またもやキャラクターの話から遠ざかるが、宗教にまつわる話題が出たついでに「東京ゴッド〜」における宗教的なモチーフにちょっと触れてみたい。宗教的モチーフなどというと大袈裟だが、単に宗教とかかわりのあるイメージについてである。
先にも記したように、冒頭が聖誕劇であり、赤ん坊が発見されるのはクリスマス当日である。当然キリスト教のイメージをまとった作品といえる。拾われる赤ん坊には奇跡を呼んだといわれるその人のイメージを投影してもらわなければならない。
しかしだからといって、その宗教の価値観に則った作品ではまったくない。むしろ多くの宗教が混然となった日本の宗教性……という言葉は使いたくないので宗教風俗とでもいっておくが、それを反映している。同時に回復したい宗教性も合わせて考えている。
「東京ゴッド〜」のお話は12月25日に始まり、元旦に終わる。クリスマスから初詣。日本の宗教風俗が色濃く詰まった期間である。
キリスト教の行事から始まり、仏寺の108つの鐘が行く年を送り来る年を迎え、初詣という神道の行事、ということになる。
まさに何でもありの日本の宗教風俗を象徴する時期である。
物語の時期をここに設定したため、そして何よりあまりにキリスト教的なイメージだけが肥大することを避けるためもあって、宗教にかかわるイメージを多く扱っている。
代表的なシーンでは、冒頭のクリスマス行事、一行が食べ物を漁る墓場、ギンちゃんを助ける天使、鳥居、ハナちゃんとミユキが聞く除夜の鐘、初詣、といっ
たところであろうか。それと全編に渡って、話作りからレイアウトに至るまで随所に散らしてあるのが、汎神論的な神様、いわば八百万の神々の象徴である。
「神々の象徴」なんていうとたいそうな響きだが、それほど高級なことを私が出来るわけもない。本篇で時折現れる「顔」にその思いを投影しているだけである。
C.542本篇画像より、息苦しそうな鳥居とお稲荷さん(多分)。
「顔」
というのは建物などが形作る、まさに「顔」というか「表情」のこと。一時、当サイトの表紙のビジュアルにも使用し、「KON'S
TONE‘千年女優’への道」のカラー口絵にも収録されている写真がある。「顔」に見えるような建物の部分を切り取って加工したものである。
新しいデジタルカメラを購入した当初、面白がってそうした「顔」を撮り集めていたのだが、ただの趣味に留めておくのは勿体なくなってしまい、本篇に使おうと思い立った。
私はだいたいこのようにしていつも仕事と趣味が混然となってしまうらしい。
03.6.16
※以下は分載時未掲載分
決算2002「長いインターバル」
今年2003年2月からこの掲示板で連載していた「決算2002」。
去年、私と作品の周囲に起きたあれやこれやを振り返りながら、連想を広げつつ思いつくままに書き続けていたこのテキストだが、案の定、「東京ゴッド
ファーザーズ」の制作が大詰めを迎えた頃、中断を余儀なくされた。当たり前である。趣味で垂れ流し続ける駄文と3億も予算がかかっている本業を秤に掛ける
ほど私は非常識ではない。
しかし趣味とはいえ、連載が中断した6/16の段階でこのテキストは「91回」にも達していた。度が過ぎる、と我ながら思うが、特に趣味を持たない私としては、日々テキストを打つことで、さらに連想を広げつつ考え事をするのが唯一の貴重な趣味といえる。
元々が2002年を振り返る、という旬を逸している題材なだけに再び続きを書いてもさして問題もあるまい、ということで、連載を復活させることにした。
別に暇になったわけではない。連載が中断したと同じ程度に現在も忙しいのだが、書き溜めておいたテキストがあまりに勿体ない、というのも大きな理由。それらに多少書き足しを加えながら、時間が許す限り続けてみる。
単に駄文書きが趣味とはいえ、実は私にとっては非常に重要な効能がある。キーボードを打つリズムや文章を書くという行為が私の頭を適度に刺激してくれる
らしく、日々テキストを打っていると頭が活性化するらしい。6月半ばから8月半ばまでの「東京ゴッドファーザーズ」制作大詰め、修羅場と言い換えてもいい
のだが、そして現在10月初旬に至るまで、仕事以外でまとまったテキストを書くことはなかった。そのせいなのか、あるいは単に枯渇してきたのかはともか
く、どうもアイディアのお通じが思うに任せない。ばかばかしいことを思いつくことが減ってきたような気がする。これは職業上、由々しき事態である。とまで
いうと大袈裟か。
仕事で必要な程度にはアイディアも出ているし、進行中のテレビシリーズ「妄想代理人」においてプロットを書いたり、各話のアイディアも出してはいるのだ
が、どうも自分でもどかしい気がするのである。以前からそんなものだったかもしれないが、しかしどうも日常会話においても語彙が貧困になっているようにも
感じられる。
よって脳の活性化を促すためにこうしてキーボードを叩いてみようと思った次第である。どうせキーボードを叩くならうち捨てられていた「決算2002」を復活させよう、と。
