この「意味のある偶然の一致にあふれた世界」
と題されたテキストはいわば監督ノートとでもいうべきもので、「東京ゴッドファーザーズ」制作に本格的に入る前に私が企画の意図や作品のイメージを伝える
ために書いたものだ。本来は企画書用に書き始めたのだが、書いているうちに自分が作品イメージを掴むためのテキストへと変貌し、結果的には私自身と参加し
てくれるスタッフに向けて書かれたテキストとなった。当初の目的であった企画書用テキストは、このテキストから「短縮版」として生成された。ここに掲載す
るのはノーカット版の方である。
データの作成日は2001年2月7日となっている。「千年女優」完成後、すぐの頃で、私が「東京ゴッド〜」のラフプロットを書いた後にこのテキストを書いている。
「東京ゴッドファーザーズ」本篇を御覧いただいた方なら、制作前に私がイメージしていたものがどのくらい達成されたのか、あるいはイメージがどれほど制作中に育ったのか、あれこれと想像いただけると思う。
ちなみに上に掲載しているイラストは、これも企画書用として最初期に私が描いたイメージイラスト。ハナちゃんの顔が本篇とは随分違っているが、全体のイメージは概ね変わっていないように思える。
監督ノート
「意味のある偶然の一致にあふれた世界」
(ノーカット版)
圧縮される時間
人の一生は全うして80年もあるかないか。長いようで短いですが、それでも劇的な場面に何度か遭遇するには十分な時間です。一生のうちに誰でも何度かは驚くような劇的な体験をする。譬えそれが災難であれ幸運であれ。
合縁奇縁、あまりの偶然、気づきもしなかった必然、巡り合わせの幸不幸。あるいは人の力では何とも出来ないような事故や天災。
これまでの人生で誰でも一つや二つ身に覚えがあるでしょう。
「東京ゴッドファーザーズ」は、それら一生かかって一人の人間が体験するような劇的シーンの数々を80分という短いフィルムの中に収めてみようという、ちょっと無謀な企画です。(※完成した本篇は90分。10分も延ばしてしまった)
劇中内で流れる時間はわずか数日。
一人の人間が、一生かかっても体験できるかどうかといった数々の劇的な場面をその短い期間に圧縮して見せる。当然普通では考えられない偶然が連続して起こることになります。
通常の作劇において、「偶然」というのは避けねばならない「お約束事」になっています。当たり前です。たまたま街で出会った人間が探し求めた仇であった日にはご都合主義もいい加減にしろと、どんな頭の悪い客だって思うでしょう。
「偶然見た」「偶然出会った」「偶然知った」「偶然拾った」などなど、こうしたご都合主義の偶然は劇中世界の緊張感を失わせ観客から緊張感を奪います。
しかしです。逆に偶然ばかりを集めてみれば面白い世界が出来上がる、そうした観点でこの作品は作りたいと思います。
もちろんただの偶然ばかりを繋げてもそれはでたらめの烙印を押されるのが関の山です。ではでたらめではなく不思議な物語とするにはどうするのか。モザイクのように並んだ数々の偶然や出来事をどうやって関連づけ意味を持たせるのか。
そこに「因果」という媒介が必要になります。
話は西洋近代合理主義の束縛から離れねばなりません。
意味のある偶然の一致
ここでユングを持ち出すのもおこがましいですが、「意味のある偶然の一致」ということが言われます。いわゆる「シンクロニシティ」とか「共時性」と呼ばれ
る、近代西洋合理主義では説明できない不思議な現象。今ではすっかり手垢にまみれてしまいましたが、お馴染みの言葉です。
何故そのような劇的なシーンが生まれる得るのか、そんな宇宙の真理を知る由もありませんが、我々はそれがあることだけは知っている。それで十分です。
ここで例として上げるのが適当かどうかは分かりませんが、この「東京ゴッドファーザーズ」という企画そのものに起きた「意味のある偶然の一致」を紹介させてもらいます。
偶然はすぐ隣りにあることを知ってもらえれば幸いです。
「千年女優」の制作も終盤を迎えたある時。次回作についての打ち合わせがありました。驚くべきことに次回作としてまだ何も企画内容が決まらないうちから、制作枠だけが設定されたのです。
つまり「予算規模、制作会社、監督」という器についての約束が交わされ、では中に入れる話を考えろ、ということです。映画一本を作ろうというにはあまりに大雑把なスタートと言えるかもしれません。
企画の候補は、枠に合うもの、「千年」の次ということで気が乗りそうなものを考えると二つに絞られました。決して二つしか思いつかなかったのではありません。
