2007年10月25日(木曜日)

そうだったのか!ミスプリント



「なぜミスプリントは、プリントアウトしなければ見つけられないのか?」
そんな見出しに興味が湧く人も多かろう。
パソコンで文章を書いて、モニタ上で何度も何度も確認したにもかかわらず、プリントアウトして再読すると誤字や脱字、誤変換などが発見される。
「あれ!? 何で気が付かなかったんだろう!? オレのバカバカ」
データを修正してもう一度プリントする。
「これで大丈夫……じゃないや(泣)」
かくしてさらにデータを修正して……。ああ、紙が勿体ない。
そんな経験は私だけの間抜けさによるわけではないはずだ。
発見してみると、大きな間違いに気がつかなかったのか以外に思える。
まさにこういうエラー。意外だ。
私の場合は、文章に限らず版権もののイラストなどでもそうした事態が頻繁に起こる。
「ありゃ? こんなところにゴミが」
「しまった、素材がバレてた」
「あ、ソバカス描くの忘れてた」
などなど。
なぜそうしたことが起こるのか、これをマクルーハンのメディア理論で説明できるらしい。
私は不勉強なことにマクルーハンを読んだこともなく、せいぜいがメディア理論の人で、「グローバル・ヴィレッジ」という概念を提唱したくらいしか知らない。
P-model「Welcome」の♪ウェルカム・トゥ・ザ・グローバル・ヴィレッジの「グローバル・ヴィレッジ」。
読みたいと思いつつ早数年。お恥ずかしい限りだが、いま読んでいた本にマクルーハンの理論などが紹介されていて、冒頭に引用した見出しもその本の一節。
『有馬哲夫教授の早大講義録 世界のしくみが見える「メディア論」』
 有馬哲夫・著/宝島新書
著者は早稲田大学社会学部・大学院教授で、帯には「名物教授の人気講義録」とあり、「メディアが作る「孤独な分衆」」と大書されている。
「現代社会をメディア理論で読み解く
大人のための、新書版教養講座」
確かにその通り。それぞれのメディアの特徴と受け取る側への影響が分かりやすく解説してある。人気講義であるのも頷ける。
この前に読んでいたやはり宝島新書で、同じタイプのこの本も興味深く読んだ。
『橋敏夫教授の早大講義録 ホラー小説でめぐる「現代文学論」』
 橋敏夫・著/宝島新書
こちらも早稲田大学の文学部・大学院教授。
いずれも、こんな講義なら聞いてみたいと思わせる。
いや、自分が大学で受けていた講義も、いまその内容に接すれば同様の感想を持つのかもしれない。切実に学びの必要を実感するには、ある程度以上の経験や知識の蓄積、つまりは学びを経ねばならないのだろう。
学びを経なければ、学びの必要性を認識できない。
転倒している構図だ。
学びの重要性を獲得するには、その重要性を知らない段階でまず学ばねばならない、ということになっている。
引用ばかりになるが、先日読んだ『学校のモンスター』(諏訪哲二/中公新書ラクレ)にはこうあった。
「授業を聞いて学ぶ、つまり、「知」を子どもが受け入れなければならない必然性を理解するには、宇宙や世界や人類や歴史をすでに知っていなければならない。それは「知」の習得が終了したときに、もしかしたら可能になるかもしれない難事である。子ども(ひと)は何も知らない段階で学び始めなければならない」
まったくもってその通り。
諏訪哲二さんの本は『オレ様化する子どもたち』を始め、どれも興味深く示唆に富んでいるが、この本も「ドッグイヤー」だらけになってしまった。
仕事場や学校などで触れる若い世代とのギャップの本質がスラスラと分かるような気がした。分かっただけでどう対処して行くかはまだ全然分からないが。
話が横にばかりスライドしている。

