決算2002-66
「東京ゴッド〜」のコンテでは同ポ、BG兼用が非常に多い。これもレイアウト・背景対策の一つである。
「同ポ」は同ポジションのこと。カメラ位置を変えないということで、同じ構図・背景が複数回使われる。「BG兼用」は多少カメラ位置が変わるが、背景を多
少大きめに描くことで複数のカットに同じ素材を使用する。同ポ、兼用が多ければ、必然的にカット数よりも実際の背景の描き枚数が減ることになる。
「東京ゴッドファーザーズ」はタイトルの通り、東京の街中が舞台である。当然背景にはビルや建物が多くなる。街やビルを描くのはただでさえ大変手間がかか
り、なおかつ写実性を重視しているので労力は一層増す。さらに対象物を魅力的に描くには尚のこと手間暇がかかる。
この作品は端から美術背景の負担が非常に大きい。
これは企画の最初から分かっていたことなので、シナリオ段階での舞台の選定にも気をつけ、コンテではなるべく同ポ・兼用を多用するように心がけた。実際
の描き枚数を減らすことで、一枚一枚にかけられる時間を増やして、その分密度を上げようという狙いである。背景の描き枚数を減らすということは、当然レイ
アウトの負担も軽減される。
これも良いことずくめのようだが、同じカメラポジションで多くの芝居を収めきらないとならないので、コンテ時、カメラポジションを決めるのが結構難しいのである。それがまたパズルみたいで面白く楽しいのだが。
基本的には一つのシーンに対してマスターとなるカメラポジションを設定して、そこから寄りのポジション、その切り返しなどを考える。これは多分もっとも
オーソドックスな方法と思われるが、私はカット割りだのカメラポジションの置き方などを勉強したわけではないので、あくまで我流である。我流とはいえ長年
仕事としてやってきたせいか、「そうでなくてはならない」という私なりのカット割りやカメラの運びというものが出来てしまっている。それが正しいのか正し
くないのか私には分からないが、他にしようがない。
「千年」豪華版DVD収録のコンテ本、このインタビュー中の発言にもあったと思うが、カメラ位置や構図はストーリーの流れやシーンの意味、人物の心情など
など諸条件を考え合わせると、それほど多くの可能性があるわけではないと思われる。必然的に決まってくる……感じだろうか。
さらにアニメーションの場合、横方向ならともかく、縦方向のカメラ移動はいくらCGが普及してきたといっても、作業の手間と時間を考えるとそれほど自由
になるわけではないので、おいそれと使う気にならない。縦移動に限らず、カメラワークが付くと当然、移動する分だけ背景も大きなものが必要となるし、大判
の作画などが必要となり、とにかく作業の手間が増大する。もっとも、アクションシーンなどはどうしてもカメラワークが多く必要となるし手間を避けてばかり
もいられないが、それ以外はカメラ位置を固定(フィックス)で収めきれるならそれに越したことはないと思っている。
今回は特に出来る限りカメラワークを避ける、ということを念頭においてきた。これはもちろん、作業的に楽をするためだけに設定した縛りではなく、何より
今回の作品に合っている、という理由が一番である。楽と効果が揃うと心強い。私は「大変にすればすごいものになるはずだ」という貧しい発想が嫌いである。
03.5.1
決算2002-67
先に記したストーリーが要求するカメラポジション、この制限に加えて、アニメーションならではの技術的作業的な制限、さらに私の好みと、肝心な観客に対する配慮や親切を合わせると残る可能性はそうそうあるものではない。
観客に対する配慮や親切とは、意味不明のアオリや工夫の足りない演出がしきりと使う説明的なフカンを避けるといったごく単純なことで、要するになるべく
お客さんに分かりやすく、ということ。この分かりやすく、というのは決して「説明」ではないのだが、業界にいるしたり顔の演出さんや脚本を書く人のほとん
どが「分かりやすいとは説明することである」と信じて疑ってはいないようである。
私がコンテを描くにあたっては、かように多くの制限が優しく左脳と右脳を導いてくれるので、カメラポジションに苦労することはほとんどない。
カット割りも同様で、そのカット内に何を収めてどこから次のカットにするかというのも、演出的要素以外のアニメーションならではの制限、どのくらいの原
画マンがいるのか、予算と時間はどのくらいあるのかといった制作体制の制限などが加わるため、あまり苦労することはない。苦労するのは制作体制の制限を見
極めることで、これがもっとも難しいのではないか。カット内容を簡単にしすぎては見応えがなくなるし、制限を読み違えてそれ以上のことをしてしまえばスケ
ジュールが壊れる。
なるべくコーナーいっぱい、ギリギリを攻めているつもりだが、たいてい失敗している(泣)
制限の中に入りそうにないこと、些末なことはなるべくフレーム外やカットの切れ間に追い出し、大事な要素から順番にカット内おさめるようにするしかない
と考える。もっとも、「些末なこと」を些末なこととしてあっさり切り捨てられるようになるまでには多くの経験が要ると思われる。