一つはホームレスをモチーフにした「東京ゴースト」という話でした。これは「東京ゴッドファーザーズ」の雛形になったもので、「ホームレスと自殺した少女の幽霊が出会う」というこれもちょっと不可思議な話です。今でも捨てがたいアイディアに思えます。
もう一つは戦争物。
太平洋戦争敗戦後、インドネシアの独立戦争に協力した日本兵がいた、という実話を材にした企画です。敗戦時、外地にいた日本兵は敗戦によって日本という国そのものが亡くなるという絶望感の中にいたといいます。彼らにとって敗戦は故国喪失を意味していた。
故国喪失者がそれまでの「お国のために戦う」という生きる希望を失うものの、自分たちの国を独立させようというインドネシアの人々に協力してゲリラ戦を行う。その中で再び生きる意味や価値を見いだして行く、というような話にしようと思っていました。
イメージとしては旧日本兵でもって「七人の侍」みたいにして、内面的なところは「シンレッドライン」にしようという、胸のすくほど思い上がったことを考えていたのです。頭が悪いと言われても仕方がありませんが、私の発想などいつもそんなものです。
「パーフェクトブルー」「千年女優」と、ある意味地味なシーンの多い作品を続けたので、戦争物というのは目先も変わって大変良いように思われました。さら
には旧日本軍を描いてポジティブで明るい映画は滅多にないので、こいつは一丁やってやろうか、という気になり始めたその矢先。
とっかかりの資料でも集めようと、インターネットのサーチエンジンで「旧日本兵 インドネシア 独立戦争」といったキーワードで検索をかけたところ、何と、
【2001年公開 東宝映画「ムルデカ」】
なるものが引っかかってきました。嫌な予感は的中すると「マーフィの法則」にも書かれているに違いありません。
ズバリ。
まったく同じ内容の映画がすでに作られていたのです。
これはこれで「意味のある偶然の一致」といえましょう。
「戦争物」あえなく撃沈。
それが、机に向かってさて企画をやろうと思った初日のことです。あまりといえばあまりです。しかし後々考えると、無駄足を踏まずに済んだともいえますし、企画が動き出してから知っていたらエライことでしたので、ある意味幸運だったとも言えます。
その日、スタジオからの帰り道。立ち寄った阿佐ヶ谷の駅前の書店で何を探すでもなく本棚の間をうろうろしていました。あまりその本屋は利用しないのですが、なにがしかアイディアが必要なとき、私はやたらと本屋を巡ります。
取りたてて収穫もなく帰ろうかなと思いつつ、もう一度店内を回りながらふと顔を上げると、何とそこに。
「段ボールハウスで見る夢一新宿ホームレス物語」中村智志・著 草思社
燦然。
とまでいうと大袈裟かもしれませんが、私にはそう映りました。
この時点で企画は「東京ゴースト」に決定しました。私はこれまでの作品制作の経験からこうした出会いを何より大切にしていますし、出会いがやってこないような作品は決してろくな物にならないことを痛いほど知っています。
作品にも運不運はあります。
ちなみに私の数少ない作品のうち、漫画、アニメーションを通じて総合的に見てもっとも幸運に恵まれたといえば「千年女優」でありましょう。また、プロットやシナリオ期間で「意味のある偶然の一致」に恵まれたのは「パーフェクトブルー」かもしれません。
あの時はアイディアが向こうから大挙してやって来たのです。
「向こう」がどこか?
こっち側じゃないことだけは確かですが、私にもよく分かりません。無意識といえばそれまでですが、そう言い切るには「偶然」の出会いでいっぱいでした。
さて“偶然”目に入ったその本。
「段ボールハウスで見る夢一新宿ホームレス物語」は、“第20回講談社ノンフィクション賞”受賞作品だそうで、出版当時私は新聞の書評で見ていてその存在は知っており、とても読みたいと思っていた本でした。
だから、必ずしも“偶然”見つけたとは言い切れないかもしれません。必要になって初めて存在を確認するなどよくあることですから。
しかし偶然のような出会いに相応しく、内容は大変興味深く、この企画に多大な影響を与えることになりました。
ゲイのホームレス、墓場めぐりで供物を漁る、元タクシー運転手(※当初私が書いたラフプロットではハナちゃんは元タクシー運転手という設定だった)、ウ
ソの履歴などなどの設定やアイディアはこの本から拝借しています。といってもノンフィクションですからそれらのエピソードや人物たちは現実に存在するんで
