1999年10月23日(土曜日)

番外編 – その3



 またもや更新のネタが転がり込んできた。ありがたい。
 前回同様、奇特な読者からの投稿である。アニメ制作という冗談じゃないほど忙しい仕事を抱えるなりたての36歳の身としては、こうした美味しいネタこそが更新への激励となる。
 今回は2件もアイディアが寄せられた。前回に引き続き話の発端をもたらしてくれたA君と、そして遙か海の彼方から寄せられた新規投稿である。片やA君という匿名を使ったので、こちらはターンAさんとするか。しない。
 Mさん、としよう。まずは「新しいNOTEBOOKを読んで・・・」と題されたそのMさんからのメールをご紹介させてもらう。

 Mさんは、海の向こうで当HPを愛読してくれている貴重な読者の一人である。「恥ずかしさも手伝って。直にMailを書きます。(ちょっとどきどきしている小心者。わはは)」と本人が言うことでもあるし、その素性は詳しくは記さないこととする。
 ゲーム会社勤務、であるらしい。

最近、ハリウッド映画しか観る機会に恵まれませんので、
私の頭に浮かんだプロットってばもろハリウッド調なのですが。
あのNOTEBOOKを拝見して、こんなプロットが頭に浮かびました。

 日本に住んでいてもハリウッド映画しか観ない人も多いのではなかろうか(笑)
 かく言う私自身、近頃の日本映画はほとんど見ていない。テレビドラマスペシャル然とした企画モノやら大作を気取った大味そうな映画ではビデオで見るのも時間が勿体なく思われる。面白い日本映画ももちろんあるのだろうが、それを探し出す時間の余裕もない。この話も突っ込んで行くときりがないのでおくとする。

 前回の「NOTEBOOK」で最終的に提示されたネタは次の通りであった。

【悪徳で名高い密輸業の男が禁制動物オランウータンの密輸を頼まれるのだが、それは人語を解する子供のオランウータンであった。動物に対して一片の愛着も見せなかった男と「オータム」という名のオランウータンの間に次第に交流が生まれる】

 これに対してMさんが寄せくれたアイディアは次の通り。

男は交流を続けていくうちに、ふとあることに気がつく。
オータムを買った時はあまり深く考えなかったが。
「何故オータムは言葉が分かるのだ?」と。
確かにオラウータンは賢い動物である。だが人の手を経なければ
言葉を理解するなどと言うことはまずない。
ならば・・・オータムの前の飼い主は何故オータムを手放したのか?

シチュエーション1. ミステリー
シチュエーション2.ホラー
シチュエーション3.SF

シチュエーション4.コメディーと繋げたいところなのですが・・・
私の手の内にコメディーは無いので申し訳ないのですが省略。
この分野はタッチA君にタッチ。(笑)

シチュエーション1
オータムのしぐさに一つだけ理解できないものがあった。
どこかへ行きたがっているようだ。が。どこだかはわからない。
「私。行く。」というしぐさを繰り返すばかり。

シチュエーション2
ある夜。オータムがどろんと惚けた目をしていることに気付く。
深夜。何かの気配に目を覚ます男。物音は動物を保管する地下からする。
用心しながら扉を開けるとそこは・・・血の海だった。

シチュエーション3
ある日。家に帰ってみるとオータムは部屋中をちらかして遊んでいた。
叱る男だったが。ふと気がつくことがあった。本を積み木のように重ねて遊ぶ
オータム。この遊びは死んだ息子が好んだ遊びであった。

起承転結考えると、これはまだ「起」の部分。
「承」の部分は・・・それぞれ
1 オータムは自分の昔の飼い主の行き先を告げようとしている。
2 オータムが実はやった。飼い主を殺したのもオータム?
3 オータムは息子の生まれ変わり?
・・・と。いかにもハリウッド映画がとりそうな方向へ持って行く。
が!そこで「転」。どうやって転がしたら良いか。
私的には2が一番転がりやすいですが。

