1999年11月23日(火曜日)

番外編 – その7



 よく見かける構図がある。
 アニメでも漫画でも小説でもホームページでも良いのだが、「これを作りたい」と思っているアイディアがあるとする。日々の仕事に追われそのアイディアは実現されないままに時間が過ぎて行くうちに、「あれもできる」「こんなこともできる」とそのアイディアは少しずつ膨らみ、本人の中で傑作として光り輝き始めるであろう。「これがを発表すれば世間は驚くに違いない」くらいの妄想も生じる筈だ。
 が。そうしたアイディアが具体的に形になったというケースはあまり聞かない。絶無ではなかろうか。構想を温めるというと聞こえはよいが、大体が本人の実現力の欠乏とアイディアの過大評価に過ぎない。以前にも同じことを書いたかもしれないが、あまりにもよく目に付くケースなので再びこきおろす。
 よしんばそれが何かの機会を得て実現の運びになったとしても、本人自らが逃げ出すケースが実に多い。傑作ではなかったからである。具体化されない「傑作になる筈のアイディア」はいざ具体化される段になると、思っていたよりも遙かに不都合な点が多く、傑作は実に小さく凡庸なネタであったことを思い知るのである。けけ、知りやがれ。
 両の手の中に溢れるほどに見えた筈のアイディアが、具体化のプロセスで指の間からこぼれて実に小さなものに変わってしまうことに耐えられない、ということらしい。何とひ弱な現代っ子か(笑)
 脆弱な神経でものを作れるのなら楽なものだ。
 よってこうした連中は、なんら作品の一つもできないままに他人の作品の悪口だけを飲み屋で垂れ流し、次なる「幻の傑作」に思いを馳せることになるわけだ。何と不健全な。
 そういう輩は一生モラトリアムで終わってしまえ。お前達のような輩に「遠足」の晴の日なんか来るもんか。ざまぁ見やがれ。遠足の前日だけを嬉々として過ごすして墓場に行っちまえ。
 話が少々それた。つまりはこういうことを言いたい。最初に持っている「好きなこと」というのは、およそ借り物であったり、あまりに脆弱なものであったりすることが多く、それをまず吐き出し、裏返った自分の虚ろを見据えつつ、それでもさらに続けて行くうちに生じてくる「気」のようなものこそが、純度の高い表現の欲求である。らしい。多分。私はそうだった。強固な「好きなこと」というのは試行錯誤の末に生じてくるのである。
 ただし、溢れる才能の持ち主はこの限りではないだろうし、最初から純度の高い欲求を有しているものもいるし、そんなことを考えもしないで傑作を生み出しうる人間もいよう。そんなやつのことは知ったこっちゃあない。他人の才能に憧れたところで何の益にもならない。益にもならぬ比較など百害あって一理もない。無駄である。素晴らしい才能はただそれを愛でるだけでよい。
 ともかく、最初に持っているつもりの「好きなこと」などは、とっとと吐き出してみないことには何も始まらないように思われる。それを吐き出して具体化して自分で客観的に見ることが肝心である。そのとき分かるはずである。いかに凡庸であったか。いかにそれが既製品の借り物であったか。いかに自分の表現技術が未熟であったかを。そこから、である。一度借り物にまみれた精神を更地にするのだ。
 精神の爆撃である。
 しまった……ふと思い付きだけで書いてしまった。意味が分からないか。こじつける。
 成人するまでの間に吹き込まれ、刷り込まれた価値観はその多くが思い上がりに底上げされ、自分なりに何やら特別な価値のあるもののように思われ、さらには可能性は無限であると思わされているはずだ。この状態を戦前の日本と考える。神国日本が負けるはずはないという狂信の態である。若さと狂信は似たようなものであろう。毒にも薬にもなりうる諸刃の刃だ。毒になることが圧倒的に多かろうが。
 学業を終えて世間に出るというのは、いわば太平洋戦争である。思い上がりは連合国という世間によって粉砕され、精神という国土は焦土と化す。ごく一般的に見受けられる「世間の荒波」にもまれるという構図である。あった、といった方が正しいであろうか。
 世間が既に弱体化している。弾けたバブルに反省の欠片もない世間が荒波を生むことも少ないのではないか。多くの人間が凪いだ海を心地良しとしている。平均化された社会や平衡化した文化の中で新しい物を生み出す「差異」という波打ち際が極端に少なくなっているのも根は同じであろう。
 ともかく。格差が少ない社会においては多くの者が荒波にもまれることもなく、脆弱な価値観のまま安穏とした生を続けることも容易であろう。良い世の中とも言える。無論常態が続くことによって生まれた腐臭は濃いが、実際、平和で豊かな良い国である。
 この現在良いであろう日本国の出発点は戦後の焼け野原にあった筈だ。更地である。B-29の群がその爆撃によって日本を更地にしたのである。そこから復興し発展を遂げる時期はさぞ力に満ちた世の中であったと想像できる。高度経済成長というやつか。日本よあなたは強かった。
 国にしろ個人にしろ、上向きな変化の過程においてこそ力は蓄えられるものである。常態は消費に過ぎない。
 個人の成長にも、ある時期爆撃が必要なのではないか。好きこのんで精神を焦土にするほど奇特な者がいるかどうかはともかく、以前ならば世間が与えてくれた爆撃が、世間の弱体化によってその機会を失わしめている。
 更地に戻らない。
 無論更地とはいっても人間がおいそれとリセットできるわけもなく、それまでの知識体験経験を無駄にするわけではないし、思い込みを疑って否定すべきものは否定するといった程度の意味である。
 ともかく更地に戻す機会が失われていると思われる現状では、それを与えるのは己が手による他はないのではあるまいか。自助努力だ。
 先に刷り込まれた価値観を「まず吐き出し、裏返った自分の虚ろを見据えつつ」と書いたのはそういうことである。
 話が随分と大袈裟になったなぁ。針小棒大が当HPのモットーゆえ我慢しろ。
 
