2001年2月4日(日曜日)

出張 その4“んだら”



 8時20分、モーニングコールが軽快に鳴る。二日目の朝である。あ、起き上がったらちょっと頭が重いぞ。昨日はあんまり酒飲んでないのに。歳かな。
 まずは煙草でも吸う。起きたらすぐに吸うのが高校生の時からの決まりである。
 カーテンを開けると昨日の快晴とはうって変わって雨模様。港の景色が雨に煙り、赤いキリンのクレーンも心なしか寒さに肩をすくめているようだ。
 9時も過ぎたので、ホテルの18階にあるレストランで定番のバイキング朝食を取ることにする。「S・ネプチューン」という。
 はて……?
 ネプチューンはともかく、この頭に付いた「S」とは一体何ぞや。「N堀」の次は「S」の謎だ。
 スペシャル? スペシャルネプチューン……じゃ、変か。
 スモール? じゃあよそにMとかLとかあるのかな。謎だ。
 と思っていたら、何と「スマイリー」の略だと判明した。ああ、それならよく分かる……って、分かんねぇよ。
 「スマイリーネプチューン」……「にこにこした海神」ということか。
 確かにレストランの三方の窓から広々と瀬戸内海が見えるが、しかし「スマイリーネプチューン」というネーミングはいかがなものであろうか。三方からにこにこした海神に見られているかと思うと食事もろくに喉を通らないぞ。
 それに今日は雨。水平線が煙っている。傷心の私にはピッタリの風景かもしれない……いつから傷心だよ!と突っ込むところだと思ったら大間違いである。
 突如として私を傷心に陥れる事態が出来したのである。

 レストランを入って左手に料理と皿が並んでいる。和風と洋風が用意されているのもいかにもホテルらしい。が。しかし。何とトレイが見当たらない。バイキングスタイルの食事には必携のアイテムといわれるあのトレイがないのである。
トレイの上に食器を載せてその上に好みの食べ物を取って行かねばならぬというのに、その最初のトレイが見当たらないではないか。
 ない。どう見てもない。夕べの失敗を踏まえてちゃんと当たりを見回す。が。ない。ないないトレイがない。
 だめじゃん。
 すぐ近くのテーブルでは3人の白人が、ちゃんとトレイの上で食事と会話を楽しんでいる。トレイが無いのは私だけではないか。買うのかな、トレイ。そんなわけないだろう。
 しかし食べ物の前でこんなにうろうろしてたら不審に思われるぞ。
 「あら、いやだ。あの人トレイがどこにあるのか分からないのよ」
 「クスクス、あそこに置いてあるのに気が付かないのかしら」
 しかも白人には英語で思われてる。
 「Hahahahaha,BAKAjanaino!!」
 いかん。トレイのことは後だ。まずはコーヒーだけでも取ってテーブルに付こう。
 「食事?まだ要らないの。あたしって、先にコーヒーを飲まないとだめな人なのよねぇ」
 という体を装うのだ。
 テーブルにつき、コーヒーを飲んで善後策を考える。
 目の前に大きく開けた窓。私の窮状を雨に煙った水平線の向こうで海神がにこにこと笑っていやがるかと思うと、コーヒーも不味くなる。
 どうすればよいのだ?
 隣のテーブルでは若い兄ちゃんがすごい勢いでご飯を食べている。ちゃんとトレイの上で。いいなぁ、あの焦げ茶色のトレイ。欲しいなぁ私も。
 なんかブルーになったきた。
 しかし何度見渡してもトレイがない。ない。見当たらない。店員もいやしねぇ。いかん、腹も減ってきた。よし意を決してもう一度チャレンジだ。
 食べ物を遠巻きにするようにゆっくりと見て回ると、何とそこにトレイの山が!
 微笑む俺。
 ちゃんとあるっちゅうの。棚の中にこれでもかというほどに積んであるではないか。先程の私の立ち位置からでは開口部が陰になって見えなかったのだ。くそ、ネットといい浴衣といい、騙されてばかりだ。っていうか、ちゃんと見ろよ。
 さあ思う存分食べ物を取っちゃうもんね。
 サラダでしょ、スクランブルエッグでしょ、ソーセージにハムにベーコンでしょ……あ、あっちには焼き鮭があるぞ、あ、あ、納豆もある。海苔も取っちゃおうかな。
 皿の上が、和洋折衷のよくわからない献立になってしまった上に、何だか胸焼けしそうだ。
 お世辞にも美味しいとは言えないが、とりあえず満足。
 しかし全席禁煙は辛いな。何だよ、海神は煙が苦手かよ。
 食後のコーヒーと煙草は欠かせないのだが、禁煙ならば仕方ない。もういっぱいコーヒーを飲みたいところを我慢して部屋に引き上げる。
 あばよ海神。

