決算2002-71
線で描かれた絵に、背景風に筆で描写を加えるのがセルハーモニー。単にハーモニーと通称している。アナログならば、動画の線が転写されたセルを重ね、その線に合わせて画用紙に描写を加えて行くというのが一般的であろうか。
普通の背景に比べて線が加えられている分だけ、キャラなどに「近い」感じを出せるし、筆による描写によって単なる塗り分け以上に質感もよく表現できる。
セルハーモニーというこの手法は、いわば「動かないのだが動くかもしれない感じ」を表現したり、キャラクターを取りまくものを描くのに適している。
この手法に近いテイストを出せるものに「セル+特効」という方法もある。こちらは通常通り塗り分けたセルにエアブラシや筆でなどで質感を加える。最近のロボットやメカのコクピットなどで見られるのはこちらの手法であろうか。
二つの差異は「線画のみから処理する」か、「線画に色が塗られたものに加工を加える」か、ということになる。もちろん特効が受け持つのは質感だけとは限
らず、物体の移動に伴うタッチなども特効になるので、必ずしもハーモニーとの守備範囲は重ならないが、しかし、アナログからデジタルに移行したことで両者
の境界は定かではなくなってきている。どちらもパソコンを使用して線画に描写を加えて質感を与えるという意味ではまったく差がない。
デジタル化によってあちらこちらで作業領域の境界が曖昧になってきている。
「東京ゴッド〜」においては「ハーモニー処理」が飛躍的に増大している。
レイアウトチェック時に「これはハーモニー」と何度も注意書きを書いた覚えがあるし、私自身ハーモニー用の動画をけっこうな枚数、描いている。動画マンのきれいすぎる線ではない、味や調子のある線が欲しい場合に限ってだが、自分で動画にしてみた。
動画さんには無理を承知で極力細い線を引いてもらっているので、調子のある線まで要求するのはかなり酷だと思われる。細い線を要求せざるを得ないのは、
制作に使用している紙のサイズに起因している。「東京ゴッド〜」は「パーフェクトブルー」「千年女優」でお馴染みの「貧乏ビスタ」からは、ほんの少し大き
くなって「チビスタ」というサイズ。チビビスタが詰まった通称と思われる。
紙のサイズが大きくなったといっても劇場用の本来のフルビスタに比べれば二回りほど小さく、相対的に線の太さが目立ちやすいことに変わりはない。なの
で、通常動画さんには細い線を心がけてもらい、キャラクターサイズの小さくなる引きのカットなどではフルビスタを併用している。
アナログでのハーモニーは、画用紙に重ねた線画と見比べながらの作業となるため、背景さんの負担も大きくなるとのことで使用箇所を増やすことに躊躇も
あった。しかし、デジタルでのハーモニーは線画をスキャンして、それをレイヤーとして上に重ね、線画を見たままその下のレイヤーに直接描いて行ける。さら
に筆やエアブラシツールによる直接的な描写だけではなく、フィルタやテクスチャなど様々な加工が容易になり、表現の幅も広がっている。
基本的に私はハーモニーという手法そのものが好きなのかもしれないが、「東京ゴッド〜」がデジタルで制作することになり、これを使わない手はない、と強く思っていた。
03.5.6
決算2002-72
何より「ゴミ」である。
「東京ゴッド〜」においては「ゴミ」が重要な題材であり、ゴミが美しく描かれなければいかんのである。美しいゴミ、というのはやや矛盾があるようにも思えるが、ゴミが印象に残るようでなくてはならない。
何しろ「東京ゴッド〜」の物語の動機は、「ゴミ置き場に捨てられていた赤ん坊」であり、主人公たちは東京が排出するゴミによって生計を立てている。同時に彼らはまた、ある意味社会や人間関係から捨てられた存在でもある。
廃棄された物や者たちが再生を果たす、とまで言うと劇的に過ぎるが、せめて再生への希望を見いだすのが本作のテーマでもある。
このイメージの由来の一つにはP-model結成20周年プロジェクト「音楽産業廃棄物」があったろう。知らない人のために付け加えておくと、P-
