ベルリンも6日目、いつもの生活通りに日々起床の時間はずれていき、初日6時起床の快挙もどこへやら、この日は9時半起き。それでも普段に比べれば大変な早起きではあるが。
初めてベルリンで青空を見る。雲一つ無い快晴。何と青い空が似合わない街であることか。もっとも、風が強くて滞在中一番寒い日であった。
午後3時から取材があるが、それまで予定もないので近くの動物園に行ってみる。いかにも暇そうな旅行客二人。1844年に創設された、ドイツで最
古の動物園というのだが、街の中心街に広大な動物園があるというのも、日本では考えられないセンスだ。というより土地が豊かなんだろうな。
平日の昼間ということもあり、見物客もまばらである。広大な敷地面積や動物の種類の多さに感心したが、何といっても霊長類館には吃驚した。オランウータ
ンやマウンテンゴリラが透明なガラス一枚隔てた向こうにいるのだ。間近にも程があるだろう。いくら強化ガラスがあるといっても5センチ先に巨大なゴリラが
いるというのは迫力がある、を通り越して暴れることはないのか不安になる。もっともどの猿たちもドロンとした目をして、一切やる気がないといった体だった
が。なんか打ってんのか? ダウン系の猿たち。
日本映画のブースに行くと、「パーフェクトブルー」の記事が乗っているという地元新聞TAZ BERLINを渡される。前日の上映を受けて書かれたもので、ベルリン映画祭関連の誌面の中、新聞片面の4分の1ほどの扱いだ。何が書いてあるのか後で訳 してもらったのだが、ストーリーやテーマをよく理解している上に、大変な好評であった。いいのか?たかがアニメだぞ。細かい内容は忘れてしまったが、一回 見ただけでよくそこまで分かるなぁ、と感心しきり。頭がよいのかゲルマンは。ただチャムの歌を「ピチカートファイブのような」と表現していたのには笑って しまった。そりゃ、失礼だろピチカートファイブに。というか、日本の歌で知っているのが他になかったのかもしれないが。
インタビューを受ける。香港人の女性ライターで、Daily yomiuri等でも記事を書いているそうだ。大変知的な感じな人である。英語でのインタビューなので通訳はマダムREX。
スカーレット・チェンさんというそのライターは作品に対して非常に好意的で、内容的にもよく理解しているようで、また日本の文化にも彼女なりの見方を持っているらしい。
「日本には‘CULT OF CUTE’が溢れている。日本の男性はそれが好きなのか?」
マダムREXが訳に困り彼女に質問したところ、‘CULT OF
CUTE’というのは彼女の言葉で、いわば「可愛い女の子文化」という意味合いらしく、日本の女性は他の国と比べて実際の年齢よりも若い格好、と言うかイ
メージをまとっており、成熟した女性が少ないということだ。それは日本の男性の好みなのか、ということか。
「その通りだ。日本の多くの男性は成熟した一人前の女性よりも、自分がコントロールできそうな少女のイメージを好む。成熟した男、というより大人が少な
いせいだと思う。だが実際はそういうイメージを身にまとい、コントロールされている振りをした女性に男の方が操られている。それにすらはまれない男は、美
少女ゲームやアニメにのめり込んでいるようだ。」セックスよりもオナニーが好きな人たちだ、とは女性二人を前にさすがに言えない。
「主人公・未麻は事務所にコントロールされているが、あれは日本で一般的な形か?」
芸能事務所の内幕はよく知らないから何とも言えないが、未麻は半人前の人間なのだ。コントロールされても仕方がないし、自分自身で物事をはっきりと決め
られるほど「大人」ではない。もっとも、自分の権利や希望や感情や頭の悪い若さばかりを主張するくせに、ろくな技術も能力もなく義務も遂行できない人間は
言われたことを黙ってやってろ、という私の主観による部分もあるのだが、それは言わない。
彼女はもう一つ面白いことを聞かせてくれた。面白いというより、その一言には耳を疑った。「フェミニストの映画ですね」「ハ?」
