アフレコが間近に近づく。何の素材もないのでコンテを撮ったカットまであるが、とにもかくにも、全てのカットがフィルムになる。オールラッシュ、ではある。
ラッシュ部屋にスタッフが集まりとりあえず全編通して見ることになる。
この時の記憶があまり、無い。おそらくは私の大事な髪の毛と共に仕事中に抜け落ちたのだろう。一生懸命に思い出そうとしても、映写機が回り始めたときくら
いまでは映像として甦るのだが、いかんせんその先が霞がかかったように薄ぼんやりと白濁してくる。私の無意識が心の傷が再び開かないように鍵をかけてくれ
ているのだろうか? 大袈裟か。
いやいや、数年後、いや十年二十年後にふと何かの弾みで思い出し、道端で突然に金切り声を上げ私はしゃがみ込んでしまうかもしれない。そしてその時角を曲がってきた大型トラックが……ギャアアアア!
そんな妄想は放っておけ。
ともかく曲がりなりにも全てのカットをつなげてみたのだから、おぼろげながら作品のイメージは見えたと思うのだが、およそ喜ばしいものではなかったはずだ し、確認のために苦痛に耐えながら3ロール八十数分を見ていたと思う。手に汗握るオールラッシュ。だから意味が違うだろ。
集まっていたスタッフもさぞがっかりしたことであろう。私の責任だ。ごめんなさい。
オールラッシュの後、アフレコ用ではあるが心ばかりの編集をする。アニメの場合、編集はコンテの段階でほとんどが終わっているようなものなので、フィルム 編集といっても繋げてみて間の悪いところを切ったりする程度だ。もちろん編集時にカットを入れ替えたり、インサートをしたりというのはあるし、パーフェク トブルーでもいくつかそういったこともやってはいる。それはまた後に事故の元になったりしたのだが、今は触れないでおこう。
編集の尾形さん、演出の松尾氏、そして私の3人が暗がりの中、編集機の小さな画面に向かう。さあて、編集。
が、これが編集にならない。当たり前といえば当たり前だが原撮だのコンテ撮ではカットの繋ぎが分かるわけがないし、アクションシーンなどは特に手のつけ
ようもない。もっとも、更にスケジュールが厳しいテレビシリーズなどではそういう状況で編集したりもするらしいが、それに慣れたところで悲しすぎるものが
あるし、何と言ってもこれは“劇場作品(笑)”だ。
とはいえ、少しでも尺を減らせという通達があるので、努力だけはしてみる。
「ここは……分からないね」
「そうですねェ、カットが上がらないと、ちょっと…」
「ここは少し切ってもいいのかな?」
「イヤ実はその前に芝居が入るはずなので、出来てみないと…」
「じゃ、わからないね」
「ここは大分間があるけど、少し切った方がいいかな」
「あ、いや、それは狙ってるんで……」
「あ、そう。ええと、ここは……分からないね」
「そうですねぇ」ってな具合だ。
結局たいした尺は切れなかったと思う。
それにしても、こんな3分の1も色が付いておらず、原撮ばかりのフィルムの状態でアフレコが出来るのか? テレビシリーズじゃあるまいし、何が劇場作品(笑)だ!!