さて、冒頭の「なぜミスプリントは、プリントアウトしなければ見つけられないのか?」
この疑問は「マクルーハンのメディア理論のなかの「反射光と透過光」という概念で説明でき」るのだそうだ。
「紙に印刷して読むとき─つまり、反射光で文字を読むとき、私たちの受容モードは自動的に、そして脳生理学的に「分析モード」になり、心理的モードは「批判モード」に切り替わる。したがって、ミスプリントを見つけやすい。」
ははぁ……私の盆暗頭のせいだけではなかったのだ。
一方、透過光とはテレビとかパソコンのモニタのように、発せられる光線が直接映像として網膜に入ってくるもの。
「この場合、私たちの認識モードは、自動的にパターン認識モード、くつろぎモードに切り替わります。」
映画とテレビの違いだ。映画はスクリーンに投影された光の反射光を映像として捉え、テレビはモニタから発する光を直接映像として見ている。
映画を見るときは「分析的」「批判的」なモードになり、テレビを見るときは「パターン認識的」「くつろぎ」モードになるらしい。
道理でテレビの前に長くいると知性が低下しやすいわけだ。くつろぐどころではあるまい。テレビは常にこういうメッセージを流しているように思える。
「馬鹿になれ」
アントニオ猪木の詩集にそんなタイトルがあったっけ。
「パターン認識的」というのは、分析的態度の対極にあって「細かい部分は多少無視して、全体的なパターンや流れを追うような読み取り方」。
興味深い実験が紹介されている。
同じ映画を通常の反射光で上映して見せる集団と、リアプロジェクションで見せる集団に分ける。リアプロジェクションは半透明のスクリーンの背後から映写する方法でつまりはテレビ的な環境になる。
これら二つの集団がどういう反応の違いを見せるのか。
「反射光グループは映画の内容を理性的に分析し、批判する傾向を見せ、これに対して、透過光グループは映画の内容を情緒的に捉え、その内容が好きか嫌いかということ問題にすることが多かったというのです。」
ははぁ……。あり得るような気がする。
テレビの前の人は往々にして次のような超シンプルな反応をするように思える。
「この人超好きぃ、こいつうざい」
「うざい」も今や広辞苑の殿堂入りの日本語になったらしいが、これもメディアの影響が何より大きかろう。
やはり同書で紹介されていた「米良美案の法則」によると……すごい、もののけ的変換だな(笑)
もとい。「メラビアンの法則」によると、人は話している人間のどこに注意を払っているかというと、こういうことになるらしい。
「人は顔の表情に五五パーセント、話し方に三八パーセント注意を向けるのに対し、言葉そのものには七パーセントしか注意を向けていない」
要するに話し方を見ているのであって、ろくに人の話なんか聞いちゃいない、と。
だからテレビ芸人たちの話している内容なんてどうでもいいのであろうし、その見かけや雰囲気が何より視聴対象になるのであろう。
マクルーハンは見事に言い当てていたそうである。
「テレビに向いているのは変人と田舎ものだ」
つまり「バランスのとれた常識人より、癖のあるキャラクターの持ち主」の方がテレビ受けがいい、と。
一国の首相の支持だって同様である。かつて人気の「変人」に投票した人は、そのもたらした結果について少しは考えたって罰は当たらないと思うが、どうか。

先の実験結果が普遍的なら、自宅で映画をDVDで見る場合でも、モニタで見るのとプロジェクタで見るのでは受け取り方に大きく差がある、ということになる。
たまたま先般、『パプリカ』をブルーレイで液晶モニタ、プロジェクタそれぞれで視聴する機会があったが、その違いは実感しなかったものの、プロジェクタに好ましさを感じた。まぁ、画質の好みが大きいのだろうが。
アニメーションを劇場用に作るかテレビ用に作るかにあたって、「透過光と反射光」という違いを考えたことはないが、画面の作り込みの密度の差は結果的にそうした効果に繫がっているのかもしれない。スケジュールに余裕がある分、単純に劇場用の方が画面の密度は高くなるし、構図に込められる意味合いだって格段に高くなる。
劇場用といっても最終的にはDVDでの発売が売り上げの主力になっているわけだし、ブルーレイなどのハイビジョンへの対策と合わせて、次の映画制作ではあれこれ考えてみよう。

ともかく、人は反射光に対しては「分析的」になり、透過光に対しては「パターン認識的」になる。
だから、モニタ上でエラーを発見しづらいということらしい。
じゃあ、私の拙いテキストが誤字脱字誤変換に彩られていてもしょうがない(笑)
版権イラストなどは、データを納品する前に必ずプリントアウトして確認しているが、テキストは趣味にしろ仕事にしろ一々出力はしない。
しょうがないじゃすまないから、せめて仕事で書く文章はこれからプリントアウトして確認するようにしよう。
「透過光と反射光」の違いだけでなく、以前からデータを出力して、一度「物体」とした方が客観的になれるような気はしていた。写真だって、モニタで見るよりプリントアウトした方が重みやありがたみがある。
チェック用のためだけに紙を無駄にしたくはないが、しかしやはり違う意味でも紙は大事なのである。

ふと、思い出した。
アニメーション制作現場にデジタルが急速に普及しつつあった頃。
酒席を共にしていたある制作会社の社長とアニメーターの知り合いが、来るべきデジタル時代を意気軒昂に語っていた。
「これからはもう紙なんて無くなるんだよ!今さん」
「そう!ペーパーレスなの、アニメも!」
わしゃ、「うん」とは言わんかった。

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