いよいよ今日は「パーフェクトブルー」の上映である、にもかかわらず何の緊張感もなく朝から市内見物と買い物だ。ドイツといえばゾーリンゲンのナ イフ、ということでジャックヘンケルスの店に行ってみる。護身用に日本で流行のバタフライナイフの一つも買ってみようかとも思ったが、店内の随所に張られ た日本語の宣伝用のチラシを見ていると、どれも日本でも買えそうな気がして購買欲をそがれる。結局見た目が大変格好よくて、ちょっとお高めな塩とこしょう 入れをセットで買う。どこがゾーリンゲンだか。
ベルリンの青山ともいうような通りをうろうろし、私は目的の本屋に向かう。どこに行っても私の行く店など本屋かCD屋くらいのものだ。ベルリン市 内の大きな本屋を何軒か回ったのだが、何も収穫は無し。目的は画集、写真集、建築関係とヨーロッパのコミックだったのだが、どの店でも置いてあるのは渋谷 のパルコ・ブックセンターで見たようなもので、わざわざベルリンから持って帰るほどのものではない。だというのに隣にいる妻は買ったばかりの靴を履き、 リュックには小物や新しいシャツが入っている。ちぇっ、いいな。
これでも繁華街なのだが、何と渋くてかっこいい街並みか。歩いているだけで楽しい。 |
夕方、部屋で一休みしておとなしくホテル内のレストランで夕食を取る。夜の上映に備えて酒も控えておこう、などと殊勝な心がけは持ち合わせていな いので、まずはビールだ。なぁに、酒が入ってた方が舞台挨拶、ティーチイン(Q&A)でも口が滑らかになるってもんさ。と、運ばれてきたばかりの ビールを肘で引っかけて倒してしまう、という粗相をしてしまい、動揺して尚のことたどたどしい英語でひたすら謝る。ごめんなさい、ウェイトレスさん。
「パーフェクトブルー」の上映は夜10:45から、KINO7という席数400ほどの映画館だ。一般客よりはプレス関係が多いらしい。月曜日の 夜、外はあいにくの雨にもかかわらず開場前からお客さんが既に並んでくれている。マダムREXが人混みをかき分け担当者と交渉し、私たちは一足先に中へは いる。階段を上がると「会社に報告するから」と言って並んだお客をカメラに収めるマダムREX。お客が笑顔で答えるところをパチリ。「そこは縦フレームの 方がいいんじゃないですか」とつい職業的な気が回り、彼女のカメラを借りて私がパチリ。どうも出しゃばってしまう悪い癖。
会場は7〜8割の入りだった。「今日は雨だしプレス中心ですから」とマダムREXが気を使ってくれる。ありがとう。でもいいんですよ、所詮オマケのアニメなんだし、国民的優良超大作アニメだって、映画館の規模が違うとはいえ実は6割くらいの入りだったって言うし。
さて上映の前に舞台挨拶があるのだが困った事態となった。事務局の手違いか、通訳が来ない。おまけに上映後に行う筈のティーチインを上映前にして くれ、というご無体な要求。通訳の手配も怠っておきながら、無謀な要求だけをするそのおばはんは実に感じが悪い。事務局の人間らしいのだが、真っ赤なエナ メルのジャケットを着て、揃いの色の口紅を良く動く口に塗り、金髪で尖った顎につり上がった目の中年女性である。悪意を込めている訳じゃない、割と客観的 な描写のつもりだ。
その赤ジャケおばはんと交渉を続けるマダムREXの英語は、いつもの3割り増しのスピードに上がっている。加速するマダムREX。かっこいい。