しかしこの「(笑)」というのをつけると、どんなことでも軽くなってしまうというのは可笑しいな。
「円安是正、国際合意へ(笑)」
「食糧、依然150万トン不足(笑)」
「巨人、首位転落(笑)」
「江戸川区で火災、一家4人焼死(笑)」こらこら。
「チケット不足、ダフ屋相手に交渉も(笑)」
「理想の上司は『ミスタービーン』(笑)」、そのままか。
話が逸れた。
5月5日。こどもの日。
しかとは思い出せないが朝の10時スタジオ集合だったろうか。自宅のある武蔵野から録音スタジオのある六本木までは随分と遠い。空間的にも精神的にも、
だ。その縁遠い六本木、それも人の賑わいなど全くない朝の六本木を、悪臭をかき分けるように急ぎ足に通り抜け、10分ほど遅れてスタジオに着いたときには
少々息が上がっていた。酒とタバコに侵され、仕事で基礎体力が非常識に低下した身体に昔の健脚の面影はない。
六本木アオイスタジオ。入り口に「パーフェクトブルー御一行様」と書いてあったかどうかは定かでないが、案内板を頼りにアフレコを行うスタジオを探して下りていくと沢山の人が集まっている。
こどもの日の休日だというのに他にも仕事の人も多いのだなぁ、とぼんやり思っていたらパーフェクトブルーの声優さんではないか。すいません、監督が遅れて。
松尾氏とプロデューサー、オニロ・井上氏は既に来ている。「ィッス…」挨拶にも力がこもらない。オハヨウゴザイマス。
ハマグリは当然、来ていない。誰よりも早く来なければならないはずの制作担当だというのに。こういうのを言うのだろうか「キャラクターが立っている」と。立てるなよ。
同じくキャラが立っているガンプ君は大事そうに全カットのシートを抱え、誰にも渡さぬぞ、といった体である。何故にシートが必要かと言えば状態の悪いフィルムで確認できない部分でのチェックや、セリフに合わせて後で作画するケースも考えられるからだ。
数十分ほど遅れて、いかにも「急いで来ました」という風を装い、さも「頑張ってます」の証のような無精ひげを伸ばして、寝ぼけた顔のハマグリが現れる。普段から寝ぼけた顔も5倍増しだ、と心で思うがこの日ばかりはさすがに他人に文句を言える立場ではない。
こんな悪条件のフィルムでアフレコをして貰おうという監督の立場は、辛い。からい、って読むなよ。
一通り面子が揃ったところで、音響監督の三間さんがブースの中で声優さんたちに挨拶をし、その声がコンソール側にいる私の耳にもとぎれとぎれに漏れ聞こえてくる。
「フィルムの制作スケジュールで、アフレコも度々延期になり皆様にもご迷惑をかけておりますが……」
すいません、その通りです。
「……とはいえ、お蔵入りさせるにはもったいない作品ですし……」
エ? そんな話まで出ているのか!? ますます辛いな。+20くらいか。もう激辛。涙が出そう。
三間さんの挨拶が終わりコンソールに顔を出し、私を呼ぶ。
「監督、声優さんに紹介しますので、どうぞ」
どうぞ、謝れ、と続くのかと思った。
断頭台への行進もかくやといった体で監督と演出・松尾氏が中に引かれていく。ふと「ある晴れた昼下がり市場に続く道」を売られていく牛もこんな気持ちであったろうか、等と自虐的な冗談が右脳から左脳へ駆け抜ける。
控えめな照明のブースの中は、胃の痛くなるような重たい空気が充満していた。松尾氏と二人、居並んだ声優さんの前に下を向いて立つ。そして顔を上げ、
「ハ
イそういうわけでね、アフレコも頑張っていかなならんわけですが…。そうですね、アフレコいうのは、知ってましたか?皆さん、“アフターレコーディング”
の略いうことでねぇ、ホンマ日本人いうのは省略するのが好きな国民性、いうんですかねぇ、何でもかんでも略してしまってカット内容の方も省略してしまいま
してほとんどが色も付いてないんですよ、ホンマね、大変ですわ(笑)」
言えるか、そんなこと。
「どうも宜しくお願いします。こんなフィルムの状態でアフレコをお願いすることになり申し訳ありません」続いて「宜しくお願いします」と松尾氏。
