2009年1月11日(日曜日)

イーッス



昨日仕事場に新しい椅子が届いた。
自費で購入したものである。
マッドハウスから支給された椅子に問題があるというわけではなく、アニメーション制作会社で用意するものとしてはむしろ上等な部類と思われる。
昔使っていた椅子なんてのは過酷な座業の足を引っ張りこそすれ、身体的負荷をフォローしてくれるような代物ではなかった。
以前に比べれば、業界の平均的な労働環境は随分改善されたのではないかと思われる。
特に不満があったわけでもないのに、何故椅子を新調したかというと、誘われたからという至って受動的な理由である。
『夢みる機械』作画監督の板津くんから声をかけてもらった。
「椅子、買いに行きましょうよ」
「ああ、いいね」
てなもんである。
彼は仕事中、特に腰への負荷が大きいらしく、支給される椅子以上に身体をサポートしてくれるものを欲していた。
腰痛。それは職業病。
私も一時期ひどく腰の痛みが激しく自己主張を展開していたことがある。もっとも、いつの間にか腰の痛みは自覚しなくなった。
痛いのを通り越したのか、身体の使い方が変化して腰痛を避ける対応になったのか、はたまた自宅にマッサージチェアを導入したおかげか。
いずれにせよ、腰痛を感じなくなったのは本当にありがたい。
手と肩への負担は相変わらずだが、こればかりは椅子でフォローするのは難しかろう。

椅子に不満はなかったが、しかし以前から「いい椅子」が欲しいとは思っていた。日常的に、覚醒中大半の時間は仕事場の椅子に座っているのである。いわば身体の一部のようなものであり、そう考えると椅子は衣服と同じようなものとも思えるわけで、お仕着せではない自分に合ったものをきちんと選ぶことだって考えたい。
椅子を仕事の道具と考えるのも妥当だ。
アニメーションの仕事に必要な道具は、パソコンを除けば自前で用意したところでさしたる経費も必要としないものばかりだし、大半は制作会社から支給される。
大事な相方である椅子にくらいお足をかけても悪くはあるまい。

板津くんには椅子購入を以前から誘われていたにもかかわらず、なかなか行動に至らなかったのだが、昨年末、ようやく腰を上げた。
腰が重かったのは私であって、腰痛軽減を危急の問題としている板津くんは買う気に溢れていた。
だったら「一人でさっさと買えばいいじゃないか」と思われる向きもあろうが、そこには「長幼の序」という古風な問題もあるらしい。
彼にとってはつまりはこういうこと。
「同じ仕事場で今さんより高い椅子に座るのは……」
奇特な若者である。
「そんなの関係ねぇよ」と思う向きの方が多いであろう。私だってそう思う。
しかし、そういうこと「も」視野に入るのは大事なことであろうし、私はそうしたことに「筋の良さ」を感じる方だ。
そして何より、高級な椅子を買いたいという自分の目的と「長幼の序」を同時に満足させるために彼が取った方策にこそ真の奇特さがある。
「今さんにも買わせればいい」
その通り(笑)
人を巻き込むことを覚えるというのも、業界を快適に泳いでゆくためには重要だ。偉い。
私も椅子欲しいし。

12月の25日。
連れだって、新宿「大塚家具」のショールームに椅子を買いに行った。連れだって、というよりも板津くんに「連れて行ってもらった」という方が正しい。だいたい私はこんな調子だった。
「どこで売ってんの?いい椅子は」
残念なことに私の脳には世間的常識の蓄積が少ないのである。
ショールームで店員に案内してもらう時になって分かったことだが、すでに板津くんはこの店を「下見」までしていた。抜かりのない若者であることだよ。
地下一階のフロアで早速椅子を選ぶ。
板津くんは当初から狙いがあったようだ。かの「アーロンチェア」である。
座業支援の強力なパートナー、その「代名詞」として私は認識している。
「作業用のいい椅子=アーロンチェア」で、それはつまり「携帯電子音楽プレイヤー=iPod」みたいなものといっては語弊はあるかもしれないが、ともかく「代名詞」とはそういうことである。
そして、携帯電子音楽プレイヤーではなく「iPodが欲しい」だとか、落語ではなく「志ん生を聞きたい」という欲求があるように、「アーロンチェアが欲しい」という欲求だって十分にあり得るだろう。
私も『パーフェクトブルー』か『千年女優』の制作中だったろうか、腰痛がやけに自己主張しやがるので、アーロンチェア購入を考えたことがあった。当時は「(買いに行くのが)面倒くさい」に勝てなかった。
私はどうも「面倒くさい」に負けてばかりだ。
そんな経緯もあったので、私も今回代名詞としての「アーロンチェア」であり、またアーロンチェアそのものを購入するつもりで懐を暖めてショールームに足を踏み入れた。