 話を小さなところへ戻す。
 ホームページで当初展開するような内容は、吐き出すための助走程度と考えた方がよいのである。先程「続けて行くうちに生じてくる“気”」と書いたが、「気」を生じさせるためには継続される時間が必要なわけで、ホームページという素人と玄人に区別のない広大な公共の場はその格好の舞台だと思われるのである。自慢のコンテンツをネットに上げることによって、結果惨敗することもあろうし、快感を得ることもあろう。ともかくもそこで客の目を意識することで客観性も生まれるであろうし、自分のやりたいことや好きなこととやらが明確になったり、より強固になる。これを娑婆で同じように実践するとなると、おいそれと素人が参加できる余地はあまりに少ないはずである。私のホームページ礼賛は基本的にそこら辺にある。
 だからこそ「ホームページを作ろう(笑)」なのであった。……本当かな。

 ついでに考えてみる。
 「好きなことを仕事にしているのはとても素晴らしい」
 よく聞かれる言葉である。確かにその通りである。私なども好きなことが仕事であるという点においてはその端くれであろうか。
 昨今の若者の指向などは特にそれを求めているように思われる。「好きなことを仕事にする」ことが幸福の第一条件になっているようで、それが「見つからない」ことが巨大な悩みであり、焦りの原因にもなっているようである。
 それはそれで仕方のない面もあろうが、しかしである。自分の例で考えると、確かに好きなことを指向してそれを生業とするようにしてきたのは確かだが、それは後付でもっともらしく思われるだけで、続けているうちに好きになったという側面が大きいのである。
 先日ひいきにしている演劇集団のHPを見ていると、その作・演出家の日記に同じ様なことが書かれていた。
 最後にこの一文を引用させてもらう。元のページはこちらにあります。
 『惑星ピスタチオ「白血球ライダー2000」オフィシャルサイト』内、「N氏の普通日記/10月8日“演劇をやる理由について、ちょっと熱い話。”」

「やりたいと思って演劇を始めたわけではありません」
自分にどんな道が合っているのか、自分がどんな資質を持ち、どんな職種が向いているのか。
そんなことを考えて劇団をはじめたわけではないのだ。強いていえば、ある日突然、演劇をやることに決めたのだ。別に演劇が一生をかけるほど好きだった訳ではない。しかも、演劇の才能は正直ないと思っていた。
僕は中途半端な個性を持った人間で、自分に何が向いているのか、そんなことの答えを探していたら、それだけで何十年も経つに決まってる。「向いていること」を探しているうちに、人生手遅れになる。
だから僕は、自分に合っている道を探すことは最初からせず、もう何でもいいから「これをやる」と決心して、向いていようが向いていまいが、好きだろうが嫌いだろうが、とにかくわき目もふらずに、それを頑張るしかないと思ったのだ。
天職、と思える才能が自分に見つからない以上、一刻も早く、適当でも何でも良いから道を選び、人生の時間の全てをそれにかけるべきである。そうすればきっと、才能がゼロでも、そこそこまで行くんじゃないか。そう思った。
だから今でも正直、演劇が好きかというと、よくわからない。しかし僕は命をかけ、一生をかけて演劇をやると決心している。一生を、命をかけてやるからには、絶対に凄いものを作るしかない。もう、ホント、なにがなんでもそうするしかないのだ。たとえ誰にも理解されず、仲間も得られず、孤独なまま一生を終えようと、やるしかない。僕はその決心をしたのだ。

 素晴らしい。見習うべき態度であろう。さすが。なんだか読んでいて嬉しくなった。
 実際「好きなこと」を職業で実践しているように見える多くの人も、当初からその仕事が好きで好きでたまらない、というわけでもなく、実際は続けているうちに好きなことになったというケースが多いのではないだろうか。

 結局「ホームページを作ろう(笑)番外編」のタイトルからは逸脱したかもしれないが、一通のメールを元にあれこれと話題を展開させてもらった。
 当ページを訪れてくれている皆さんの中にも、自身でホームページをお持ちの方も多数いらっしゃるかと思われる。皆さんはいかなる態度で運営されているのでしょうか。是非ご意見をお寄せ下さい。

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