東京ゴッドファーザーズ雑考
-決算2002より-
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決算2002-91

 またもやキャラクターの話から遠ざかるが、宗教にまつわる話題が出たついでに「東京ゴッド〜」における宗教的なモチーフにちょっと触れてみたい。宗教的モチーフなどというと大袈裟だが、単に宗教とかかわりのあるイメージについてである。
 先にも記したように、冒頭が聖誕劇であり、赤ん坊が発見されるのはクリスマス当日である。当然キリスト教のイメージをまとった作品といえる。拾われる赤ん坊には奇跡を呼んだといわれるその人のイメージを投影してもらわなければならない。
 しかしだからといって、その宗教の価値観に則った作品ではまったくない。むしろ多くの宗教が混然となった日本の宗教性……という言葉は使いたくないので宗教風俗とでもいっておくが、それを反映している。同時に回復したい宗教性も合わせて考えている。
「東京ゴッド〜」のお話は12月25日に始まり、元旦に終わる。クリスマスから初詣。日本の宗教風俗が色濃く詰まった期間である。
 キリスト教の行事から始まり、仏寺の108つの鐘が行く年を送り来る年を迎え、初詣という神道の行事、ということになる。
 まさに何でもありの日本の宗教風俗を象徴する時期である。

 物語の時期をここに設定したため、そして何よりあまりにキリスト教的なイメージだけが肥大することを避けるためもあって、宗教にかかわるイメージを多く扱っている。
 代表的なシーンでは、冒頭のクリスマス行事、一行が食べ物を漁る墓場、ギンちゃんを助ける天使、鳥居、ハナちゃんとミユキが聞く除夜の鐘、初詣、といっ たところであろうか。それと全編に渡って、話作りからレイアウトに至るまで随所に散らしてあるのが、汎神論的な神様、いわば八百万の神々の象徴である。
「神々の象徴」なんていうとたいそうな響きだが、それほど高級なことを私が出来るわけもない。本篇で時折現れる「顔」にその思いを投影しているだけである。

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C.542本篇画像より、息苦しそうな鳥居とお稲荷さん(多分)。

 「顔」 というのは建物などが形作る、まさに「顔」というか「表情」のこと。一時、当サイトの表紙のビジュアルにも使用し、「KON'S TONE‘千年女優’への道」のカラー口絵にも収録されている写真がある。「顔」に見えるような建物の部分を切り取って加工したものである。
 新しいデジタルカメラを購入した当初、面白がってそうした「顔」を撮り集めていたのだが、ただの趣味に留めておくのは勿体なくなってしまい、本篇に使おうと思い立った。
 私はだいたいこのようにしていつも仕事と趣味が混然となってしまうらしい。

03.6.16

※以下は分載時未掲載分

決算2002「長いインターバル」

 今年2003年2月からこの掲示板で連載していた「決算2002」。
 去年、私と作品の周囲に起きたあれやこれやを振り返りながら、連想を広げつつ思いつくままに書き続けていたこのテキストだが、案の定、「東京ゴッド ファーザーズ」の制作が大詰めを迎えた頃、中断を余儀なくされた。当たり前である。趣味で垂れ流し続ける駄文と3億も予算がかかっている本業を秤に掛ける ほど私は非常識ではない。
 しかし趣味とはいえ、連載が中断した6/16の段階でこのテキストは「91回」にも達していた。度が過ぎる、と我ながら思うが、特に趣味を持たない私としては、日々テキストを打つことで、さらに連想を広げつつ考え事をするのが唯一の貴重な趣味といえる。
 元々が2002年を振り返る、という旬を逸している題材なだけに再び続きを書いてもさして問題もあるまい、ということで、連載を復活させることにした。
 別に暇になったわけではない。連載が中断したと同じ程度に現在も忙しいのだが、書き溜めておいたテキストがあまりに勿体ない、というのも大きな理由。それらに多少書き足しを加えながら、時間が許す限り続けてみる。

