東京ゴッドファーザーズ雑考
-決算2002より-
08

決算2002-86

 オカマは大仰である。
 そう言い切るとお叱りを受けるかもしれないが、一般に思われているイメージはそうしたものであろう。オネェ言葉で身振り手振りが豊か。貧困かつ凡庸なイメージかもしれないが、そういうオカマこそがハナちゃんでなくてはならなかった。
 オカマについてはこれといった取材もせず資料も漁らなかったが、新宿の紀伊国屋書店でたまたま見つけた「二丁目からウロコ」(大塚隆史/翔泳社)は、ゲイのメッカ新宿二丁目やそこに集う人々を愉快に描写しており、興味深く楽しく読ませてもらった。

 印象的だったのは、ゲイはその外見が「性のパロディになりやすい」という点である。たとえば男性に憧れる男性が、より男性らしくしようとすれば、「日に 焼けた肌、爽やかな笑顔にこぼれる白い歯」といったそちらの趣味の人たちが好む男性像を理想におき、それを実践する。そしてこの理想像に、より近づければ 近づけるほどそれは、実際の男性にはまず存在しないであろう姿に先鋭化して行く(笑)
 こうした懸命で地道な努力がゆえに陥る結果が「性のパロディ」と表現されている。健気とさえいえる真面目な努力がもたらす結果が傍目には愉快に見える、という構図は実に好みである。
「性のパロディ」というこの非常にキャッチーな考え方に、私は大いに納得した。つまり「ハナちゃんは女性のパロディ」であり、そのパロディをまとったままさらに年を重ねた存在。だからといってそれがイコール「中年女性(オバサン)」になるわけもあるまい。

 男性がオネェ言葉を使うと誰もがそれを「女性の記号」として受け取るが、では実際にそんな言葉づかいをする女性がいるかといえば、現在ほとんどお目にか からないといえる。オネェ言葉は過去には聞かれた喋り方であるが、現在ではほとんど失われているのではないか。
 現実の女性の言葉づかいがどんどん変化しているにもかかわらず、一般にオカマ(この場合のオカマも一般の人が想像しがちなイメージとしてのオカマであ る。ややこしいな)がイメージする女性像は過去のそれであり、実際の女性よりも遙かに「女性らしい」イメージを体現しようとしているように思われる。「女 性らしい」にカッコを付けたのは、世間が考える女性らしさ、という意味である。それも少し古い世間だが。
 一般に思われる女性らしい女性像をオカマは体現する。この「一般に思われる」という認識自体が時代とずれているから愉快なことになるのだが、それはとも かく女性を一定の鋳型にはめるこうした見方は、一部の先鋭化した理不尽な男女平等論者なら女性差別と批判するかもしれないが、私はついぞそうした批判は聞 いたことがない。

03.6.5

決算2002-87

 実際にはいないのに、イメージとして成立してしまう存在。
 本作の中核をなす、いわば飛び道具に等しいとさえいえるキャラクターに相応しい。実際にはいないのだが、イメージとして成立するキャラクター、というよ り実際には存在しないはずの、しかし誰もが認めるイメージをまとったキャラクターとでもいえばいいのだろうか、この不思議な位置づけはまことにうってつけ である。

 ハナちゃんはいわばトリックスターである。
 トリックスター(trickster)とは広辞苑によれば「詐欺師。ぺてん師」などが一義にあげられているが、二番目にはこうあげられている。
「神話や民間伝承などで、社会の道徳・秩序を乱す一方、文化の活性化の役割を担うような存在」
「秩序を乱す」ことはある時は文字通り、安定した秩序を破壊し混乱を招くというネガティブな意味合いもあるが、別な見方をすれば「文化の活性化の役割を担う」というように、閉塞した状況を打破して事態を好転させるというポジティブな意味合いもある。
 トリックスターは時にいたずら者、災厄を招くものであり、時に英雄的性格も持ち得るという魅力的な存在である。