何とも情けないことであるが、この日アフレコをお願いした多くの声優さんの顔をほとんど覚えていない。というのも、あまりの申し訳なさに声優さんに対して顔を上げることも出来ず、みなさんの靴しか目に入らなかったのである。後に松尾氏が言う。
「相手の顔が見られない、というのはあのことですよ」
その通りであった。生まれてこの方初めて「針の筵」という言葉の意味を、正に身をもって知った日だった。イテテ。
主演の岩男潤子さん、松本梨香さんに実際お会いしたのもこの日が初めてだったと思う。実際目にした岩男さんはその名前から想像されたイメージとは裏腹な、 本当にに小柄な方だった。184センチの私の膝までくらいしかなく、危うく踏みそうになってしまった。そんなに小さくはないか。
挨拶したときに見た岩男さんの、やはり小さな、底の高い靴が印象的だった。松本さんはその明るく賑やかなキャラクターでこのアフレコ初日の沈鬱な重いムードを和らげてくれたことです。感謝の言葉もない。タマゴッチを見せてくれてありがとう。
音響監督・三間氏とアフレコ台本について簡単な打ち合わせをし始めてすぐに、問題が露呈する。
脚本段階から比べると、セリフも随分と変更があるので、アフレコ台本はコンテを元に作成されている。コンテのセリフは私の下手な字で書かれており判別し
にくい上に、なおかつ欠番も大変に多く、更には作業途中に変更になったりもしている。よって最終的に決定を見たセリフは、私の持つコンテに書かれたもので
ある。それを元に制作にアフレコ台本用のセリフを抜き出してもらったと思うが、随分と間違いが多い。いや、それ自体は致し方ない部分も多いのだが、私がア
フレコ台本をチェックした直しが、その日渡されたアフレコ台本に反映されていないのだ。私のミスもあったとは思うがそれにしても不備が多く、欠番やセリフ
の変更点などを急遽チェックする。
しかも何と、尺超過のために随分前に切ったはずのセリフが甦っているじゃないか。セリフのゾンビか。
急いでシートをチェックしたところ、原画マンが既に間違えている。後で確認したところによると、間違えていたのは原画マンではなかった。泣く泣く尺を切った変更後のコンテを、制作が当の原画マンに渡していなかったのだ。
一応はっきりさせておくが、これはハマグリの仕業ではない。前任者の時のことである。
アフレコの当日に直しが出来るわけもない。私の苦労の一部は徒労であった上にこれで計算よりも尺が増えることになる。トホホ。
まぁ、それもこれも自分でセリフの尺をチェックできなかった自分にも問題はある。そうだそうだ、みんな監督が悪いんだよ。
慣れないスタジオで、沈鬱な雰囲気の中、様々な予想もしない手違いに応急処置を施さなければならない。喉は渇き、頭は既に痺れ始める。
そして、アフレコは開始された。
断っておくがアフレコに関しても記憶の欠落が激しい。特に初日は辛かったことしか思い出せないようだ。もしもこの戦記を読んでいて、なおかつアフレコのくだりなどを楽しみにしていた声優ファンな人がいたら申し訳ない。
アフレコはシーンのまとまりで分けて、少しずつ録っていく。「ダブルバインド」で若い刑事役を演じている堀 秀行さんのように、スケジュールの合わない人 などはその部分だけ別録りになったりもするし、この作品の勘所でもある未麻とバーチャル未麻の掛け合いは同時に出来るわけはないので、初日にノーマルの未 麻、二日目にそれをモニターしながらの録りとなる。
さてやはり気になるのは主人公・未麻である。とにかくこの作品、主人公が出ずっ ぱりといってもいい。しかも日常の未麻、アイドルとしての未麻、ドラマの中の未麻、そしてバーチャルの未麻という風に多くの面を持った役であり、その演じ 分けも容易では無かろう。特に日常での未麻の芝居が肝要。日常が演じられなければ、特殊な状況も際だちはしない。