3秒、間。
「エエ……それは…」
およそ「パーフェクトブルー」に不似合いな評ではないのか。女性の口から、しかもそういう問題には甚だうるさそうな(あくまで私のイメージだが)ライ
ターからそんなことを言われるとは。そこではたと考えた。もしやフェミニストという言葉の意味を私は根本的にはき違えているのかもしれないと不安になる。
「あの、どういう意味のフェミニストでしょうか?」
いわゆる和製英語のフェミニストは「女に甘い男」という意味だが、彼女が言っているのは元来の意味「男女同権主義者」ということだという。当たり前か。
この作品では女性を一人格として正当に、そして社会における女性の扱われ方も含めて鋭くとらえており、その上で彼女の成長を描いていると言うの
だ。ホントかよ。「パーフェクトブルー」の話じゃなかったのか? それとも私に罠をかけて返答次第ではもの凄い口撃を仕掛けるつもりなのではあるまいかと
まで思ったが、彼女のきれいな目は真っ直ぐ私を見ている。見ないで。
返答に窮した。ことさらに女性問題を扱ったつもりではないし、「成長物」という括りでは女性男性の区別はない。一人の人間が大人になる段階で経験する感覚を、自分の少ない体験から引っぱり出して描いたつもりだ。普遍的かどうかは知ったこっちゃない。
主人公が女の子であり、しかも擬似的とは言えお下劣なレイプシーンが出てくる以上そういったことも考えないではなかった。外国は知らないが、少な
くとも日本の現状は圧倒的な男性社会であり、女性が社会に出るに当たっては「レイプ紛い」のことは日常的にされていると思う。某大学ラグビー部員がカラオ
ケボックスで、とか。そのままか。
問題なのは性の商品化のような目立つ事例ではなく、男性側が疑うこともしない考え方や慣習であったりする事に根付いているのだろう。また女性側でもそれ
を十分に利用してなれ合っている部分もある。差別と区別は混同されてはならないが、改善されるべき事態であることは間違いない。とは言え現状がそうである
以上その中でどうするかが現実問題となる。一人前の人間として社会のなかで女性が自立するには、「男性社会」が認めざるを得ない能力や技術を身につけるし
かないのかもしれない。そうなるためのプロセスでは相当嫌な目にも遭うこともある、という考えも込めて「お下劣レイプシーン」を演出したし、それをよすが
に私自身なんとかあのシーンを乗り越えたのである。《とかなんとか言っちゃって。ホントは楽しんで描いてたくせに》あ、あなた誰なの!?《いつもココロを込めて描くんでしょ?》出て来るんじゃないよ、バーチャル俺。《ちぇっ》
まぁ、そんな内容のことを答えたと思うが、一人前であろうマダムREXは訳しずらそうに話していたようだ。すいません。
本編中、未麻が母親と方言で話すシーンがあるのだが、日本語が分からないスカーレットさんには当然理解できなかったらしく、未麻が田舎から出てき て一人暮らしをしているという状況が分かりにくかったらしい。更にスカーレットさんには日本人の大半は親と同居している、という認識があったという。そん なにまで日本は知られてないものかと改めて実感。それじゃ確かに‘pop star’ではなく‘B級アイドル’という存在を理解できなくても仕方があるまい。それにしても、そういった作品の基本的な設定を理解せずによく「ストー リーやテーマ」をそう間違わずに受け取ってくれるものだと感心する。大事なのは「理屈」ではなく「感じ」なのであろう。彼女はかなり正しい。
日本であれ外国であれこの作品に対する感想や意見は、圧倒的に女性の方が面白いことを聞かせてくれる。彼女たち、あるいは少数の男性も含めてそれ らの人たちが口にするのは、作品から想起された彼ら自身の生の「感覚」のことだ。ストーリーとテーマに沿って理性的に積み上げた技術と演出が「感じ」を生 み出したのなら、全くもって「ざまぁみやがれ」だ。何にだよ?
