■戦火の狭間

 作監・濱洲氏は、棚に積まれたカット袋と右腕に巣くうさらなる強敵、腱鞘炎とも闘いながら修羅場を迎えていた6月、一方私は私で睡眠不足と戦いながら相変わらずの原画チェック、更にはまだ残されているレイアウトのチェックが続けていた。

 この頃の私の一日の生活パターンは、家で昼過ぎに起きてコーヒーだけ飲んですぐにスタジオに入り、そのまま夜通し仕事をして朝6時、7時に帰ってきて眠る、というリズムであったろうか。私生活など何もない。妻には大変申し訳ない有様だった。スマン。
 とはいえ我が子たる作品のことを思えばその生活が苦に感じたわけではないし、それが辛いペースなわけではない。闇雲に徹夜を続けたりすれば一時的に自己 満足的な達成感や周囲に対する「言い訳」めいたポーズにもなるのだろうが、結局は体調を崩してしまうわけだ。最後まで体が持たなければ意味がない。何しろ 「監督」は最後まで現場にいなければならない立場なのだ。アニメ作りにはアニメならではの基礎体力が必要だ。
 自己管理・体調管理もできない監督がおよそ作品を管理することなどできないというのが私の持論であるし、持論は実践されねばならない。
 しかしそんなペースを続けているうちに、解消されない疲労と自分では気づかないストレスは蓄積され日々増大していく。当然だが休みの日は全くない。もし も休みがあったとしてもその方がかえって精神状態には宜しくなかったと思われる。休んでいても気が気ではないし、仕事をしている方が気が楽であった。
 おそらくは3月に入ったくらいからフィルムアップの7月まで一日も休んだ覚えはない。過労死という熟語もふと頭に浮かぶ(笑)。いや(笑)いごとじゃないだろ。

 朝方、帰りの電車を乗り過ごすこともときにはあった。気がつけば立川というのが最長不到距離であったろうか。
 中央線が分からない方のために少々説明をしておくと、スタジオのある阿佐ヶ谷から下り方向に向かって、荻窪、西荻窪、吉祥寺、三鷹、そして自宅のある武 蔵境となっている。歩く時間も入れて通勤に要する時間は40分程であろうか。都心に通う背広の人たちに比べれば恵まれた方かもしれない。
 乗り過ごした最長不到距離・立川は武蔵境を越えて、東小金井、武蔵小金井、国分寺、西国分寺、国立そして立川ということになる。それも確か立川止まりの 電車だったから立川で済んだと言うだけで、下手をすれば山梨まで行っていたかもしれない。一駅二駅乗り過ごすことなどざらにあったと思うが、みっともな いったらありゃしない。だがこんなのもまだ可愛い方であった。

  駅から自宅までは徒歩7〜8分の距離であろうか。早朝に近い朝帰りだったのが段々とずれ込みお天道様が高くなってから家に帰るということも多くなってきて いた頃、自宅まであと200歩というあたりでふっと意識が途絶えた。気が付くと先ほどより20〜30歩は進んでいるであろうか。
 さすがにぎょっとなった。
 昔60枚の短編漫画を描いていたときのことであったか。締め切り前の漫画家の正式な作法に則り、不眠不休で原稿を仕上げていた。40〜50時間ぶっ通し で仕事を続け疲労も限界に近づいたときに一度だけペンを握ったままうっかり眠ったことがあったが、まさか歩きながら眠るとは。
 それも一度ならず、であった。最初は「歩きながら寝ちゃったよ」などと笑って済ませていたのだが、連日歩きながら意識を失うようになるとさすがに危険を 感じ始めた。車の通りの少ない道とはいえ轢かれないとも限らない。フィルムが完成するまで何としても無事でいなければならないのだ。
 しかし日を追って気を失う時間が長くなっていき、しかも夢さえ見るようになっていた頃ついに恐れていたことが起こった。正に夢心地で歩いていた私は突如全身に衝撃を感じた。
 ガシャッ!!
 何が起こったのか一瞬分からなかったが、近所の家の生け垣につっこんでしまっていた。しかもかなりの勢いでつっこんだようで、上半身は半ば生け垣に埋もれていた。
 人間不思議なものでそんな事態の中妙なことに気が回るらしい。頭の中で「ああ、近所の笑いものになる」というフレーズがすごい勢いでループを始める。エアコンを使用中の電気メーターみたいな状態だ。回る回る。
 何ともみっともないことことこの上ないのだが、当時はそのくらい疲労が蓄積していたのだろう。そんなならスタジオで一眠りした方がましだという考えもあ るのだが、一時しのぎで仕事場に寝泊まりしたところで集中力がそう長く続くものではないし、生活の中にけじめがなくなると結局は作業能率が低下する。とは 言ってもさらに修羅場に突入した折りにはスタジオの床が私のベッドになっていくのだが。