 すでに学校に来ている。
 現在は12時を少し回ったところ。10時半に学校に入り、講義の準備を少しして手持ちぶさたになったところでまた書いている。
 講義について少し書く。今回は「モノを見る」というテーマで講義をするつもりである。「モノを見る」などと偉そうなテーマで講義をする男がレストランでトレイの一つもろくに見つけられないのだから大笑いだぜ。お前がまずちゃんと見ろっちゅうの。
 私が実際に講義を行うのは25、26日の二日間だが、すでに前もって課題を出している。講義受講者29人に対して、

 「“自分の部屋”を記憶に基づいてなるべくありのままに描く。“部屋”には自分の姿も描き込むこと。時間は45分程度。」

 という課題である。
 学生にとっては、楽しくない課題に属するであろう。しかし私は楽しめそうだからノープロブレムである。
 さらにもう一つ課題を出している。「1」の課題提出後、出した課題は、

 「“自分の部屋”を実際に目で見ながらなるべく克明にありのままに描く。“部屋”には自分の姿も描き込むこと。時間は無制限。」

 ひどいことをするよな、私も。追い打ちをかけて学生たちにつまらない思いをさせているようではないか。わっはっは。これが私のやり方だ。
 この1と2の課題を提出してもらって、あれこれと講評しつつモノを見る目を養う方法だの訓練だのについて話をするつもりなのである。

 まず「1」と「2」の間には私の物言わぬチェックが想定されている。もし「1」の課題が提出された時点で、もし私がそれらに目を通していたら次のような言葉を返したはずである。
 「君たちは自分が毎日暮らしている環境をたったこれしか覚えていないのか。こんな程度の物の見方で将来絵を描いて食っていこうなぞ笑止千万! もういっぺん家に帰ってよく見て描いてこい」
 どうせ見なくたって作品がどの程度かは見当は付いている。
 それで「2」の課題である。曖昧な記憶で描くのと実際モノを見て描くことでどのくらいの差が出るのか、私にも興味のあるところだ。学生の興味?そんなの知るか。私が楽しければそれでよいのだ。わはは。半分冗談だ。
 興味があろうがなかろうが、そこに自分なりの課題を見いだせない者に上達の二文字はないと知るがいい。
 「1」及び「2」の課題が提出され私の目の前に積まれている。なかなか興味深い結果となったが、それについては講義を行ってから後々触れていくことにする。
 私のしつこさは実は「1」「2」だけでは終わらない。「1」「2」の課題提出後、さらにカメラで自分の部屋を写させるという徹底した意地悪さ加減だ。いひひ。無論受講者には嫁入り前のうら若き娘さんもいるので、あまり強要するつもりも撮った写真を大勢の前で公開するつもりもないのだが、要するに一応の「現実」が分からなければ講評のしようもない、というのが理由である。決して若い娘の部屋の写真を眺めたかったわけではない。ない。ホントに。
 しかし最近の子たちは良い部屋に住んでいることだよ。
 「1」「2」そして「写真」。これが今日の講義の素材である。どんな授業になるのか私も楽しみである。

 と、ちょうどここまで書いたところでお茶が来た。学校の事務の方であろう女性が運んできてくれた。
 「すぐにお弁当を持ってきますので」
 気が付くと12時半。確かに弁当の時間だ。が。しかしなぁ、9時すぎに朝御飯食べたばっかりだぜ、俺。太っちゃうよ。ただでさえ「千年」が一段落してから着実に太りだしてるのに。
 控え室に弁当を持ってきてもらったが、学食があるということなのでそちらに移動して食べることにした。学校という物自体が私には懐かしい舞台であるし、専門学校には行ったことがない。折りあるごとにあちらこちらを見ておくことにする。
 小ぎれいな学食である。私が通っていた武蔵野美大の学食などに比べると小さい方だが、学校の規模自体が大きくないので手頃な大きさなのであろう。
 私に与えられたのは「ジャパニーズランチ」という、この学食では一番高価な弁当なのだそうだ。470なり。しかし……このケチャップのかかった揚げ物はどう見ても「チキンカツ」なのだが、果たしてこれでジャパニーズと呼べるのであろうか。味は……学食にしては良い方かな。
 この「アートカレッジ」に隣接して駿台の観光事業関係の専門学校がある。学食の中に少し雰囲気の違った一角があり、ここではランチコースを出している。 700也。ここで提供されるランチ料理はそちらの専門学校の生徒さんが実習の一環として作っているのだそうだ。まことに効率がよい。

 担当の方と一緒に昼飯を食べたのだが、このときの話題は「アートカレッジ」職員の給料の安さについて嘆く、という実に食が進む内容であった。具体的な数字は記さないが、マッドハウスの制作進行並ではあまりに気の毒である。

 ちょうど今、構内アナウンスがあった。
 「今 敏短期講座の受講者にお知らせします。一時半から701教室で行います」
 ということだ。いきなりスピーカーから自分の名前を呼ばれて驚いた。職員室に呼び出されて怒られるのかと思ってしまったわい。
 講義か。んだら、私も行こうかな。暇だし。

 「ん」で始める見出しシリーズは苦しすぎた。

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

現在コメントは受け付けていません。