この作品は声高に叫ぶようなテーマや主義主張は持ち合わせていないし、私はこの先もそんなつもりはない。大体テーマを振りかざして押しつけるよう
な作品など私は辟易している。私が描こうとしたのはある種の「感覚」だ。それは経験のない人には想像が難しいものなのかもしれない。同じ病気を経験した人
でなければ分からない悩みがあるのと同じだろう。例えば酒を飲んで酔っ払ったことのない人間に、「酔い」を説明したり、色々な形で描写してみたところで伝
わりはしないのだ。その描写された物──作品を分解してみたところで「酔い」が理解できるわけもない。大体理解する類のものではないのだ、「感じ」なんだ
から。
たしかこのスカーレットさんの取材の時に出た話だと思うが、やはり「どこまでが現実でどこからが夢なのか」といったいつもの話題になり、こんな事を答え
たと思う。彼女が持参したテープレコーダーを例に取り、「これはこのまま使えば非常に役に立つ道具ですが、分解してしまうとただのパーツになり非常につま
らない物になってしまう。作品も同じで分解してしまうと本質的なことを見誤ると思う。感じたとおりに見た方がいい。」
引き続き取材だ。今度はイタリアのテレビ、それもお洒落系音楽番組の取材らしい。男性一人、女性二人のクルーなのだが、これが恐ろしく段取りが悪 い。まず取材する場所を確保していない。我々を引き連れてイタリア映画関係のブースまで行ったのはいいのだが、事前に連絡をしていなかったらしく断られ る。場所を探してうろうろすること数分、今度は見ず知らずの比較的大きなディストリビューターのブースに飛び込みで頼み込むが、案の定断られる。「兄ちゃ んそれ当たり前やぁ」とマダムREX。
結局マダムREXの提案でさっきのインタビューで使ったところに落ち着き、女性クルーの一人がハンディカムをまわし、インタビューが始まった、までは良かった。型どおりの「タイトルの意味は?」という質問に始まり私が答えかけたその時だ。
私たちのいるテーブルのすぐわきには巨大なコピー機が鎮座していたのだが、先程の取材の時には沈黙していたその巨人が、にわかに活況を呈し活動を始めたのだ。
グオオオオオオオオオオオンンンン。
カメラを止め、巨人の沈黙を待つ一同。映画祭関係の資料をコピーしていたおじさんが、コピーを取り終え去っていく。取材場所が確保できず、仕方な く事務局から借りている場所なのだ。優先権はコピーにあり文句は言えない。取材を再開、したのも束の間、再びそのおじさんが戻って来た。しかも手には資料 の厚い束。巨人はおじさんの期待に応えすさまじい咆哮を上げ続ける。
グオオオオオオオオオオオンンンン、グオオオオオオオオオオオンンンン……。
なりやまぬ大音響の中、気まずさを押し隠しながら仕方なく取材を再開する我々一同。
イタリア男の聞き取りにくい英語を懸命に聞き取り、傍らの巨人の咆哮に負けない大声でマダムREXが通訳してくれる。
「イタリアでは小さな市場で日本のアニメは紹介されてはいるが、話題になるようなアニメとしては“アキラ”の次の作品だと思う。(作者注:眉唾)“ゴー
ストインザシェル”は全く受け入れられなかった。(作者注:そりゃ、イタリア人には難しかろう)“パーフェクトブルー”は初めての監督作品ということだ
が、日本のアニメの若手にはこのような作品が生み出される新しいムーブメントがあるのか?」
私も負けずに声を張りはっきり答える。「無い。」
この作品はムーブメントに乗って出てきた作品ではない。幾重にも重なった偶然が生み出したようなものだ。日本のアニメファンや「新世代アニメ」等
という笑止千万の括りで見ているメディアの方にはまた違って見えるかもしれないが、知ったこっちゃない。それに外国だし、好き勝手言わせてもらうさ。
巨人は疲れも見せず働き続ける。
グオオオオオオオオオオオンンンン、グオオオオオオオオオオオンンンン……。
ただでさえ大声を張り合い疲れる取材だというのに、今度は言葉の障害にぶつかる。内容は忘れたが、作品のテーマ的な、かなり重要なことについて聞 いているらしいのだがどうも要領を得ない。マダムREXも通訳する以前に相手の論旨が分からないという。イタリア人クルーの間でも口角泡を飛ばした議論が 始まる。無論イタリア語だ。「なんやの、この兄ちゃんたち」と不快も露わなマダムREX。イタリア語と英語と日本語が飛び交い、巨人は相変わらず叫び続け る。三国言語同盟VS巨人。不快を通り越して笑い出しそうになるのをこらえていると、ようやく質問がまとまったらしい。
