■彷徨える魂■

 幌 で生まれ、南高校のすぐそばの集合住宅がまさに生まれて初めての住みかとなる。南高の女生徒が赤子の私を「貸して」「抱かせて」と寄ってくるほど恐ろしく 可愛い子供だったそうで、当時の写真を見ると女装されたものまである。現在では当時の面影などチリほども残っていないし、その時以後女性にモテたこともな い。失敬な。

 3歳ほどで、父の転勤により同じ北海道内の釧路に引っ越し。住吉町に ある社宅の一戸建てに住み、引っ越し早々迷子になるも、見知らぬ大人に交番に連れて行かれ、そこで父のことを聞かれたのであろうか、「黄色いトラック」と いうヒントを伝えて無事に家まで帰る。父は日本通運であった。なるほど黄色いトラック。父は事務職で、車を運転していたわけではないが、そこは子供の浅は かさ。

 寒の地・釧路で、虫取りや仮面ライダーに熱中し、城山小学校で4年生まで概ね大過なく過ごしたものの、また父の転勤で札幌へと引っ越し。

 幌 市内にそびえる藻岩山の麓、伏見中学の近所の「伏見荘」という集合住宅に住まう。田舎から突然に編入させられた北海道の大都会・札幌で学業に落ちこぼれそ うになりながらも、藻岩山を駆け、自転車で街中を駆けめぐり、友達と花火で戦争し、家にいてはマンガを模写して遊び、やはり概ね大過なく何とか中学生まで に成長する。
 当時からの友達に現在漫画家の滝沢聖峰という男がいる。その頃から共によく遊び、二人で絵を描いたものではあるが、よもや同じ商売になるとは思わなんだ。私の場合、今ではすっかり「自称・漫画家」ではあるが。「漫画家(笑)」ともいう。
 中学2年の一学期にまたもや父の転勤によりあろう事かもう一度釧路へ。

 それにしてもどこが「彷徨える魂」なんだか。

 会ッ子(笑)として地元、東中学校に転入すると、図らずも相対的に学業優秀な生徒になってしまい、元からいた「出来る子」にとっては甚だ面白くない存在となり、結果疎外感という言葉の意味を知る。
 校則が理不尽に厳しい中学であったことが反抗期という火薬庫に火をつけ、事あるごとに学校や先生に論理的にたてつくという嫌な子供になっていく。この時期に私の人格の雛形が完成したようである。ほっとけ。
 一方でアニメ「宇宙戦艦ヤマト」にはまってしまい、クラスの数人の女子と共に「アニメ軍団」の烙印を押され、一生の不覚をとる。遠足のバスの中で将来な りたい職業として「アニメーター」と胸を張ったところ、周りの嘲笑を浴びる。それがどうだ、今では近い職業にはなったではないか、「アニメ監督」。あの笑 いに耐えた「私」よ、仇はとった。
 こうしてクラスや学校の中でも浮いた存在のまま地元では一応「進学校(笑)」といわれる湖陵高校へ進学。

 度 こそはクラスに馴染もうと新たな気持ちでリセットしたつもりが、長身、長髪の目立つ外見と学業優秀という素晴らしい才能のおかげで、クラスの中だけでなく 色々な方面、殊にツッパリハイスクールロケンロールな方々から目を付けられる。男子に敬遠されがちなこのナイーブ(笑)な私は必然的に女子と過ごす時間が 多くなり、それがまた他人の不快に拍車をかけたらしい。卒業式には痛い目に遭わされそうな不穏な空気もあったようだが、晴れの日というお祝い気分のおかげ か、無事3年間暴力沙汰に巻き込まれることもなく卒業。ますます思い上がる。

 う して、冬が冗談ではないほど厳しいこの釧路で5年ほど過ごし、文化的にもサブい思いをしながら東京への夢を膨らませるという、立派な田舎者として育つ。あ まりに育って180センチを越す身の丈となり、布団のサイズに困る、と母を嘆かせる。未だに旅館で体にあった浴衣を着たこともない。頭上注意も身に付いた 習い性である。

 校2年の夏休みを利用して上京。目黒に住んでいた兄の元に寝起きさせてもらい「代々木ゼミナール・美大受験ゼミ」に通う。思えばこの頃から「絵で食う」つもりだったようだ。以後長期の休みにはこのゼミに通う。そのおかげであったろうか。
 晴れて武蔵野美術大学・視覚伝達デザイン科に17倍という受験倍率にもめげずに、他人をけ落とし、晴れて現役で合格し東京進出。
 「合格」を喜び「担任や代ゼミの先生のおかげでしょ」という母に「違う。オレのおかげだ」と胸を張って答える、まだニキビ面の私であった。所詮小僧だな。

 学 の近く、小平市小川町のぼろアパートに住み着く。以後金銭的人間的余裕の無さから不本意にも9年近くここで寝起きすることになってしまう。当初38000 円だった家賃だが出ていくときにも5〜6000円しか値上がりしていなかったような気がする。随分と値上げをしない、よい大家さんであった。
 入居1年目から半年ほど共に暮らした愛猫は帰省のおりに長旅を共にし、以来札幌の実家で厄介になっている。