しょうが、ともかくこの本に出会わなかったら「東京ゴッドファーザーズ」が生まれなかったのは間違いありません。
ヒントの行進
「意味のある偶然の一致」は何もそれだけのことではありません。
この時点では「東京ゴースト」という企画でしたが、タイトルが示す通り「東京」を舞台にして、東京の断片が感じられる風景を切り取るという狙いがありました。これは無論「東京ゴッドファーザーズ」に引き継がれています。
「東京ゴースト」のプロットを作り始めようとしていた頃。参考にでもなる本はないかと書店に立ち寄ったところ、新刊のコーナーにこんな本が。
「東京X」大倉舜二
白黒の写真集です。東京が感じられる断片を集めたもので、当然買いました。
しばらくしてまた書店に行くと、やはり新刊コーナーに、
「東京遺跡」石津昌嗣
東京で見かけた皮肉な風景の写真と短編小説が載った本です。当然買います。
この本には色々なヒントをもらいました。写真とそれに添えられたキャプションと合わせ、東京に溢れる皮肉が切り取られているのですが、こうした観点で風景を作れば面白いのではないかという具体的なヒントになっています。
何気なく石津昌嗣という著者紹介を読むと、何と武蔵野美大の同じ学部出身でした。卒業年度からしておそらく私が在学当時どこかでどこかですれ違っていたことでしょう。
ありがとう。
こんなことがいくつか続くと「来た来た」という密やかな歓喜がわき上がって来ます。そんなささやかな偶然に作品への確信を固めるなど、危なっかしいと思
われる向きもありましょうが、私はいつもそんな調子です。それでいつも結果はオーライ……だいたいオーライというところでしょうか。
しかし不思議なものです。元々出版されていた本ならともかく、それらは新刊なのです。まるでこちらの企画に合わせたように出版されている、といっては私の頭の中を疑われそうですが、本当にそう感じられる程です。
長くなりますが、他にもいくつか紹介します。というのもこの「東京ゴッドファーザーズ」が幸運に恵まれつつある作品であることを自慢……もとい。「意味
のある偶然の一致」というこの作品のもっとも大事なモチーフについて知ってもらいたいのです。すいません。本当は書き記しておきたいだけです。
元々「東京ゴースト」という話には自殺する少女が登場することになっていました。それで自殺に関連した「“死んでもいいや”症候群」という本を読んでいたのですが、そこに何故か「新宿でホームレスをしている女子高生」の取材記事が出ていました。
地元でいじめに遭い、家出をして東京に出てきてホームレスになった女の子。これが「東京ゴッドファーザーズ」のミユキの原型になっているのは言うまでもありませんが、この時点ではまだ「東京ゴッドファーザーズ」の話は念頭にはありませんでした。
「東京ゴースト」が「東京ゴッドファーザーズ」に変わったのは、「東京ゴースト」の方のプロットで行き詰まったからです。どうにもお話として発展してこない。そこでふと思い出したのがホームレスと赤ん坊の組み合わせでした。
「千年女優」制作中、古屋君という原画マンと話をしていて「ホームレスが赤ん坊を拾う」というアイディアを口にしたことがありました。
私は自分の思い付きに嬉しくなって、そういうアニメはどうだ?と言ったところ、古屋君には、
「ホームレスは嫌だなぁ」
と、あっさりいなされてしまいました。この時私の頭には当然ジョン・フォード監督の「三人の名付け親」がありました。その時はそれだけの思い付きで終
わったのですが、パソコンにメモしておいたのが残っていて後になって俄に首をもたげてきたわけです。メモにはこうありました。
「ホームレスで“三人の名付け親”」
何といい加減なアイディアでしょう。「東京ゴッドファーザーズ」の原初の形はこんないい加減で短いメモだったのです。
古い映画ファンの方ならご存じでしょうが「三人の名付け親(3 Godfathers)」とはジョン・フォード監督1948年の名作映画です。タイトルもここに由来しているのは御察しの通りです。
「東京ゴースト」の展開に行き詰まったことで、気分転換にこちらのネタで少し書き始めたのですが、これが見事に話が広がるのです。そして繋がる。絵やエピ
ソードが出てくる。しかも風景や演出的なアイディアは「東京ゴースト」から引用できる物が多く、全体の話はすぐにイメージが出来てしまいました。
進路変更。ヨーソロ。
偶然の増援
企画内容を「ゴッドファーザーズ」に変更しました。するとまたもや「意味のある偶然の一致」がやって来たのです!