 家に着いてからはどんな時間であろうと私は必ずビールを飲む。エビスビールを愛飲しているのだが、普段なら大瓶一本くらいはどうという量ではない。それが一本飲めないのだ。別に酔っぱらってしまうわけではない。寝ちゃうのだ。
 三分の一も飲んだあたりでがっくりと眠ってしまうらしく、目が覚めると茶の間のテーブルの前でビールを飲んでいたときの形のままだったということも一度や二度ではなかったようだ。付けっぱなしのテレビがワイドショーを映したりしていて更にだるさを誘う。

 先にも書いたが修羅場になるに連れ少しずつスタジオの床で寝るケースも増えてくる。
床で寝るといってもさすがに直に寝るには抵抗があるので、それなりのものを敷いて寝るのだが、修羅場は5月から7月頭くらいまでの暖かい季節であったので 寝袋を用いるほどではなく、“ラーメン男”栗尾に頼んで購入してもらったエアマットを使用していた。足踏みのポンプとセットになった、おそらくはキャンプ 用品の類であろう2、000円もしないようなマットだ。
 意外と快適なマットでこれを床に敷いて体を横たえると、半裸のお姉さんが体にローションを塗ってくれて色々な技を繰り出しては快楽の彼岸へと連れていってくれるのだ。のだ、って言い切ってどうする。
 食事のあと仮眠を取るケースもあれば2〜3時間眠ったこともあったろうか。机の下に頭を突っ込んで眠るというのはおよそ快眠というにはほど遠かったが、寝られないのに比べればはるかに宜しい。

 こうした生活を反映して着る物も化繊の服が鉄則となってくる。素晴らしきかな化学繊維。しわにならないとは何と良くできた素材だ。寝て起きてしわくちゃの格好で仕事をするというのはどうにも気持ちが悪いし、悲壮感がにじみ出る。
 私はそれほど着る物に凝るわけではないし、お洒落というものにはあまり縁がない。格好など他人に不快感さえ与えなければよいと思うが、立場上いつ何時初 対面の人との打ち合わせがあるか分からないし、それに何より周りの人間に対して、あまりにぼろぼろな格好をさらし、いかにも「頑張ってます」というのを体 現するのは甚だみっともない。なるべく格好くらいはちゃんとしていたいと思う方だ。

 またこの頃には飯も随分と簡単になっていたと思う。そういう状態では麺類率というのも高くなる物で、後半になるに従ってパスタとかラーメンを食べることが多かったと思う。
 何しろ慢性的な寝不足の状態であるから何よりの大敵は「満腹感」だ。仕事の最中は気温が低い方が能率も集中力も高まるし、多少の空腹を覚える状態の方が 仕事にはちょうど良い。これは私だけかもしれないが、空腹に伴い仕事の調子があがっていく。ノってくると飯を食うのももったいなくなるのでさらに仕事を続 ける。どうにも我慢が出来なくなっていっぺんにたくさんの量を食べると、今度は食後に大挙して睡魔が押し寄せ、仕事への意欲も能率も極度に低下する。陥り やすい悪循環のひとつである。
 よって修羅場になればなるほど一回に食べる飯の量を減らし、その分回数を取るようにする。これはかつての漫画の仕事で培った対処法である。
 さらに時間と体力が低下した頃には外食も減っていき、コンビニのサンドイッチやおにぎりが毎度のメニューとなり、机は食卓に早変わりする。ときには妻がつくってくれたお弁当を何度かに分けて食べたりもした。とてもおいしかったよ、ありがとう。

 さて今まであまりこの戦記で触れてこなかったが、ここで我がパーブル班の食事・娯楽事情を記してみよう。
 制作状況がこのような言語道断な状態にはいる前は割とのんきに夕食を取ったりしていたものだ。そうなのだ、この頃はまだ「食事」と呼べる状態であった。これが修羅場においては「飯」に変わる。
 食事を共にするのはたいてい4〜5人。スタジオに入ったばかりの頃は「阿佐ヶ谷開拓」と称して色々な店に入ってみた。スタジオに近い店はもとより、歩いて10分ほどのJR駅前の方やその反対側まで飯屋を探してうろうろしてみたりもしたものだ。
 スタッフの中で食べるものにうるさいというか、それなりにこだわりがあるのは演出・松尾氏、“温泉番長”勝一氏、“ラーメン男”栗尾、そして私あたりで あろうか。作監・濱洲氏は少食な人であまり食べることに執着もないようであったし、我が班では唯一のマイカー通勤であったので一緒にアルコールを摂取する 機会もあまりなかったのが残念であった。