作品冒頭のコン サートシーンでのMC。ここでのある意味未麻のわざとらしい芝居というのは正解であった。ファンの前でチャム卒業を宣言して、自分の言葉に感極まって「い かにも」な芝居となるのは有りだ。たいした売れてもいないアイドルが、グループを抜けることで本人もファンも一大事となる。狭い世界の表現として適切では なかったろうか。世間的にはどうでも良いことでも本人たちには大事なことはよくあること。学生さんの世界と同じである。卒業宣言というのはあながち伊達 じゃない。
話が変わるが、素材として用意された江口寿史のキャラクターを利用しようかと思ったのはこういう「アイドル」としての、 お人形さん的な部分である。作監に説明するときにも用いた表現であるが、「ステージの上などの“アイドル・未麻”の時は江口キャラを意識してもよいかと思 いますが、ただし日常シーンでは別な顔だと思って下さい。」そんなことを言ったかと思う。何と言ってもこの作品は「仮面」の話でもある。
声優さんの芝居でも同じようなイメージにしたかったわけだが、それなりに感じも出ていたのではないだろうか。もっとも、そんな説明を声優さんにする機会は無かったのだが。
なぜか声優に対する演技指導というのは監督が直接行うケースは少ない。たいていは音響監督を通じてなされるらしい。
概ね音響監督の三間さんはこちらのイメージを理解してくれていたようだし、こちらが足りない部分を補ってくれることが多かった。自慢ではないがアフレコは
初めてといってもいい。「ジョジョの奇妙な冒険・第5話」は演出という立場であったが、それはフィルム編集までであり、音響関係は監督の北久保が担当して
いた。アフレコには立ち会ったが、それだけである。ましてやダビングなどは私の知ったことではなかった。
話が逸れた。
岩男さんの芝居は若干作り過ぎであったとは思う。オーディションのテープを聞いたときから懸念されていたことではあったし、一生懸命さが空回りしている部分もあったのであろう。未麻を演じようという意識が強すぎたのかもしれない。
おかしな言い方ではあるが、そのひたむきさというか真面目さに「未麻」を彷彿とするところがあった。嘘じゃあないよ。
しかも繰り返すようだが、アフレコ初日のムードは異様に重たかったのだ。フィルムの状態の悪さが更に拍車をかけてもいる。申し訳ない。
普段の私なら賑やかしくらいはするのだが、何と言って針の筵に座る私の足は血だらけであり、うろうろして場を和ますような余裕はない。
フロントクレジット開けの未麻の部屋のシーン。ここの自然な感じというのは前半での重要なポイントである。いわば安全地帯とも言うべき自分の部屋での「他
人を気にしない無防備さ」というのが必要なのだが、よそ行きの未麻が多少残っている。おそらくは岩男さん本人も分かってはいたことだろう。岩男さんも後に
「こうじゃない」と思いながらも最初演じていたと言うが、作品として残った形はあの条件の中では精一杯であったとは思っている。だいたい今のアニメ作品の
中で要求される芝居とは根本的に異質な芝居を想定している。急に「ナチュラルな芝居」をしようとしても土台無理な相談であるし、私もそれが達成できるとは
思っていなかった。
「ナチュラル」を賢明に演じるというのは矛盾したベクトルである。
これは自分自身の演出や作画 も含めて言えることであるが、80点や90点を目指していたわけではない。平均で65点くらい取れればよいという目算であったし、些細な違いに目くじらを 立てて良い部分まで消えてしまうのは甚だつまらない、と思っていた。そんなところまで追求できる規模の作品でも、監督の器でもない。大事にしていたのは 「流れ」。
そういう意味で作画も声優さんに関しても、だいたいのイメージがあっていればよいと思っていたし、気になる部分だけ注文 を出すというやり方をさせてもらった。結果的にはそれで良かったと思っている。基本的な部分では何もいわなくても三間さんがすぐに注文を付けてくれたし、 分からないところはすぐに質問してくるといった具合で、「いいですよ」とか「そうですね」とか言う言葉しか口にしなかったような気がする。声優さんの役へ の解釈にも救われた部分も数多い。