もう分かったからやめろ?いいえ、まだ書きます。もうちょっとです。
そろそろ寝ようかと思っていたある深夜、ふとテレビのチャンネルを変えるとちょうど映画が始まるところでした。「ジョンズ」という聞いたこともない映画です。
見るともなしに見ていると、「ジョンという若いゲイでホームレスの男が金策に奔走する1日」を描いたものでした。しかも彼は「クリスマスが誕生日であ
り、描かれるのはその前日」のこと。さらにこの作品では「主人公のジョンが出会う人々がみな“ジョン”という名前」という偶然に彩られていました。
眠気にもかかわらず最後までこの映画を見たのは言うまでもありません。
「東京ゴッドファーザーズ」のプロットに出てくる「ホームレスに物乞いするホームレス」(※完成した本篇ではギンが出会う老ホームレスにあたる)というアイディアはこの映画からいただいております。無論「ジョンズ」とは全然違うエピソードになっていますが。
しかし、これがもし「戦争物」で企画を進めていたらどうだったでしょうか。譬えちょうど映画が始まるところに巡り会っても、きっと最後までは見ていなかったに違いありません。
また、以前から買おうと思っていて、この企画を契機に購入した「東京欲望」という写真集をパラパラと見ていると、新刊案内のチラシが滑り落ちました。拾おうとして見ると、そこには、
小学館文庫「ホームレス日記“人生すっとんとん”」
という大きな文字。
すぐに本屋に行ったのは言うまでもありません。
これらのことが「意味のある偶然の一致」と呼べるほどのものかはともかく、以上の出来事にはウソもなければ脚色もありません。ともかくこうしたことがなければいまだ企画に対する確信などなかったに違いありません。
何故こうしたことが起こるのか。勿論合理的な説明はつきませんが、その背景には間違いなく「求める心」があるのです。この場合は私の「求める心」です。
自分では意識していようがいまいが、窺いしれないほど深遠な無意識はつねにその人間の本当に欲する対象を鋭敏に捉え、形而下に捉えられた凡庸な意識に信号を送っているのです。そこに目を凝らし耳を傾けることがすなわち創作の第一歩であるといえます。
あるいは「東京ゴッドファーザーズ」という作品そのものの「求める心」が呼び寄せているのかもしれません。
この作品は生まれたがっています。
祝福された赤ん坊
「東
京ゴッドファーザーズ」に登場する「赤ん坊」はそうした無意識の象徴であり、「意味のある偶然の一致」をもたらす存在です。そこに科学的根拠が存在する由
もありません。「千年女優」における「地震」みたいなものです。そういう巡り合わせを持っている、というより他に言いようがない。
クリスマスの日に拾われる、というのはいかにも象徴的です。無論それによって観客にはイエス・キリストを連想してもらわねば困ります。つまりは「祝福さ
れた子供」であることを印象づけたい。映画「フォレストガンプ」の冒頭、一枚の鳥の羽がフワフワと舞ってきて、主人公ガンプの元に届きますが、あれも同じ
「祝福された人間」という暗示のように思います。
この暗示によってこれ以後起こる数々の偶然に正当性を持たせる、というと聞こえはよいですが、都合の良い理由付けをしておくのです。
とは言え、劇中で起こる幸運や偶然に見えるすべての出来事は、登場人物たちの無意識に呼応したものでなければなりません。因果です。彼らの「求める心」が因果を呼び、赤ん坊の力を借りて顕在化するわけです。
「赤ん坊の力」といっても、何も特殊な能力があるわけではありません。赤ん坊はきっかけに過ぎないのです。きっかけを得るのも、そのきっかけに応えうるのもその人物の「求める心」にあるのですから。
彼ら自身の求める心が呼び寄せる数々の偶然と合縁奇縁、その連続によって観客に快感を与えることもこの作品の目的の一つと言えます。無論、より大切なの
はそうした偶然とキャラクターがどう関わるのか、ということです。そうした機会を捕らえて彼らは何ごとかを感じ、そして行動に結びつけ、彼ら自身の中で回
復しなければなりません。
回復。つまり彼らにはすでに失われた何かがなくてはならないわけです。
回復の物語
「東京ゴッドファーザーズ」の主役は勿論三人のホームレスです。
主人公がホームレスなどとは、「夢のある」というこそばゆい形容が冠せられるアニメーションには決して相応しいとは言い難い設定です。アニメにもやっとニューシネマの波が来たということでしょうか。違います。ちょっとだけ変わった監督なんです。
私にはどうにもこの「ホームレス」という存在が気になって仕方がない。
現実社会に溢れるホームレスは時に街の景観を損ねる邪魔者であり、努力することを怠った敗者としてしか扱われません。また逆に現代社会が生み出した歪
み、弱者の代表という見方もあり、中には段ボールハウスの共同体に失われた人間性や真のコミュニケーションを見いだすロマンティシズムさえあります。
それらも一面の真実でしょう。
しかし「東京ゴッドファーザーズ」においてはそのどちらにも汲みすることはありません。私は中道が好きです。歴とした日本人です。