 ちょっと話はそれるが、濱洲さんはこの仕事においては車で良い思い出はないであろう。パーフェクトブルーの仕事に入る頃に車を購入したはずだが、マッド に入るようになってすぐの頃に駐車場で美しい車体の側面に思いっきり傷を付けられている。釘か何かで付けられたのか塗装が掘れているほどであった。修理費 も相当かさんだのではないだろうか。その後も一度か二度駐車場で傷を付けられたはずだ。

 ある時期JR阿佐ヶ谷駅近くのイタリア料理屋に通った時期もあった。というのも、期間限定でワイン一本¥500というサービスがあったのだ。何しろ私の血にはワインが流れているくらいのワイン好きである。並んだな、川島なお美に。並ぶなよ。
 私と勝一氏は別格としても、他のスタッフも酒が嫌いなわけではない。仕事の最中の飯とはいえ「ワイン一本¥500」を黙って見過ごすわけにはいかないで はないか。いかないではないか、という表現もどうかと思うがとにかく「飲んでくれ」と言わんばかりの価格破壊だ。価格が破壊されるワインをかばって怪我を するのも厭わないくらいのワイン好きの私だ。並んだな、川島なお美。だから並ぶなって。
 味の方も値段相応というわけでもなく、コストパフォーマンスは高く意外といけるのだ赤も白も。10種類くらいのワインは最終的にはすべて試したと思うが 割と美味しく飲めたと思う。川島なお美なら鼻で笑うかもしれないが、って、いいよもう失楽園は。いやお笑い漫画道場か。
 4〜5人で行ってはパスタのセットを頼みワインを2本くらい、多いときには4本空けたたこともあったろうか。それでもスタジオに戻ってちゃんと仕事はしていた、筈だ。赤い顔色だけは隠しようもなかったが。
 しかし一人一本ワインを空けておいて「飯を食いに行った」というのもなんだがな。それは「飲んでいた」というのが正しい表現かもしれない。
 飯時にビールやワインを飲むのは珍しいことではなく定食屋に入ってもとりあえず「ビール二本」というのが最初のセリフだった。
 今覚えているところでお気に入りの店を上げると、中杉通り沿いのステーキ屋、げんこつラーメン、洋風居酒屋、ちょっと横道に入ったところの天麩羅屋、駅 近くのあっさり目の味付けがおいしい鰻屋、駅の反対側の手打ちうどん、青梅街道沿いの焼き肉屋、居酒屋「りか」(今はお好み焼き屋に変わったらしいが)あ たりであろうか。週に一回くらいは割とお金をかけた食事をしたような気もするが、だいたい仕事が忙しくなるに連れて、お金を使う機会は極端に減るわけで、 飯と酒以外に金を使うことがないということでもある。

 私の仕事歴の中で「パーフェクトブルー」はもっとも飲酒量の低い仕事かと思われる。「エエ!?あれでかよ!?」とつっこみたい人もいるかと思われるが事実である。もっとも飲んだ仕事というと「彼女の思いで」「ジョジョ」あたりだろうか。
 「彼女」のときは監督の森本さんも酒飲みで、スタジオが吉祥寺にあったことも災いし「ちょっと飯」と言って出かけてはそのまま朝まで飲み倒すこともままあったと思う。
 「彼女」は最初、三鷹のマンションの一室でメインスタッフだけで制作を始め、吉祥寺のスタジオに移って本格的に制作がスタートした。この元ジブリが使っ ていたというスタジオに移った月が一番ひどかったろうか。何しろスタジオから一歩外に出ると周りは飲み屋の明かりでいっぱいなのだ。飛んで火にいるのは何 も夏の虫だけではない。森本さんとつるんで毎日のように飲み歩きスタジオ引っ越し後一月の間に10万ほどは飲み代に消えたのではないだろうか。バカ。

