■PERFECT BROWN ─毎日がサイコホラー─

  4月に突入。作画作業は遅々として進まない。

 いくら頑張っていると言っても、レイアウト・原画を直す人間が作監と監督の二人きりでは支えるどころではない。演出の松尾氏は様々な面で知恵を出してくれるが、絵を描く人間ではないのだ。
 洪水にバケツ二つじゃ話にならない。

 濱洲さんも私も業界のレベルから考えて遙かに絵の上手い人間である。そこまで到達したのは絵を描く楽しみを知っていたからであり、当然自分の仕事の質にもプライドがある。
 仕事の質を下げ、自分で分かるほどの荒れた絵を描き、無謀な量をこなす仕事に楽しみやプライドなどという代物は微塵もない。

 作監というのは、作品の規模やスタッフ組みにもよるが、カット内容の質を追求するためのポジションではなく、質を落とさないための仕事だ。一つ一 つのカットを最高のものにしようとするのは原画の楽しみ。濱洲さんはその原画という立場で人並み以上の努力と才能で素晴らしい腕を身につけた人だ。
 上手な原画はそれ以上にする必要はなく、せいぜいがキャラの顔を合わせる程度に済ませ、とにかく下手くそなものを引き上げるというのが作監の主な仕事に なってくる。ただでさえ不健康な仕事のうえにこの状況である。濱洲さんがおよそ楽しい仕事内容の筈もなく、責任感の強さでこなしてくれている状態だ。労多 くして益少ない仕事なのかもしれない。

 遅れの原因は監督の私の責任にもある。氏を作監に誘った私としては、非常に辛いものがあるが、今出来ることは真後ろの席にいる、氏の後ろ姿に頭を下げるより他にない。すいません。
 濱洲さんは聞かれない限り不平不満を言う人ではなく、机の上の小さなテレビをつけ、イヤホンで音声を聞きつつ黙々と仕事に励む。時々一人で笑い出すのはご愛敬。バラエティ系の番組が好きな濱洲さんであった。

 自前の簡易ベッドで睡眠をとり1〜2日かスタジオに泊まりながらの作監作業だ。この業界では珍しい光景ではないが、これ以上の作監への負担は絶対に無理だ。
 作監のみならず作品全体のことを考え、私の机の上に置かれるカット内容を楽にせねばならない。慣れない原画の直しやモブキャラ等の作監も少しばかりは役に立つかと自分で入れ、原画を抜き芝居を減らす。悔しい。

 私の頭髪も抜け、減っていく。

  そんなある日のこと、スポンサーREXの社長が自ら現場視察に来るという。何もよりにもよってなぜこんなクソ忙しいときに来るであるか、全く。
 後に聞いたところでは、スポンサー側の直接の担当であるミスターREXは、上司に現場視察を仰せつかっても、監督以下現場の人間の顔を見るのを怖がって 新宿のゲームセンターで時間を潰していたというくらいで、並の神経なら修羅場のアニメスタジオに顔を出すような真似はしない。
 それを平気で出来るのが「社長」の器というものか。

 ともかく金を出してくれている人間だ、丁重に迎えねばなるまい。それに何と言っても「社長」だ。その差し入れには期待というもの。

 普段のアニメスタッフはそこらの若者と変わりないラフな格好で、9割方が男も女もジーンズだ。私自身はどうもジーンズというのが苦手になってしまい、ここ何年も履いたことはなく、只の一本も持っていない。
 ともかくそんなラフなスタイルのスタッフのいる汚いスタジオに、きっちりスーツを着込んだ一団が入ってくるというのは、なかなかに異様な光景である。
 REX社長でありクレジットでは製作総指揮となる鷲谷 健氏。一年ほど前にプロデューサーと脚本村井氏と共に六本木のレストランでの夕食会に招待された おりに面識はあったが、まだ40代と若い社長である。仕立ての良いスーツだ。原画何カット分の値段だろう?と、下世話な計算が頭をよぎる。

