2004年11月16日(火曜日)

上手下手あれこれ



 掲示板「KONTACT BOARD 2」に寄せられたご質問に対してテキストを書いていたら、掲示板に書き込むには少々ボリュームが肥大してしまったので、「NOTEBOOK」の一編として乗せることにしました。
 まずはその書き込みからご紹介します。

 お聞きしたいことが・・・
 投稿者:柚南
 投稿日:2004年10月23日(土)19時10分

 はじめまして。
 いつも楽しく拝見しています。
 突然ですが、絵描きとしての今さんにお聞きしたいことがあります。
 画風の違う絵描きさんを比べて、画力に優劣をつけることはでき
 るんでしょうか?
 できるとしたら、なにが基準になるのでしょうか?
 こういう疑問を持ったきっかけは、
 インターネットで「誰がいちばん画が上手いか?」という議論を
 よく目にしたからです。
 今さんにお聞きしようとおもったのは、私にとって今さんがいち
 ばん上手い絵描きだからです(私の評価基準はあいまいで、今さん
 は森羅万象なんでもリアリティを持って描ける人だとおもったから
 です)。
 それと、今さんから見て画力のある絵描きさんって、
 名前をあげるとしたらどなたになるんでしょうか?
 しょうもない質問ですいません。。。
 新作映画期待してます。失礼します。

 はじめまして、柚南さん。
 これはまた厄介な質問をされてしまいました。
 柚南さんは、私という絵描きをたいへん高く評価してくれているようですが、私は「森羅万象なんでもリアリティを持って描ける人」でも何でもなく、森羅万象のうちからリアリティをもって描けそうな対象だけを選んで描いているに過ぎません。
 剣豪・宮本武蔵の究極の極意は「勝てそうな相手と戦う」という、実に優れた戦略眼にあった、と何かで読んだことがありますが、要するにそういうことです。
「描けそうにないものに手を出さない」
 金言です。
 が。絵の仕事を目指している若い人や、すでに絵を仕事にしているけれど若い人はこの言葉を鵜呑みにしてはいけません。なぜなら、経験の浅いうちは何が描けそうにないかも分からないはずですし(第一、どんなものだって描きこなせないでしょうし)、描けるものを増やすことに腐心した方が良いと思います。
 少なくとも私が「描けそうにないものに手を出さない」という言葉に辿り着くにはここでは紹介できないほどの紆余曲折艱難辛苦がありましたし、少なくない経験とひねくり回した思考に裏打ちされてはおります。
 それまでに描いたこともなければ、一見描けそうにもないものを描かねばならないという局面はたくさんあったように思います。そういう時こそ、問題をいかに分解して解決するかを学ぶいい機会でした。もっとも、上手くいくことばかりではありませんでしたが。
 また「スエ」さんがちらほら見かけたという噂、「やたら早く描き上げちゃう」というのも自分ではよく分からないです。描いている内容や結果に比すれば決して手が遅いとは思いませんが。
 ただ、手が早いかどうかはともかく、判断は早い方だと思います。絵を描いていて、あまり迷ったり考え込んだりはしないです。私の仕事を支えてくれている心強いパートナーは次のような楽観です。
「まぁ、なんとかなるだろう」
 が。絵の仕事を目指している若い人や、すでに絵を仕事にしているけれど若い人はこの言葉を鵜呑みにしてはいけません……以下同様にあれこれ。
 
 ともかく。さしたる画力も持たない私にはあまりに難しい問題を差し出されてしまいましたが、この「まぁ、なんとかなるだろう」という精神のもとに私が思うところを書いてみようと思います。
 しかし大真面目にかつ緻密に考え始めると、膨大なテキストになりそうなのであまり詳しくは書けそうにありません。疎漏な考えになるかと思いますが、御了承下さい。