無論ホームレスであるということは分かりやすい不幸な境遇です。絵に描いたように不幸な境遇の人間が、絵に描いたような幸運に出くわす、というのが作品の一つのイメージでもあります。
だからといって登場する人物たちが必ずしも不幸なんかじゃありません。来る日も来る日も己の不幸ばかり見つめていては立派な精神の病になってしまいます。
どんな状況であれ、人間毎日それなりに楽しみを見いだし、その状況を日常として受け入れて暮らしているはずです。世間的な見た目でいえばあからさまな不
幸であっても、そこでの暮らしの毎日が不幸であるはずがない。もちろんホームレスになりたくてなったわけではないし幸福とはいえないでしょうが。
以前の暮らしに比べればそれぞれの人生に輝きを失っているということが問題なのであり、そしてそのなにがしかの輝きを回復する過程が、この作品の物語なのです。
そしてその物語はこの映画を見る観客にとってもなにがしか身に覚えのあるものでなくてはなりません。
「東京ゴッドファーザーズ」に登場するホームレスとは誰にもある弱さや脆さ、自責や後悔の象徴なのです。
シーンの命
「東
京ゴッドファーザーズ」にはグイグイと観客を引っ張って行くようなストーリーは見当たりません。事件の謎解きや犯人当て、サスペンスや対決に向けて盛り上
がる話でもない。ラストにアクションシーンは入る予定ですし、ここで盛り上がってくれないと非常に困りますが、これはサービスに近い。観客に対しても制作
する側に対しても。
アニメーションとして派手に発散されるシーンはやはり必要です。
「赤ん坊を親元に返す」という目的だけが唯一のストーリーといえましょうか。
途中に出てくるエピソードはプロットからシナリオへと発展して行く中で、いくらでも取り替えが効くものですし、よいアイディアがあれば積極的に取り替え
るつもりでいます。それに現段階のプロットではまだまだ突っ込みが甘すぎます。これからアイディアはいくらでも必要になります。
さて娯楽作品である以上、観客を飽きさせず、興味をエンドロールの最後まで引っ張って行くのは当然ですし、上辺のストーリーや物語の起承転結もそれなりにある。
ただ最も重要なのは面白いエピソードを積み重ねることです。
そのシーンそのシーンがいかに魅力的か。
それがこの作品の生命線なのです。
人が一生かかって体験するような劇的な体験を80分の映画に収める、と最初に書きましたが、それとはまた別に出てくるモチーフやエピソードはやはり人の一生を感じさせるものであって欲しいと思っています。
劇中には「生まれたばかりの赤ん坊」、それと「ホームレスの老人の死」というモチーフがあります。人が生まれてから死ぬまで、という流れがすぐさまイ
メージされてきます。そこで、その生から死をつなぐような登場人物やエピソードや風景やらを詰め込んだら面白いのではないかと考えています。
それは例えば、夜のコンビニの前でたむろしている塾帰りの小学生といった通り過ぎて行くだけの風景の一つになるかもしれません。あるいは反抗期で荒れる
高校生に襲われる、といったエピソードに盛り込まれるかもしれません。いずれにせよ、親の金で呑気に遊ぶ大学生、疲れたサラリーマン、結婚式、定年後の老
人……などなど「人間の成長過程」という考え方が、作品を豊かにして行く中での判断基準というか、アイディアを考えるときのよすがになれば良いと思ってい
ます。
またそれぞれのエピソードは冗談であればある程良い。
昔、大友克洋氏が映画「ガープの世界」(ジョン・アーヴィング原作/ジョージ・ロイ・ヒル監督)をして
「あの映画はつまり“人生は冗談だ”ってことだよ」
と評しておりましたが、まさにその通りです。素晴らしい見方です。
ジョン・アーヴィングを引き合いに出すのもおこがましい限りですが、そうした冗談みたいな現実、時にそれが「滑稽なほどの悲劇、切ないほどの喜劇」にまでなり得れば大成功です。
ワンカットの成立
とにかくどのシーンにも面白さを盛り込んで行かねばなりません。
ですから画面の切り取り方、カット割りやテンポ、気の利いたセリフや芝居、見るに値する背景などなどワンカットを構成する一つ一つのエレメントが何より大切な作品なのです。
原画もただの段取り芝居では甚だ困る。もちろんコンテの段階で最低限必要な芝居は整理されなければなりませんし、それをこなすだけでも十分面白いものに
はなるはずです。しかし、特に今回はもう少し先に行きたい。段取りにプラスして何か実感のこもった芝居や表情を生み出したいのです。
例えば、酔っぱらう、というシーンを是非やりたいと思っていますが、これがコントに出てくるような酔っぱらいの芝居では甚だ困るわけです。誰もが記号として知っているような見飽きた酔っぱらいが出てきては台無しになる映画です。
その人物が酔っ払ったらどうなのか、は無論のこと、自分が酔っ払ったとき、あるいは身近に見た酔っぱらいはどうであったかをそのシーンに重ねて見た上で芝居を作ることが何より大切になってきます。