 なるほどね。「何故オータムは言葉が分かるのだ?」という点を掘り下げるのももっともな考えか。疑問を発して「なぜなら……」と考えを進め「だから…… する」と解決策を考え出して行くのは西洋近代合理主義精神に正しく則っているのではなかろうか。
 さて「人語を解するオランウータン」というアイディアは、何ら科学的根拠も伴わないまったくの思い付きで、ファンタジーの濃度がかなり濃い。
 ファンタジーというのは一種の衣、というかガスのようなものである。このガス自体に実体はない。もちろんそれを生み出す実体はある。ファンタジーというガスを生み出すのは人間であり、そのガスの核心とは「なぜその空想が必要であるのか」ということであり、すなわち作者にとって空想の背後にある実に現実的かつ人間的な、言ってみれば作品の根幹をなすテーマでもある。であるから、どんなファンタジーの素材でも、その書くべきテーマとは現実の問題となりうるのである。ファンタジーのためのファンタジーには一片の価値も認められまい。毒にも薬にもならない無意味な駄洒落の方が遙かにその存在価値があろうか。
 ともかくガスそのものにはさしたる実体はないに等しい。
 良いかどうかはともかく、「E.T.」という映画がある。ご覧になられた方も多いかと思われる。「宇宙人の友達がいたら……」というその発想は実に子供心に発しており、それを大人の智恵と技術で映画としてのリアリティを与えられたファンタジー、といえようか。
 さて何故あの主人公が宇宙人と出会い友達になりうるかと言えば、まず単純にいえるのは父親の欠落という条件であろうか。多くの昔話や童話に見られるもっとも類型的なパターンが片親、もしくは両親の欠落である。その欠落に起因する寂しさや歪みが求める代償が、こうした特別な友達、それは宇宙人であったりトトロであったりするわけだ。
 「ネバーエンディングストーリー」という映画では、確かいじめられていた男の子がファンタジーの世界に足を踏み入れるのであったろうか。ともかくこうした原因がなければ異世界に足を踏み入れることはないのである。
 物語の主人公とは、その当初において欠落を有する人間であり、物語はそれを補うプロセスである。意識的であれ無意識的であれ、なにがしかを求める気持ちを有しない人間では主人公になりにくい。
 充足した環境・人間性からは既存のタイプのファンタジーは生まれにくいともいえる。現代が少々複雑なのは、大昔と比べてファンタジーといわれるものが生み出される土壌が変化していることである。物理的に充足した環境の下で浮かび上がってくる欠落は、すなわち当人の空虚な内面に他ならない。そこに発生するファンタジーは肥大した自己愛の臭気を発するのはやむを得ないのかもしれない。と、考えると大時代的なファンタジーでは当然時代にそぐわない、というよりファンタジーのためのファンタジーにならざるをえないのだが、この手のものが何の工夫もないままに営々と作られているような気もする。このことに関して書き始めるときりがないのでここではおく。
 「E.T.」に登場した宇宙人にリアリティはない。何故自転車が空を飛ぶか。宇宙人だからである。宇宙人はファンタジー世界の住人である。それ以上分解してもガスそのものに実体はないのである。
 「ミリィ」という素晴らしい映画がある。上手なファンタジー、ジュブナイルに分類される映画であろうか。「少年は空を飛んだ」という何とも捻りのない副題がついているが、こちらの方が原題の通り。「The boy who could fly」。
 この映画は私の大好きな映画である。何とも実に可愛らしい映画であり、実際主人公役の女の子、ルーシー・ディーキンスは大変可愛い。現在でも映画に出ているかどうか分からないが、この映画の時期の少女の無垢なイメージはすっかり消え去っているのであろうなぁ……などと余計なことをつい考えてしまうが、私のレーザーディスクの中で彼女は年若い姿のままでいつでも微笑んでいる。
 お母さん役に「ダイハード」で主人公の奥さん役を演じていたボニー・ベデリア。ちなみに拙作「海帰線」に登場するフジ丸という犬は、この映画に出てきたマックス(本名Jake)がモデルとなっている。
 父親を失ったばかりの主人公の少女が、隣の家に住む空を飛べると信じる自閉症の男の子との交流を通じ、その不可能を信じることで自分も心の傷を癒して行く話である。
 人が道具の力を借りずに空を飛ぶなどあり得ないことであるが、この映画の中ではそうした描写がある。あるからと言ってそれに対して何ら科学的な説明だの魔法の裏付けなどがあるわけではない。一切の説明はない。ただ、飛ぶのである。
 しかしそれが気になる映画ではないし、説明を求める気になるわけもない。飛ぶことを信じること自体が核心である。要するにファンタジーというフィルターを通されてはいるものの、描かれているのは当然人間的現実的問題で、そこがお客に分かるようになっていればファンタジーに対する殊更のいいわけなど不要なのである。言い訳のために割かれる時間は作品の無駄である。
 Mさんのアイディアに対するリアクションとしては少々観点がずれた。別にMさんのアイディアがファンタジーのための言い訳だと言っているのではなく、私の考えた「人語を解するオランウータンのネタ」はファンタジーの濃度が濃い性格のものであり、そこに科学的な裏付けや可能性は考えていなかっただけのことである。
 