 まず結論めいたことを言いますが、柚南さんがインターネットでよく見かける「誰がいちばん画が上手いか?」という議論が、私にはあまり意味がないように思えます。
 意味がない、というのはそこで導き出される結果(そういうものがあるとしての話ですが)にはあまり意味がない、ということであって、「議論自体を楽しむ」という点には参加者にとって大いに意味があるでしょうから、それを否定するつもりはありません。だいたい他人との会話は結果が大事なのではなくて、経過そのものを楽しむものでしょう。大きく個性が違うもの、比較できないようなものを無理に比較して優劣を決めることに意味を感じない、という意味です。
 たとえば、「ピカソとダ・ヴィンチ、どっちが上手い?」とか「作画監督と美術監督を比べてどちらが絵が上手い?」なんて問い自体が馬鹿げているじゃないですか。
「ギターとドラムはどちらが上手い?」
「パスタとうどん、どちらが美味い?」
 極端にいえばそういうことじゃないでしょうか。
 そうした議論(というには高尚すぎる気もしますが)は、要するに「誰が好きか」という、好みの問題に集約されると思います。
「パスタよりうどんが好き」というようなことなら話は分かります。
 ちなみに私はパスタもうどんも好きです。本場香川県で食べた讃岐うどんはとても美味でした。イタリアには残念ながらまだ行ったことがないので本場のパスタを食したことはありませんが、アルデンテで食べるパスタは美味しいものです。柔らかい麺ほど許せないものはないです、私は。だいたい麺類が好きですね。ラーメンもいいが、蕎麦はもっといい。冬の季節は鴨せいろが一層美味しくて、吉祥寺東急の「まつや」の鴨せいろは……おっと。
 阿佐ヶ谷から荻窪に仕事場が移ってからというもの、あまり美味しいものを口に出来ないので、ついつい食べ物のことが頭をよぎってしまいます。まったくどうして荻窪には美味しいものが少ないのだろう。

 そんなエセグルメの話と同様、テレビを筆頭にメディアの多くは、比べられもしないものを無理矢理比べて優劣ごときものを決めたがるようなので、世間一般にもそうした態度が当たり前でもあるかのように刷り込まれてしまっているのかもしれません。
 あるいは話が逆で、比べられないものでも優劣を誰かに決めてもらわないと困る人が多いので、それがメディアに反映しているということかもしれません。
 こうした傾向は冗談じゃないのかもしれない。
「いまは何を見ておくのが世間的に正しいのか」
 アホみたいな本や映画が爆発的に売れてアホみたいに一極化する背景には、こうしたアホみたいな考え方が刷り込まれているのかもしれません。要するに、流行っているものを見ておけば間違いない、という傾向はいつの世も支配的な傾向なのでしょうけど。さらに。
「見たものにどう反応するのが正しいのか」
 感じ方まで誰かに設定してもらわないと困る人も多いようです。情報社会なんて言われて久しいですが、世論を操作するのは簡単な世の中に思えます。実際、そういう世の中みたいですしね。
 確かにメディアが好むようなテンベストは一つの指標になるとは思いますが、売り上げや収益の多寡だけで書籍や音楽や映画の内容、文化的な良し悪しを論じられないのは言うまでもありません。お遊びで比較している分にはさしたる害もないでしょうが、もし比べることが土台無理なものを真剣に比べる傾向が蔓延しているとしたら、文化の足を引っ張ることに繋がるように思います。

 また、ネット上で交わされるゲキ論のすべてがそうだというわけではないでしょうが、力んで発言しちゃったりなんかしている人の多くが、結局は「本当は自分の方がすごいのだ」「そう認めさせたい」という、ネガティブな匂いを漂わせた自尊心に駆動されているように見受けられる。そうした「オレさま」を誇示したいがために絵であれ映画であれ小説であれ、実際に起こった事件であれ何でも良いのですが、お題である何かにかこつけていることが多い。
「この絵は上手い(と思える私は、その絵の方が上手いといっているキミより優れている)」とか「この映画は良い(と分かっている私は、この映画を面白いと思えないキミよりはるかにものが分かっている)」というような。あるいは絵や映画、小説でも、それそのものに自称批評を加えることで「この作者より本当はオレさまの方が勝っている」とでもいいたいようにも見受けられる。
 要するに、実はお題はどうでもよくて、発言者自身の勝ち負けが何より大事、そういうことが多いように感じますね。
 それが悪いと言っているのではありません。誰でも自由に意見を述べることはちっともかまわないと思いますし、そうした人達ばかりなわけでもないでしょう。ネットにはたくさんの「大人」だって存在するでしょうしね。
 ただ、私はそういう「勝ち負け」が面倒くさいです。「オレさま」はもっと面倒くさい。私の場合は、ネットという便利なものが登場する以前に、居酒屋の席などで幾度も同じ構図を経験してきましたし、私自身もそんなものでした。だから、そういうことを言いたい人達が大勢いることや、なぜそういうことになるかも概ね想像はつくつもりです。
 第一、人にしろ作品にしろ、好きではないものをこきおろすのは楽しいに決まってるじゃないですか(笑)
 しかし、だからといって理解できないもの、理解したくないものには爆弾を落とせば良い、というどこかの「オレさま」国家に通じるような在り方は嫌です。
 ともかく、先のような強烈にバイアスがかかった人達が多い中で、冷静に絵描き(に限らずですけど)を比較できるとは思えない。繰り返しておきますが、そういう意見や感想の交換が悪いとは思いませんよ。好き嫌いは本人の自由ですからね。ただ、好き嫌いを言ってる分にはいいと思うのですが、好きなものがイコール正しい、とか優位であるとする態度や風潮はいかがなものか……というよりは、もう少し積極的に嫌悪します。

