1999年11月10日(水曜日)

番外編 – その6



 いい加減、飽きてきたのでそろそろ本当の本来の主題に戻ろうかと思う。今となっては何が楽しくてオランウータンの話に精を出していたのか分からないや。
 しかしまぁ、これはこれでディテールや作り手の態度などに一工夫も二工夫もすれば、面白くなりそうな気もするのだが、どんなもんでしょ。

 ここでいう作り手の態度というのは、作者が一体どういうものの見方をしているかというごくごく基本的なことである。例えば「オランウータンの質問責め」という部分。ここでは男とオランウータンの馬鹿馬鹿しいやりとりが想起されるが、漠然と「笑える会話」ばかりを考えても意味がないわけで、その会話の背景には恐らく人間の文明社会に対する批判や批評、あるいは礼賛といった、作り手の普段の考え方が反映されるであろう。
 その作り手は「自然と人間文明社会」という一つのテーマ、この話の場合、それは全編を覆うテーマにもなろうが、それに対してどう考えているのかがこうしたデティールにも問われるわけだ。ここで注意しなくてはいけないのは、迂闊に借り物の考えを引っ張ってくることで、頭の悪いアニメや漫画や映画にはよく見受けられるもっとも愚かしい真似である。それを借りてきたのではまるで意味が無い。
 例えばその視点、というか視座を、巷間に溢れる「文明対自然−自然は全き善であり、人間の文明は汚れきっている」といった、聞き飽きた考え方にとってしまうと凡庸の極みになる。というより、そんな衆知のことを人前で発表する意味はないのである。
 「みんな知っているか!? 1+1は2になるんだぞ!!」
 バカである。
 作り手自身が「そのことに対して本当はどう思っているのか」という、ごく当たり前のことを問い直すことが、作品が作品たりうるための大原則である。
 まったく、ヨタ話で何をいってるんだか。

 念のため断っておくが、これまで記してきたようなやり方が必ずしも私の話作りの方法ではないので、誤解無きように。ネタを育てるごく初歩的なやり方に過ぎない。もう少しばかり複雑なことを考えながら話も演出も考えている。筈。
 さらに念のために断るがこのネタを勝手に使わないように。

 さてさて航路を戻し、A君のメールである。すっかり航路を外れていたので、簡単にそれまでの経緯を再度紹介しておく。
 A君は「インタビューを作品にしようと企て」、友達相手にカメラを向けたものの
「ぎこちないまま時間だけが経って」しまい、話題を転じて「酒のよた話でストーリーを考え」始めたまでは良かったが「思った以上に盛り上がらず、気まずい雰囲気だけが立ちこめて」しまったのだ。

 >たいした発想もでないまま、この企画は自然消滅しまして、変わりに「自分に
 >とってのエンターテイメントとは」という話になりました。僕はこの話題が大好
 >きなので、「寺山修司は果たしてエンターティナーか」などといった話題に花が
 >咲きました。そのあと、たまたまそこに居合わせた三人が三人とも自分のホーム
 >ページを持っていたことが影響し、「理想のホームページ論」に話は流れて行き
 >ました。

 「寺山修司は果たしてエンターティナーか」……書を捨てて街にでも出てみればすぐに分かるであろうか。田園に死んでみれば理解も深まるであろうか。このネタに深入りするのはやめよう。寺山修司にはあまり縁がない。
 さてさて「理想のホームページ論」である。
 ここにいたってやっと、当初の眼目であった「ホームページを作ろう(笑)番外編」のネタが登場した。一時はどこまで漂流してしまうかと思ったが、やっと辿り着いた。辿り着いたのは良いが、当初何を書こうとしていたのかオランウータン騒ぎですっかり忘れてしまった。何だっけ。

 >この話題は監督の「ホームページを作ろう(笑)」を読んで以来、これまた洗脳
 >に限りなく近い形で影響を受けている僕は、いまだ監督にお見せできる形には
 >なっていない、ほぼKON’STONEと同じフォームで作られたローカルな僕のホーム
 >ページについて、他のふたりはいつか電子の海の覇者となるべくまめな宣伝活動
 >を行い、ネットワークで見つけた友達にリンク、リンクで輪を繋ぐ比較的ワール
 >ドワイドな彼らのホームページについて、互いに意見をぶつけ合いました。

