると、当然至らぬ点も気になるはずで、だから自分が監督したアニメーション版『千年女優』はあまり楽しめないのだが、舞台版『千年女優』にはいっさいのネガティブを感じないのである。本当に。
劇中、「吉原」と「島原」を取り違えたからって、何ほどのことであるか!(笑)
すべて可愛い。
この喜び方に近いものを世間に探すとすると、こういうことに似ているのではないか。
「孫が可愛い」
孫を持った経験などないが、きっと、そうだ。
これは初孫を見るような気持ちに違いない。
無論、娘であるアニメーション版『千年女優』だって可愛いが、映画における一番の責任者である者にとってはおのれの不明による出来の悪い面がクローズアップされてしまい、無条件に可愛いというわけにはいかない。
原作の『千年女優』に対して、私はあの「あやかしの婆さん」みたいなものである。
「私はお前様が生まれる前からお前様のことをよぉく知っている」
うん、そりゃそうだ。形になる前から、知ってんだこっちは。
おまけにだ。
「われはそなたが憎い、憎くてたまらぬ。そして愛おしい、愛しくてたまらぬのじゃ」
別に原作を憎いわけではないが、可愛いがゆえに不出来な点(主に監督の拙さに由来する)が憎いのである。
しかし「娘」から生まれた「孫」は可愛いのである。
その可愛がり方を具体的に探すと、あれだ。あれに近い。
「おお、金吾、金吾!」
無邪気に孫をあやす津雲半四郎(仲代達矢演じる)の、あの大仰さ!……って、大仰なのは津雲半四郎じゃなくて演じている方の問題かもしれないが。
『切腹』(監督・小林正樹/松竹、1962)を知らない人にはさっぱり分からない話題だろうが、橋本忍脚本による「回想物」の名品。確か『千年女優』制作に当たって、参考に見直した覚えがある。同じ小林正樹監督、橋本忍脚本『上意討ち・拝領妻始末』ともども是非見ておきたい逸品である。
いけない。大仰な芝居に煽られて『千年女優』の話がどこかに行ってしまったじゃないか。
舞台版『千年女優』の、原作者としての感想を一言でまとめるとこうだ。
「原作より面白い」
私は正直にそう思う。
だって、舞台版なら何度でも見たいんですもの(笑)
そして、私が舞台版を見て、もしかしたら一番感謝したいのはこういうことに気づかせてもらったことかもしれない。
「『千年女優』って話は……実は……面白いんだ……」
妙に捻れた話で恐縮だが、別に自慢したいわけではない。全然ない。
何せ、前述したとおり、今 敏が監督した原作版を今 敏が素直に楽しめるわけもなく、しかし少なからぬお客さんから好評をいただいたし、中には何度も繰り返して楽しんでいる奇特な方もおられるという。
実にありがたい。
無論原作の映画は個人の著作物ではないし、関わった人の中にはたいへん素晴らしい仕事を残してくれたスタッフやキャストがおられるし、その仕事ぶりは監督の拙さを補って魅力を放っている。私だってそういう部分は楽しめる。
ただ、それにしても一番の当事者には分からない「何か」があるのだろうとは思っていた。
ようやく、原作者もその「何か」が少し分かった気がした。
他人が作った『千年女優』を迂回することで、自分が何を作っていたのかに辿り着けたように思える。少しばかりかもしれないが。
映画版、舞台版という区別なく『千年女優』の持つ物語そのものは面白い。
それじゃ……やっぱり自慢か(笑)
それ故なのか、それにつけてもなのか分からぬが、えーい、映画版の監督のぼんくら具合が憎くてたまらぬのじゃ。