 単に駄文書きが趣味とはいえ、実は私にとっては非常に重要な効能がある。キーボードを打つリズムや文章を書くという行為が私の頭を適度に刺激してくれる らしく、日々テキストを打っていると頭が活性化するらしい。6月半ばから8月半ばまでの「東京ゴッドファーザーズ」制作大詰め、修羅場と言い換えてもいい のだが、そして現在10月初旬に至るまで、仕事以外でまとまったテキストを書くことはなかった。そのせいなのか、あるいは単に枯渇してきたのかはともか く、どうもアイディアのお通じが思うに任せない。ばかばかしいことを思いつくことが減ってきたような気がする。これは職業上、由々しき事態である。とまで いうと大袈裟か。
 仕事で必要な程度にはアイディアも出ているし、進行中のテレビシリーズ「妄想代理人」においてプロットを書いたり、各話のアイディアも出してはいるのだ が、どうも自分でもどかしい気がするのである。以前からそんなものだったかもしれないが、しかしどうも日常会話においても語彙が貧困になっているようにも 感じられる。
 よって脳の活性化を促すためにこうしてキーボードを叩いてみようと思った次第である。どうせキーボードを叩くならうち捨てられていた「決算2002」を復活させよう、と。

 中断していた6月半ばから現在までの状況を整理してみる。
 一言で振り返ると「大変だった」。毎度のことである。
 6月はアフレコやらアフレコ前の編集、原画チェックも残っていて、撮出しも毎晩遅くまで、というよりいつも朝方までやっていたろうか。ティーザービジュ アルを描いたのも6月のこと。この頃には「妄想代理人」のシナリオも7話くらいまで進んでいたのではなかろうか。
「東京ゴッド〜」のアフレコはこれまでの2本と比べてもっとも時間をかけての収録となり、6/20〜23の四日間でメインの3人(江守さん、梅垣さん、岡 本さん)をまず収録。その他の登場人物は飛び飛びで数回にわけての収録となり、最後の収録は7/25のことであった。
 7月も時折入るアフレコ、BGMのチェックをしながら毎日撮出しを続け、再編集などがあり、ラッシュチェックも頻繁に行われていた頃。食事はカップ麺やらサンドイッチ、おにぎりの率がもっとも高かったであろう。
 8月は制作も大詰め。8/5〜7がファイナルのダビングで、絵を間に合わせるための最後の決戦となったのが8/8〜10の三日間。6月からこの日までは当然日曜も休み無しであったろう。
 そして「東京ゴッドファーザーズ」記念すべき0号が8/13であった。
 以後の近況については、この掲示板でもお知らせしたとおり。
 ともかく、あれやこれやで「決算2002」中断から4ヶ月も経とうとしている。

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  ただ単に建物や風景が「顔」に見えるというだけではつまらないので、演出的に一工夫加えている。本編内に時折現れる「顔」のいくつかは、その表情によって キャラクターの心情を代弁している。建物が形作る表情なので複雑な感情を的確に表すことは出来なかったが、「驚き」「喜び」「悲しい」「笑い」「悔しい」 といった表情を本篇中で御覧いただけると思う。あるいはまた、登場人物を見つめる視線を建物のあちらこちらに見ることもできる。
 しかし、これはあくまで演出的なお遊びに近い部分で、観客がそれら建物が形作る色々な顔を見落としたところで物語を楽しむ上で特に支障はない。そのくら い、これら建物の顔に代表される都会に潜む「神々」と登場人物に相互関係は特にないのである。平たくいえば、彼らは登場人物を「見ているだけ」であり、登 場人物たちが困っているからといって助けるわけでも励ますわけでもないのである。正確にはまったくない、とはいえないのだが、そこはそれ見てのお楽しみで ある。

 日本の神々は、一神教の唯一絶対とされる人格神に比べて、必ずしも倫理の規範になるようなものとは限らず、それぞれもっと自ままなものと考えられる。幸 をもたらすこともあれば、災厄を招くことも多々あり、そしてそこにおける人間の行為の善悪との因果関係は薄い。つまり、敬虔だから救われるとか、所業不埒 につき罰せられるといった対応関係はあまり見られない。物語や昔話に報恩譚やら因果応報が付されたのは、後代になってからであろう。神々に象徴されるこの 世の不思議は常に理不尽なものであり、実際この世界はそうしたものであると思われる。
 日本の昔話などに顕著だが、ものぐさが極まった主人公が幸を得るとか、いい年こいて嫁ももらわず、母親を残して助けた亀にまたがって海の底に遊びに行っ て、飲めや歌えのいい思いをするとか。浦島の場合は、異界へ踏み込んで幸も得るものの、こちらの世界に帰ってきてカウンターのように悲劇的な結末を迎える ことになるが。