だからといって作画内容を大変にしようというわけではありません。意外と制限された芝居の方がより雄弁に語ることの方が多いでしょうし、ちょっとしたリアクションや表情にこそ人物は描かれるでしょう。
動かせばよいというものでもありません。当然ですが、枚数の制限は山よりも高いのです。そして時間的制限は海よりも深いのです。
今回こそスケジュールと予算を破綻せしめないで完成させようではありませんか。
すいません。今度はもっと頑張ります。
心理的なイメージを加えた風景も大事です。今回は特に背景の持つ意味が大きくなると思います。
背景は説明ではありません。すべて表現です。わざわざ画面として切り取って見せる以上、そこにはなにがしかの意味合いがあります。時にそれは心理描写で
あり、またペーソスでありユーモアである。舞台となる場所をただ描写するのではなく意図を持って意味のあるものを描くことが重要なのです。
こう偉そうなことを書きつづると己の首を絞めかねませんが、映画とはそういうものですから腹をくくって頑張りましょう。
芝居にしろ風景にしろ、予算枠と睨み合いながらコンテを描くつもりでいます。闇雲に内容を大変に出来るほど懐は豊かではないので、コンテでカット内容を
絞り込まねばなりません。これは過去2作においても同じことが言えました。言えたんですが大変になってしまったのは監督の力不足です。
「パーフェクトブルー」も「千年女優」も予算以上の大変さであったのは間違いありませんが、苦労した分だけ、いやそれ以上に豊かな作品になりました。作
画・背景共に今回も苦労の程度は同じくらいになると思われますが、予算枠は少し大きくなった分だけ見返りは改善されると思います。それもこれもスケジュー
ルの達成度に関わりますので、制作に携わってくれる方々は心してかかりましょう。
ただ良いものを作るというだけでも大変なことですが、良い作り方ということも我々は模索しなければならないのです。
「東京ゴッドファーザーズ」は前2作以上に内容を大変にするつもりはありませんが、背景は対象が街であるだけに厄介なのは覚悟しなければなりません。それ
以前にレイアウトは今から頭が痛い。私は原図に追われることになりましょうが、そこは私が死守したいと思います。その分それぞれの部署で最大限の奮励と努
力……はしなくてもいいですから、もっとも大事な結果に期待しています。
風景について
美術や背景のイメージについてもう少し詳しく触れておきます。
「東京ゴッドファーザーズ」というタイトルをつけるに当たっては少々悩みました。だいたい頭に「東京」をつけるなど格好悪いこと甚だしい。なんだか頭が悪
そうです。さらに頭につける以上相当な意味を持つのは当然、作中においてそれは避けられないテーマとなってしまいます。
もちろん避けられないから描くのではなく、描く以上明確な意図を持って描かねばなりません。
果たして「東京」を一つのテーマとして描くことなど出来るのか。
中央線近辺しか知らない監督が東京をテーマにするなどおこがましいことこの上ありません。
しかし、よく考えると何も東京そのものを描く必要はないのです。「東京とはなんぞや!?」などと大上段に振りかぶる作品ではないのです。
普段我々が普通に暮らしていて感じられる東京の様々な断片を寄せ合わせたり、膨らませて行けばよいのであり、またそれ以外に描きようもないのです。
東京の風景といっても色々ありますが、例えば地方に住む人たちが想像するような「林立する高層ビル」「猥雑な繁華街」あるいはドキュメンタリー番組が好
むような「怖ろしいアンダーグラウンドの世界」といったような風景を考えているわけではありません。考えたところで知りもしないこと、興味もないことを描
くのは不毛というものです。
「東京」というテーマに限らず、「人類愛」だの「人類の来るべき未来」だの「自然と人間のあり方」だの「人間のあるべき姿」だの「闇の裏世界」だの「永
遠の愛」だのといった、キャッチーだけれど作り手がよく分かりもしないコンセプトを掲げてにっちもさっちもいかなくなった映画や小説や漫画やアニメは今ま
で掃いて捨てるほど作られたことでしょう。どれ、とは言いませんが。
東京に限ったことではありませんが、建物の解体風景をよく見かけます。建物が壊されることによって隣接していた建物の壁面が露わになる。と、そこにはお
びただしい数のエアコンの室外機が並んでいたりする。無数の目が並んでいるような景観ですが、そうした断片に東京的な匂いを感じる方は少なからずおられる
でしょう。それはもしかしたら東京というより、日本の縮図を見ているのかもしれません。
四方を真新しい建物に取り囲まれて呼吸困難に陥ってそうな古い住宅。
ビルの屋上の庭園。
ビルに囲まれた墓地や建物の隙間にひっそりと残った鳥居や地蔵。
コンクリートの塀から突き出している樹木。
そういった新しいものと古いもの、あるいはきれいなものと見苦しいもの、人造物と自然物といった相反するイメージが同時にかつ不自然に存在する風景。コンセプトはこんなところにあると考えています。
だから三人が暮らす段ボールハウスは、やはりそびえ立つ東京都庁のすぐ膝元に無ければならない。