 とはいうものの。
「画風の違う絵描きさんを比べて、画力に優劣をつけること」は、ある程度なら出来るとも言えます。
 話が少しだけ厄介になります。
 基礎的な技術とか能力などの高低を比べることは可能です。簡単です。
 たとえば音痴なボーカルと正確にリズムを刻めるドラマーを比べれば、どちらが基礎的な音楽能力が高いかは歴然としているじゃありませんか。
 そういうことであれば「上手いか下手か」を査定することは至極簡単です。だいたい学校なんてのはそういう場所です。しかし学校の論理が社会に通用すると思っては大きな間違いです。この間違いを続けている人は非常に多いみたいですが。学校の論理を仕事場に持ち込まないでもらいたいものです。たとえば「私なりに努力したから認めて欲しい」といったような。これはまた別の話になりそうなので、それは措くとして。
 学校という閉鎖系の査定システムより、社会という開放系の方が厄介なのは、先の例に従えば、音痴なボーカルが、上手なドラマーよりも、より多くの人に感動を与えることも往々にしてある、というような事態です。なので、当然人気があることと上手い下手はまた別な話になってきます。上手い下手と「味がある」「味がない」といったことも、とりあえず分けて考えた方がいいでしょう。
「表現力」という言葉もあります。技術的には上手くても表現力のない絵はよく見かけるでしょうし、あまり上手くなくても表現力のある絵、これもまたよく見かけるでしょう。
 レスにあった「漫画家の故・青木雄二氏」のことが思い起こされます。私は青木雄二氏の絵をまったくといっていいほど見たことがありませんが、確か非常に泥臭い絵だったと記憶しています。
 冒頭の柚南さんの書き込みに対して、万年エキストラさんはこうレスを書いている。

>「ナニワ金融道」で知られる漫画家の故・青木雄二氏は自分では「絵
>が巧い」と言っていたそうですが、素人の私から見ると彼の絵は只
>の汚い絵にしか見えません。

 なるほど、私が思い浮かべている青木雄二氏の絵に間違いがなければ、そう仰る気持ちも分かります。私はとりあえず見る気になれない絵だったので(多分)、この方の漫画は読んだことがありません。
 対して、hadachiさんはこう書いている。

>青木雄二氏の絵は、巻数が進んで、こなれた時の絵は個人的には好
>きですけど なんか生活感があるというか、記号としてのリアリ
>ティみたいなものがあって

 なるほど、そういう感想も頷ける。「ナニワ金融道」という言葉から連想される内容に相応しい絵だったように思います。おそらく作者本人が「絵が巧い」と言うのは「描きたいものが描けている」ということなんでしょう(ただ、絵が上手いかどうかは他人が判断することで、もし本人が本気で言っているとしたらいかがなものかとは思われますが)。
 万年エキストラとhadachiさん、このお二方の受け取り方の差異は、もちろん大部分が受け取る側の好みに起因するものでしょうが、「描き方」と「描かれたもの」の差でもあるように思われます。万年エキストラさんは描き方が汚いといっているのでしょうし、hadachiさんは描かれたものに力があるといっている、そう換言できる面も多い気がします。この点については後でもう少し考えてみようと思います。