 この稿の随分前に、今回は「異界」ということを意識している、と書いた。ここでいう「異界」とは「日常に重なる異界」という意味で、「東京ゴッドファー ザーズ」において、シナリオ・演出的には「意味のある偶然が磁場のように強く作用している」という世界観を形成してきたつもりだが、私の中ではこの世界観 と神々が密接に繋がっている。
 基本的に神々に遭遇しうる人間というのは、度が過ぎた「無分別」がゆえである、と指摘しているのは「神道の逆襲」(菅野覚明/講談社現代親書)。この 「第四章 正直の頭(こうべ)に神やどる」で著者は、日本の昔話やそれらを考察した柳田国男の文章を引きつつ、こう結論づけている。
「花咲爺さんや浦島太郎的な人物の共通点」として、「私たちが住むこちら側の日常世界」その「日常性を成り立たせている私たちの心意を“分別”と呼ぶならば、神に愛される者たちはまさに“無分別”と呼ばれるのがふさわしい」と。
 私はこの「無分別」という考え方をすっかり気に入ってしまった。
「無分別」であるがゆえに異界へと踏み込む、という構図は、
「この子は神様が私たちにくれたクリスマスプレゼント!私たちの子供よ!」
 と叫んで捨て子を連れて帰るハナちゃんの行為に重なる気がした。
 自画自賛しているわけではない。私はこうして色んなことをこじつけて作品を再解釈するのが好きなだけである。

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  異界へと踏み込んだ昔話の主人公たちが、必ずしも幸を手に入れるとは限らないし、不幸になるケースも同じくらいにあろう。異界への侵入は危険な賭である。 もっとも並外れた「無分別」を携えた人間は無自覚に異界へ入り込むものであろうし、それと意識して異界に入り込む人間には得てして不運のみがお土産にもた らされる。こぶとり爺さんに出てくるお隣のお爺さんのように。
 幸運のすぐ隣には不運があろう。幸と見えた中にも不運が、不運の中にも幸があろう。結局は関わる人間の態度次第で、それらは常に逆転しうる性格に思われる。
 この幸運なんだか不運なんだかよく分からない、という感じがひどく良い。相反する性格のものが無表情に同居している世界観は目指すところである。
「東京ゴッドファーザーズ」では幸運と不運が渾然一体となり、偶然に彩られて押し寄せる、というイメージを描いていた。

 話が急に変わるようだが、恐らくオカマという題材が気に入ったのもそういうことなのかもしれない。つまり男だか女だか分からない、男性性、女性性が混然とした存在がこの話には相応しかったのではなかろうか。

 さてようやくオカマの話題に無理矢理戻してきた。
 私にとってはかくも魅力的なモチーフである「オカマ」は、しかし当初多くのスタッフ、正確には当時原画スタッフとしてお願いしたいと思っていた方々にことごとく敬遠されたようであった。つまりはこういうことである。
「オカマを描くのは嫌だ」
 当初からポジティブな反応はないとは思っていたが、これほどオカマの芝居に人気がないとは思わなかった。逆に私の方が「なぜオカマを面白がるのか分からない」と思われていたようである。
「今さん、オカマバーにでも凝っているのかな」
 などという風評もあったらしいが、それほど私の底は浅くない。深くもないが。
 オカマが「相反するものの同居」を体現しているという部分に興味をひかれたというのが一番もっともらしいが、アニメーションとして大仰な芝居が許容されやすい点を面白がっていたというのが本当のところ。
 まぁ、原作者は先行してイメージを膨らませて一人で面白がっているものの、そのイメージを具体的な形にしていない時期だから意図や面白さが伝わらないの も仕方ないとも思った。とはいえ正直、困った。実際の芝居を受け持つ原画マンが楽しめないのでは作品として致命的な欠損を抱えかねない。
 オカマ劣勢。