modelは平沢進(「千年女優」音楽)さんのバンド形態のプロジェクト。それ以上のことを知りたい人は各自知る努力をしてください。
この本の制作では私も少しばかりお手伝いをしている。「千年女優」制作中にこの本の編集を担当している高橋かしこ氏からお誘いがあった……んだったかな。
ちなみに高橋氏は釧路湖陵高校のクラスメイトで、20年を越える付き合いになる。
手伝いといってもたいしたことはしていないのだが、P-modelメンバーの撮り下ろし写真の具体的なアイディアを考えたり、撮影現場で実際に「セッ
ト」制作の手伝いなどをさせてもらった。「音楽産業廃棄物」の名の通り、産業廃棄物にまみれたメンバーというのが写真のコンセプトであった。この手伝いの
折り、ゴミの魅力について改めて考え、廃棄されたものへの思いを新たにしたのかもしれない。関わった仕事はどれも無駄にはならないことだよ。
「東京ゴッド〜」において「ゴミはハーモニー処理」とするのは簡単だが、では具体的にどう表現するかを考える必要があった。登場する回数が多く、処理があ
まり特殊で手間暇がかかりすぎてもいけないし、実際のハーモニーを担当するのは私ではないので、方法論を用意しておく必要があった。
ゴミと一口に言っても、分別される種類が多岐に渡っているように色々ある。処理が問題になるのはゴミ袋である。半透明というのが曲者。もし現在もゴミ袋
が東京都指定の炭酸カルシウムのではなく黒いビニール袋だったら苦労は少なかったと思われる。環境への思いやりは、意外なところでも努力を要求するが、そ
れもまた楽しからず哉。
ゴミ袋が半透明なため、「側(がわ)」だけ描いて済むものではない。「中味」を描かなくては「らしさ」がない。その最初のテストケースが、私が企画書用
に描いたイラストである。「KON'S
TONE‘千年女優’への道」カラー口絵にも収録されているイラストで、主人公たちがゴミためで炬燵に入って団欒している、といった絵柄である。バックに
ゴミ袋が山と積まれているが、このゴミ袋を描く際に本篇用の処理を考えた。
03.5.8
基本的なゴミの処理と描き方を記した設定。私が作成したもので原画マンに配ったものだが、最終的にはこれより遙かに複雑な処理が施されて完成画面になっている。 |
決算2002-73
「ゴ
ミ袋の処理」などというと大袈裟だが、要するに側と中味を別々に描いて合成しようというだけの話である。ゴミの中味を別に描いて彩色、半透明の袋の感じを
出すために中味を少しぼかして重ね、袋側のハイライトや結び目などの透けない部分を削除して濃度を調整し、がさついた袋の感じを出すために「錆び」か「和
紙」のテクスチャを重ねている。これだけ(笑)
わざわざ紹介するほどの手法でもないが、手法を複雑にするのはむしろ簡単で、処理する点数が多いものに関してはなるべく作業工程を簡単にすることが大変
重要なのである。共有できない特殊な技術を当てにすると、痛い目に遭うことが多い。実際ずいぶん遭っている。
本篇C.45より。ギンちゃんが手を突っ込んでいるゴミ袋は作画で動くため比較的簡単な処理で済ませているが、外見と中味を別々に作画する手間は基本的に同じ。それ以外はすべてハーモニー処理である。 |
こうした部分はアメリカ的な合理主義をもっと要すると思われる。つまり「マニュアル化することで誰もが使えるようにする」ということ。
日本の職人的な「誰それでなくては出来ない」という固有の技術や能力は大変貴重だし、それを研磨することを忘れるわけには行かないが、一方で、多くのスタッフと共同で制作する場面においては「誰もが使える」ということが非常に重要であろう。
この独り言の垂れ流しのようなテキストにおいても、なるべく自分の技術の言語化を試みている……というより言語化を試みるための試みというべきなのだが。
本篇カットにおいても企画書イラストで考えた手法を使って、ゴミ袋は表現されている。この手法なら「ハーモニー」でも「セル+特効」でも可能なのだが、結局ハーモニーで処理している。