「絵が上手い下手」という場合、得てして「描写力」に力点が置かれる気がします。
特にデッサン力の有る無しくらいならば素人目にも分かることでしょう。
 デッサン力は技術の問題といってもいい。対象物の形や量感を紙の上にいかに正確に再現するか、という技術です。
 技術ということになると、その範囲内で高低の序列はつけられると思いますし、その人がどの程度対象物を見る目を持っているか、この点もまた観察力洞察力の高低を比べられもするでしょう。より正確に、そのものらしく再現できている方が上手とすることに問題はない。
 そうした点に限ってならば、ある程度画風が違ったところで比べられはする。ただしそれも狭い範囲でしか比較は成立はしにくいと思います。
 対象物の形を崩して味を出そうとしている絵と、写実的な描写を目指している絵を、描写力において比べられはしませんからね。
 だから大雑把に、たとえば「リアルな描写」を目指している絵描きを比べて、その描写力の高低を比較することは、ある程度出来るとは思います(ただ、この「リアル」という言葉も解釈の幅が広すぎて一概には言えないのですが)。
 また、いくら画風が違うといっても、たとえば学生さんの絵と最前線で活躍しているプロとでは、やはり画力に歴然と大きな差が見て取れることが多いでしょう。
 私が学生さんや素人さんの絵を見るとして、それらに色々な画風があったところで、基礎的な描写力や表現力など総合的な画力の優劣を付けるのはさして難しくありません。これは好みとは関係なく判断できます。
 アニメの作画監督と美術監督だって、「どの程度ものを見る力、それを再現する力を備えているか」といった観点でなら、ある程度画力は比べられはします。実際、あるアニメ作品を作るに当たって、「この作画監督とこの美術監督では絵の巧拙において釣り合いが悪い」といったことは考慮され得ます。「格が違う」というやつです。
 なので、明解な比較は無理にしても、ある程度は画力の比較は可能ですし、日常的に私も他人の画力を比較していることは多いです。もっとも、アニメーションという集団作業を仕事にしていると、画力という「質」の比較のみならず、どのくらいの「量」をこなせるのか、必要な「対価」や「コストパフォーマンス」、一緒に仕事を出来る「人格」かどうか、といった画力そのものとは別なパラメータもたくさんあるので、さらに厄介なことになります。
 大人の世界は難しいものです。

 話を戻して「画力」ということ。
 さて、この「画力」。あるいは「絵の上手さ」という言葉には、先にも少し触れた通り、色々な意味があると思うのです。
 簡単にいえば「描き方の上手さ」と「描こうとしているものの上手さ」は不可分ではあるけれど、分けて考えることも出来るでしょう。
 まず「描き方の上手さ」ということ。
 これは先の描写力などもここに含まれますが、ごく普通の人が通常絵が上手い下手というのはこの点でしょう。たどたどしく描かれた絵よりも、器用に描かれたものの方が上手く見えることが多い。
 しかし、どんなに高い技術で描かれた絵でも、描いてあるものやイメージがつまらなければ、絵が上手いとは言えないじゃないですか。「上手いけどつまらない絵」はたくさんあるでしょう?
 勿論、描き方そのものにも魅力が宿るわけですから、描き方の上手下手というのは非常に大切なのは言うまでもありません。よくあるようなイメージでも、その人が描くと魅力あるものになる、そういうケースはよくありますね。
 その人の描き方の中に、すでにその人独自の見方やイメージ、描こうとしているものが含まれているわけですから、不可分だと書いたのはそういう意味です。
 しかし一口に描写力といっても、これもまた色々あります。「特徴を捉えて描く」能力というのは、必ずしもアカデミックなデッサンと同じではありません。「似顔絵」なんていうのが顕著な例でしょうか。形を正確に再現するわけではなく、その人の人と形(なり)を捉えて簡単な線なんかで表現する能力、これも描写力に含まれますよね。真面目にデッサンして描かれた肖像と、特徴をデフォルメして描かれた似顔絵。往々にして後者の方が伝える力が強いように思えますが、単純に比較できるものでもありません。