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 オカマ劣勢の中、唯一ポジティブな反応を返してくれたのは原画マンの鈴木美千代さんだけであったろうか。
「私、ちょっとオカマを描きたいな。オカマ、面白いですよ」
 偉い。そういってくれた鈴木さんには、ハナちゃんのもっとも華のあるシーンの一つをお願いした。裏返していうと面倒くさいシーンということになるのだが。
 ハナちゃんがかつて働いていたオカマバー「Angel Tower」を尋ね、楽しかった日々を回想したりするのだが、このオカマバーを訪ねるあたりから一連のシーンは鈴木さんに原画をお願いしている。
 回想の中でハナちゃんがスポットライトを浴びて歌うシーンがある。
 このシーン、映像だけでも十分以上に見応えがあると思われるが、ハナちゃん役の梅垣義明さんの歌声とも相まって非常に良いシーンに仕上がっていると思う。
 また、このオカマバーに登場する「お母さん」と呼ばれるママも私が気に入っているキャラクターで、魚の干物にド派手な化粧を施したようなキャラクターデ ザインである。この「お母さん」とハナちゃんのしみじみとしていそうで実は人を食ったような会話も非常にいい感じだと思う。
 見所がいっぱいだな「東京ゴッドファーザーズ」は。自分で言うなって?
 誰も言ってくれないから、せめて私が言うのだ。

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C.487本篇画像より、エンジェルタワーのママさん。

  オカマのハナちゃん、その華のあるシーンは多い。ハナちゃんは「まくしたてる」キャラクターである。以前から喋りまくるシーンを描いてみたいと思っていた のだが、ハナちゃんはまさにうってつけのキャラクターであった。いや。逆かもしれない。大仰な芝居というコンセプトにはすでに「まくしたてる」という要素 も含まれていて、だからこそオカマのハナちゃんという設定にしたのであろう。
 ともかくハナちゃんはまくしたてる。梅垣さんの息が続かないくらいにまくし立てる。中盤と後半序盤にその代表的なシーンがあり、どちらもギンちゃんをの のしり倒す場面で、30〜40秒くらいの長尺カットをめいっぱい使って身振り手振り豊かにまくしたてる。前者は安藤さん、後者を大塚さんが担当してくれお り、どちらも出色のシーンとなっている。
 大塚さんは当初、オカマというモチーフにネガティブな反応だったようだが、ある時、プロデューサー豊田氏を通じて氏のこんなリアクションが返ってきた。
「オカマを描かなくてはいけない、と思うんですよね」
 なぜ「描かなくてはいけない」という表現になったのか、その謎は深遠だが、おかげで大いに自信を得た。
 オカマ、一転形勢逆転。

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C.678絵コンテより。ギンちゃんをののしり倒すハナちゃん。実際の画面は大塚さんの原画によってもっと派手な芝居になっている。

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 さてさて、オカマのハナちゃんをはじめとするキャラクターの芝居を支えるのは原画マンである。再三書いてきたが芝居は今回の最重要なコンセプトである。
 コンテにおいて必要と思える芝居はなるべく描いたつもりだが、そこから膨らませて見せ物になるだけのものに仕立てるのは、ひとえに原画マンの力量にか かってくる。とはいえ、上がってくるすべての原画が作品の意図に合致しているわけもなく、意図と違ったり、作品の世界観に合わない芝居だったり、芝居が物 足りない場合は演出・作画監督がフォローしてくれている。微力ながら監督も。
 出来上がった芝居はとにかく素晴らしい。今回から仕事場に投入されたクイックチェッカーがそれを雄弁に物語っていたし、完成した本篇においては声優さん の芝居と相まって、雄弁を通り越してやかましいほどになっている。表情豊かに動くキャラクターたちは実に魅力的である。みな元気がよい。
 私が企画当時から望んでいた「漫画的な活力の回復」は達成されたと思える。