後で聞いたところによると、赤ジャケおばはんの言い方は実に不快な内容だったらしい。「アタシは上映後のティーチインでも構わないんだけど、上映 が終わるのは深夜の12時過ぎなのよ。そんな夜遅くまで、ただでさえ疲れているプレスの方々に仕事をさせるなんて、あなた達にとって良くないことにならな くって? いえ、別にアタシはいいんですけどねぇ、云々」
通訳が来ないという手前の失態をごまかすためだか知らないが、とにかく高圧的な物言いなのだ。予定を変えるのも失礼なら、第一映画を見てもいないプレスが私にどんな質問があるというのだ。
マダムREXの全身から溢れる抗議で、結局ティーチインは予定通り上映後に行うことになったのだが、問題は通訳だ。英語ならマダムREXに通訳し てもらえるが、ドイツ語しか通じない人も多い。さて、どうするか?と思案していると思わぬ幸運に恵まれた。同じビルで上映される映画を、たまたま見に来て いた通訳の方が見つかったのだ。行幸というほかない。地元のベルリン自由大学で教鞭を執っている方で、福沢啓臣さんという日本人である。毎年このベルリン 映画祭でボランティアに近い形で日本語の通訳の仕事をされているとかで、ご自身大変な映画好きとか。55歳とおっしゃられていたが、日頃若い学生さんとつ きあいがあるせいか、大変気さくで話のしやすいナイスミドルだ。それに職業柄人前で喋るのに慣れているのか、大変落ち着いた物腰で通訳してくれるので、私 の気の利かない話も福沢先生を通すと立派な発言になっているようで、大変助けていただいた。早速上映前の舞台挨拶からお世話になったのだが、この日の ティーチインも含め、「パーフェクトブルー」の全ての上映で通訳はこの福沢先生のお世話になった。ありがとうございました。
この日の舞台挨拶で何を喋ったか良く覚えていないが、来ていただいたお客さんに対するお礼とベルリン映画祭で上映されることを光栄に思うというこ と、そして「日本という小さな国の中の東京、その中の小さなビルの中にある小さな机の上で作っていた作品が、知らぬ間に私を世界に連れてきてくれました」 というようなことを言っていたような気がする。どこまで本気なんだか。
上映開始。久しぶりで見る「パーフェクトブルー」は私にとっては苦痛以外の何物でもなかった。胸が痛い、というのは嘘ではない。今まで数多くの取 材や伝え聞く評判、更には各国の映画祭への招待に「もしや結構良い作品を作ったんじゃ…」などと少しはいい夢を見させてもらったが、やはり儚い夢に過ぎな かったことを痛感した。その映画館の画面が今まで見た中でも特に明るい画面だったことも、私の落ち込みに尚いっそうの拍車をかける。なんて下品な画面。大 きな画面で見る我らがフィルムは貧乏ビスタの悲しさを、そして劣悪な制作状況を実に素直に映し出してくれている。「あ、こんなとこもガタッてる…パカが… ありゃこのカットもブックが浮いてる……セル浮いてるじゃねえか……こ、これ、処理が間違ってるのか?……」等々、大画面でのラッシュチェック状態。今更 するなよ。
いや、それでもみんなで苦労して作った作品ではないか。出来ることの精一杯は尽くしたフィルムじゃないか。大袈裟ではなく歯を食いしばって画面に 目を向ける…ものの画面下の英語字幕あたりを見つめるのがやっと。私にもよく分かる簡単な英語じゃないか、これで伝わるのかぁ?ニュアンスが……などと考 えながらも気を取り直し画面を振り仰ぐ。いやいや、画面のクオリティだけが作品の全てではない、きっと演出のアイディアや話は面白い筈……なのだが、これ が「一体何を面白がって作っていたのだ? 私は……」というほど作品がひどく遠くに感じられる。許して下さい。誰に?