 また、描こうとしたものに対する到達度、というのも考慮されうる部分です。
「描きこなす」という言葉がありますが、描こうとしたものを「描きこなせている」「描きこなせていない」かは、見る目を訓練した人でなくてもかなり分かるんじゃないかと思います。不自由そうな絵はやはり上手く見えないですね。見ていて苦しいですから。
 対象が何であっても自分の絵として描きこなせるような人は、やはり画力が高いと言えるでしょう。しかし、これも平均的に比較できるわけもなく、たとえば何を描かせてもさして上手くないけど、女の裸を描かせたら天下一品、なんてケースはありうるわけですから。
 私は他人の絵を見るときに、割りとこの「描こうとしたものに対する到達度」「描こうとしたものをどのくらい実現できているか」という部分に目が行く方です。これはある程度絵を見る訓練をしていない人には難しいと思います。自分の好みをちょっと脇に置いといて、その人が何を描こうとしてどの程度描けているのかに目を向けなくてはなりません。ですが、この「自分の好みをちょっと脇に置く」というのが難しい。自分とは違う考え方や文脈で考えなくてはいけないわけですから。
 好き嫌いと優劣を混同している人はここを履き違えていることが多いように思います。
 その人が描けたものだけではなく、描こうとしたものまでを見られるようになると、「この人はこういうものを描こうとしている筈なのに、この人の描き方においてこの描写はおかしい」だとか「この人の現状の画力では無理みたいだけど、本当はこういう絵を描きたかったのだろうし、だったらこうすれば良いのではなかろうか」といったことが見えてきます。
 こうした見方はもちろん絵に限ったことではなく、映画でも漫画でも小説でも音楽でも書画骨董でも裁縫でも何でもそうですが、その筋の見方を相当養っている人でないと難しいと思います。少なくとも私はこれまであまりそういう人にお目にかかったことはないです。私自身はとてもそんな奥行きのある見方は出来ませんが、そうなれるように見る目を養いたいとは思っています。
 この見方を身につけられると、その作者にとっても実になる批評が可能になってくると思いますが、そうした見方を出来る人は本当にひどく稀なようで、多くの人は「好き嫌い」か、あるいは客観的や批評を装っただけの「好き嫌い」でしかないように思われます。
 自分の好みをちょっと脇に置いて、自分とは違う考え方や文脈に想像を働かす。
 非常に難しいことですが、他人を理解するため、同時に自分の考えや価値観を磨くためにはたいへん重要なことだと思います。

「描き方の上手さ」に対して、一方の「描こうとしているものの上手さ」。これについてはなかなか比較するのが難しいし、比較するようなものでもないとは思います。
「描き方の上手さ」を「どう描くか、その上手さ」という言葉に置き換えると、この「描こうとしているものの上手さ」は「何を描くか、その上手さ」ということになる。
 描写なんかは特に器用ではないとか、あんまり感心しない描写なんだけど、力強く印象に残る絵はたくさん見たことがあると思います。イメージがすごい、描いてあるもの自体に力がある、そういうことも画力に含まれる。
 だって絵を描く、ということもそもそもコミュニケーションの欲求から生まれたものなんでしょうから、伝える力が強ければそれだけ画力がある、ということになりますよね。
 しかし描こうとしたものとかイメージとかは、技術に還元できるものではないので余程歴然とした力の差がある場合ならともかく、比較するのは容易ではないし、比較自体あまり意味がないように思えます。
 身も蓋もない言い方をすれば、何に興味を向けるのかは「人それぞれ」ということでしょうから、これはもう好みの問題として捉える性質ではないかと思います。
 歴史小説と恋愛小説を比べて、その題材の比較において価値の有る無しは考えられないでしょう? 純文学よりSF小説がジャンルとして劣るなんてあまりに馬鹿げた考え方ですよね(世間的にはいまだに根強く残っているかもしれませんが)。
 ただ、題材に対する態度、感受性や着眼点、描写の奥行きといった総合的な判断として、ある歴史小説より、ある恋愛小説の方が優れているといった比較は出来るでしょう。

 同様に、「何を描くか」はもちろん画力に含まれますが、これは技術というより感受性とか教養とか描き手の人間的な素養の問題が大きいと思うのです。発想が面白いとか扱う素材がユニークであるとか、扱い方が独自である、対象への考察が深いとか鋭い、とか。
 人間としての才能とか能力ということになってくるでしょうね。これもなかなか比較考量するのは難しいですが、そうはいっても「この人よりあの人の方が優れている」「一枚上手」「器が大きい」などと感じることは経験があるでしょう。
 それが「ある面において」といった留保がつくことはあっても、人間の才能や能力はやはり比較され優劣が計られ得るでしょうから、同じように「何を描いている(あるいは描こうとしている)」かにおいても能力の高低は、ある程度なら比較されうる。
 まぁ、この「ある程度なら」というのが曲者なんですが。
「ある面において」「ある程度なら」というのは、その時々場面に応じて変化する、というよりそれを設定することによって、比較が成立するわけです。