中断していた6月半ばから現在までの状況を整理してみる。
一言で振り返ると「大変だった」。毎度のことである。
6月はアフレコやらアフレコ前の編集、原画チェックも残っていて、撮出しも毎晩遅くまで、というよりいつも朝方までやっていたろうか。ティーザービジュ
アルを描いたのも6月のこと。この頃には「妄想代理人」のシナリオも7話くらいまで進んでいたのではなかろうか。
「東京ゴッド〜」のアフレコはこれまでの2本と比べてもっとも時間をかけての収録となり、6/20〜23の四日間でメインの3人(江守さん、梅垣さん、岡
本さん)をまず収録。その他の登場人物は飛び飛びで数回にわけての収録となり、最後の収録は7/25のことであった。
7月も時折入るアフレコ、BGMのチェックをしながら毎日撮出しを続け、再編集などがあり、ラッシュチェックも頻繁に行われていた頃。食事はカップ麺やらサンドイッチ、おにぎりの率がもっとも高かったであろう。
8月は制作も大詰め。8/5〜7がファイナルのダビングで、絵を間に合わせるための最後の決戦となったのが8/8〜10の三日間。6月からこの日までは当然日曜も休み無しであったろう。
そして「東京ゴッドファーザーズ」記念すべき0号が8/13であった。
以後の近況については、この掲示板でもお知らせしたとおり。
ともかく、あれやこれやで「決算2002」中断から4ヶ月も経とうとしている。
決算2002-92
ただ単に建物や風景が「顔」に見えるというだけではつまらないので、演出的に一工夫加えている。本編内に時折現れる「顔」のいくつかは、その表情によって
キャラクターの心情を代弁している。建物が形作る表情なので複雑な感情を的確に表すことは出来なかったが、「驚き」「喜び」「悲しい」「笑い」「悔しい」
といった表情を本篇中で御覧いただけると思う。あるいはまた、登場人物を見つめる視線を建物のあちらこちらに見ることもできる。
しかし、これはあくまで演出的なお遊びに近い部分で、観客がそれら建物が形作る色々な顔を見落としたところで物語を楽しむ上で特に支障はない。そのくら
い、これら建物の顔に代表される都会に潜む「神々」と登場人物に相互関係は特にないのである。平たくいえば、彼らは登場人物を「見ているだけ」であり、登
場人物たちが困っているからといって助けるわけでも励ますわけでもないのである。正確にはまったくない、とはいえないのだが、そこはそれ見てのお楽しみで
ある。
日本の神々は、一神教の唯一絶対とされる人格神に比べて、必ずしも倫理の規範になるようなものとは限らず、それぞれもっと自ままなものと考えられる。幸
をもたらすこともあれば、災厄を招くことも多々あり、そしてそこにおける人間の行為の善悪との因果関係は薄い。つまり、敬虔だから救われるとか、所業不埒
につき罰せられるといった対応関係はあまり見られない。物語や昔話に報恩譚やら因果応報が付されたのは、後代になってからであろう。神々に象徴されるこの
世の不思議は常に理不尽なものであり、実際この世界はそうしたものであると思われる。
日本の昔話などに顕著だが、ものぐさが極まった主人公が幸を得るとか、いい年こいて嫁ももらわず、母親を残して助けた亀にまたがって海の底に遊びに行っ
て、飲めや歌えのいい思いをするとか。浦島の場合は、異界へ踏み込んで幸も得るものの、こちらの世界に帰ってきてカウンターのように悲劇的な結末を迎える
ことになるが。
この稿の随分前に、今回は「異界」ということを意識している、と書いた。ここでいう「異界」とは「日常に重なる異界」という意味で、「東京ゴッドファー
ザーズ」において、シナリオ・演出的には「意味のある偶然が磁場のように強く作用している」という世界観を形成してきたつもりだが、私の中ではこの世界観
と神々が密接に繋がっている。
基本的に神々に遭遇しうる人間というのは、度が過ぎた「無分別」がゆえである、と指摘しているのは「神道の逆襲」(菅野覚明/講談社現代親書)。この
「第四章 正直の頭(こうべ)に神やどる」で著者は、日本の昔話やそれらを考察した柳田国男の文章を引きつつ、こう結論づけている。
「花咲爺さんや浦島太郎的な人物の共通点」として、「私たちが住むこちら側の日常世界」その「日常性を成り立たせている私たちの心意を“分別”と呼ぶならば、神に愛される者たちはまさに“無分別”と呼ばれるのがふさわしい」と。
私はこの「無分別」という考え方をすっかり気に入ってしまった。
「無分別」であるがゆえに異界へと踏み込む、という構図は、
「この子は神様が私たちにくれたクリスマスプレゼント!私たちの子供よ!」
と叫んで捨て子を連れて帰るハナちゃんの行為に重なる気がした。
自画自賛しているわけではない。私はこうして色んなことをこじつけて作品を再解釈するのが好きなだけである。
決算2002-93