 学中に趣味で描いたマンガを「ヤングマガジン・ちばてつや賞」に出したところ「優秀新人賞」なる大賞に次ぐ賞を貰い、ますます思い上がる。
 「世の中甘い」
 これを機に「漫画家にでもなろうかな」とうそぶく。

 学 ではいわゆるグラフィックデザインを専攻していたのだが、ちばてつや賞をきっかけに雑誌のカットの仕事や、漫画家の臨時のアシスタントなどで小銭を稼ぐよ うになる。当時まだ講談社に籍のあった、いとうせいこう氏のお誘いで「ホットドッグプレス」で「業界くん物語」なる企画ものにも絵を描いたりさせて貰っ た。この企画にはなんきんさん、ナンシー関さんらなども参加していた。いとうせいこうさんは今ではすっかり作家先生だし、一度だけお会いしたと思うナン シーさんもすっかり売れっ子の「テレビ研究家」。私も見習いたいものだ。

 学はと ても面白いところだったので1年ほど余分に在籍させて貰ったものの、親のすねも細る一方ということもあり、卒業して「自称・漫画家」として胡散臭い社会人 となる。およそ貧乏だったが、酒だけは切らせたことがなかったようだ。年に何本も発表しない短編の原稿料と、カットとアシスタントの収入でどうやって生活 していたのか、今となっては疑問が多いが法律に反することはしていなかった、筈。

 初 の受賞から後、2度ほどやはり賞金を手にしたが、その金で手に入れたベータのビデオデッキとLDプレイヤーはよく働いてくれたものだ。大友克洋氏をはじ め、知り合いから多くのビデオあるいはレーザーディスクを借りてきては、日がな一日映画を見ていたことも多かった気がする。もちろんお酒はそばにある。ビ デオを見ながら酔っぱらい、寝て起きてはビデオを見始め夕方には酒を飲み始め、夜通し酒を飲んではビデオに見入る。素面のうちはメモを取りながら見ている ものの、酒も5合を越えるとそんなことはどうでも良くなっていたような気がする。当時の帳面をひもとくと意味不明のメモがあったりするのは、相当に酔って いたのであろう。若さもあったろうが体を壊さなかったのが不思議である。ちょっと胃が痛むくらいだったかな。

 めての連載にもありつき何とか単行本も出し、「印税」というまとまった金を手にして「いざ引っ越し」と思った矢先に入院の憂き目にあう。「A型肝炎」であった。2週間に及ぶ部屋でのもがきと一ヶ月の入院生活の後、職場復帰。初めてのアニメ参加となった「老人Z」であった。

 後仕事もとぎれなくするようになり、2冊目の単行本「ワールドアパートメントホラー」のおかげで貯えもでき、あこがれの東京23区内を目指し、橋頭堡を確保するべくまずはその最前線、武蔵野市に進出。
 「走れメロス」に参加していたときであった。新しい住居を探すに当たっては、「物件の少なさ」「仕事の社会的信用性の無さ」「仕事の不調」「契約の日の 大雨」そして「祖母の死」という家を移らせまいとするかのようなベクトルにもめげず、きれいなところに住みたい、という欲求を踏み台に不屈の闘志で新居に 移る。
 長年住んだアパートを出るとき、様々な想いが去来しうっかり涙が出そうになったが、実際に出たのは600�に及ぶゴミであった。600�。何を捨てたのか、全く。

 JR武蔵境駅徒歩3分、家賃11万円は堪えたが快適な生活を送らせてもらった。
 スタジオでの仕事を別にすれば、この部屋で最初にした仕事は「MEMORIES・彼女の思いで」の脚本であった。以後この部屋では「パトレイバー2」のレイアウト、漫画「セラフィム」「OPUS」などをこなしたと思う。
 場所柄なのか分からぬが、この部屋では随分と人が集まって酒を飲んだ気がする。年末年始の宴会、飲み屋が閉店してからの避難所など様々に酒を消費したも のである。挙げ句に誰が仕入れてきたのか、妙なサボテンを食したりしたこともある。後にも先にもあのように苦いものは口にしたことはないが、確かに変なも のを見たような気がする。呉々も言っておくが合法な行為だ。
 ここで暮らしたのは4年ほどであったか。精神衛生上甚だよろしくない時期もあったが、何とか乗り越え健全な精神衛生を手に入れた頃、友達の紹介で知り 合った女性と一年にも満たない交際を経て結婚することにした。肝心なことにおいては決断が早いのが私の不思議なところだ。

 居 を構えるに当たって様々な検討をした結果、同じ駅の反対側の一軒家ということになり、私の23区内への野望も潰え去ったまま、現在に至る。ここでは「セラ フィム」「OPUS」の死に水をとり、「パーフェクトブルー」のスタジオに通い、死にそうになった体を休めたりもした。

 今年で二度目の更新、もう2年ここで寝食することになる。