そうしたイメージをより多く詰め込められれば成功です。
また「東京ゴッドファーザーズ」では「看板」をとても意味あるものとして捉えるつもりでいます。
またぞろ面倒くさいことを言い出しやがる、という向きばかりでしょうがご勘弁願いたい。巷間に溢れる看板にこそ東京の断片が感じられるではありませんか。描くのは無論大変なんですが。
劇中特に重要な意味を持つ看板はデジタルのハーモニー風に処理したいと考えています。「千年女優」のポスターやパンフレットと同じ手法です。今回は撮影
もデジタルで行う予定なので、「千年」のようなプリントアウトというデジタルだかアナログだか分からない面倒なプロセスは必要としません。
しかし描き手は必要です。「千年」ではポスター関係は監督自らが処理するという歪なシステムが取られましたが、今回は出来るだけ別な人間を立てたい。私はきっとそれどころじゃなくなっているはずですから。
看板に書かれた実のない浮かれたキャッチコピー、生活感のない写真やイラストはうそ寒さに溢れています。それらは普通の生活を送る人間たちの理想を描い
たものだからでしょう。看板の中の理想郷は現実には存在しません。描かれた幸福は厳しい現実をより一層浮かび上がらせる装置として捉えるつもりです。
そしてその理想とやらからもっとも遠くに位置するのが我らが主人公、ホームレスたちなのです。
時間の相貌
主役の顔、キャラクターデザインについては具体的にはまだ何も考えていませんが、作品自体が直線的な魅力を持ったものではないので、「味」が大事になると思っています。絵柄やキャラクターそれぞれの風貌も含めて味が重要です。
あまりに大雑把な言い方ですが、「とぼけた味」。これは絵柄に限らずシナリオや演出にも言えることです。
当然ですがカッコイイキャラクターなどまるで必要がありません。今までもそうだったろう!という意見が聞こえてきそうですが、確かにそうです。説明するまでもありませんでした。
でも可愛い子は必要です。ミユキは可愛くても良い……いや、可愛くなくては困ります、営業上。半分冗談ですが、やはり女の子は可愛い方が良い。もっとも、ちょっと汚い感じでしょうが。
可愛いんだけれどリアクションがちょっとずれている、とか顔立ちは良いのだが一年近いホームレス生活で女の子らしい恥じらいがちょっと抜け落ちてしまっ
ている。そんな漠然としたイメージしかありませんが、顔立ちだけではなく、存在そのものがいじらしくも可愛い女の子になれば良いと思っています。
ギンちゃんとハナちゃんのキャラクターデザインは最も重要です。これこそ味が勝負。それまでの彼らの人生を感じさせる風貌、衣装でなければ世界が狭く
なってしまいます。主要人物に限らず、脇役やモブに至るまで、あるいはまた背景となる舞台にも映画の劇中時間以外の時間が存在することを念頭において絵を
作ることが大切と考えています。
ここまでこの拙文にお付き合いして下さっている方は、この作品に対して非常にリアルな作品というイメージを持たれたことと思われます。もちろんその通りです。
しかしリアルといっても諸々の解釈があり、一概には言えません。「パーフェクトブルー」は確かにリアリティを求めようと思って作っていましたが、「千年
女優」もリアルといえばリアルです。「東京ゴッドファーザーズ」もそれら2作と変わらない程度のリアリティを求めているのであり、決して「クソリアル」を
求めているわけではありません。これはちょっと言葉が汚かったですね。もとい。「超リアル」な世界観ではありません。
画面の作り方は、これはもう監督の文体みたいなものなので前2作と変わらない捉え方になると思いますが、芝居のあり方は「千年」の立花と井田のコンビみたいな、ある程度のマンガっぽさを生かしたいと考えています。見た目に楽しい方が良い。
シナリオにしろ演出、キャラクターデザインや芝居にしろ、明るさを目指したいと思っています。劇中で起こることは明るいことばかりではありませんが、そ
れでも明るくしているキャラクターであって欲しい。間違っても暗い作品ではありません。爆笑させる意図はありませんが、クスッと笑えたり見ていて楽しくな
るような作品に仕上げたいと思います。というより「東京ゴッドファーザーズ」はそうなりたがっています。
私にもよく分からないこと
しかし何故この作品がアニメーションなのか。
実際この企画内容であれば、実写で撮ることは可能でしょう。
今さら何がアニメらしく、何が実写らしいのか、そんな議論すら無駄に思えますが、制作中にしろ完成後これを見る観客にしろ疑問に思われる方も多いと思われます。
無論私は漫画やアニメーション以外に作品を作るノウハウを持っていないという消極的な理由も存在します。私の持っている言語が日本語だけであり、英語を喋れないのと同じように、絵を媒介としないと作品をイメージ出来ない。
私の場合、作品制作の手段としては漫画という方法もあります。確かに漫画でも成立しうるでしょうし、それはそれで面白い物にはなると思います。しかし音
楽や効果といった「音」の楽しみは漫画には存在しませんし、「東京ゴッドファーザーズ」における音のイメージは豊富に生まれてくるように思えます。