「東京ゴッド〜」の物語においても、その推進力はハナちゃん一人にあるといっても良い。ギンちゃんとミユキは、トリックスター・ハナちゃんに引っ張られる 形でそれぞれの物語の主人公として照明を浴びて行く形になっている。つまりハナちゃんというキャラクターなくしてはこの物語は始まりもしないし終わりもし ない。まったく主人公然としているではないか。
「ハナちゃんというキャラクター」という場合の、その「キャラクター」とは人物のおかれた状況や背景という意味での設定ではなく、人格的設定としてのキャ ラクターである。物語の動機はハナちゃんの性格に大きく依存している。こうした部分に依存した話作りは、私にとって今回が初めてといってもいいのではなか ろうか。
「東京ゴッド〜」は私の監督作品初のいわゆるキャラクター物なのである。意外だ。

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上の絵は企画当初、私が描いたイラスト。三人が赤ん坊を発見したシーンをイメージしている。下はC.62本篇画像。

「ゴミ置き場に赤子が捨てられている」という状況に接した場合、あなたならどうするだろうか。
1・見なかったことにする
2・警察に届ける
3・家に連れて帰る
4・添い寝をする
 いかに人情希薄の現代とはいえ、さすがに1を選ぶ人間はいるまい。一般的常識を身につけた人間ならば2を選ぶであろう。ハナちゃんが選ぶのは3であるが、これはちょっと常識からは逸脱している。
 しかし「東京ゴッド〜」のお話から考えると、とにかく捨てられた赤子を連れて帰らなくては話にならない。話の都合で必要だから連れて帰る、という御都合主義を適用するわけにはいかないのでここでなにがしかの理由が必要になる。
 私が話を作る場合、これまでならここに外的な理由を考えるところだ。つまりそれが誰であろうと、捨てられた赤子を連れて帰るであろう、といった理由。た とえば、赤ん坊の持ち物に何か大変な秘密を発見するとか何とか。あるいは見つける側に警察には届けられない事情があるとか。要するに「警察に届ける」とい ういわば普通の反応が出来ない外的な事情を考えるのがこれまでのやり方だった、といえる。
 先に物語の動機はハナちゃんの性格に大きく依存していると記したのはこの点である。何しろハナちゃんは連れて帰りたいから連れて帰るのである。
 そして赤子を抱いてこう叫ぶ。
「この子は神様が私たちにくれたクリスマスプレゼント!私たちの子供よ!」
 問答無用なのである。

03.6.6

C073sample.jpg

「この子は神様が私たちにくれたクリスマスプレゼント!私たちの子供よ!」

C074sample.jpg

「……エ?」

本篇C.73(上)、C.74(下)より。C.74のエアコンの室外機と窓が形作る表情はギンとミユキの驚きを表現している。つもり。

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企画当初に私が描いたイメージイラスト。この「この子は…」というセリフはシナリオ以前から決めていたものだったらしい。


決算2002-88

 キャラクターの話から逸れるが、先のセリフについてあれこれと思いついたので記すことにする。回り道ばかりのテキストであるよ。

「この子は神様が私たちにくれたクリスマスプレゼント!私たちの子供よ!」
 これは私が考えたセリフで、企画当初のラフプロットやイラストにもこのセリフを使っている。物語の動機として非常に分かりやすい部分であろう。
 問題なのは「神様」「クリスマスプレゼント」という二つの言葉。後者はともかく「神様」という言葉は、私は滅多なことでは使わない単語である。
 セリフを口にするのはハナちゃんだが、そう叫ばせているのは私である。「クリスマスプレゼント」という言葉から想起されるように、ここでいう「神様」は当然キリスト教の唯一神と受け取られる。第一、タイトルからして「東京ゴッドファーザーズ」である。

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C.27本篇画像(上)と看板素材(下)。看板素材は私が作成している。「涙の天使」なんて、こんなこっぱずかしいものを描いている私の方が泣けてくる。
しかし後に「清子」はハナちゃんやギンちゃんやミユキにとって天使としてイメージされて行くため、それが唐突にならないよう、あらかじめ劇中内に天使のイメージを配しておく必要があった。