そんな数多の後悔や反省など初号の時に蹴りを付けた筈、遙かベルリンまでわざわざ落ち込みに来たわけではない、お客の反応を楽しみに来たのではないのか、と自分を元気づける。
お客から笑いが漏れる。未麻の部屋でルミにインターネットに接続してもらうシーンだ。
ルミ(off)「これがワールドワイドウェブを見るブラウザ。これをダブルクリックして立ち上げるの」
未麻(off)「ダブルクリップ?」
ここで軽く笑うゲルマンたち。駄洒落はどこの国にもあるのだな。
ルミ「で、ほらこのLOCATIONてとこにURLを入れるの。難しくないでしょ?」
未麻「う〜お願い、ルミちゃん日本語で説明してぇ」
笑い。笑えるのか?ここで。
ルミ「しようがない子ねぇ、何にも知らないのにパソコンを買うなんて…」
未麻「だってぇ…簡単だって言うじゃない…」
割と大きな笑い。そうかぁ、ゲルマンにも難しいんだ、パソコンは。なんだか安心。
他にはカメラマンの村野の目玉にアイスピックが突き刺さるカットで息をのむ声が聞かれたくらいで、特にわかりやすい反応はなかったが、多くのお客 さんが画面に集中しているのが感じられた。恥ずかしながら一般のお客さんと一緒に「パーフェクトブルー」を見るのはこれが初めてのことで、「手応え」を実 感した上映だった。もっとも私は前述したように、別な意味でハラハラドキドキの手に汗握る81分だったのだが。
上映終了後、小さくはない拍手が起こる。ありがとう。
そして私は客席の前に立ち質問を受けることになる。通訳は前出の福沢先生。深夜の12時を回っていることもあり、大半のお客さんは席を立ったが、それでも3〜40人ほどが残ってくれており、ちらほらと質問の手が上がる。覚えている限りでその時の質問を列挙してみる。
「タイトルの意味は?」いや、だからそれは……無い。「いつも聞かれて困るので、誰か良い解釈があったら教えて下さい。今後参考にしますので」と答えたらホントに客席から手が上がった。
「パーフェクトブルーのブルーは設計図などで使われる“blue print”のイメージではないか? それがたくさんコピーされていくという感じだ」……はぁ、そうですか。“blue
print”の“BLUE”ですか……けどPERFECTはどこに行った?
「主人公は“Pop star”(“アイドル”の英語訳)なのに、街中や電車の中で誰も振り返らないのはおかしいのでは?」う〜ん、スパイスガールズとは違うんだが……日本にはああいう存在もいるんだと思って下さいな。
「このアニメはそれまでの日本のアニメと比べてどこが革新的なのか?」私は“革新的”などと思ってないのだが、きっとどこかの紹介文に書いてあったのだろう。困ったもんだ。何と答えたのたかよく覚えていない。
「最後が分からなかった。病院の中にいたのは主人公なのか?マネージャなのか?」分からなかったといわれては困るが、そうですか、すいません、もう少しちゃんと描き分けないといけませんね。
「何故この内容で実写ではなくアニメなのか? 日本でこれを実写で撮るのは技術的に難しいのか? アニメの方がふさわしいのか?」ほ ら出た。だからぁ、私のところに来たときからアニメの企画だったの。実写の事情は知らないが日本でこれをを実写で撮るのは可能だろうけど、かえってリアリ ティが無くなるような気がするし、それに私がこうして日本語しか話せないように、作品を作る上での私の言葉は「絵」なのです。だからアニメでなくては作れ ないんです。
「カツヒロ・オオトモのスチームボーイには関係してないのか?」一応しているが、よくスチームボーイを知っているな。
「最初から35ミリで作ったのか?」16ミリじゃ作らんだろ、そこまで貧乏ではない。もっともデジタルで作る気はなかったのかという意味なら答えは逆だ。
「スタッフの数は?」はっきりとは言えないが、メインスタッフが20人足らず。国内のスタジオ外のスタッフを足しても、100人に満たないと思う。韓国への外注を入れるとどのくらいの数になるのか見当がつかない。