それに正直な話、私はモニターに映し出される作画の粗や、自分の演出の間抜けさが気になり時折声
優さんの芝居を聞き忘れることもあって、「監督、ここのセリフ今のでいいですか?」という三間さんの質問にもさすがに聞いてなかったですとも言えず生返事
をしていたこともあった。
後に岩男さんと話していたおり、彼女は私の困ったような顔をブースから見て不安に思っていたと聞いたが、「しまった」という顔を時折していたのは自分に対してであって、あなたにではなかったのですよ。ゴメンね、岩男さん。私も余裕が無かったですよ。
細かい部分では多少の違和感はあったが、録りが進むにつれ岩男さんも未麻に馴染んできたようであった。テレビシリーズなどと違って、そういう声優さんとキャラクターの「おいしい関係」は、こうした単発物では少ないのが残念だ。
それに私がイメージできていなかった部分を岩男さんが考える未麻、というより岩男さんの中にある「未麻像」で埋めてもらった部分も多かったような気もする。ありがとう、セイントフォー。おいおい。
未麻が母親と電話で喋るくだりがある。不安な手紙の後に電話が鳴り、緊張した未麻が固い調子で電話を取り、応える。と、母親の声が聞こえ一気に緊張がほぐれるという感じで、田舎の言葉で喋り出す。実はこの方言、コンテとはまったく違っている。
未麻の方言は最初、踊る森田君の指導の元博多弁であった。それがアフレコ当日になってセリフが変わっていて驚いてしまったが、後で聞いたところによると
三間さんからの指示で、岩男さんが喋りやすいということもあって彼女の出身地である大分県の言葉になったらしい。私としてはどちらでも良かったのだが、尺
が合わなくなるのではないかと肝を冷やした。
主人公の出身地をどちらでも良いなどとは、少々いい加減な監督ではある。未麻の方言は脚本段階から九州方面の言葉であった。村井さんによると、脚本執筆
時の
NHKの朝ドラがそんな言葉遣いであったとかいう話である。私としては未麻のイメージは南国というより北国出身という感じだったのだが、未麻が口にしたと
きに標準語との差が明確であり、なおかつ響きの良いものにしたかったこともあり、脚本に準じたと思う。ホントは私が良く知っている北海道弁にしたかったの
だが、内地の言葉との差が出にくいべさ。
コンテではいい加減な九州の方言を書いていたが、福岡出身の博多弁ネイティブスピーカー森田君の弾丸のような突っ込みを受け、博多弁の特徴に熱弁を振るう彼にお願いしてリライトしてもらったのだ。ああ、それなのに大分弁。すまんな、森田君。
またこのシーンの冒頭でテレビがニュースを伝えている。夕方のだるい雰囲気として必要だから入れたのだが、入れる以上何でも良い、というわけにもいかない。
ニュース原稿はマッドハウスの他の作品の制作をしている方に書いて貰っているのだが、「どこかの国の大地震を伝える報道」を入れてもらった。というのもだ。
さっきの卒業宣言とも共通するところはあるのだが、世界では大惨事が起こり死者が数多く出ているというのに、東京の小さな一室の中ではアイドルを卒業することが一番の問題となっている、という落差をイメージしていたのだ。
だから、どうした、と言われると困るのだが、まぁ我々の日常での世界の現実に対する認識などそんなものではないか、という感じだ。世界に餓えた子供がいようが腹一杯なら食べ物は残す。そんなこと。
さて手元にある当時使用したアフレコ台本を見返しながら、思い出すままに書き連ねていこうか。
「六本木・アフレコの陣」の二日間だけで何もここまで痛ましい姿になったわけではない。こやつはアフレコの後、更に激戦となった最後の決戦「六本木・ダビングの陣」にも馳せ参じているからだ。ページを開くと様々な書き込みと意味不明の悪戯書きがなされている。 |
カット157、ドラマの収録での待ち時間で例の手紙を見ていたルミが大きく欠伸をするカットなのだが、リハーサル時、松本梨香さんの独り言が聞こえてくる。「随分長いなぁ、この欠伸」