 あ。ここまで書いてきて、簡単なことに気がつきました。
 もう一度、柚南さんの質問を引用してみます。
「画風の違う絵描きさんを比べて、画力に優劣をつけることはできるんでしょうか?
できるとしたら、なにが基準になるのでしょうか?」
 これは話の順序が逆なんですね、きっと。
 ある基準を設定するから、その点において比較が成立する、ということでしょう。「優劣を付けるための基準」ではなくて「ある基準によって優劣が生まれ得る」ということじゃないでしょうか。
 その基準なんて無数に設定できるわけですし、画力を比べるための一般的で便利な尺度や基準なんかは存在しないと思います。
 特に絵を見る訓練をしてない人が絵について議論している場合、極端に言えば「オレ基準でこの人が一番上手い」という人同士が話しているケースが多いんじゃないですかね。そういうのは普通「好み」と呼ばれるでしょうし、だから始めの方で「好みの問題に集約される」と言ったのです。

「何を描くか」「どう描くか」を便宜上分けて考えていますが、実際には「何をどう描くか」という複合的なところにその絵描きが成立しているわけです。
 そうした絵描きを比較する場合、まず何を基準にするか、その基準が設定されていないところで比べようとすれば、結局「好み」になってしまうでしょうね。
 さらに言えば、基準を設定したところで、その設定の仕方が「好み」のものに有利に働くようになされるでしょうから、すでにそこに好みが大きく作用してしまうわけでしょう。
 客観的を装ったところで、結局は好みの問題が大きく作用していると思いますよ。特に鑑賞眼が素人さんのレベルにおいてなら、好みだけといってもいいでしょうし、近頃は批評で金をもらっている人間たちも同じような有様がほとんどに思えます。
 まぁ、好きとか嫌いとか、上手だと思う、下手に思える、私にはこう見える、といったあくまで主観によって意見を交わしている分には問題はないと思いますね。
 これが客観を装って「良し悪し」や「優劣」を論じられると多少害になるかもしれませんが。

 ただ、断っておきますと、「比較する」という行為が良くないと言っているわけではありません。安直な比較で、優劣の序列をつけるということに対して私は否定的である、ということです。
 複数の対象を比較することで、それぞれの特性や傾向が顕著になることは言うまでもありませんし、比較考量はものの考え方の基本の一つです。たとえば日本がどういう国なのかを考える場合、日本だけのことを調べたり考えたりするだけでなく、他の国とどう違ってどういう点が共通しているのか、そういう風に考えますよね。だから、比較するという行為は色々な意味でたいへん有用だと思います。
 ただ、そこから安直な優劣や序列を導き出すのは危険だと思う。そういうことです。