「クイックチェッカー」は、要するに紙に描いた絵を取り込んで指定したタイミング通りに動かしてくれるアプリケーションである。マック用しかない。パソコ ンにデジタルビデオカメラを接続し、その下に原画や動画をタップで固定して撮影し、撮影したファイルを原画マンが書いたタイムシートに従ってアプリケー ション上で並べると、すぐに再生してくれる。優れものである。
 これまでにも「QAR(クイックアクションレコーダー)」と呼ばれる、非常に高価な専用システムもあったし、スキャナーなどを使ってパソコンでも同じよ うなことが出来たのだが、それらに比べて遙かに迅速かつ簡単で非常に便利なソフトである。ソフトは数万円程度と安価。わずかな投資で飛躍的なデジタル革命 を実感したといえる(笑)。冗談ではない。
 これまで「パーフェクトブルー」も「千年女優」もほとんどこうしたデジタルの恩恵には浴しておらず、原画のチェックはアナログそのもので監督の拙さと合 わせて効率の悪いこと甚だしかった。私個人にとっては、デジタル化による一番の恩恵はこのクイックチェッカーにあるといっていい。
「東京ゴッド〜」班では、一組だけだがクイックチェッカー専用にシステムを作ってた。このシステム、というほど大袈裟なものではないが、これは現在テレビシリーズ「妄想代理人」で引き続き使用されている。
 DVカメラと撮影台は私の私物。
 撮影台には私が学生当時、写真の授業で必要なことから購入した白黒写真の引き延ばし機が流用されている。遙か20年の時を経て、我が家の押入から引っぱり出され、意外な形で再生の光を見た。そしてマックは本社でお払い箱になったG4。
 ホームレスが主人公のアニメはお似合いだろうって? 失敬な。
 主人公たちはもちろん、制作現場においても「再生」が重要なテーマなのだ。半分ウソね。

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「クイックチェッカー」がいかに便利であろうと、もとの芝居を描くのはこれまでと何ら変わらぬアナログで、無論手で描かれる。
 今回の作品で、特に芝居で目立つのはオカマのハナちゃんであることは先にも触れたが、この最重要なキャラクターの芝居を方向付けてくれたのが大塚伸治氏である。
 私が「東京ゴッド〜」の演出コンセプトを思いついたのも、氏が「千年女優」で見せてくれた原画がきっかけであった。なので、今回は是非とも大塚さんに参 加して欲しいと思ってコンテを描いたし、参加してくれると聞いたときは本当に嬉しかった。逆に大塚さんが参加してくれなかったらどうなっていたんだろう、 と考えると恐ろしいのだが。
 大塚さん御本人が仰るには、「東京ゴッド〜」における大塚さんの描く芝居は「ベタ」ということになるらしいが、それがベタかどうかはともかく、作品に とってこれ以上相応しいものはない、と私には思えた。具体的な芝居は完成した作品を見てもらうより他にないが、とにかく活力に溢れている。
「大仰に」というのがこの作品の芝居のコンセプト、そのもっとも大きな柱の一つである。言葉にするのは簡単だが、いかにその大仰さ、他でもない「この作品における大仰」を描くのか、それを具体的に示してくれたの大塚さんの仕事だったと思える。

「東京ゴッド〜」で最初期に打ち合わせした原画マンも大塚さんである。この頃、コンテはまだAパートも全部は上がっていなかったと思われるが、大塚さんが 作ってくれたハナちゃんの芝居が、その後のB、Cパートのコンテに大きく影響を与えてくれている。参加してくれる人材によって作品に変化が与えられて行 く、そういう双方向性は実に楽しい。また、大塚さんが作ってくれたハナちゃんの芝居のイメージは、他の原画マンにも直接間接的に影響を与えてくれていると 思う。
 原画の川名久美子さんが「大塚さんの原画が先にあったお陰でここまで(大仰に)やっていいのか、ということが掴めた」と言っていたそうなので、他の原画マンにもその影響は十二分にあったろう。