 「ジョジョ」のときはスタジオが武蔵境のマンションの一室だったのだが、近所に飯屋や飲み屋も見あたらず仕事に励むことになった、というのは半分しか真実ではない。
 周りにないのなら自分たちで作ろうか、ということになってスタジオ内での自炊と宴会が定番となった。何しろ設備には困らないのだ。普通の家族が入居する ようなマンションなのだから、キッチンはしっかりしたのが付いている。テレビや冷蔵庫、電子レンジくらいは会社が用意してくれたものがあるし、その上当時 私が住んでいた部屋からごく近いため足りないものがあればすぐに運び込んだりもしたわけだ。しかもこの時作監の栗尾が実家から不要になったこたつを運び入 れてからは、とてもスタジオとは思えないような茶の間まで出現してしまった。作画打ち合わせですらこのこたつで行うのだ。
 中には珍しい原画マンもいるもので作打ちに現れるなり、「冷やしといて」と冷蔵庫に持参した日本酒を冷やし、作打ちを済ませてからは同じこたつで宴会を 始め、あげくにスタジオに泊まっていくという者までいたのだ。誰あろう“温泉番長”勝一氏なのだが。何しろ勝一氏の血には日本酒が流れているのだ。抜いた な、川島なお美を。抜いて嬉しいか? 川島直美で抜く、というと……いやそれはいい。
 またこのスタジオ、通称「ハイブリッジ」はまた仕事場を寝食の場とする者にとっては実に都合の良い場所と言うことにもなる。押入の上段をベッドにして快 適そうに睡眠をとり、シャワーを使えば汚れもすっきり、というわけだ。誰あろう“ラーメン男”にして「ジョジョ・第5話」作監の栗尾である。

 私と栗尾は毎日夕方になると晩飯の買い物に出かけたものだ。
 「今日何にする?」
 「スーパーで見て決めるッス」
 てな感じで、行きつけのスーパー「たいらや」の店内をうろうろしては野菜だの肉だの米だの醤油などを買い込んでくるわけだ。まったくどういう演出と作監のコンビだか。
 ハイブリッジでは料理を色々と作ったものだ。簡単なパスタの類を始め、ハンバーグ、シチュー、チーズフォンデュ、鯖の味噌煮など、そして極めつけの栗尾の手の込んだラーメン。醤油臭いスタジオというのもどうかと思うのだが実に楽しい毎日であった。
 この年はあの米不足の年でもあり、タイ米をチャーハンにして食べたこともあったが、やはり米は白米に限るという結論に達した。当時私が住んでいた部屋の 一階が米屋兼酒屋という私にとってはこの上なく宜しい環境で、米不足の折りにもいつでもおいしい白米が手に入りありがたい思いをさせてもらった。

 年末には私の北海道の実家に頼んで送って貰った鮭だのイクラだのも堪能し、また同じ北海道出身の“大トラ”鈴木さんの実家から届いたカニを存分に食べたこともあったな。「うるさい客にはかにを食わせろ」というくらいで、黙々と食べたのであった。
 しかし「うるさい客」に高価なかにを出すというのも納得できないものがあるわな。
 美味い物には酒はつきもの。このスタジオで酒の消費量というのも尋常ではなかったと思う。冷蔵庫にはいつもビールが冷えていたし、ワインの空き瓶はベランダを埋め尽くしたほどであった。もしも川島なお美が見たらそれはもう……って、だからそれはもう触れるな。
 思えばこの当時松尾氏はあまり飲まない方であったし、ビールは苦手だったようだが、「ジョジョ」と「パーフェクトブルー」を通じて飲む機会が増えたの か、現在では飲み屋に入るとごく当たり前に「生ビール」と頼むようになっている。「今さんのせいですよ」と言われるが、その通りだ。幸せは人と分け合って も減るものではないし、倍増するものだからな。クスクス。

  お気付きの読者の方もいるかもしれないが、この時のメンバーが「パーフェクトブルー」班の雛形になっているといっても良いくらいで、第5話、脚本・コン テ・演出の私、演出助手としてこのとき初めての顔合わせとなった松尾氏、作画監督は“ラーメン男”栗尾、原画マンとして濱洲さん、“温泉番長”勝一氏、 “大トラ”鈴木さん、“踊るアニメーター”森田くんといった具合だ。

 「ジョジョ」というかハイブリッジの時も実に逸話が多く、これ はこれでいつか記してみたいと思っている。私はこの場所で「ジョジョ」と同時に漫画「セラフィム」を描き始めたし、貧乏を極めたあるアニメーターは晩御飯 の主食として動画用紙の上に柿の種を広げて食べるは仕事が上がらなくてよそのスタジオに連行される、風呂に入らなくて臭いやつはいるし、朝まで飲んだあと バイトの女の子に告白してるやつはいるし、それに聞き耳を立ててるやつはいるし、昼間遊んでいる近所の子供をうるさいからと言って脅すやつはいるし、あ、 それは私だ、挙げ句に濱洲さんは救急車で運ばれるという異常事態もあった。この時は救急車が来るのが遅れた上に駆けつけた救急隊員はしゃっくりが止まら ず、ろくに喋ることさえ出来ず、その場にいた一同は濱洲さんを心配する一方で笑いをこらえるという何ともおかしな事態であった。ちなみに濱洲さんに異常は 見あたらず、大事には至らなかったし、私は初めて救急車に乗るという経験をさせて貰った。とは言えこの当時、色々なことはあったしよくみんなで遊びもした のだが、人並み以上に仕事もしていたのだ。これはパーフェクトブルーのときも変わらない、筈。