今回ハーモニーを多用しているが、意外と担当出来る人材が少ないのが頭の痛いところ。デジタルで背景が描ける人材が理想なのだが、背景は描けてもパソコ
ンは使わないかパソコンは使えても絵が分からない、と一長一短の人が多い。思ったほどにパソコンは普及していないのかと思ったりもする。背景の方にはデジ
タルに慣れることをお薦めしたい。
「東京ゴッド〜」制作ではジブリに在籍している糸川さんとマッドハウス在籍の市倉君にお願いしている。最終的なクレジットは「デジタルハーモニー」という
ちょっと恥ずかしいクレジットになるかと思われるが、二方とも上がりの内容は大変素晴らしく、尻上がりにさらに良くなったように思える。
ハーモニーを使用する場所はゴミ袋だけとは限らず、主人公たちが暮らすダンボールハウスやその他の部屋の中の小物類、コンビニ店内や酒場内、瓦礫の家、場合によっては遠景の車などにも適用されている。出来上がった画面の感触も非常によい。
適用箇所はどうしても部屋の中が多くなっているが、思えば「パーフェクトブルー」の時に欲しかった表現がようやく使えるようになったわけで、ハード面の進歩にありがたみを感じることしきりである。
いやぁ、デジタルって便利(笑)
決算2002-74
レイアウトや美術背景、ハーモニーなどについて触れてきたが、最後に肝心なキャラクターとその芝居を担当する原画マンについて触れるとする。
「東京ゴッド〜」のキャラクターデザイン・作画監督は小西賢一氏に引き受けてもらっている。元々はジブリに在籍していたアニメーターで「となりのヤマダ
君」の作画監督として知られ、その後フリーとなり「千年女優」では原画・作画監督の一人として随分とお世話になった方。非常に優れたアニメーターである。
ちなみに「東京ゴッド〜」のスタッフ編成はなぜかジブリで作監をされた人が多い。小西さん始め、「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」の安藤さん(現在フ
リー)、「平成狸合戦」の大塚さん(現在フリー)といった面々がメインスタッフとして参加してくれており、「紅の豚」「千と千尋」の賀川愛さんも原画をい
くつか引き受けてくれている。背景スタッフでもジブリの矢野さんがスタジオに入って作業をしてくれているし、先に紹介したデジタルハーモニーの糸川さんも
ジブリ所属。ジブリさんがレイオフ期間中に当たって大変助かった。
ジブリさんの商品には「ジブリがいっぱい」というコピーがついていたと思うが、うちはなぜか「ジブリの人がいっぱい」。
キャラクターデザインについて、「東京ゴッド〜」企画書でこんなことを書いていた。
「作品自体が直線的な魅力を持ったものではないので、「味」が大事になると思っています。絵柄やキャラクターそれぞれの風貌も含めて味が重要です」
そうだ私は「味」を大事にしていたのだった。このイメージは損なわれないまま、どころか大いに拡大されて画面に活かされていると思われる。
ギンちゃん、ハナちゃん、ミユキの主人公3人は元のイメージを自分で描いた。最初から比べるとハナちゃんに少し変更はあったものの、概ね初期のイメージ
に基づいている。主人公3人以外のキャラクターたちも、同じく「味」を大切にしてデザインしたつもりである。基本的には主人公同様、私がラフイメージを描
いて小西氏に正式なキャラクターデザインをしてもらっている。
しかし私が当初描いたイメージに「味」が上手く表現されていたというわけではなく、また小西氏によってキャラ表として清書された段階でも、まだまだ
「味」が出るには至っていないと思われる。「味」はレイアウト・原画・作監修正といった実作業の中で、キャラを動かし表情をつけることによって少しずつ熟
成されてくるような代物である。
デザインの段階で留意したことには「極端さ」ということもある。極端とまでいうとそれこそ極端だが、キャラクターそれぞれの見た目を明確に違える、ということ。要するにキャラクターの描き分けをはっきりしよう、と。実に基本的なことに過ぎないのだが。
髪の毛の色を変えただけで実は同じ顔をしているなどというのは言語道断、少ししか違わない顔や同じような体型も避けるし、微妙なニュアンスがないとその