 その後、大塚さんには追加でいくつかのシーンの原画をお願いして、担当原画は100カット近くになっている筈。本作の約十分の一は大塚伸治さんが担当してくれたのである。何とありがたいことか。
 大塚さんにはこちらから特にシーンをリクエストすることなく、氏の希望するシーンを選んでもらったつもりだが、実は私がコンテを描きながら「ここ、大塚 さんがやってくれないかなぁ……でも大変なところばかりは無理かなぁ」と思っていた、正にそのシーンばかりを大塚さんは選んで持っていってくれたのであ る。快哉。
 また内容的に大変なだけでなく、今回の作品は長回しが多く、氏の担当シーンには長尺のカットが特に多い。それをまた氏は全原画で動かしてくれるのであ る。誇張ではなく、本当にどのカットも全原画である。シートに点がない。つまりは中割の絵がないということ。
 大塚さん担当のシーンは完成した作品で強く印象に残ると思われる。期待していただきたい。アニメーションの楽しさがこれほど伝わるシーンも珍しかろう。
 どれも素晴らしいシーンになっているが、特にハナちゃんがギンちゃんを罵り倒すシーンは圧巻、クライマックスの鳥羽口あたりで慌てているギンちゃんが「ジェスチャー」をするシーンは実に素晴らしい。是非是非注目していただきたい。

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 大塚さんとはまたタイプが違うが、濱洲英喜氏の原画も素晴らしく、目を惹くシーンとなっていること受け合い。濱洲さんは「パーフェクトブルー」作画監督であり、「千年女優」でも原画・作監で大変お世話になっている非常に素晴らしい腕を持ったアニメーターである。
 狭い動き幅の中で微妙な原画を重ねてくる氏の原画はマニアックとさえ言える。驚くべきは、その自由さである。文字による説明が困難だが、コンテやレイア ウト段階の絵をそのまま使いながら、その絵の間にまるで無限の自由さを見ているような感じさえ受ける。本人に聞けば「何をすればいいのかよく分からないか ら、ラフで入ってきた絵の間を埋めているだけ」と笑いながら答えるかもしれないが。
 要するに与えられた制限の中でも、発想次第でいくらでも可能性は見つけられる、という顕著な例である。発想の自由とはまさにそうしたことであろうが、 「自由である」ことをイコール「手前勝手なわがまま」と勝手に混同している人には想像もつかない領域である。自分の発想の狭さや貧困さを環境に投影しては いけない、と改めて私も学ばせてもらった。
 濱洲さんには結果的に、短いシーンを飛び飛びで担当してもらった。シーンとしては短いが非常に印象に残る場面が多い。カット数がもっともまとまっている のは冒頭に近いゴミ置き場のシーンで、ギンとミユキがケンカをするところ。シーン変わりでゴミ置き場の引いた絵から、「おぎゃあ」という声を聞くカットま でである。このケンカのシーンが活力に溢れていて実にいい。
 タクシー運転手に料金を値切るあたりから、早回しで流れるファミレス、廃屋が探し求めていた場所だったと判明して愕然とするシーン、公衆電話のミユキ、突っ込む救急車などなど、濱洲さんが担当してくれたシーンはどれも強く印象に残ると思われる。

 濱洲さんや大塚さんはクイックチェッカーの使い方もマニアックで、ソフトの機能にはないスライドやらフェードアウトやらまで加味されていたり、文字を重ねてセリフまで入っている。
 演出としてはカット袋にサインすれば良い、という実にありがたい原画である。

