1999年10月24日(日曜日)

番外編 – その4



 前回までのあらすじ。
 話がすっかり横道からさらに狭い小路に入り、思いもよらぬハリウッドの喧噪を横切り、アフリカの大地に思いを馳せつつも熱海の温泉に落ち着いたが、別にここが終着点であるはずもなかった。
 話を強引に本筋らしき航路に戻す。

【悪徳で名高い密輸業の男が禁制動物オランウータンの密輸を頼まれるのだが、それは人語を解する子供のオランウータンであった。動物に対して一片の愛着も見せなかった男と「オータム」という名のオランウータンの間に次第に交流が生まれる】

 というところであった。

 さて。折角交流が生まれるのだから、「オータム」が伝えるべき気持ちや事情も考えてやらねばなるまい。「故郷に帰りたい」だの「以前の主人」といった、少々大人の論理にまみれた考え方よりも、やはり真にオータムの気持ちになって考えてやらねばならない。ウソだ。ここも大人の知恵を働かせ従来のパターンをはめてみる。やはり「子供」といえば「母子物」。異論はあるだろうが、そうする。
 「オータムは母親が恋しい」
 ……誰よりも汚い大人の技術にまみれてるな、私。
 そのオータムの母親は日本にいる、とすると、もう何をするかは決まってくる。
 「日本でオータムの母親探し」
 何か、思いっきりベタベタな話だが冗談話だから許されたい。

【悪徳で名高い密輸業の男が禁制動物オランウータンの密輸を頼まれるのだが、それは人語を解する子供のオランウータンであった。動物に対して一片の愛着も見せなかった男と「オータム」という名のオランウータンの間に次第に交流が生まれ、母を恋しがるオ「オータム」に、男はかつて自分が失った愛児の陰をそこに見いだし、幾多の苦労と危険の末に密輸入してきた日本の地で「オータム」の母親を捜してやることになる】

 話めいては来た。面白くない?まぁそう言うな。私も思いつきで書き進めているだけなのだ。
 あ……いけない。「密輸される対象は幼体と相場が決まっている」と書いておきながら、母親が密輸されてすでに日本にいる、という状況は想定されにくいな。
 あれ、どうしようか(困)

 少々リアリティを無視してでも「母親探し」にこだわるか、あるいはもう少しリアリティを考慮に入れて別な目的を探すか。
 こういう場合、もし「母親探し」が作品の根幹をなすモチーフであれば、リアリティにこだわるとアイディアは根底から崩れることになる。どうしてもそれを成立させたい場合は、成立するような事情、ある種の「言い訳」を考えてやらねばならない。
 例えば、う〜ん……何も浮かばない。だいたい禁制動物の密輸について何も知らないのだから仕方ない。ま、いいや。「若い母子のオランウータンが共にジャングルで捕獲されて母親だけ先に密輸された」ということを登場人物に言わせてしまうことにすればよいか。客に突っ込まれる前に作品内で突っ込みを入れておくのは汚い大人の常套手段だ。あるいは捕獲された後どうなったか分からない母オランウータンの行方を主人公が探る、などとしてしまえばその際、言い訳は何とかなるかもしれない。
 ここではリアリティを少々無視して冗談話のご都合主義で進める。よーそろ。