キャラにならないというようなイメージも使用しない。髪の毛の色だの衣装の違いだのといった些末な部分によって与えられた差異は描き手が思うほどお客には
伝わらないもので、さらに人物の出し入れにおいて無策で無能な演出が加わると、気の毒な混乱を招きやすい。
「あ?この人はさっき出てきた人だっけ?」などなど。
私はそういうものを見ているとすぐに腹が立ってくる方だ。
お客さんに上等な不親切を味わっていただくためには、通常はなるべく親切にするという態度が必要であろう。
また「キャラクターデザイン」の言葉通り、外見は内面(キャラクター=性格、人格)を顕わすように心がけた。見ただけでどういう人間か想像がつくようにしたつもりである。
言い換えるとこれは「記号的」ということでもある。「味」を大事にすると書いておきながら「記号的」なキャラクターデザインというのも矛盾しているかに思えるが、決して矛盾ではない。と思う。別に矛盾してたって全然かまわないのだが。
03.5.10
企画当初に私が描いた3人のイメージイラスト。本篇と大きく変わってはいないが、ハナちゃんは比較的イメージが変化している。 |
決算2002-75
「記
号的」をさらに違う言い方をすれば「漫画的」ともいえると思うが、今回の作品では「漫画的」要素を積極的に取り入れようともしている。この背景にあるのは
「リアル指向」を越えて行こうという意図である。大雑把にいえば、一度リアル路線を通過した漫画路線というようなこと。漫画的要素を取り入れても、一旦リ
アルをくぐった漫画表現がそれ以前と同じはずはなかろう。それがどういうものになるのか自分でも見てみたいと思った。
これまでの作品も、別段リアリズムを追求してきたわけではないが、リアリスティックな描写を良しとして来たのは間違いはないし、運動の再現という意味では非常にリアル指向にあったといえる。実現の程度はまた別の話だが。
たった2作しか監督作品を作っていないのにこういうことを言い出すのもどうかと思うが、関わってきたアニメーション作品なども合わせて考えると、作る度
にアニメーションや絵の在り方、作品全体の考え方のいわば「間口」が狭くなってきていることを実感している。延長して考えれば、いわゆる「リアル路線」の
行き着く先はより狭い場所へ、それこそ針の穴を通すような行為に陥って行くことは明白である。それを求める気にはならない。私は技術の求道者ではない
(笑)
私が求めるのは「素晴らしいアニメーション」ではなく、あくまで「私が思う面白いもの」である。作っていて息苦しいのは特に嫌いだ。もう、いいや(笑)
絵に限らず、技術というのは得てしてそれ自体のいわば旋回力とでも呼ぶものが強力である。ちなみにこの技術の旋回力、という言い方は司馬遼太郎さんの表現を借りたもの。
技術は、放っておくと、得てして自身の旋回力で一人歩きして行く。これには功罪両面があるし、そのこと自体を否定するつもりは毛頭ないが、その危険性は
十分に認識しておく必要がある。野放しにしておくと、技術を使うはずの主体が強い旋回力のために技術の下僕に成り下がるケースがままある。目的のための方
法論のはずが、いつの間にか方法論自体を目的化してしまうといったすり替えは、大嫌いである。
これは私自身の経験を元にした述懐であり、他の何かの作品のことなどを指しているつもりはない。私自身が絵の技術を磨くことに意識が集中し過ぎて、その
技術でもって何を表現するのかという肝心な部分を疎かにした自分の20代の在り方を反省してこのようなことを書いている。我が身を振り返るとわずかでも思
い当たることがあるからこそ批判の矛先も向く。だから私が他者を批判しているように見えても実は自省しているのだ。本当だ。半分はウソかもしれないが
(笑)。
念のため付け加えておくと、手法の実験、方法を使うこと自体が目的という性格の作品はありうるし、それを否定するつもりはない。すり替えたり、目的もないのにさもあるように方法論で見せかけるのが嫌いなだけである。
03.5.12