 ありがたい原画、見応えのある原画は他にも多い。安藤さんの上がりにも感嘆しきりである。安藤雅司氏、「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」の作画監督で ある。驚くほど絵が強靱である。実際、安藤さんの生の仕事に接して私は驚いた。単に絵が上手いというのではなく、腰の据わった揺るぎない安定感を感じる上 手さである。
 その絵の強靱さを見込んで「妄想代理人」でキャラクターをお願いすることになるのだが、そのことについてはまたの機会に譲るとする。
 絵と同様、原画も重心の低い芝居を丹念に重ねてくれている。安藤さんの作打ちにあたってはいくつか候補があった。「墓場の3人」「公衆電話前のハナとギ ン」「ギンと爺の遭遇」の3つ。どれも内容的にはヘビーなシーンでどれかを選んでもらおうと思っていたのだが、何とまとめて持っていってくれた。快哉。ジ ブリで劇場作品を支えた人間の腕力はすさまじい、と思い知らされもした。
 制作現場では単に「墓場」と呼んでいたシーンは私が非常に気に入っているシーンの一つである。「墓場」だけでは何のことやら分からないだろうが、ギン ちゃんが酔っ払ってハナちゃんに絡む、というシーンである。この「酔っぱらいの芝居」というのは企画当初から是非盛り込みたいと思っていたもので、私も楽 しくコンテを描いた覚えがある。「記号的な芝居の酔っぱらい」と「実感を伴うリアリティ」が適度にバランスした非常に良いシーンになったと思っている。実 際、ここはギンちゃん役の江守徹さんの素晴らしい芝居と相まって見応え十分になっている。
「公衆電話前のハナとギン」というのは先にも紹介したハナちゃんがまくし立てるシーンの一つ。ハナちゃんの芝居もさることながら、ふてくされたギンちゃんの芝居も実にいい感じが出ている。
「爺」のシーンも私の気に入っているシーンの一つで……ってどこも気に入っているシーンばかりなのだが、この爺はキャラクターといいその登場シーンとい い、大変気に入っている。このキャラクターだけは私自身でキャラ表も描いたので愛着もある。声を担当してくれた槐柳二(さいかちりゅうじ)さんのとぼけた 味わいも絶品である。槐さんといえば何より「レレレのおじさん」が有名であろうか。

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C.372本篇画像より。段ボールハウスの少しだけ見える壁面以外はすべてハーモニー処理で、ゴミに埋もれた感じをよく出してくれていると思う。

 安藤さんに担当してもらったのは、ギンちゃんが酔っ払って歩いていて爺と遭遇するシーン、そしてこの爺様のダンボールハウス内でのやりとりと爺様がお亡くなりになるあたり。この二つのシーンはおかしいのか気の毒なのかよく分からなくて面白いのではないかと思っている。
 長い白髪白髭というキャラクターデザインは、昔の漫画などに登場する「神様」のイメージである。白髪白髭で白い着物で杖を持っている、という老賢者的な イメージの神様が昔はよく見られたものだが、最近はめっきり見なくなった。それだけ神様の需要も少なくなったということなのであろう。その傾向を反映して 「東京ゴッドファーザーズ」においても、長い白髪白髭の老人はホームレスになってしまっており、老人自らが口にするように「いてもいなくてもいい」存在に 成り下がっている、というわけである。さらにはこの老人の安らかな眠りさえも少年たちの暴行という狼藉によって邪魔されるのである。
 この老人とギンちゃんを5人の少年たちが襲うシーンもおかしいのではないかと思っている。このシーンは、ある原画マンが一年以上も抱えていた挙げ句、原 画アップ間際になっていけしゃあしゃあと返してきやがった、といういわく付きのシーン。しかも作画内容はかなり面倒な部類に入る。仕方がないので無理を 言って、濱洲さん、川名さん、鈴木さんで原画を手分けしてもらったのだが、最終的な仕上がりは非常にいいシーンになっている。

「千年女優」に引き続き、「東京ゴッドファーザーズ」でも原画・作監の手伝いとお世話になった井上俊之氏。日本のアニメーションに詳しい方には説明は不要だろうが、仕事の質・量ともに揃ったキングオブアニメーターとでも呼びたいお方である。
 企画当初から井上さんには参加をお願いしていたのだが、何せどの劇場作品でも引っ張りだこの井上氏である。他作品との兼ね合いもあって、参加は後半、正 確には今年(2003年)に入ってからになったが、それでも井上氏の絶大な腕力は原画・作監で大いに戦力になっていただいた。
 どの参加作品でも派手で目立つシーン、アクションやスペクタクルを担当されることが多い井上氏には、今回是非大仰なキャラ芝居をお願いしたかったのだ が、参加時期の関係もあって、結局派手めなクライマックスシーンをお願いすることになった。具体的には主人公たち3人が赤ん坊奪還のために住宅街の狭い路 地を走り、トラックを奪って逃げる女をギンが自転車で追いかけるチェイスシーンを中心に、ビルの上で奪還するシーンもお願いしている。

