2008年1月24日(木曜日)

もっと編集を



昨日は起きると外は雪景色。
部屋の窓から見える電線の上に鳩が三羽。肩をすくめたようなかっこうで固まっているのが見える。いかにも寒そうだ。
雪は積もりそうな勢いで降っていたが、やがて小雨に変わる。
やはり東京は暖かい。ふるさと北海道に比べて、の話だが。
化石燃料を燃やして地球温暖化に棹さしながら、暖かい部屋の中で私はニューアイテムと対面する。
神戸出張があって開梱もしていなかったが、先日スキャナ&プリンタが届いた。
先週、家内がパソコンを新調するというので吉祥寺のヨドバシカメラに付き合い、その時ついでに自分用にスキャナ&プリンタ一体型のEPSON「PM-T990」を買ったのである。
去年、部屋の一新を図った際スキャナやらプリンタをまとめてぶん投げてしまったので、画像の入出力装置が失われており、少々不便を感じていた。
一体型にしたのは省スペースのために他ならない。
A4サイズのスキャナ・プリンタでは物足りないが、A3対応でははなはだ場所を取るし、それらは仕事場にあるので自宅では極力コンパクトであることを優先する。
しかしまあ、パソコンにしろ周辺機器にしろ安くなったものである。一体型で4万円もしないなんて。
店頭で見たときと比べて、本体を取り出すとさすがに部屋の中では大きく感じるが、それでも十分コンパクトである。給紙排紙ともに省スペースが考慮されているのがよろしい。
ネットワークで接続し、本体をセットアップ。さらにパソコンにソフトをインストールしてセッティング完了。問題なく動作する。
先日、家内のマシンをセッティングしていた際にも感じたが、近頃のパソコンも周辺機器もセッティングや扱いが実に簡単になったものだ。10年前の手間暇がウソのようだ。

17時からマッドハウスの会議室でNHK「デジスタ」の打ち合わせ。3/13放送予定の「今 敏セレクション」で取り上げる4作品の選考である。
終わったのは19時45分。3時間近い打ち合わせである。
長い打ち合わせだが、応募全作に対してなにがしかコメントするのがキュレータとしてのつとめであろうし、セレクションする4本に対するここでのコメントや批評、感想が番組台本作成の基礎となるので、私の喋りが多くなるのも長くかかるのも致し方ない。
しかし喋り疲れた。腹も減った。
打ち合わせの後に飲んだ生ビールの何と美味しいことよ。
うむ、仕事の甲斐もあろうというもの。

さてその打ち合わせ。
前日に選考対象となる作品はすべて目を通しておいた。今回は応募作の数は20を越えるくらいで、いつもより少なめ。
デジスタでレギュラーのキュレータを担当するようになって今年で5年目だろうか。
これまで自分の担当回と年間のグランプリを決める「アウォード」を含めて随分たくさんの応募作を見てきたが、確実にクオリティは平均的に上がっている。
パソコンが扱いやすくなって、ユーザーとの親和性が高まったのも一因かもしれない。
以前は最後まで見るのがかなりしんどい作品(と呼べないものも多かった)、正直途中で見るのをギブアップするものも多かったが、最近の応募作はそれほど苦痛を感じずに最後まで見ていられるものが増えたように思う。
第一、闇雲に長いものがない。
リストを見て尺が10分以上あると、それだけでげんなりする。
10分なんて短いと思われる向きもあるだろうが、よほど映像やその文体がこなれていない限り、10分600秒を飽きずに見せるのは難しい。そんなに「持たせる」ことが出来ればそれだけでたいしたものだ。日々垂れ流されているアニメだって10分持たないものが多い。
最近の応募作は、見る人のことまで考慮されている(と覚しき)ものが増えてきている。
全体に画面のクオリティも上がり、何より見やすくなった。
しかし、なぜか全体に同じような傾向を感じる。
私が選考する対象作がたまたまそうだったのか、他のキュレータの方々が担当する応募作すべてを含めての傾向なのかは分からないが、以前と比べて妙に平均化されてきているようにも思える。
手法や内容は多岐に渡るので、見かけが似ているということではない。もっとも、フル3Dの映像作品は見かけが似たような印象を受けることが多いが。
アニメーションの手法は手描きや切り紙、CGやクレイなどなどアナログデジタル色々で、それらに実写なども組み合わせて実に見かけは多様であるのに、どういうわけか同じような印象を受けるケースが多い。今回は特にそうだ。
テンポである。
テンポに同じ傾向が感じられる。