「イタリアにはアニメの監督というのがいないのだが、何をするのか?」
おいおい、作品の内容についてじゃなかったのか。エライ方向転換だが、まあいい。
「実写の監督と変わりはないと思う。演技指導や欲しい画面を伝えるのが仕事だ。ただ。相手が役者や照明やカメラマンではなく絵描きという違いだ。幸いなことに私も絵描きなので彼らに伝えやすかったし、自身で誰よりも多くのイメージを絵にすることが出来た。」
「イタリアにもアニメ監督を志望する人たちがいると思うが、その人たちに何か一言」
「アニメに限ったことではなく、監督は作品の全体をとらえなければならない。そしてそういう能力を養うにはアニメに限らず、いやむしろアニメ以外の様々
な作品に触れ、また実体験としての見聞を広げることだと思う。結局は如何に自分を肥やすかでしょう。自分の中にしか作品の主題が見つかることはないのです
から。」
これで一応取材は終了。無駄に疲れた取材だった。だが、巨人はまだ眠らない。
グオオオオオオオオオオオンンンン、グオオオオオオオオオオオンンンン……。
夕方、日本映画関係者に紹介されたドイツ料理の店で簡単な食事。食事内容は簡単でも注文するのはやっかいであった。オリジナルのビールが有名で、地元の
人たちで賑わう店なのだが、外国人に対する気づかいはなく、メニューはドイツ語。ウェイターも英語が通じない。勘を頼りにセットメニューをオーダーしてみ
る。
ビールは確かにうまい。ほんの少しフルーティで、生っぽいテイストだ。ビールを2杯空ける頃にようやく料理が運ばれてくる。一枚の皿の上にてんこ盛りの料理。芋虫みたいな形の変わったパスタと付け合わせのサラダ、そしてメインのヒレ肉。
固い。固いったらありゃしない、この肉。さすがドイツだ、食べ物まで剛健とは。文字通り歯を食いしばって食べることとなった。
ホテルに戻り、夜の上映に備えて仮眠をとる。
この日の上映は深夜の11時45分から。決して良い枠とは言えないが、「おまけのアニメ」には相応しい。この回がいわば「パーフェクトブルー」の メインの上映であり、会場も席数800程の大きな映画館「DELPHI」だ。時間帯の悪さから客足の出が心配だったのだが、開場前から多くのお客さんが集 まってくれており一安心。今朝の新聞記事のおかげもあるのだろう。
この日「パーフェクトブルー」の上映があった映画館「DELPHI」と、集まったお客さんに満面の笑みを浮かべるマダムREX。 |
この回は終映時間が深夜になるためティーチインは無く、上映前の舞台挨拶のみ。少しだけ気も楽だ。これでお客が8割でも入れば言うこと無し、と呑 気に構えていたら開場と同時に席が次々と埋まり、すぐに満席となる。嬉しいやら驚くやら喜ばしいやら吃驚するやら楽しいやら驚嘆するやら、何とも複雑な気 持ち、でもないか。一言で言えば驚喜。満員の会場を「スタッフにも見てもらいたいなぁ」と心底思う。
通訳の福沢先生とお客さんの前にたつ。壮観である。会場を埋め尽くしたゲルマンの顔、顔、顔。全体に白っぽく見えるのはやはり白人が多いからかなぁ、等とバカな考えが浮かぶ。少しは緊張しろよ。
さてこの時も何を喋ったか良く覚えていないが、やはり前回と同じく来ていただいた多くのお客さんに対するお礼とベルリン映画祭で上映されることを光栄に
思うということ、そして「世界地図を見れば分かるとおり、日本とドイツは非常に離れております。飛行機に乗っていた時間でそれを実感しました。遙か遠い東
京の小さなスタジオで作っていたフィルムがベルリンへのチケットになったのは幸運の女神が微笑んでくれたのでしょう。この映画の上映後、みなさんの反応次
第では女神がもう一度私に微笑んでくれるかもしれません。」てなことを言った気がする。
普段の私のボキャブラリーにない「女神」などという言葉がサラッと出てきたのは、市内観光の時、女神の彫像をあちこちで見かけたせいなのだろう。
上映開始。さて女神はもう一度微笑むのか?