異界へと踏み込んだ昔話の主人公たちが、必ずしも幸を手に入れるとは限らないし、不幸になるケースも同じくらいにあろう。異界への侵入は危険な賭である。
もっとも並外れた「無分別」を携えた人間は無自覚に異界へ入り込むものであろうし、それと意識して異界に入り込む人間には得てして不運のみがお土産にもた
らされる。こぶとり爺さんに出てくるお隣のお爺さんのように。
幸運のすぐ隣には不運があろう。幸と見えた中にも不運が、不運の中にも幸があろう。結局は関わる人間の態度次第で、それらは常に逆転しうる性格に思われる。
この幸運なんだか不運なんだかよく分からない、という感じがひどく良い。相反する性格のものが無表情に同居している世界観は目指すところである。
「東京ゴッドファーザーズ」では幸運と不運が渾然一体となり、偶然に彩られて押し寄せる、というイメージを描いていた。
話が急に変わるようだが、恐らくオカマという題材が気に入ったのもそういうことなのかもしれない。つまり男だか女だか分からない、男性性、女性性が混然とした存在がこの話には相応しかったのではなかろうか。
さてようやくオカマの話題に無理矢理戻してきた。
私にとってはかくも魅力的なモチーフである「オカマ」は、しかし当初多くのスタッフ、正確には当時原画スタッフとしてお願いしたいと思っていた方々にことごとく敬遠されたようであった。つまりはこういうことである。
「オカマを描くのは嫌だ」
当初からポジティブな反応はないとは思っていたが、これほどオカマの芝居に人気がないとは思わなかった。逆に私の方が「なぜオカマを面白がるのか分からない」と思われていたようである。
「今さん、オカマバーにでも凝っているのかな」
などという風評もあったらしいが、それほど私の底は浅くない。深くもないが。
オカマが「相反するものの同居」を体現しているという部分に興味をひかれたというのが一番もっともらしいが、アニメーションとして大仰な芝居が許容されやすい点を面白がっていたというのが本当のところ。
まぁ、原作者は先行してイメージを膨らませて一人で面白がっているものの、そのイメージを具体的な形にしていない時期だから意図や面白さが伝わらないの
も仕方ないとも思った。とはいえ正直、困った。実際の芝居を受け持つ原画マンが楽しめないのでは作品として致命的な欠損を抱えかねない。
オカマ劣勢。
決算2002-94
オカマ劣勢の中、唯一ポジティブな反応を返してくれたのは原画マンの鈴木美千代さんだけであったろうか。
「私、ちょっとオカマを描きたいな。オカマ、面白いですよ」
偉い。そういってくれた鈴木さんには、ハナちゃんのもっとも華のあるシーンの一つをお願いした。裏返していうと面倒くさいシーンということになるのだが。
ハナちゃんがかつて働いていたオカマバー「Angel Tower」を尋ね、楽しかった日々を回想したりするのだが、このオカマバーを訪ねるあたりから一連のシーンは鈴木さんに原画をお願いしている。
回想の中でハナちゃんがスポットライトを浴びて歌うシーンがある。
このシーン、映像だけでも十分以上に見応えがあると思われるが、ハナちゃん役の梅垣義明さんの歌声とも相まって非常に良いシーンに仕上がっていると思う。
また、このオカマバーに登場する「お母さん」と呼ばれるママも私が気に入っているキャラクターで、魚の干物にド派手な化粧を施したようなキャラクターデ
ザインである。この「お母さん」とハナちゃんのしみじみとしていそうで実は人を食ったような会話も非常にいい感じだと思う。
見所がいっぱいだな「東京ゴッドファーザーズ」は。自分で言うなって?
誰も言ってくれないから、せめて私が言うのだ。
C.487本篇画像より、エンジェルタワーのママさん。
オカマのハナちゃん、その華のあるシーンは多い。ハナちゃんは「まくしたてる」キャラクターである。以前から喋りまくるシーンを描いてみたいと思っていた
のだが、ハナちゃんはまさにうってつけのキャラクターであった。いや。逆かもしれない。大仰な芝居というコンセプトにはすでに「まくしたてる」という要素
も含まれていて、だからこそオカマのハナちゃんという設定にしたのであろう。
ともかくハナちゃんはまくしたてる。梅垣さんの息が続かないくらいにまくし立てる。中盤と後半序盤にその代表的なシーンがあり、どちらもギンちゃんをの
のしり倒す場面で、30〜40秒くらいの長尺カットをめいっぱい使って身振り手振り豊かにまくしたてる。前者は安藤さん、後者を大塚さんが担当してくれお
り、どちらも出色のシーンとなっている。
大塚さんは当初、オカマというモチーフにネガティブな反応だったようだが、ある時、プロデューサー豊田氏を通じて氏のこんなリアクションが返ってきた。
「オカマを描かなくてはいけない、と思うんですよね」
なぜ「描かなくてはいけない」という表現になったのか、その謎は深遠だが、おかげで大いに自信を得た。
オカマ、一転形勢逆転。