 話がすっかり逸れたがパーフェクトブルーの制作も後半を迎えるに連れ、結局食事に行く店は限られてきて、名前は忘れたが通称「洋食屋」、デニーズ、豚カツ屋あたりが定番であったろうか。最後の最後の定番は何と言っても「ミニストップ」だったのだが。
 また本格的な修羅場を迎えた頃はマッドハウス社長・丸山氏手製の夜食というのも出してもらったものだ。朝方まで仕事をしていると階下から妙に良い香りが してきた、と思うと満面に笑みをたたえた社長が色々な料理を持ってきてくれて、その場にいたスタッフは有り難く頂戴させてもらうわけだ。
 もっとも間が悪いのか我々が夜食から帰ってくると丸山氏がお盆を手に現れることも多く、料理に手をつけられず何とも申し訳ないこともあったのだが。
 先に記した醤油臭い「ハイブリッジ」というのもスタジオとして甚だ疑問な点も多いが、マッドハウスの丸山氏がいる2階というのもおよそアニメ会社とは思 えぬ匂いを放っていることが多い。確かにどの会社だって簡単な調理をすることくらいはあり得るかもしれないが、天ぷらまで揚げるというのも珍しいのではな いだろうか。

 制作中は色々な飯屋に行ったが、もっともよく利用したのは何と言っても駅前の酒とそばの店、「福寿庵」(という名前だったと思う)だろうか。勿論朝の4時に飯を食いに行くためではない。
 この店は我々のような夜型の人間にとって有り難いことに朝の5時まで営業しており、帰る前にちょっと一杯と言うには最適であった。飲んでばかり、という なかれ。こうした場所においてもパーフェクトブルー制作のための善後策というのが検討され、スタッフ間の意志の疎通を図ったりするものなのだ。図り過ぎと いう話もあるが。
 この店ですっかり日本酒とそばの組み合わせが気に入ってしまい、今でも無性にそばをつまんで酒を飲みたくなる。この店において“温泉番長”勝一氏と共に空になったお銚子を振って「銀盤もう一つ」というセリフを幾度口にしたろうか。

 あれはまだ修羅場を迎える前の寒さの残る頃のことだったろうか。この通称「そば屋」でこんな事があった、らしい。
 以前記したが96年末に何日か寝込んだだけで、制作中は肉体的には概ね健康であったがもう一度だけ我慢が出来ぬ程の腹痛に襲われリタイアしたことがあ る。端で見ていた松尾氏が「上がって休んだ方がいいんじゃないですか?」と言ってくれたくらいだからいかにも調子が悪そうだったのかもしれない。さすがに 私もあまりの痛みにやむなくこの日は早退することにして、タクシーで帰った。その夜のことである。

 “温泉番長”勝一氏と“師匠”本田君がこの「そば屋」で深夜酒を飲んでいた。およそ仕事の話だの仕事仲間の噂話にでも花が咲いていたことであろう。
 と、彼らのテーブルの横をよく知った男が通ったらしい。その男は長身でグレーのオーバーを着て大きめな黒いバックを肩から提げていたという。私だ。
 「あれ? 今さん」
 勝一氏がそう思ったと言うくらいだからよほど私に似ていたのだろう。しかし無論私であるわけはない。
 同じ時刻、私は胃薬の一つも飲んで武蔵境の自宅で夢の中だったはず。夢の中……。制作中の私の見る夢と言えば仕事のことばかり。しかも忙しいときのせめ てもの私の夢といえば「そば屋」で酒を飲むことくらいであった……。私が夢の中で「その場にいたい…」と強く願ったからといって誰にも責められはしま い……。愉しく酒を飲んでいるという幻想……。
 もしも……もしも幻想が勝手に一人歩きを初めて「そば屋」まで行ったとしたら……幻想が実体化するなんてあり得ない……?
 「そば屋」はビルの2階に入っているのだが、私によく似た男は店を出て左に歩き去ったという。しかし、そちらには外に通ずる出口は、無い。

 よく似た男よ、出口は見つかったのだろうか? 
 私の出口はこの時もまだ見えてはいない