最悪。見る度につらくなる。昨日の上映で味わった苦痛の5割り増しだ。だが客は満員で嬉しい限り。いや、しかし、見るな、見ないでくれ、違う、 ちゃんと見てくれ……………なんだこのアンビバレントな状態は。ああ、思い出す度あの苦痛がよみがえる。今こうして書いていてもあまりに辛くなるので「苦 痛ちゃん」と呼ぶことにする。
映画が進むにつれ私の苦痛ちゃんもいやが上にも増していく。目に付くのはマヌケな芝居、間の悪い編集、緩急の変化の弱さ、各シーンの物足りなさと くどさ、欠番によるどうしようない下手くそなつなぎ……等々、良いところなど一つも目に入らず(良いところはそれが当たり前にしか見えない)己の判断の甘 さを思い知らされる。ああ、何という苦痛ちゃん。時間的予算的な制作事情の悪さなど、周りにいるお客には関係ない。フィルムが全てだ。そんなことは百も承 知している。が、いや、しかし、その……すいません………………《ほらね、だから言ったじゃない? ビデオ作品の方が良かったでしょ?》……い、今更勝手にそんなこと言うな、劇場になったのは別に俺のせいじゃ…《ははは、ホントは劇場作品になって天狗になってたんでしょ? いい気になって舞台挨拶とかしちゃって》違う、違うぞ! 俺は少しでも多くのお客さんに…《バッカじゃないのォ? 見なよ、あの画面。大画面に耐えられるクオリティ? それに、ほら、ガタった、はは、今のカットなんか原画が足りないんじゃないの? 劇場とかビデオとか言う以前の問題じゃないの?》だって!……だって仕方がなかったんだ、人も時間も無くて…《ほら出た、その言い訳。さっき自分で言ったでしょ? そんな事情はお客さんには関係ないって》……分かってる………分かってる、けど《けど? けど何? わざわざドイツまで言い訳しに来たの? 何がベルリン映画祭なんだか。世界にまで恥をさらす気? まったく、おとなしく日本にいればいいのに。よく見るといいよ、自分の作品を》お、俺だけで作ったフィルムじゃ無い!みんな、みんなで苦労して作ったんだぞ!《今度はみんなのせいにする気?》そうじゃない!そんなつもりじゃ《そうだよねぇ“監督”だもん、最後まで責任もたなきゃね》………う……うわーーーーーーーーっ!!!!!!見れば、見ればいいんだろう!? 見るさ、最後まで見てやるからなぁぁぁぁぁぁぁぁ!
ナウなヤングに大流行した言葉を借りればまさに「逃げちゃだめだ!」というやつか。81分に及ぶ壮絶な苦痛ちゃんであった。
エンドロールが終わり、大きな拍手が起こる。割れんばかりの拍手、とはいかなかったし6割方といった感じだがとても嬉しい。
会場を出たのは深夜1時半くらいだろうか。劇場前にはまだ多くの人たちがたむろしている。数人のゲルマンが私に微笑みかけ何やら好評を表すサインを指で
出してくれたり、吃驚するくらいかっこいいゲルマンのカップルが「面白かった」らしき言葉をドイツ語でくれた。ありがとう皆様。
「幸運の女神」も片頬で微笑んでくれたということらしい。