 あまり答えになっていないかもしれませんが、思うところを書いてみました。

 さて、「何を描くか」「どう描くか」についてちょっとだけ考えてみましたが、アニメーション映像の演出や漫画を生業にしている私としては、ここにさらに「絵の使い方の上手さ」というものも加えたいと思います。
 これについて書き始めると、これだけでも膨大なテキストになりそうな気がしますので、簡単にご紹介する程度にします。
 私は近頃、絵の技術的な上手い下手にあまり興味を持てず、絵をどう運用するかといった面に興味が向いています。先の言い方に従えば「どう描くか」ではなく、「何を描くか」の方ですね。それと私が最近、特に興味を覚えるのは実は「絵の使い方の上手さ」だったりします。
 この能力を画力に含めるのは少々乱暴な気もしますが、映像の仕事をしているものとしては非常に重要な、ある意味では「描き方の上手さ」なんかより遙かに重要に思える部分です。
「絵の使い方の上手さ」とは、要するに「どこにどんな絵を使うか」「どういう順番で絵を使うか」といったようなことです。
 漫画のケースが一番分かりやすいでしょうか。
 ある絵の次にこの絵が来るから非常に印象的になる、そんなケースがあるでしょう? さして面白みのない話や場面でも、読ませてしまう見せてしまうという人がいると思いますが、絵の使い方が巧みな人は、そうした絵を使う呼吸とかリズムでも見せられるものです。
「描き方が上手い」人でも、この「使い方」が上手くないと、非常に読みづらかったりする。逆に、さして「描き方が上手ではない」人でも、使い方が上手いと非常に読みやすく、また印象に強く残ります。
 ある絵の次にこの絵が来る、というのはつまりは映像の編集です。
 編集の能力を画力に入れるには反対する向きも多いかもしれませんが、とはいえ、漫画にしろアニメーションにしろ、絵描き自身がコマを割ったり、コンテを描いたりするわけですから(コンテを描くのが絵描きとは限りませんが)、やはり絵描きの持っている力として考えても悪くないと思います。
 ある絵の次にどの絵が来るか、ということは編集のみならず、アニメーションの作画にも言えることです。アニメーションの作画は、止まった絵を繋いでいって一連の動きを作り出すわけですから、止め絵を編集しているとも言える。何でもない動きの中でも、どこにどんな絵を入れるか、その絵の入れ方一つでハッとするようなリアリティや色気が生まれることも多い。
 どの絵を取ってどの絵を捨てるか。これは非常にセンスと能力を問われる部分です。映像の編集、漫画のコマ割り、アニメーションの作画にしろ、あるシーンや芝居を描くにあたって同じような結果を得る道筋は幾通りもあり、それこそ無限の可能性が考えられるわけです。
 アニメの作画は、どこにどの絵をどういうタイミングで持って来るかによって、結果は千変万化しますし、映像の編集や漫画のコマ割りにおいても、そのシーンを何カットに割るか、どういう角度や構図で捉えるか、どこからどこまでそのカットに収めるかによって、結果はまったく印象が異なるものになります。
 同じ絵を使っていても、その絵が置かれる前後の文脈によって、絵の持っている意味は大きく変化するわけです。これが実に興味深く面白い。まるで生ものを扱っているようです。
 その一枚だけを見ても、何の変哲もなく特に目を惹くことのない絵でも、前後の文脈によって、非常に印象的な絵になったりする。私にとっての映像の面白さはここにあるといってもいいんじゃないかと思います。何の変哲も衒いもなく、ありふれた構図でありふれた絵だけを繋いでものすごく印象的な映像作品を作れたらどんなにか素晴らしいだろう、とさえ夢想してしまいます。

 私はこれみよがしな態度で描かれた絵や力みが露わな絵は好きではありません。そういう絵や、絵の使い方も含めて、何というかチンピラじみていて「品がない」と感じてしまいます。もっとも、一般的には意図も露わに露骨な絵作りが好まれるようです(絵作りに限りませんが)。
 だからといって私が品があるとか一般的でないとか特殊であるといっているわけではなくて、私が学んできたもの、それによって形成してきた私の好み(あるいは私の好みによって私が学んできたものかもしれません)が、現在の傾向に上手く対応できないというだけのことだと思います。それに、私が好ましいと思う映像作品だって世の中にはたくさんあるわけですから。
 ただ、私が多数派にはいないことは痛く実感しております。勿論、「私は多数派である」ことを自認している人なんて滅多にいないと思いますが、私の場合、作品による収益という、断固として確固たる数字に「多数派ではない」と査定されている気がしてしまうものですから(笑)
 (笑)いごとじゃないです。売れないと次が作れなくなるから困ります。
 ああ、売れたい。

 何だか、妙な話に流れてきてしまったので、初心に返って柚南さんの質問に戻りたいと思います。

>今さんから見て画力のある絵描きさんって、
>名前をあげるとしたらどなたになるんでしょうか?