あ、すいません。
実はこの欠伸、原画チェックの際に松尾氏と二人で原画マンが書いたタイミングよりかなり延ばしたのである。ちなみにこの撮影所シーンの原画は川名久美子さん。
元は確か2+12くらいだったと思うが、最終的には5+0くらいまで延ばしたのではないだろうか。記号的な欠伸にしたくなかったから、というのといわば
ルミの紹介を兼ねたカットで印象的にしたかったからだと思うが、それにしても監督と演出がストップウォッチ片手に実際にあくびを計っているというのは、端
から見ればバカな構図であったろうか。
「今さん、欠伸ってもっと長くないですかね?」
「え?そうかな。どれどれ、ふあ〜〜〜〜〜〜〜あ、ああそうかもね」
「いや、もっと長いんじゃないかな、ふあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜あ」
「アレ?そうかふあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜あ、ホントだホントだ」
アクビ娘も大忙しさ。
ルミの声というのは最初から違和感がなかったような気がする。アフレコ時にはあまりに違和感が無くて、「そういうもの」という気がしていたが、後々考えると恐ろしく素晴らしいことに気がついたものだ。
松本さんのルミは色気、というか艶があり、ルミが生きてきた背景のようなものまで感じられ、非常に実在感があった。
後の銀座でのイベントの時に、かの吉田理保子さんとお話ししたときに聞いたのだが、上手な声優の芝居というのは、彼女曰わく「画面のすぐ裏にいる」というようなことを仰っていた。決して前に出てはいけないのだそうな。
また大阪のイベントの楽屋で、松本梨香さん、岩男潤子さんと雑談をしていたときにもそんな話が出た。岩男さんはしきりと「ルミちゃんがいる」というような表現をしていた。
「隣で梨香さんが喋っていても見たらルミちゃんがいるんじゃないか、って思えるんですよ。未麻もそこにいたいなぁって思って…」
上手いことをいう。「ルミがいる」
実感のこもった言葉なのだろう。そう、大事なのは実感。松本さんは役に対するスタンスをこんな言葉で語ってくれた。
「男の子の役とかもそうだし、自分からは遠い役もたくさんやるんだけど、自分の中の共通部分を膨らませて演じないと嘘になってしまう」
その意見に一票入れよう。絵もまったく一緒である。感情移入、とはまた違ったニュアンスで、もう少し客観性を伴う部分であろう。
「自分が感じ入る部分を見つけてそこを絵にしていかないと、味気ない客観描写に終わってそれこそ絵空事になりますね」
失礼を承知で書かせて貰うが、パーフェクトブルーに登場する「オタク」たちの芝居はそんな感じだったのではないだろうか。最初に彼らの芝居を聞いたときには頭を抱えてしまった。
演じ手が「オタク」をバカにしている。
「いかにも」な感じを狙ってくれているのであろうが、逆効果だ。わざとらしい。「どこにでもいるような人」というのはイメージの中では存在するが、そのま ま具体化すると「どこにもいない人」になってしまうことが多い。「平均」というのはデータ上の幽霊みたいなものであり、実際には存在しない。大抵は皆どこ か「特殊」なものである。
そういった芝居を徹底して直してもらうことが出来なかった自分も情けないが、おそらくは短時間でどうにか 出来ることではなかったろう。これは演じてくれた声優さんの問題というよりも「声優業界」いや「アニメ業界」全体の芝居に対する考え方に由来する根本的な 問題なのかもしれない。おそらくはそうした芝居が過去の多くの作品で良しとされてきたのであろうし、更にマンガ絵を基本に表現しているのであるから、作画 や声の芝居というのもそれ相応でなければバランスを欠くという側面もある。デフォルメのレベルは画面も音も一定しているのが望ましい。
ま、ちゃんとしたフィルムを用意してないお前が偉そうに言うなって?