 まったく何が「いまだ監督にお見せできる形にはなっていない」だ。仮にもインターネットは公共の場だぞ。公共の場に出しておいて見せられない相手がいる、というのは矛盾しているではないか。
 まぁ、現在では「極寒の朝風呂派万国博」は愛読させてもらっているHPの一つである。

 >監督の仰られた、「基本、俺」のルールに非常に魅力を感じる僕は、他人に媚び
 >る事無く、まずやりたいようにやって、それを面白いと思ってくれた人を大事に
 >しようという方針なのですが、彼らは「ひとまず、本当にやりたいことは置いて
 >おいて、なるべく盛り上がる話題、ポップな壁紙、楽しい掲示板で人を集める」
 >のが基本で、その中で徐々にやりたいことをやっていって、他人の反応が悪けれ
 >ばやめると言うものすごく他人にやさしいホームページ作りをしています。

 実に対照的な意見の対比ではないか。
 私の持論である「基本、俺」あるいは「俺流」あるいはまた「俺イズム」についてはおくとして、「他人の反応が悪ければやめると言うものすごく他人にやさしいホームページ作り」というのが笑わせてくれる。いや、何も間違っているとかいう意味での笑いではない。それはそれで正しい気がする。「他人にやさしい」(笑)。良いフレーズだなぁ。
 ただ、「ポップな壁紙」が他人に優しいというのは如何なものかと思うが。
 コンパに似ているかもしれないな。お気に入りの女子の気を引くために盛り上がる話題を提供するのに躍起になる者が一人くらいはいるものだが、そうしたコンパの盛り上げ役も肝心の女子から見れば「良いお友達」にされてしまうことも多いかもしれないぞ。そういう経験はお有りか。私は…………まぁ、いい。実は私はあまりコンパというものの経験が無い。無いのに例に引くなっちゅうの。
 ともかくこの両者の明確な相違は、冒頭に記された「基本、俺」というつまりは書き手側の満足度を優先させるのか、あるいはお客の満足度を優先することで人気者としての地位を確立することに本人の満足度を求めるかの違いであろうか。
 しかしインターネット広しといえども、個人のHPでお客に対するサービスのあり方で人気を得ているサイトというのも見当たらないような気もするが。あるのかな。
 内輪での人気者や、内輪で受ける冗談も不特定多数相手にはおよそ通じないものである。客の反応など思うに任せないものさね。風向きと一緒でいつ変わるともしれないものに一喜一憂する元気は私には無いな。

 >僕が、「他人の顔色を窺ってやりたいようにやれないなんてホームページの魅力
 >が台無しじゃないか」と言うと、彼らは、「せっかく全世界に繋がっているの
 >に、やりたいようにやって誰も来ないほうこそネットに乗せている意味がないで
 >はないか」と反論してきます。
 >その後、けんけんがくがくの討論が3時間程続き、この結果はお互いに袂を分か
 >ち、我が道をゆくという形で終結となったのですが、もちろんそのころにはビデ
 >オテープもとっくに切れており、後半のやや盛り上がった部分はすべて収録され
 >ておらず、前半のぎこちない会話だけが収録されていました。