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「東 京ゴッドファーザーズ」を作画面でもっとも支えてくれているのが、作画監督・小西賢一氏である。キャラクターデザインも私との共同名義になっているが、具 体的なキャラクター表を描いたのは小西さん。私は元になるイメージのラフを描いたくらいで、正式なキャラ表としては老ホームレスだけである。
 小西さんは「千年女優」の原画、そして作画監督の一人として大変お世話になった方である。随分前の方で書いたと思うが、「東京ゴッド〜」を芝居を中心と したコンセプトで作ろうと思い立った背景には、「千年」における大塚さんと小西さんの担当してくれた原画に刺激を受けた面が大きい。
 具体的にいうと、「千年」の後半のシーン、千代子が撮影所で事故に遭い、ゲンヤ(若き立花)が千代子を助けるくだりである。このシーン全般、私はあまり 自分のコンテに自信がなかったのだが、小西さんの原画のおかげで大変見応えのあるものになったと思う。中でも私がもっとも感じ入ったのが、大地震でバラン スを崩しゲンヤがよろけるカットである。余人から見れば「?」かもしれない。最初から完成した映像を目にした人なら、言葉は悪いが「どうということもな い」と思うことも多かろう。
 そうではない。私にとっては、予想していなかった芝居だったのである。私は自分が描いたコンテで私なりにゲンヤの芝居を想定していたが、それこそ「どう ということもない」ような芝居だった。私のイメージでは、大きな揺れによろけてセットに手をつく、という単なる運動であった。それを小西さんが描いてくれ たのは、他ならぬ「ゲンヤがよろける」芝居だったのである。
 もう少し説明を要するだろうか。極端な話、私はその1カットの芝居にこう感じたのだ。
「ああ、ゲンヤってそういうやつだわ」
 こんな経験はこれまでなかったと思うし、たいへんなことだと思う。
 このシーンを初めとして、「千年」における作画監督としての仕事に接して感じたの、何よりキャラクターに対する視線、眼差しが優しいということだと思う。
 これらキャラクターの芝居に対する考え方と眼差しを生かしてもらいたく、私は小西さんに「東京ゴッド〜」の作画監督をお願いしたのである。私の目に狂いなし!…って私の自慢をしてどうする。
 作画監督の仕事は、描き手によって異なってしまう各キャラクターの、特に顔などを統一することが主であるし、それはそれで非常に重要なことだと思うが、何より肝心なのは各キャラクターをどういうイメージで捉えて描き出すかにあると思う。
「千年」のゲンヤの芝居について書いたように、小西さんは他ならぬそのキャラクターを優しい眼差しで捉えてくれていると思う。意地が悪いとよく言われる私 にはどうやっても真似の出来ない態度である。原作・監督の私が言うのも何だが、「東京ゴッド〜」は温かみのある作品になっていると思うし、キャラクターた ちを優しい眼差しで描き出してくれた小西さんに負う面が非常に大きいと思う。

 あれこれと書いてきたが、まだまだ書き足りないことが多いが、それはまた別の機会に譲るとしてこれで「東京ゴッド〜」についての「決算」はひとまず終えたいと思う。
 多くのスタッフが「いい仕事」をしていると思う。「いい仕事」と括弧をつけたのは、「優秀な仕事」とはちょっと違った意味合いだからだ。もちろん「東京 ゴッド〜」では各スタッフが残した優秀な仕事も多く見られると思う。しかしあくまで私の印象なのだが、優秀であるとかかっこいいだとか凄いだとか高度な技 術だとかいうことより、何か「いい」のである。
 何が「いい」のか、それは完成した「東京ゴッドファーザーズ」を御覧いただくより他はない。是非見てたもれ。
「東京ゴッドファーザーズ」は「いい」ぞ。

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C.942本篇画像より。本篇中一番可愛い清子であろう。作画監督・小西賢一入魂の一枚。確か小西さんは動画も自分で描いていたのではなかろうか。

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「東 京ゴッドファーザーズ」メインビジュアル。東京タワーと高層ビルで形作られたクリスマスツリーのイメージ。ポスターやDVDジャケットに使用された。アイ ディア、構図と下描きは私、キャラ部分は作監・小西さんが描き、ビル群と東京タワーは美監・池さんが描き、彩色とフィニッシュは再び私が担当。監督・作画 監督・美術監督の共作である。私は気に入っている一枚。

東京ゴッドファーザーズ雑考・終わり