もちろん異なる作品がみな同じようなテンポで作られているということではなくて、「テンポの変わらなさ」というか「テンポの扱い方」に似た感触を覚える。
要するにこんなようなこと。
「緩急に欠ける」
私も人様のことは言えないが、しかし、応募作で気になるのは、テンポに変化がないため見ているとすぐに飽きて来るのである。
もちろん作者とてテンポが重要なことは分かっているだろうし、実際に変化をつけてはいるのだが、緩急の落差が足りないのではないか。
だから見ていると「読めてしまう」のである。
映像を見るとき、しばらく見ているとその映像固有のテンポやリズムがこちらに入ってくる。それがすでにこちらの生理と「合う」「合わない」という問題は何より大きいが、それは措くとして、その固有のテンポ、リズムが分かってくるから映像を一つながりのものとして見ていられる。
以前の応募作では固有のテンポさえまとまりに欠けているものが多かったが、そのあたりが一段進歩したのか、テンポはまとまるようになってきている。
だが、そのテンポが最初から最後まで一本調子になっているものが目立つ。今回の選考では、半分近くにそんな印象を受けた。
その映像固有のベースとなるテンポとリズムがあって、それが変化するから見る側は「刺激」を感じるのであり、その「刺激」が次を見たいという興味につながる。
ここでいう「刺激」は別に「刺激的」などというときの極端さではなく、「わずかな変化」をも意味している。
映像固有のテンポとリズム、という場合、そこにはすでにその変化をも含意している。であるにもかかわらず変化に欠ける、というのは「変化の仕方が変化しない」ということである。ややこしいかもしれないが、変化の仕方が変化することが演出であり、映像編集の要であろう。
見る側から考えるとこういうことだ。
映像を見始めてしばらくすると、その映像固有のテンポとリズムがこちらに入ってきて、それをベースにして見て行くことになるが、映像がそのリズムの通りに最後まで続くと、見る側と映像の拍子が合い続けてしまうために意外性がなくなり、結果見飽きてくる。
極端に言えば、次の「刺激」を見る側が「待ってしまう」ことになる。
「刺激」を待ってしまう、つまり退屈ということだ。
次に来る刺激がすでに分かっているのにまだ来ない。
これはイライラする。
たとえば、オチがすでに分かってしまっているのに冗談を聞くのは誰だってつまらない。
話者の側からいえば、聞き手がすでに先回りしていることに気づかない。かなり滑稽な状態で、その事態そのものの方がよほど冗談になっている。
映像においても同じことで、客に先回りされてばかりでは演出の惨敗である。
演出としては見る側に先回りさせたつもりになってそれを外すくらいが芸というものだろう。
そのためには見る側にまずベースとなるテンポやリズムを提示することが必要である。そうでなければ客が先読みすることも出来ない。予測が時に合致し時に外されるから見ていて面白いのである。
「外す」ということが演出や芝居、編集の醍醐味である。
「こう来たらこうなる」というベースが共有されていれば、「こう来たのにこうならない」とか「こう来ないのにこうなる」といった「外し方」が有効になる。
ベースとなるテンポから「一拍早い」「二拍遅くする」といったような「外し」。それが見る側に刺激を与え、意外性につながる。
その外し方そのものを生理的に持っている人ならともかく、真面目な作者ほど自分の生理的なテンポやリズムに忠実であろうとするらしく(それが正しいとさえ思いこんでいる場合も多い)、結果的に一所懸命に一本調子のものを作ってしまうことになるのではないかと思える。
つまり予定調和。語り口のつまらない人の典型であろう。
素人レベルに限らず、プロに至るまでよく見られる傾向であり、そのくらい厄介なものである。テレビにしろ劇場にしろ、アニメーションは予定調和のテンポで埋められたものが多い。
おそらく完成した映像を見て、作者本人は自分の生理で埋められていることに満足するのだろうが、それこそが自己満足の陥穽というものである。
自分も意外に思えないものが他人がそう思ってくれるわけがあるまい。
自分や自分の創作物を客観的に見ることはそれはそれは実にたいへん非常にとても難しいことだが、しかし自分の生理すらも編集するつもりがないと、自己愛にまみれたつまらないものにしかならない。
なにより自分が大事、では面白いものは作れない。少なくとも、そういう態度が透けて見えるものを私は面白いと思わない。
自分が手間暇かけたものをなるべく見てもらいたいという欲望は無論大事だし、素材やカットを作る際には大きな力になるが、しかし出来上がった映像を編集する際には「他人の目」が必要である。無論、他人になることは出来ないので、なるべく客観的とか、別の人格になったつもりで、ということであるが。
編集においては、自己愛と対極ともいうべき容赦のない態度が必要であろう。
「折角作ったものでも必要がなければばっさり切る」
それが本当の「愛」というものだ。
だって、他者への思いやりこそが愛なんだから(笑)
制作している当の映像という迂回路を通して自分をわずかにでも客観的に把握することもまた映像制作の楽しみである。自己満足では閉じてしまうだけだ。
「デジスタ」応募者に限らず、映像制作をしている方々はもっとシビアに編集すると、作品はぐっと良くなるのではないかと思う。
実際、今回の応募作のうち2〜3割は編集や芝居の緩急次第で随分面白くなるのではないかと感じられた。傑作の一歩手前、という作品もあった。
編集に際しては容赦のない態度が必要だと書いたが、それはたとえば自分が作った映像を前にしてこんな態度をとることだ。
「何だこんなもん」
そして次にこう思う。
「これから面白くしてやる」
そういうものだと思う。

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