 さてMさんのアイディアを考察してみる。
 まず「オータムの前の飼い主は何故オータムを手放したのか?」という、Mさんのアイディアの基本になっている疑問だが、日本に密輸されるオランウータンは基本的にジャングルで捕獲された野生のものらしい。親子でいる場合は親の方は殺されたりして、幼体が主に密輸対象のようである。もっとも私もニュースの中の特集コーナーでチラッと見ただけなので、実体がどういうものであるかはよく分かっていません。
 「オータムの前の飼い主」というのは私の頭には一切なかったのだが、それがどうしても外せない要素であった場合、その時は当初きっかけとなった「密輸の依頼」というアイディアを外して、密輸検挙の際に保護されたのが「人語を解するオランウータン」であっても良いかもしれない。その場合は、主人公を検挙した側の人間にしても良いわけだ。アイディアなど描きたいことのためには変幻自在であらねばならない。

 「1 >オータムは自分の昔の飼い主の行き先を告げようとしている」
 なるほどそういうきっかけでもって、新たな事件や展開も考えられるかもしれないが、となると「人語を解するオランウータン」が道先案内人的な要素に過ぎなくなってしまう恐れもある。その先に何が待っているか、によるかな。

 「2 >オータムが実はやった。飼い主を殺したのもオータム?」
 Mさん自身「私的には2が一番転がりやすい」という通り、今回のネタに上手くはまるかどうかはともかく、これはこれで話が出来そうな気がする。つまり「動物による殺人」と考えれば、まったく別の、「人語を解するオランウータン」など不要な、真っ当な(笑)ホラーにでもなり得ようか。もちろん、ただ「動物が人を殺す」ではあまりに芸がないので、もう一ひねりして、例えば「動物が“情”で人を殺す」などとすれば変で良いかもしれない。ここでいう「変」とは無論悪い意味ではない。
 「動物による殺人」……そういえば「ソクラテスの殺人」なんて漫画があったな。あすなひろしの短編であったろうか。ソクラテスという人語を解するスズメが出てきたような気がする。最後に仲の良かった主人を葬ってあげるのではなかったか。
 例えば「動物による殺人」というネタについて少し考えると、ではその殺人をする動物は何が良いのか、といえばやはり殺人からもっとも遠いイメージの方が良かろう。人を殺すはずなんかあり得ないものが殺人を犯した方がイメージは豊かである。それこそスズメとかうさぎとか。
 そういえば動物が犯罪を犯すという意味では「ドーベルマンギャング」というのがあった。調教されたドーベルマンが銀行強盗をする映画であった。子供の頃に見て面白かった記憶があって、もう一度見てみたい気がするのだがレンタルビデオでもテレビでもそのタイトルを見かけないのが残念である。
 話が横へ横へとスライドしてばかりで申し訳ない。

 「3 >オータムは息子の生まれ変わり?」
 う〜ん。これはいけませんね。ファンタジーを二つ重ねてはいけません。
 「生まれ変わり」自体は、すでに一般的に受け入れられる程度のファンタジーかもしれませんが、それを使うとしたら「人語を解する」というアイディアは外した方がよいでしょうね。
 「死んだ女房が娘に乗り移る」などというアイディアよりは笑えるかもしれませんが。面白いのかな、そんな近親相姦まがいの映画。タイトル忘れたけど。

 実はこの「人語を解するオランウータンの話」のテキストは、すでに終わりまで書いてしまっている都合上、第一回アップ後に寄せられたアイディアに対するレスは書き足している形になっている。当初から「お話を作ろう」といった主旨の企画なら、頂いたアイディアを反映して話を進めるということもできたのだが、とりあえずネタを転がす方向はすでに書いてしまったことでもあるし、インタラクティブな作話の企画はまた別な機会にでも譲ることにする。
 さらに改めて断る必要もないかもしれないが、元々思いつきで書き始めて展開させてしまった「お話を作ろう(笑)」というこのテキストなので、最終的にまとまった形のお話が出来るかどうかは問題ではない。話を考えるプロセスを簡単に紹介してみようかという意図だけである。
 