 先にも少し触れましたが、どうも私は近頃あまり絵に興味がないので、広く絵を見ていません。積極的に見る気が失われたというか、興味の対象が絵ではない部分に向いているみたいです。
 なので、私が上げる画力のある人といっても、以前から評価が定まっている人ばかりになるでしょうし、最近目にしている絵と言えばアニメ業界の方の絵ばかりなので、世間的にはそれほど知られていない人になってしまうかもしれません。
 また、アニメ業界には直接的間接的かは別にして「知り合い」が多く、画力のある人として特定の誰かを挙げると、あの人もこの人もその人も名前を挙げなくてはならなくなって煩雑になってしまうので、差し控えようと思います。具体的でなくて申し訳ない。
 替わりといってはなんですが、ここ何年かで一番衝撃を受けた人としてシルヴァン・ショメを挙げたいと思います。アニメーション監督というか作家ですし、絵描きとして挙げるのは少々外れているかもしれませんが、作品とそのクレジットを見る限り、相当な画力を持った人だと思われます。
 最初に見たのは短編「LA VIEILLE DAME ET LES PIGEONS」(「老婦人とハト」)で、これにはものすごい衝撃を受けました。元々はベルギーの漫画家de Crecy(この人もすごい画力です)が参加したアニメーションということで注目したのですが、クレジットによると監督のショメ自身が作画の責任者のように思われますので、ものすごい描き手なのでしょう。感服しました。
 もっとも、感服したのは絵そのものもさることながら、アニメーションとしての芝居やものの見方だったりするのですが。恥ずかしながら私も「アニメーション監督」として世間に紹介される立場の人間ですので、ショメの仕事にはとにかく総合的な衝撃を受けたといえます。
 ネットで調べたところ、ショメは私と同じ歳(1963年生まれ)なんですね。それだけに私にとって尚のこと刺激的でもあります。
「老婦人とハト」はまだ日本ではDVD等はリリースされていないと思いますが、ショメの新作「ベルヴィル・ランデブー」がじきに公開(12月18日公開予定)になります。彼の劇場用長編アニメーションのデビュー作になるそうです。私はすでに見ましたが、これも非常に面白いので是非お薦めします。
 クライマックスのくだりに多くの疑問が残るのですが、ストーリーを楽しむ映画というより人物たちの描写やシーンの面白さにたいへんな魅力がある映画です。卓越した画力は勿論のこと、アニメーションの芝居の面白さも堪能できる作品だと思います。
 ちなみに日本での配給元がクロックワークス(「千年女優」の配給会社)のせいか、作品宣伝用にコメントを頼まれました。実際に私のコメントが使われているのかどうかは確認していませんが、私が感じたことを素直に書いているコメントなのでここでも紹介させてもらいます。
「チャーミングな意地悪。鋭いユーモア。雄弁な無口。捻れた魅力と心躍る音楽に溢れた大都会、ベルヴィルの街で会いましょう。」
「ベルヴィル・ランデブー」、面白いです。

 思いつくままにあれこれと書いているうちにすっかり長くなってしまいました。自分の画力についても触れようかと思ったのですが、それはまたの機会にでも譲るとします。
 絵について文章で書く、というのはなかなか面白いものです。普段、絵を描いたり見たりしていて特に意識しないようなことを、意識化して文章にしてみると、自分の考え方に改めて気付かされることも多い。
 年を食うに従って「言葉の力」の重要性に気付かされます。
 これまで言葉を粗末にしてきたことのツケを痛感しています。私が絵の仕事を選んだ背景には、言葉や文章による表現を面倒に思う傾向が働いていた一面があると思いますし、絵を描くんだから言葉や文章は特に磨く必要はない、と浅薄な考えをしてしまった面もあるように思います。さらには己の言語力の拙さ未熟さを、「言葉や文章に出来ないからこそ絵で表現するのだ」といった、どこかで聞いたようなもっともらしい言葉を低次元に引用して、隠蔽してきたのかもしれない(無論、絵でしか表現できないことがあるのは間違いありませんが)。
 言語が豊かであることは、つまりは豊かな考え方感じ方に繋がるし、言語をシャープにすることでものの考え方もシャープになるわけです。だって、頭で考えるときは言語で考えているわけですから。
 ボキャブラリーが少ない、ということは感受性もそれだけ貧困である、ということに繋がると思います。たとえば「寂しい」という言葉があるから寂しいと思うのであって、絶対的な寂しい感情というものが先にあってそれを表現するわけではないですよね。ここを勘違いしては多くのことを履き違えてしまうように思います。
 北海道弁には「いずい」という言葉がありますが(説明に難儀する言葉です)、「いずい」という言葉を使わない地域の人間には「いずい感じ」なんて無い。そういう感覚がない、と言える。「肩こり」という言葉や概念がない地域では、「肩こり」は存在しない。英語圏では疲労を表現するにあたって「背中が痛い」とよく言われるようですが、背中が痛いのと肩こりは全然違うだろうし、それらの言葉から生まれるそれぞれの感覚や感情だって別なものになるでしょう。身体感覚だって言葉に定義されている。
 言葉があるから認識できるし、そこから感情や感覚や思考が生まれる。だから言葉を磨くことは重要なんだと思います。
 言葉を使って絵を考える。今後もこの面白い試みを続けてみたいと思います。暇があればの話ですが。
 私には難しい質問が発端でしたが、こうした機会をいただけたことに感謝したいと思います。
 ありがとう、柚南さん。

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

現在コメントは受け付けていません。