 つ……続くのか3時間も……(笑)しかも酒無しで。活発な若者達である。
 しかしまぁ、何というか面白い議論である。出来ればもう少し詳しく教えてもらえると良いのだが、この3時間ほどに及ぶ議論には非常に普遍的な大きな問題が含まれている。大袈裟か。いや、そんなことはない。
 どちらの意見が良い悪いと言うことではないが、しかし私などには「ネットに乗せている意味がない」(“ネットに載せている”が正しい気がするのだが)という意見には少々違和感があろうか。少なくとも私はネットを使うこと自体に目的はおいていない。
 ネットを使うこと自体ではなく、何をそこに盛るのかという中身がやはり大事に思えてしまう。卑近な例で言えば、アニメを作ること自体に目的があるわけではなくて、どういうアニメを作るかが問題なわけである。客さえ集まればエロアニメでも美少女アニメでも作る、というわけにはいかない、ということと同じである。
 かようにこの議論はホームページに限ったことではなく、「作品と商売」という私にとっても非常に身近な問題とその根を同じにしている、実に深遠なテーマではないか。それは大袈裟に過ぎるな。もとい、大きな問題である。
 この問題を分かりやすく考えるにあたって、少々極端にイメージを伸張してみる。この両者を「芸術家」と「商売人」とすると、見えることも多かろう。立脚点が違うのである。
 もっとも、現実的にはどちらか100パーセントの成分で成り立っている人間もそうそういるものではないし、芸術を気取ってみても飯の種に替えなければならない以上、商売人としての側面も含まれてくるのは致し方のないこと。霞を食って生きられる仙人ではない。商売人といえどもそれぞれに矜持を持っているものであろう。
 ともかく芸術家のあり方としては自分の表現したいものを作らざるを得ないということだし、商売人の本質はお客のニーズに応えることであろう。
 芸術、というとあまりに気恥ずかしいので表現という風に言葉を改めるが、この表現する者にとっては、自分の感じたことやら思ったことをなにがしかの形に具体化し、自分の表現したかったことが形になったか否かが重大な問題になる。それが出来た上でそれが多くの人に受け入れられたのなら、それは「尚良い」こととなるはずである。
 この伝で考えれば、売れることが至上命題の商売側は、売れた後に好きなことをやれば「尚良い」ということになろうか。もっともそうな論理である。しかしそのシミュレーションは疎漏に過ぎる。
 その最たる部分は、まず「好きなことは既に有る」という単純な思い込みである。本当にあるのだろうか。「売れた」暁に展開できるだけの自己があるのだろうか。疑いは海より深い。
 昨今巷間でいわれるように「好きなことが見つからない」といっている若者ばかりだとは思わないが、実際にはそうした人間が多いはずである。何をやりたいか分からない人間が、「いつかは好きなこと」に憧れて本当に実現できるものであろうか。そんなことがあるはずもない。
 「商売」を批判をするつもりで書いているわけではないので注意されたい。
 結論からいえば、商売という衣でおおい、お客の価値観を当てにして自分の脆弱で未熟な価値観を隠蔽していては、絶対に好きなことなど実現するはずもなく、地に足を着けた進歩や成長も期待できない、ということである。
 アニメでいう。
 「美少女を売り物にしないとお金が出ないから」という言い訳めいた合い言葉の下に、粗製濫造の気色の悪い低能なアニメーションが垂れ流される結果となっている。ここでいう美少女とは象徴的な意味合いである。アニメの定番、という程度に考えていただいた方がよい。それが別にロボットだろうが同じことである。
 こうした作品、というのも憚られるので、こうした「もの」としておくが、こういう類に携わっているスタッフの中にも「今はこんな作品をやっているけどいつかは好きなこと」に憧れている人間がいる筈だ。多い。しかし彼らが、と一括りにするのもいささか問題があるが、そうした人間が好きなことに辿り着けることはないはずである。
 念のため断っておくが、この場合美少女が描きたくてたまらないと思って携わっている人間は健全である。それは正しい。「こんなもの」とか自嘲しながらも、本当は好きで携わっている人間も多かろう。
 素直に商売に徹している人間も実に健全である。
 ともかく自分を隠そう、あるいは隠したつもりになっている人間が不健全だと思うのである。隠蔽している時間はまったくの無駄である。というより自分なりの表現を得るため、あるいは好きなことに辿り着くことの障害にしかならない。
 概ねこうした連中は「やりたいことの一つもないと、クリエイターとして恥ずかしい」くらいのつまらない自尊心から借り物の「やりたいこと」をでっちあげたりしている。クリエイターが聞いて呆れる。
 近頃の下らないクリエイター礼賛の宣伝文句もそれに拍車をかけているのかもしれない。

 長くなったので、次回に続く。結局ホームページネタからは、縁が薄くなっているが許されよ。

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