若い演出や下手くそな演出、あるいはチンピラクリエーター的な演出さんは、些末なことがよほど大事に思えるらしく、肝心な内容を取りこぼして些末な描写
に腐心している様がよく見られる。さらにはそれを「こだわり」とまで呼ぶ馬鹿者も多いのだから大笑いである。国語の乱れと映像文法の壊乱は軌を一にしてい
るのではなかろうか。他人事ではない。
だいたい演出家の文体は、その人間が普段喋る口調とよく似ている。話がくどい人間は映像の文体もくどいし、オチのない話ばかりする人間は作品でも要点が
見えないし、わけの分からないことを喋る人間の作ったものががわけの分かるものにはならないし、話が上手な人間は要点を押さえて手際よく映像を配列してい
るように思える。
作品を見れば演出している人間の人となりが想像できるし、逆に当人を知っていれば作品を見なくてもあらかた内容の想像はつくものである。もっとも、ほとんどのアニメ演出さんは文体以前の人が多いように思えるが。言葉に置き換えるとこういうこと。
「日本語になってない」
もう少し学ばないといかんのではないか。
他人のことはどうでもいいが、ともかく私の場合はストーリーや人物の演出的要求やアニメーションの技術的制約、制作体制的な制約といった非常に多くの制限があるお陰でコンテを描くのに苦労をした覚えがない。
ああ、素晴らしき哉「制限」。
03.5.2
決算2002-68
さてレイアウト・背景の負担軽減のため色々な算段をしてきたつもりだが、この背景にあるもう一つの大きな事情は、実は何より前作の宣伝のために監督の時間が失われることが予測された、ということである(笑)
「千年女優」の公開・宣伝に伴い、「東京ゴッド〜」の監督が不在になったり監督作業が滞ったりすることは明らかだったので、なるべくコンテに情報量を詰め
込んでおいて、レイアウト時に監督が直接絵を描かなくても、意図が伝わるように心がけた。思ったほどに効果があったのかどうかは分からないが、実際レイア
ウトの直しは、これまでの作品に比べれば飛躍的に減っている。今回はレイアウトを三分の一も直してないと思われる。
今回レイアウト、というよりBG原図をあまり直さない理由の一つには美術監督との連携が確立されてきたことも大きい。「東京ゴッド〜」もこれまでの2作
同様、美監は池信孝氏である。氏は「2003年東京国際アニメーションフェア」で個人賞の「美術部門」を受賞している。この賞の権威がどのくらいのものか
はともかく、スタッフ個々人の仕事が認められるのは素直に嬉しいものである。
「東京ゴッド〜」の美術背景はたいへん素晴らしい。先に今回のお話は「御都合主義の出来すぎた話」と書いたが、そのある意味リアリティの薄い展開や大袈裟
ともいえるキャラ芝居に、視覚的に現実味という重りを与える意味でも美術背景の受け持つ役割は大きい。池氏を始め、背景スタッフは「街」という厄介な対象
を相手に、密度の高い写実性を加え、非常にリアリティのある舞台を描いてくれている。
今年(2003年)4月末の段階で、本撮のラッシュはまだ100カット程度だが、完成画面はこれまで2作に比べて、もっとも「重たい」。キャラクターデ
ザインや作画、色指定などさまざまな要因はあるが、やはり美術背景が定着してくれた重みが最大の理由であろう。神は細部に宿る、というが、まさに緻密に描
かれた路地や物陰など、そこここに神々が宿るように思える。
重たく写実性の高い背景と大袈裟なほどに動くキャラクターとのギャップは、企画当初からの意図を見事に表現してくれている。ラッシュの感触は非常によい。当然まだ音は入っていないが、映像を見ているだけで「やかましい」アニメーション映画である。
「東京ゴッドファーザーズ」は、先にも記したが相反するものの同居が大きなテーマだが、完成画面から受けた印象は次の通り。
「重厚なバカバカしさ」
たいへん面白いと思う。
03.5.3
決算2002-69
美術監督、池氏のセンス・技術の高さや作品に対する真摯な関わり方と同時に、2作分の蓄積は実に大きい。レイアウト時にこちら側がどの程度原図を描いておけばどのくらいの上がりになるのかが把握できているので、無駄な労力を大幅に減らすことが出来る。
原図をそれほど描き込んでおかなくても、氏の方で適宜必要なディテールなどを加えてくれるという読みがあるので、舞台設定として必要な原図や特殊な場合を除いてはそれほど描かないようになっている。
ただ美術背景側の得手不得手を考慮して得手の部分は原図は楽に、不得手な部分は原図の方で補う、といった調整はしているつもりだが、これも蓄積の賜物である。
こうしたことは何も美術背景に限ったことではなく、原画や色指定や特効、音響に至るまで、これまで一緒に仕事をしてきた人たちすべてにいえると思う。
美術背景側の得手不得手というやや不用意な言葉を用いたが、この点について誤解のないように付け加えておくと、これは美監や背景マン個々の技術力を云々
することではない。無論何でも描きこなす上手な人もいればそうでない人もいるが、そういう問題ではなく、絵筆で描く背景と、線画のセルとのマッチングとい
う根本的な技法の違いから生まれる問題が一番大きいと考えている。