 付け加えておけばこうした「リアリティと作劇の都合」のバランスは作品全体のリアリティをどの程度に設定するかという問題でもある。
 例えば鉄砲の弾が当たっても「“イテッ”で済む」漫画世界もあれば「脳漿を飛び散らせて無惨に死ぬ」世界もあるわけで、正しい意味での「世界観」はそうしたディテールの積み重ねによって形成される。
 良い映画かどうかはともかく「フェイスオフ」という映画なんかは、「顔を取り替える」などという荒唐無稽な爆笑もののアイディアが根幹をなしているが、そこにリアリティを求めれば根底から成立しなくなる。しなくてもいいんだけどさ、別に。
 では何故リアリティを求める気にならないかといえば「バカ映画」だからである。ここでいう「バカ」は必ずしも悪い意味ではない。ともかくバカのレベルも一定にしておけば気にならないものだ。隅々にまでバカが横溢していれば、個々のバカは気にならないのは当然である。念のため言っておくが私は「フェイスオフ」を塵ほども面白いとは思っていない。荒唐無稽な内容はともかく、歯切れの悪いアクションに快感は感じられないし、濫用されるスローモーションは見るに耐えない。ペキンパーの方が遙かに格好良かった。「わらの犬」は絶品であったな。この映画では暴力が芸術になっている、ような気がした。スーザン・ジョージがエッチで良いんだな、また。お薦め。
 ともかく、どんな作品でもお客に対して気持ちの良い語り方をするためには、些末な事情をくどくどと説明しても仕方がないし、何某かの小さなウソは山ほど必要であろう。よく考えればおかしいことなど、どんな作品にも発見できる。そうしたウソが、ウソに見えない工夫の良し悪しや、小さなウソに目を行かせない大きな話の面白さや人物の面白さが重要であろうか。言い訳に言い訳を重ねる、いわば「穴ふさぎ」ばかりに腐心した作品が面白いはずもない。特に映像作品で説明の多いものは100パーセント、クソである。映像は説明に向かないのである。
 これもまた良い映画かどうかは別にして「ハルマゲドン」という映画のエライところは、客に考えさせたり突っ込まれる隙を与えないために、合衆国お得意の物量作戦でエスカレートにエスカレートを重ね、荒唐無稽なアイディアを力技で語っている。あれも一つの手だ。穴だらけのシナリオでも勢い良く走りきってしまえば何となくそれらしく見えるものだ。壊れる橋を渡るには壊れる以上の速度で渡れば良いわけだ。
 「ハルマゲドン」には明らかに無くてもよいようなエピソードやアクシデントが沢山盛り込まれているが、それらを矢継ぎ早に投入し、毒をもって毒を制す、ではないがウソのレベルを上つつ話を進行させている。対して同じネタを扱った「ディープインパクト」というのは何とも下手くそな説明をさらに下手くそな説明で塗り固めるというアホな映画であった。
 念のため言っておくが私は「ハルマゲドン」を面白いとは思っていない。
 そういえばこうした同じネタを扱った別な映画の代表例として「博士の異常な愛情」と「未知への飛行」があった。シドニー・ルメットも才人ではあるかもしれないが、キューブリックと比較されては気の毒であったかもしれない。
 下手くそな例をもう一つ上げると、「マトリックス」などが明らかに失敗しているのは、途中でウソのレベルが下がってしまう点にある。ウソのレベルの低下は、さして内容の無い娯楽アクション映画にはもっともタブーといえる。見た方にはお分かりだろうが、CMや予告で使われていたハイスピードで人物が動くスペシャルエフェクトのシーンが出てきたその後のシーンで、その驚異的な動きをした同じ人間が「走ると人並み」になるのである。ウソが下がるにも程があるし、想像力の欠乏が露呈している。
 こうした部分にこそ御自慢のCGが生かされるべきであろうに。例えばスローモーションで動く常人達の中を、普通のスピードで走るだけでよいのである。途中の銃撃戦にしても同じことがいえる。すべてがスローで撮られていては「いつもより余分に銃弾を使っております」程度の見せ物であろう。何が面白いのか。「ガントレット」の方が余程銃弾の数は多かったじゃないか。
 見せ物という意味では「プライベートライアン」くらいまでやってくれたら十分成立するだろうに。映画としては甚だ粗雑な作りだと思うが、冒頭の戦闘シーンだけで立派な見せ物である。映画にはその出自の時からお客を単純に驚かせるという意味での見せ物の側面もあろう。内容はまったく無くても、見ている最中観客を飽きさせず、遊園地的快楽を与えられればそれも一つの成功である。ジェットコースタームービーといわれる手の映画はその代表であろうか。
 いずれにしろ映画において説明することほどつまらない行為はなく、あくまで映画とは「感じさせる」媒体である。やむなく説明が必要な場合もなるべく簡潔に最低限の情報を提示するに留めたいものである。往々にして説明したがる人間は「客に分かりにくい」などともっともらしいことを言うが、ほぼウソである。映画はお役所仕事ではない。ま、お役所のやることにはもっと説明が必要に思われるが。
 客の側から極端に言えば「分からなくても面白ければ良い」のである。
 度々例に出して申し訳ないが、「マトリックス」であれほど下らない説明セリフを重ねている割には「なぜコンピュータ側が人間達に夢の世界を見せておくのか」という根幹の言い訳はなされていない。あんなに言い訳めいた説明を重ねているのだから大きくバランスを欠いているであろう。ウソのレベルと同様説明のレベルも見かけ上は一定にしてもらいたいものだ。
 さらには主人公の「夢の世界に対する不満」の描写が足りないため、どう見てもマトリックスとやらの世界を壊す必要性を感じない。これは説明が足りないと言うよりもっとも大事な「感じ」が足りないといえる。金返せ。まったくテンポも悪いし、いらないシーンばっかりだし。時間を返せ。
 話がそれた。
 「お話の本質的な部分でウソさえつかなければ、些末な部分でのご都合は許される」というこれまたご都合主義的教条に則り、「母を訪ねて三千里」の話を続ける。よーそろ。

 ただの冗談なんだけどさ。

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