 プロデューサーが同席してるとはいえ、社長に現状を直訴しようかと思ったがさすがに「金と時間が足りないから、もうちょっと出してくれない?」とは言えるわけもない。

 「どうもお世話になってます。」
 社長が快活に白い歯を見せる。
 「どうもご苦労様。アニメのことは分からないけど大変なんでしょう?」
 メチャメチャ大変です。
 「どうも遅れていて申し訳ありません」
 「それでも一月後には完成した物が見られるそうですね」
 ギクリ。思わずプロデューサーの顔に目を走らせる。出来るわけねぇだろ。
 「は……鋭意…努力しております」
 嘘ではないさ。
 「これ、スタッフのみなさんでお召し上がり下さい」
 差し出された包みに一瞬目を疑う。
 ヒロタのお菓子。
 「ありがとうございます……」

 以前参加した「老人Z」という作品で、スポンサーのソニー(ミュージックエンタテインメント、だと思う)から“カップヌードル”ワンケースが届い て「アニメーターを舐めてるのか!?」と言いながらも、夜食に有り難く食べたことがあったが……ヒロタのお菓子。ヒロタのお菓子を差別するわけではない が、「社長」には不似合いな気がするのは私だけの感想ではないはず。気持ちが大事とはいえ、仮にも「レックスエンタテインメント」、エンタテインメントと いうからには、まずは周りの人を楽しませるくらいの神経をもっと持ち合わせて欲しいぞ。

 社長一行が退室するやいなや、甘いもの物大好きな勝一さんが早速手を出し、無邪気に頬張る。
 「みんな早く食べないとなくなっちゃうよ!」

 エンタテインメント、か?

 4月もまだ頭の頃であったろうか。昼間、スタッフも周りにおらず一人で仕事をしていたときだ。おそらくは徹夜をして仕事を続けていたのだろう。天 気が良かったのを良く覚えている。私の席は窓際なのだが、仕事への意欲を奪おうとするかのように暖かい陽がいっぱいに差していた。窓の下の青梅街道はいつ もように沢山の車が流れている。いつもと変わらない一日。だというのに。
 ハマグリが一枚の紙切れを持って私の机にやってきた。
 「どうも………おはようございます」
 この業界の挨拶は昼でも夜でも「おはようございます」だ。
 「何です?」
 お前がわざわざ私のところへ来るなど、どんな異変だ。
 いかにも困った事態になった、というわざとらしい表情でハマグリが言う。
 「すいません、決まりました」
 机の仕事に目を戻しながら答える。
 「何が?」
 「アフレコです」
 ハマグリの差し出した紙切れに目を通し、自分の視力を本気で疑う。

 一週間後、である。

 アフレコには当然ながらフィルムが必要である。声優さんはフィルムを見ながら各キャラの口の動きや芝居のテンションを読み、声を当てるのだ。全て のフィルムが揃ったところでアフレコをするのが当然の形だが、アニメ界の現状ではそんな当たり前のことが守られもしない。作画作業が間に合わないのが原因 である。
 背景が間に合わないという理由で仕上がったセルのみで撮影したタイミング撮や、動画段階で撮影した動撮などをつなぎ合わせてアフレコ用フィルムにするな どまだいい方であり、更に動きが分かりにくい原画でフィルムにしたもの、あるいは更に前の段階のレイアウト撮影が混じるなどよくある話だ。更に何も素材が なければコンテを撮る。
 本来素材が全て揃って撮影するところを、動撮、原撮などをすると言うことは2度手間になるわけだし、金も無駄になる。フィルムは安くない。しかしそうでもして暫定的なフィルムでアフレコをしのぎ、本番用カットの作業時間を稼がないことには完成しないのが実状である。
 ともかく。どんな状態であれフィルムがないことにはアフレコは出来ない。そして我々はそのためのフィルムを作ってはいないし、いつまでに作れ、とも言われたことも、ない。

