2007年12月18日(火曜日)

無知を調べる



「渡りに橋」「40の坂」の続きである。
私を訪ねてきてくれた彼はこういう。
「調べるのが好きです」
たいへん良いことだ。私も見習いたい。
「仕事の時間の大半は調べることに使う」ということだったが、この仕事は得てしてそういうものだ。
絵を描く技術そのものやそれを磨くことも大切だが、まず何を描くのかを考えるのは同じように、いやそれ以上に大事であろう。
それを考え出す能力を養うには資料によく当たることが不可欠である。
調べることに熱心であるということは、無知に対する自覚があるからだろう。
恐れるべきは「分かったつもり」になることである。
「分かったつもり」になれば、それ以上に分かることはないのである。脳の停止だ。
「40の坂」で脱落して行く多くの人はこの例に漏れない。あの人もこの人も。
自分がいかに足りないかを常々自覚している人は、難儀な坂を越える可能性も大きいのではないかと思われる。

調べるのが好きだという彼の言葉は、たとえば実際にこんなことにも表れていた。
私に会う前に「予習」をしてきている。
私の監督作を見返し、書籍を読み、ウェブにも目を通したという。実際、当日には『KON’S TONE「千年女優」への道』や『千年女優画報』を携えていた。ありがとう。
自分が望んで会いに行く以上、相手に対する礼儀としてもそのくらいは当たり前のことだとは思うが、そうした人になかなかお目にかかったことはない。
私の元に仕事で取材に訪れる人間だって、得てしてこんなものだ。
「え?監督は以前漫画を描いていたんですか?」
そう言われてもしょうがないけど業績しか残してないけどさ(笑)
何も“プロ・インタビューアー”吉田豪みたいに入念なリサーチをして欲しいとまでは思わないが、少しくらいは下調べをしてもらいたいと思ったことは数知れない。
ひどいのになるとこう来る。
「この仕事をされるまでの経歴をお聞かせ下さい」
タバコの煙を吹きかけてやりたくなる(笑)
ちなみに私は吉田豪の「コラムの花道」を愛聴している。
吉田豪は話も面白いが、声もいいと私は思う。
声優、やらないかな(笑)

調べる労を惜しまない人間はこの業界では貴重に思える。
いまやアニメーターの多くがこんな調子であると耳にする。
「ドアノブの設定下さい」
笑い話ではない。ドアノブ一つ、コップ一つ皿一枚でも設定がないと描けないという話をよく聞く。
物語上それが重要な意味がある物とか特殊なものならともかく、そのくらい自分で調べろと思うが、分からないことは分からないままにごまかして、ただのちゃちな絵を描く人が数多にいる。
そんな調子で絵が上手くなるわけがない。
そのうちこんなアニメーターも出てくるのではないか。
「鼻の設定ください」
「俯瞰の人物の設定下さい」
「鉛筆の設定下さい」
その他色々手取り足取り要介護。
目の前のことすら見る気がない人ばかりが増殖しているので、あながち冗談でもない。
現に『パプリカ』の時、どうということもないようなシーンでこんな質問があった。
「歩幅はどのくらいでしょう?」
お返しすべき言葉はこうだ。
「普通に」
現在のアニメーション業界人の多くは本当に調べることをしない。私も他人のことは全然言えないが、分からないことを分からないままにして描くわけにもいかないので、せめてどの程度分からないかを認識できる程度までにはしたいと思っている。
それはつまり自分が描いている、あるいは書いているものがどの程度「ウソ」なのかを把握しておかないと、結局完成したものからウソが「だだ漏れ」になるからだ。だから自分のウソには自覚的であった方がいい。
この構図はある金言を思い出す。
自分の邪悪さに自覚的な人間は、そうでない人間より周囲に害を及ぼす危険性が少ない、というようなこと。内田樹先生の著書にそんな記述があったのではないか。
調べるということは結局のところ、自分の無知をわずかにでも埋めるためであると同時にさらに大きな無知を発見することであろう。
ということは調べることをしない人間というのは、自身の無知に無自覚ということだ。
調べない、というより調べるという概念そのものが欠落している人が多いのかもしれない。
もしそんな指摘をしたら、こんな言葉が本当に返ってくるような気がする。
「エ?調べるのも仕事なんですか!?」
その時、お返しすべき言葉はこうだろう。
「まず君のオツムの中身を調べるのが仕事だ」

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