 だが私はキリスト教に帰依しているわけでもないし、ここでいう「神様」を信じているわけもない。私は特に最近は一神教的な捉え方を意識的に遠ざけようとしているくらいで、ハナちゃんにしたところで恐らくはそうした特定の神様を信じてはいまい。
 しかし両者共に無神論というわけではなく、作者も登場人物もそして作品全体も汎神論といえる。もしくはそのつもりである。
 なので先のセリフにある「神様」「クリスマスプレゼント」という発言はある種の冗談といえる。しかし冗談だがウソなわけではない。冗談はトリックスターと同じくらい間口が広い。私は冗談が好き。冗談を共有できない人とは付き合いにくいものであるよ。
 冗談とふざけていることはイコールではない。

 ハナちゃんが信じてはいないにもかかわらず、「神様」「クリスマスプレゼント」だのと口にしても不自然ではないようにしておかなければならない。叫ばせる私としてもその言葉を書くための助走が必要である。
 そういう流れを作るために、冒頭に聖誕劇を配した。
 聖誕劇とはイエス・キリストが生を受けたエピソードを演じる芝居で、映画などでも散見されるモチーフ。映画「サイモンバーチ」の聖誕劇が印象的である。食い足りなさが目立つが好ましい映画である。

 聖誕劇を最初に見せておくことで、特に信じているわけでもない「神様」という言葉が不自然にならないようにする、という流れを考えたとき、同時に私の実体験を思い出した。
 5年前のベルリン映画祭で「パーフェクトブルー」が上映され、その時の模様を垂れ流したおバカな旅行記「ベルリンは燃えているか」。その中で上映前の挨拶で話したことを書き留めている。

【「遙か遠い東京の小さなスタジオで作っていたフィルムがベルリンへのチケットになったのは幸運の女神が微笑んでくれたのでしょう。この映画の上映後、みなさんの反応次第では女神がもう一度私に微笑んでくれるかもしれません」てなことを言った気がする。
 普段の私のボキャブラリーにない「女神」などという言葉がサラッと出てきたのは、(ベルリン)市内観光の時、女神の彫像をあちこちで見かけたせいなのだろう。】

 これは何も私が特別な経験をしたといわんとしているのではなく、こうした経験に思い当たる方は多いであろう。
 こういう経験があったからエピソードを思いついた、あるいはこの体験を思い出してエピソードに仕立てた、というと言い過ぎであるが、体験が反映している のは間違いあるまい。それもテキストという形で留めておいたことでより印象が鮮明に刻まれたのであろうから、バカなテキストもけっこう役に立つものであ る。

03.6.9

決算2002-89

「東京ゴッドファーザーズ」は結局この聖誕劇から幕を開けることになった。
「結局」と断ったのは、コンテでは冒頭3カットに別なシーンが入っていたのだが、尺を削るために欠番にしたため。冒頭シーンから欠番が出るなど非常識な感じもする。
 欠番にしたこの冒頭シーンは脚本の信本のアイディアによるものなので大変申し訳ないと思っているが、欠番にしたことで私の小さなこだわりが実現したともいえる。
 つまり、これまで2作同様、「東京ゴッド〜」も劇中劇から始まることになった。
 劇中劇から始まる、無理矢理な三部作。
 そしてどの作品もラストシーンは病院。
 特に狙っているつもりはなかったのだが、なぜかそういうことになってしまった。何か意味があるのだろうか。
 劇中劇から始まるのは、私はどこかで人生は舞台の上のドラマのようなものだと感じているから、とか(笑)
 多分、ある。