「予算や時間はどのくらいか?」それ、マダムREXの出番だ。私をビデオになんぞ撮らなくていいから前に出てきて下さいな。マダムREX、皆の前で胸を張って答えて言う。「予算3億、実制作期間は2年」……そういうことにしておく。
「この作品の海外での権利は売れたのか?」マダムREXが答える。「北欧とアジア以外は全て売れました」そんなに暗躍していたのか。素晴らしいぞ、マダムREX。
他にもなんやかんやと質問の手が上がったのだが、内容を忘れてしまった。けれども深夜12時半近くにスタートしたこのティーチインは、1時過ぎま
で続き彼らの熱心さに大変嬉しい思いをした。ティーチインが終わった後も数人の方が私の元に来て質問をしたり、サインを頼まれた。その一人で娘さんと一緒
に来ているらしい品の良い中年のご婦人が、大変作品を気に入ってくれたらしく、熱っぽい口調で質問をしてきた。
「大変面白かった。途中から現実か夢かの判断が付かなくなるあたりが特に素晴らしかった。主人公に感情移入してみていたのだが、私自身も分からなくなってしまいました。どこまでが現実だったのですか?」
「それを言ってしまうと、あなたの楽しみを取り上げることになるので、あえて言いません。帰り道にでも考えてもらえると嬉しいです」と答えると、満面に笑みを浮かべて「ええ、是非そうします。ありがとう」といって帰っていった。いや、こちらこそありがとう。
他にも20代の若者で、若干その金髪が薄れがちな男性が、福沢先生を通して「キャラクターデザインに江口寿史が入っているのか?」との問い。よく また知っているなと思いながらも「原案はそうだ」と答えたら、その若者は「やっぱり江口寿史なんだ」と流暢な日本語で話すではないか。聞いたら福沢先生の 大学の学生さんで、「日本の漫画文化」についての論文を書いているのだそうだ。日本語が出来るなら直接話しかけてくれればいいようなものだが、恥ずかしい のだそうで、意外と日本人と似たメンタリティだ。
さてこの日、私にもっともインパクトを与えた二人のお客さんがいる。一言で言うなら、今やカラオケに次いで世界標準の言葉になりそうな「オタク」 であろう。年の頃なら20代も半ば過ぎ、小太りでややお腹が出ているひげの男性とメガネをかけて痩せてひょろ長く、ラフな格好に蝶ネクタイという出で立ち の男性二人組だ。どちらかは紙袋も手に提げていたような気がする。上映終了後も客席で他の仲間数人と何やら熱く語っていた彼らだが、帰ろうとしていた私を ロビーで見つけて寄ってきたのだ。彼らはうっすらと汗ばんだ頬を紅潮させ、そのビー玉のような目を軽く見開いて実に熱い口調で語り出す。話すのはいいけ ど、その目で真っ直ぐ私を見つめないで。
「さっき言っていたタイトルの意味を考えた。“blue print”のアイディアよりこっちの方がいい。あのタイトルは“blue box”のイメージだ」
“blue box”? どうやら昔の映画でよく使われた手法で、車を運転してるシーン等の撮影で、実際には止まっている車の後ろに、別撮りした流れる景色を投影してそれらしい感じに見せるという、あの手法のイメージだという。
主人公・未麻の後ろを様々な背景が流れて行く、というのは悪くはない解釈だが、けどPERFECTはどこに行った?
「トラックが2回出てくるが、何か意味があるのか?」
う〜ん、まぁ、最初のトラックに轢かれる寸前から、その後の出来事はラストで実際にトラックに轢かれる間の一瞬のうちに未麻が見ていた悪夢、というイ
メージということでしょうか。彼はいたく納得していたようだが、英語で通訳してくれていたマダムREXは流暢な関西弁で言う。「この兄ちゃんそれでえぇん
かなぁ、私なら納得せぇへんけどなぁ」すいません。
立ち話すること十数分、彼らの作品に対する好意と熱意は十分に受け取った。心からありがとう。
外に出ると雨が激しくなっている。冷たい雨の中ホテルまで歩いたのだが、心の中は柄にもなく興奮していたと思う。ベルリン映画祭での「パーフェクトブルー」第1回目の上映は上々の首尾、来て本当に良かった。
気持ちを静めるためにホテルの部屋でやはり飲まねばなるまい。冷蔵庫には昼間スーパーで買っておいたビールとワインがいっぱいだ。乾杯。