では実写ならどうなのか。いや、やはり「東京ゴッドファーザーズ」はアニメーションでなければなりません。私にもまだよく分からないのですが、いわば私の無意識がそう告げている。
説明の付く範囲でいえばこんな事が言えるかもしれません。
「東京ゴッドファーザーズ」は確かにリアリティを求める面が強い。リアルではなくリアリティです。このリアリティ、つまりは観客が「リアルに感じられる要
素」ということでしょう。これは何も現実を写真でただ写しても浮かび上がってくるというものではありません。
これはあくまでも私のイメージなんですが、実写よりも絵の方が込められたエッセンスを見ている側が受け取りやすい、と思えます。どういうわけか絵に描いて見せた方がリアルである、と感じやすいらしい。
例えば「パーフェクトブルー」に出てきた主人公・未麻の小物に満ちた部屋。私はそれほどリアルなつもりで描いていたわけではありませんが、見ていただいたお客さんには随分リアルであるという感想をもらいました。
しかしもし実際にあれと同じ様なセットを作ってもリアルに見えないでしょう。あまりに統一感がないから、です。しかしそこに問答無用の統一感を与えているのは、絵で描かれている、ということに他なりません。無理矢理にでも絵は収まりを付けてくれます。
実はあの部屋の設定は多くの資料からディテールを拾ってきて、コピーアンドペーストして作った部屋です。それゆえ見ているお客さんが何かひとつくらい思い当たるような物が含まれている。
「そういえば、彼女の部屋にこんな物があったな」とか「友達の女の子の部屋の間取りがこんな感じだったな」といった、見ている人の記憶や実感に訴えかける
ことが狙いでした。これは「未麻の部屋」に限らず、あの作品に登場する風景はそういう狙いで作った物ばかりですし、キャラクターデザインにも同じことが言
えます。
「実際には存在しないけれど、どこかに存在するような気がする」人や物。これは勿論「パーフェクトブルー」だけでなく私が作品を制作するときに大切にして
いる判断基準です。実際に存在するかどうかということではなく、観客に「存在するように思わせる」ことが大事だと思います。
そうした意味で、今回の「東京ゴッドファーザーズ」も、やはり切り取られた画面の中には「実際には存在しないけれど、どこかに存在するような気がする」ようなエッセンスが詰め込まれる筈です。
絵は、それが絵であるというその出自からウソであり、実際には存在しないものです。存在しないからこそエッセンスを詰め込むことが容易であり、また詰め
込まれたエッセンスも受け取りやすいのではないかと考えております。さらに絵であるがゆえに観客がそれぞれ自分の体験や記憶を投影することが容易であると
考えられますし、それをより多く許容することが作品の豊かさであると考えています。
しかしこう書いてみると、これは何も絵やアニメに限ったことではないでしょうから、やはり何故これがアニメーションでなければならないのか、はっきりと
したことは言えません。作っている最中になにがしかの回答が得られれば、作品完成後のインタビューで監督が口ごもることもないでしょう。
私自身の創作活動においては実写からの影響は濃厚にあります。このテキストの中でも随分と映画を引用しています。しかし自分で実写を撮りたいなどと露ほ
ども思いませんし、普段実写を意識してアニメを作ったりしません。私はとにかくアニメーションが好きです。
この「東京ゴッドファーザーズ」という企画も、決して実写みたいなアニメを作ろうなどというコンセプトではありません。むしろ実写でもやれそうなお話を
元にして、どこまでアニメーションに成りうるか、をコンセプトにしているといった方がいいかもしれません。
最後に
長々と書いてきました。現段階で思いつくようなことをあれこれと書き付けましたが、少しは作品のイメージがつかめたでしょうか。プロットと合わせて読んで
もらえば、この作品における意図、というよりこの作品の持つ意図が断片的にも伝わったことと信じますが、私自身面白くなるという確信があるだけで、まだま
だイメージが掴みきれていないことの方が多い。
「東京ゴッドファーザーズ」はまだ生まれたばかりの企画なのです。
プロットのアイディアもまだまだ足りませんし、シナリオはこれからです。キャラクターはまだその顔を見ることもできませんし、舞台となるロケーションも決まってはいません。
制作に関わってくれる皆様の智恵やアイディアによって「東京ゴッドファーザーズ」は育ちます。是非ともご協力をお願いしたいと思います。
「ホームレスが拾った赤ん坊を親元に返そうとする」
こんな地味でアニメ雑誌の表紙を飾れそうもない企画ですが、出来上がるフィルムはセンセーショナルではなくとも、何度でも見返したくなるような味わいのある作品に仕上がるはずであり、また我々の手でそのように育ててやらねばなりません。
見ている間、観客が楽しい気分や悲しみを味わい、そして見終わった後、ちょっとだけでも元気を得られるような、そんな映画を作ろうではありませんか。