 しかし病院というのは何だろうか。
 先ほどたまたま読んでいた「養老孟司対談集・脳が語る身体」(青土社)、その中で岸田秀氏のこんな発言を目にした。
「近年、日本では重い病気になると病院に隔離して、死にゆく人間とはなるべく接しない。見たくない自然は隔離するということになっている。死にゆく人間を遠ざけて、何が“自然志向”かと言いたいですね。」
 いや、まったくである。“自然志向”云々はこの稿とは関係がないが、まことに納得する。世の中は、見たくないものは排除するように作られていく。接しや すい自然だけをめでたい、という実にめでたい世の中である。これは制御しやすい他人の個性を要求する社会の態度とまったく同じである。個性を伸ばしなさ い、しかし言うことは聞けという教育はダブルバインドの典型ではないか。現代の若者も少しは気の毒であることだよ。これも最近読んだ、養老孟司氏のベスト セラー「バカの壁」にあった記述で、大いに納得した。

 病院は死が隠蔽された場所である。
 そう考えると、ラストに病院のシーンが来るというのは、暗黙の多数決によって隠されたものを見たいという私の態度が反映しているのだろうか。
「パーフェクトブルー」の病院には精神を病んだルミ、人格として死んだルミが閉じこめられていた。同時にそれは二度と戻らない過去の未麻である。つまり死んだ未麻ともいえる。
「千年女優」の病院は千代子がまさに死に行く場所である。
「東京ゴッド〜」のラストシーンの病院には特に死のイメージはないが、私の中で何か変化があったのだろうか。
 だろうか、って投げかけてもしようがないが。

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C.943本篇画像より、笑う病院。

決算2002-90

「病院で終わる三部作」を無理矢理こじつける話の続き。
「東京ゴッド〜」で赤ん坊が登場するのは、「千年女優」のラストからの流れにあるとは思っている。こっぱずかしい言い方をすれば、「千年」であちらに去っ ていった千代子の魂が、新しくこちらに生を受けたのが「東京ゴッド〜」の赤ん坊、といったイメージである。
 なので今年(2003年)の東京アニメーションフェアで配布された手製のチラシにあったコピーの一つ、「千代子から清子へ」はただの冗談でもないのだ。

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東 京アニメフェアで配ったスタッフ手製のチラシ。制作現場で出たミスコピーの裏にコピーして大量に作った。キャッチコピーはこの他、「ゴミの彼方に愛は見え るか」「俺たちに金はない」「イエスの奇蹟に八百万(やおよろづ)の祝福。おっと仏陀も一緒だよ」「俺たちはゴミじゃない」「千年かけても届けたい赤ん坊 がいます」「奇跡、発見」「奇蹟の軌跡」「雪の夜に響け、歓喜の唄」「正直の頭に神宿る」「段ボール箱の天使」「赤ん坊は捨てないで下さい」の全12種類 作られた。画像処理やデザインは私が担当している。

 話がさらに横道に入るが、「千年」と「東京ゴッド〜」の間にあった企画、「東京ゴースト」を挟むとさらに流れが分かりやすくなっている。何しろタイトル通り、幽霊の話である。
「千年女優」における千代子の誕生から死→「東京ゴースト」の死と生の中間ともいえる幽霊→「東京ゴッド〜」の清子の誕生
 単純だな、私。
「千代子」「清子」の間にある、「東京ゴースト」のキャラクターに名前を付けると、「しよこ」にでもなるのだろうか。

 確かに病院は死が隠蔽された場所ではあるが、人が誕生する場所でもある。そういえば私が生まれたのは「天使病院」だったな。「東京ゴッド〜」では恥ずかしながら天使のイメージも随分使ったのだが、これも何か関係が……ないな(笑)
 病院に対する私のイメージを大きく決定づけているのは、恐らく20代の半ばで一月ほど入院した体験であろう。周りにはお年寄りが多数入院していた。開い た病室のドアから、干からびた老人が鼻にチューブを差し込まれている様が目に入ることもあった。こう思った。
「死に一番近い場所」
 病院は病気を治す場所ではあるが、違う見方をすれば死ぬ場所である。現代人のほとんどは病院で死ぬことになっている。いわば人生のスタートもゴールも病 院であるといえるわけで、先の劇中劇から始まることと合わせて考えると、舞台の上の儚い人生は病院で幕を閉じるということになろうか。いや、病院のベッド で見た儚い一幕の夢が人生ということか。
 夢がないかな(笑)

03.6.13