手法の違うセルと背景の組み合わせにはこれなりの美しさもあるし、この方法論を否定する気はない。ただ、ケースバイケースだが、キャラクターから遠いも
のが背景で描かれる場合はともかく、身近なものが背景で描かれるとどうにも違和感を感じる。「すぐそばにある」という感じが重要であるはずが、手法の違い
から距離感が生まれると甚だ困る。
顕著な例は部屋の中である。部屋にある小物類が背景で描かれていると、「身の回りに在る」という実在感が希薄になる。またティッシュやコップが背景で描
かれていると、当然それは「動かない」ものとして映り、画面から臨場感や活気のようなものを奪うことが多い。
少し丁寧に補足しておくと、この「実在感が希薄になる」というのはあくまでセルと合わせたときに生じやすい問題である。背景画単体で見れば実在感や臨場
感があるような絵であっても、絵として本来異質なセルと組み合わせることで、セルの持つ実線の強さに負け気味になるように思われる。なので私の監督作品で
は、セルに近い部分の描写は背景側もエッジを際立たせるようにしてもらうことが多い。
セルと背景のマッチングについては、こうした描写法以外でも色彩設計でなるべく背景と色を馴染ませてもらうなど、腐心することが多いが、しかし「動くものはセル」「動かないものは背景」という基本的な制限はいかんともしがたい。
アニメを見慣れた人ならお分かりと思うが、たとえばそのカット内でドアが背景で描かれていれば「(少なくともそのカット内では)開かない」と認識してし
まう。いまどきはCGによって、背景描きのドアを開けるくらいは難しくはないが、やはり「開かない感じ」はついてまわる。
これを逆に利用すれば、「開くはずのなさそうなドアが開く」という演出的な脅かしもありえるし、ドアをセルで描いておけば、たとえそのカット内で開かなかったとしても「誰か入ってくるのではないか」という期待なり不安を煽ることもできる。
これは些細な一例だが、セルか背景かという選択は物語の演出的にも大きな影響が出る場合が多いのである。
03.5.4
決算2002-70
何をセルにして何を背景で描くか、部屋を例に考えてみる。
まず部屋そのものである「壁」だの「天井」は面積も多く、単調になっては困るし質感が重要なので背景で描く。「タンス」や「エアコン」、「本棚」「机」
などもやはり背景である。つまり動きそうにないものが背景となるといえるのだが、では「ベッド」はどうかというと、これはセルにしたくなる(笑)。しかし
「ソファ」は……背景かな。「テーブル」は背景だが、乗っている小物類はセル。しかしテーブルサイズが小さければセルかな……とまぁ、明確に線を引けなく
なってくる。さらにキャラの芝居が絡んだりすると判断はさらに微妙になってくる。
本篇C.396より。部屋に置かれた物はすべてハーモニー処理になっている。BGとして描かれているのは、床と壁とタンスくらいであろうか。 |
曖昧になるのは無論、室内だけとは限らず、乗り物の処理などは考えどころ。自動車の外観はセル、車内のシートなどはセルにして質感などをブラシなどで特効
を加える場合もあれば、背景で描く場合もある。列車はセルだが車内は背景になろう。宇宙船は大きいやつだと背景、小さい宇宙船ならセルだろうが、壊れると
背景になり……と、やはり頭を使う。物のサイズや質感、キャラとの関係、画面に占める割合によって処理は変化する。
デジタルになってからはセル重ねの枚数を気にしなくてよくなったが、アナログにおいては制約があったため、セルにしたくてもその制約のためにやむなく背景で処理するケースもあった。
セル重ねの制約とは、セルの透明度に由来する問題。アナログ時代に使用していたセルがいかに透明だとはいっても、数枚も重ねると一番下の絵は一段くらい
暗くなってしまう。10枚も重ねたら下の絵がかなり暗くなるばかりでなく、セルそのものの影が発生する。「千年女優」の頃には「セルの質が悪くなった」と
いう話も耳にした。
諸々の事情により、重ねる枚数はマスクを除くとせいぜい6枚程度だったろうか。セル重ねは下になるものからアルファベット順になるので、ABCDEFセ
ルくらいまでが限度であった。この制約はデジタルに変わってからは一切無い。Zセルまで重ねたって良いのだ。良いからどんどんやっていい、ということでは
ない(笑)。Zセルまであった日にはチェックする側がうんざりする。
セルか背景かという問題は「パーフェクトブルー」の時に一番考えたことである。部屋が重要な位置を占める作品で、部屋の生活感や皮膚感覚を大切にしてい
たので、部屋にある小物類はどうしても遠くに行ってもらっては困る。主人公の不安定な精神を辛うじて日常という現実につなぎ止める役割として部屋の小物、
というイメージであった。そのささやかなよりどころすらコピーされていたという怖さを出したかったのだが、それはここで言及するようなことでもないので、
措くとする。
キャラクターがその場にいるという臨場感をだしたいがために、では背景ではなくセルで描けばいいという単純なものでもなく、質感表現が苦手なセルで埋め尽くすと画面から潤いが不足する。そこで登場するのがハーモニーというハイブリッドな手法である。
03.5.5