 「一週間後って、出来ると思ってるのかよ?」
 うつむいて突っ立ったままの、正に茶色いでくの坊が口を動かす。
 「やるしかないです」
 私は椅子に座ったまま、おそらくは非常に冷たい目で見返して言う。
 「やるしかないって、何にも準備してねぇじゃねえか? どうすんだよ? アフレコのフィルムは」
 5日やそこらで間に合わせとはいえ80分のフィルムなど用意できるわけもない。
 「いや……やるしかないですから」
 「知らねぇよ」
 アフレコの日程を伝えるその紙を掴んで、私は床に投げ捨てる。

 ひらひら。

 しばし固まるハマグリ。
 ハマグリが、やおら動きだし無言でそれを拾い上げ、先と同じ場所におく。心なしか鼻息が荒いぞ。
 「知らねぇって」
 もう一度放る私。

 ひらひらひらひらひらひら。

 美しいカーブを描いてそれは汚い床に滑り落ちる。
 明らかに荒い鼻息を一つたて、ナマケモノのようなのろのろとした動作で拾ってきて、また同じ場所におく。さっきよりは幾分強い調子だ。

 何だか面白い。

 恐ろしく客観的な気持ちになり、この壊れたような時間を興味深く観察する。私も壊れてきているのかもしれない。
 「知らねぇってんだろ」
 もう一度、今度は強めに放ってみる。

 ひらひらひらひらひらひらひらひら。

 ハマグリは更に鼻息だけを強め、その割にはやはりスローモーションのようなどろんとした動きで、紙を拾ってくる。そして多少の意志を感じさせる強さでしっかりと同じ場所におく。鼻息が更に強くなっている。もう一度放ってやろうかと思いふとハマグリを見上げた。

 わ! 口が震えてる!
 ブルブルブルブルブルブルブルブルブル…………

 二コマ3枚ブレ、かな。しかも同トレス程度のブレではない。線の幅にして3本、いや5本分くらいか。怒りの感情なのかただの反射なのか、とにかくよく震えている。
 “怒りに打ち震える”という表現があるが、本当に震えるものなんだなぁ、と妙に冷静に感心する。

 若干身の危険を感じて、ハマグリを椅子に座らせることにした。
 刺されちゃかなわん。

 「原撮も動撮もなにもしてねえだろ。どうやってやるんだよ? アフレコ」
 「いや、決まった以上やるしかないですから」
 「フィルムがなけりゃアフレコは出来ないもんなんだよ、知らないんじゃしょうがないけどな、アニメのこと。」
 「分かってますよ、それは」
 当たり前だ、皮肉も通じないのか、お前は。ぼさぼさに伸びた髪の毛の間に見えるハマグリの顔は、ますます茶色い。完璧な茶色。

 「これからアフレコまでにフィルムは出来るだけ準備しますから」
 「出来るわけないだろ? デジタル絡みのカットはどうすんだよ、まだ先方に連絡してねぇってんじゃねぇかよ」
 「いや、もう切るしかないですから」
 お前を切りたいよ。
 「それだけで済まないだろ? いくらアフレコ用にしたってシートも見てないし、4日や5日で900カットも準備出来るわけねぇだろ!? 間に合わねぇのにどうすんだよ?」
 「切るしかないです」
 「いつからお前にそんな権利があるんだよ!?」
 「やるしかないですから」
 「ハ、お前と話してても、しょうがねぇからさ、呼んで来いよ、プロデューサー」
 「やるしかないですから」

 しげしげとハマグリを見返して言う。
 「オウムか? お前は」
 ハマグリがうっそりとパーフェクトブラウンな顔を上げる。
 「え? 何ですか?」
 「お前はオウムかって聞いてんだよ」
 「すいません、あの、どういう…?」
 「同じことばっかり言ってんじゃねぇってんだよ。呑み込みが悪いな、全く。いくらこっちが一生懸命やっても制作がその頭じゃ、そりゃ遅れるわな、スケジュールも」
 「……遅れてるのはみんな制作のせいなんですか!?」
 あ、また口が震えてる。ブレ幅も一段と大きいぞ。ガクガクしてるよ。しかも半分泣いてるじゃねえか。