 そうしたことを勝手に了承させた上で次にA君から寄せられたアイディアの紹介に移る。

前回送らせて頂いたメールでは、僕なりにない知恵を絞りに絞ったうえで「言語を解する」+「手が長い」=「かるた取り」に行き着いたのでしたが、よくよく考えれば奇をてらいすぎてちょっとさもしかったですね。

 「さもしい」の用法が違うのではないのか(笑)

それにしても監督が理路整然と説明されていくのを拝見して、改めてすげぇなぁと思いました。ひとつひとつの事柄に「こうだからこうする」ということがきちんと書いてあるので、スムーズに頭の中に入ってきて、とてもわかりやすかったです。

 そうだ。すげぇだろう。わはは。ウソウソ。
 分かりやすかったのなら書いた方としても満足しよう。
 要するに話を作るとか考える大部分はパターンということだ。既存のパターンを知らなければ、外すこともできないものである。およそ過去のパターンの焼き直しであるにもかかわらず、新しげに見える作品を作って得意げになっているバカをよく見かけるが、そういう輩は単にものを知らないだけなのではないかと少し気の毒にすら思える。知らないことは恥である、という節操の欠片くらいは持ち合わせていたいものである。
 「白い砂糖は黒い砂糖から出来る」といったのは秋山真之であったか。温故知新である。秋山真之とは誰かって? 日露戦争の日本海海戦においてだな……年寄りくさいな。ま、いい。

僕はいつも一つの作品を一度そのまま受け止めてしまう人間で、作品をパターンとしてとらえることができないので、動物映画のパターンの話も興味深かったですし、話を作る構造論、ひいては「面白さ」の一つのあり方まで教えて頂いて、ものすごく為になりました。

 偉い。何事も当人の望む態度次第で毒にでも薬にでもなるのだ。
 話というのはおおかたがパターンで構成されているものだ。新しいパターンというのは考えに考えても出て来るものではない。それは天才でもなし得ることがあるかないかの可能性しかないであろう。
 新しいパターンではなく、パターンの新しい組み合わせを考える方が現実的である。そのためにはなるべく数多くのパターンを知っている方が良いに決まっている。これは話に限らず絵でも小説でも芝居でも同じことであろう。繰り返し言うが、無知は諸悪の根源である。さらに自分の無知を野放しにしておくのは、無知無能以下であるゆえ、志のあるものは休まず精進されたい。日々是精進である。私もだけど。

おまけに僕の「オランウータン→オラウータン→オータン→オータム・・・・・。バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ」と短絡的に命名した名前まで採用して頂いて、これはなんとも恥ずかしい限りです。

 …………(笑)

さて、「交流が生まれた結果、彼らが何をするのか」ですが、枯渇しきった井戸の底のような想像力で僕なりに考えてみました。

【動物に対して一片の愛着も見せなかった男と「オータム」という名のオランウータンの間に次第に交流が生まれる。次第にうち解けてゆく一人と一匹。しかし男にはどうしても理解できないオータムの表情があった。その表情を見せる原因が何なのかを確かめる為に、裏の世界では有名な研究所に足を運ぶ。そこで男が依頼したのは、「オータムの頭に直接コンタクトを取り、何を考えているのかをダイレクトに知る」ことだった。何十本もの針が内側につけられた銀色のヘルメットをかぶり、銀色の椅子に横になる一人と一匹。博士が電流を上げていくにつれて目の前が明るくなり、完全に白くなった時、オータムの心理世界に男はたどりついた。そこで男が見たものは広大なアフリカの大地だった。そう、いくら心でわかりあえてもオータムは生まれた土地に帰りたかったのだ。
もっと知りたいと思う心と知らない方がよかったという現実の狭間で男は悩み、決断を下す。
数日後、男は一機の飛行機が離陸し、上昇するのを展望台から見送っている。その中には・・・。】
で、オータムを送りかえすのか、それとも一生面倒を見るのかはまだ決めていないのですが、いかがでしょうか?ベタっちゃぁベタですね。