はい。
アフレコ用に間に合わせたフィルム、実際にはビデオに落とし、それをモニターしながらのアフレコであるが、画面に不備が多い。セリフのあるカットは全て原 撮以上にはなっていたと思うが、口パクのタイミングは、カット内で役名と「セリフ」と書かれた紙片が出てきて、それを頼りに声を当てる。通称「マルセ」と か「マルセボード」とか呼ばれていた。
そんなただでさえ分かりにくい状態であるというのに、マルセの撮り忘れ、役名の間違いなども
非常に多く混乱を来した。撮り忘れカットについては、役者のセリフの尺を出してもらい、作画で合わせることになる。これがまた後に連絡ミスや間違いを生む
原因にもなったりしたものだよ。トホホ。
またそういった手違いはなくても、妙に間が抜けたりするところにはセリフを足したり、口パクが短すぎたり長すぎたりする場合はセリフを変更したりもした。
「すいません」「もうしわけない」というセリフなら私もナチュラルな芝居ができるほどに口にさせてもらったよ。
「オタクの言葉」というのも感じが出なかった気がする。業界用語や専門用語など一般的でない言葉についてはその都度こちらからイントネーションなどを伝え
る。実際に出てきた言葉としては、例えば「パンピー」「未麻リンくゥーなひとたち」などがある。「パンピー(↑)」なのか「パンピー(↓)」であるのか、
「未麻リンくゥー」か「未麻リン、くゥー」かなどと一応私が発音して伝える。
辛そうな監督が真面目に「未麻リン、くゥーです。未麻リン、くゥー」等と喋っているのはそれこそ(笑)。
こんな言葉がオタクらしい言葉かどうかは私もよくは分からないが、自信を持って使えばそれらしく聞こえるのだ。ホント。
そのためには普段使い慣れている言葉のように喋ってもらわなければ困るのだが、どうにもぎこちない上に更に自信がないためであろうか、逆に強調して発音
してしまう。注文を出せばよいのであるが、さてこのあたりが難しい。状況的な問題、作品の中での役柄の重要性、スケジュール、役者の理解力等々様々なパラ
メータがあるわけだが、その状況の中で何を重視するかというのが考えどころである。
何より怖いのは「注文を出して尚悪くなる」という状態。よくあるケースだ。役者さんの中でバランスが取れている状態であるから、少々気に入らなくても一つ
の解釈としては成立している、であろう。それに私だけが正しいわけでは無論、無い。それを壊して別な解釈を成り立たせるというのは冒険を伴うわけで、およ
そ「気に入るまでやる」という環境ではないから、粘ってやったところで直しは1〜2回がいいところだ。私は鬼じゃない。
しかも小さなことにこだわって「流れ」が悪くなった日には全体が硬直してくる。欲しいものが10個あっても取れるものは3つしかない、そんな状況なら大事なものから順に3つ取る方が賢者への近道というもの。
「監督、どうですか今のは?」という音響監督からの質問には、1+0の間に以上のことを頭に巡らし、以下のように答えるのが望ましい。
「エエ、いいんじゃないですか」
このようにしてアフレコは快調に録り進めていくのさ。
ルミ役・松本梨香さんと並んで安心して聞いていられたのは、やはり田所役・辻 親八さんであろうか。田所というのは長らく「ギョーカイ」を生きてきてそれ
なりにおいしい思いをしたであろうし、辛酸も舐めてきたであろう。「色々な経験があるだけに上っ面なことを言うほうが無難なことを知っている人物」みたい
な感じだろうか。辻さんははまっていたと思う。
事務所のシーンでのこの二人のやりとりはなかなかの聞きものだった。それに何より、辻さんの外見である。
休憩の折りか何かに、演出・松尾氏が言うのである。
「今さん、見た? 田所がいたよ。」
「エエ?」
すかさず確認にいく私。似ている。確かに似ている。顔が、というのではないのだが辻さんの見た目のイメージが確かに田所を彷彿とさせるのだ。
もっともそのことに気がついたのはアフレコ二日目のことであった。
このあたりのことからも、いかに初日は私たちが人の顔を見られなかったかがお判りいただけるであろう(笑)
(笑)い事じゃないだろ。
まだ初日のことだというのに随分と長くなってしまった。次回に続くことにする。