 危険かな。

 冷静に状況を考える。私は基礎体力が著しく低下している上に、徹夜明け。周りにスタッフは誰もいない。いざとなったら、サンダルを取るには距離がある。机に置いた資料用の厚い本しか武器はない。さりげなく、右手をかけておく。マジ。

 「まあ、基本的に遅れを出すのは絵描きのほうではあるけど…」
  時々なだめておくことにする。意外と弱気。
 「半分以上制作が悪いだろ、管理放棄してんだからよ」
 「してませんよ。とにかくアフレコは決まってるんで…」

 それにしてもおかしいではないか。フィルムアップは4月いっぱいと言われていた。作品の完パケ、と言われてはいない。出来るかどうかはともかく、制作の言うスケジュールの上でもフィルムアップ後にアフレコを組むのが当然ではないのか? それがなぜ4月の半ばに?

 「岩男さんのスケジュールの都合で、そこしか取れないって……」
 と、きたもんだ。どこまでホントなんだか。
 「いいよ、じゃ変えよう、岩男さんは。声優の都合でそんな無謀な時期にアフレコを組まれてもどうしようもないからさ、変えるよ。主役。連絡して」
 「無理ですよ、そんな…」

 そんなことは百も承知だ。が、無理なのはどっちなんだよ。
 「話しても無駄だからさ、いいから早く泣きついて来いよ、プロデューサーによ」
 「ダメです、とにかくやるしか……」
 「いいから、行ってこいってんだよ!!」

 引きつった表情のハマグリがその口を固く結び、顔を更に油染みた褐色にして、のろのろと立ち上がる。
 部屋を出る音を確認して、武器とも言うべき資料の本から右手を離す。
 「……危ねぇ、危ねぇ」
 作品よりもホラーな毎日となる。安息の日は、無い。

 結局、アフレコは一ヶ月延びる。

 プロデューサーに現状がばれ、いくら何でもこの時期にアフレコは無理だという判断である。当たり前だ。幾ばくかの常識を持ち合わせていれば、誰にでも分かることではないか。

 この顛末でまたも露呈した。ハマグリはプロデューサーと現場との間に入って双方の連絡をとる立場なのだが、制作の進行状況を何も伝えてはいなかったのだ。あげくにはプロデューサーに対して「アフレコは大丈夫です。何とかします」とのたまっていたという。

 「だから言った通りじゃないですか? ハマグリを切らない限り同じなんですよ」
 「そうは言ってもねぇ、制作も人がいないんだよねぇ。今後我々の方でも注意して進行状況を確認して行くから、まずアフレコ用のフィルムを何とかしましょうよ」
 「アフレコ用だけ、のフィルムと考えていいんですよね?」とは松尾氏。

 アフレコ用のフィルムと念を押したのは、ダビングに耐えうるフィルムでなくてもよい、という確認を取るためだ。素人の方には分かりにくいかもしれ ない。アフレコ用ということはセリフのきっかけ、タイミングや間が分かればよいということ。その他のアクションには気を使わなくても良いので、労力も少な くて済むということである。これがダビングに耐えうるフィルムということになると、事はそう簡単に行かない。殴る蹴るのアクションのタイミングは勿論、歩 きや走りなど、とにかく効果音が付く芝居は全てタイミングを決めなければいけない上に、編集まで終わらせて完尺を出すことになる。原画やレイアウトすら 揃ってもいないというのにこれはいくら何でも作れない。
 「アフレコのためだけのフィルムでよい」
 プロデューサーに確約をいただいた、が予断を許さない制作状況だ。何が起こるか分からないと思っていたが、後にその予感はズバリ的中することになる。

 これ以後ハマグリは病状が更に深まり、おはようの挨拶の声もとんと聞かなくなる。冗談ではなくハマグリの声を聞くのは週に一度あるかないかという 程で、更に事態が進行していくとその姿さえ希にしか見られないといったことになる。珍しい動物に近い。レッドデータアニマルか?

 絶滅しちまえ。