 まず基本的なことについて言及しておきたいのだが、オランウータンはアフリカには棲んでいないのではないか。東南アジア、インドネシアとかじゃないのか。
 それはおくとしても、やはりこのアイディアもファンタジーの重箱、というか無理な設定が二つ重なってしまうという理由で避けた方がよいかと思われる。
 「人語を解するオランウータン」の上に「サイバーな小道具」はまずいであろう。ファンタジーを二つ重ねると、大概がB級の匂いを放ち出す。貧乏くさい発想である。
 それに第一、そんなコンタクトの方法が存在する世界ならどんな動物とでもコンタクトが取れるわけだし、最初から「人語を解する」という設定が不要ではないか(笑)
 いかんだろう。

もう一つ考えたので、それも書いておきます。
【動物に対して一片の愛着も見せなかった男と「オータム」という名のオランウータンの間に次第に交流が生まれる。その後は「二人(一人と一匹)は仲良く暮らしましたとさ」を地でいくようなハッピーエンドな毎日をしばらく続けるが、1ヶ月経ち、2ヶ月経ち、次第にいつも一緒にいることが当たり前になってくるにつれて、最初は親子の関係だったのが、いまでは夫婦のように二人の間に倦怠期が訪れる。毎晩遅くに仕事から帰ってくる男。両手にはコンビニ弁当とビール、そしてオータムへのバナナの入った袋。部屋に明かりは灯っていない。コンビニの袋を下ろし、鍵を開ける。誰に言うでもなく小さい頃からの癖で「ただいま」とつぶやく。一歩入るとまるで動物園の檻のような臭いがムッと立ちこめる。電気をつけると男の目に見えてくるのは床一面に散らばった食べ物のカスと一匹のオランウータン。そこにいるのが人ではなくオランウータンなので溜め息も人目を憚らないず、つい大きくなってしまう。「はぁ、やるせねぇ・・・」。その言葉を受けて寝ころんでいたオランウータンはちらっとこっちを見るが、さして興味もなさそうにそっぽを向いてしまう。「いつからだろう・・・。俺達がこんな風になってしまったのは・・・。」
いまは亡き息子の面影を感じて売るのをやめたはよかったが、所詮はオランウータンじゃねーか。大家さんにも「こいつは確かに見た目はオランウータンです。でも俺にとっては息子なんです!!」なんて啖呵を切って許してもらったのが今ではものすごく昔のことのように思える。いま売ろうにも下手に悪知恵をつけてしまったから鍵もやすやすとはずしてしまうし、殺してしまうほど憎んでもいない。別にいなくなれとは言わない。せめてあの頃に、「交流が生まれた」あの頃の二人に戻れたらなぁ・・・。そして男はこう口にする。「オータム、温泉でも行こうか」。そして一人と一匹は無くした何かを取り戻す為に真っ赤なオープンカーに乗って、一路熱海に向かったのだった。果たして二人はよりを戻せるのか!?布団は二人で一つなのか!?謎が謎を呼ぶ次号、「混浴だけど猿厳禁」乞うご期待!!】

どうでしょうか?なぜ城之崎でも下呂温泉でもなく熱海なのかは自分でもわかりませんが、これでもう打ち止めです。
御指南の方、よろしくお願いいたします。それでは。

 ぎゃはははははははは。そりゃ確かに先の読めない展開だ。というか既に「後日譚」のようではないか。一体どういう井戸の底からかようなアイディアが湧出してくるのであろうか。この稿の主旨に沿うアイディアかどうかはともかく、彼はなにがしかの天才を有しているのかもしれない。A君の現実的幸福のために、それが浮き世で金銭に変換されうる天才であらんことを祈る。時折見かけられる「何かの天才であるのは間違いではないのだが、それが何の才能なのか一生分からない人」で終わらないようにな(笑)
 私はそういう人を何人か見たことがある。
 しかしまぁ何というか、倦怠期を迎えた夫婦の有り様を人間とオランウータンに演じさせるのでは奇抜というより気色が悪くないか(笑)おかしいから良いけどね。
 見ていないけど「マックスモナムール」とかいう映画はどうだったんでしょうかね。

 しかし何だな。いずれも殺人だのホラーだのSFだの倦怠期の夫婦だとか、よくまぁハリウッドとお茶の間テレビドラマに毒されているようだ。これでは文部省推薦などがもらえるわけもない。欲しくはないけど。とはいえもう少しこう、情に訴えるようなアイディアを考えられないものか(笑)
 ということで、では私の考えた展開を紹介させてもらう。が、期待するなよ。

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