ショールームでいざ座ってみる。
「ああ、こりゃ確かにいいね」
さすが名にし負うアーロンチェアである。
「これでもいいな」と思ったのだが、あまりの即断をするのも買い物の醍醐味に少々欠ける気もする。
「他にはないんですか?この手のもの」
店員さんが懇切丁寧にあれこれ説明と推薦をしてくれるのだが、だいたい選択肢はほとんどないのであった。
とどのつまり「あれかこれか」の二者択一である。
ハーマンミラーのアーロンチェアか岡村製作所のコンテッサか。
目の前の二点以外の選択肢、という「外部」も鎌首をもたげるが、「別の店を当たる」という考えは「面倒くさい」の前に太刀打ちできるわけもない。
目の前の二つが「縁のあったもの」なのである。
ここから選ぶのだ。
しかし……どうも、どちらも一長一短である。
絵を描くという作業のこと「だけ」を考えると、座面が前傾してくれるアーロンチェアが魅力なのだが、生憎背もたれが低く、これでは「快適に寝られない」。
片やコンテッサはヘッドレストのオプションがあり(サイズが小さいとはいえ)、居住性(という言葉が椅子に相応しいのかどうかはともかく)に優れているのだが、座面の前傾がない。それに基本的な剛性に若干不安な印象を受ける。

さて、どうしようかな。
「両方買う」という荒技も一瞬頭をよぎるが、一度に二脚に座るわけにも行くまい。
迂闊に悩み始めると、私の場合「天秤座」の本性が姿を現して迷いの密林に誘い込まれることになるので、さっさと選択の枠組みを再構築する。
地金だって、経験則で補えることも多いのである。
まず、選択の漠然としたイメージはこうであった。
「いい椅子」
これだけでは二者択一を乗り切れない(笑)
では私にとって「いい椅子」とは何か。
作業中に身体の負担を軽減する……食後の満腹時に快適に仮眠を取れる……見た目のデザイン……それなりに値段が張ること……等々である。
最後の条件が何だか意味不明だが、椅子を買うというイベントには「大きな買い物がしたい」という年末らしい欲求も含まれているのである。
時はちょうどクリスマス。一年間よく働いたご褒美として自分にクリスマスプレゼントの一つくらいしたっていいじゃないか……って、この間志ん生全集を買ったばかりじゃないかという話もあるのだが、それはそれこれはこれ。

選択の対象は、アーロンチェアのパーツがちょっと豪華なモデルかヘッドレストをつけたコンテッサ。値段は前者の方が諭吉五人分ほど高い。
そして私の選択の基準を、上位から再配置するとこうなった。
1.仮眠
2.作業
3.見た目
4.価格
そんなに椅子で寝たいのか、と思われる向きもあろうが、私にはたいへん重要かつ切実な基準である。
去年あたりからか、食後に時折ひどく睡魔に取り憑かれるようになった。加齢のせいであろうか。
支給されている椅子は背もたれが低いので、安定した姿勢で仮眠するとなると、背を預けて頭部を前傾させる以外にない。だがこれでは眠気を晴らすために仮眠を取ると首が痛くなる、という仮眠することががいいのか悪いのかよく分からないような状況に陥る。
これを改善するのが第一の目的だったことを再確認すれば迷う理由はなくなる。
いかにアーロンチェアが作業に向いているとはいえ、「寝られない」のであれば選択の対象外に退場いただく他はない。それにアメリカ製よりは国産を支持したい。
よってコンテッサに決定。
使ってみて不都合があるようなら自宅用に配置転換することだって可能であるし、買って失敗ということはあるまい。
板津くんは当初の予定通り最終的にはアーロンチェアを選択。
「結局、今さんより高いのになっちゃった(笑)」

それぞれ椅子を決め、別フロアに移動。配送などの手続きを済ませて、お会計である。
当然、「現金払い」である。
「一、二、三、四、五……」
と、諭吉の人数を数えて送り出す。
ここにこそ買い物の満足感があるではないか。
まあ、その様はあまりに「チンピラ」まがいかもしれないが、私は現金払いこそが消費の実感、労働と報酬の実感を得られる貴重な機会だと思っている。
「私が○日間働いた報酬がこの物に交換される」
明朗だ。
額に汗して(仕事で汗なんかかかないけど。冷や汗ならあるが)得た金銭を消費する快感は、数値の移動では実感できない。
「いつもニコニコ現金払い」
これぞ正しい消費活動だ。
話は極端に飛躍するが、給料というものが銀行振り込みになって、単なる数値と化したときから一家を支える働き手(一般的にそのほとんどが父親ということになるが)への敬意が失われ、それが日本の家庭の崩壊に拍車がかかったのではないかとすら思っている。月々の給料を全額持ち帰り、家族で収入を実感する。いいではないか。そうすることで子供などにはわずかな分け前しか与えられないということを実感させた方がいいのではないか……と、そんなことも考えたりもする今年の正月だったのだが、それはまた別の話。

お会計は済ませたものの、さすがに持ち帰るというわけにも行かない。
「ちぇ」
出来れば「現金払い、持ち帰り」が理想だが、ごねずに配達を待つくらいの大人ではある。
もっとも、年末年始を挟むせいか配送は半月後ということで、買い物の実感をすぐに味わえないのは少々残念であった。
その椅子が昨日、届いていた。
いつものように「おはようございます」とスタッフルームに入って、ふと見ると、見慣れぬ黒い物体が。
「あ、椅子だ」
何とも感動の薄いリアクションであるが、買った記憶すら薄らいでいたので致し方ない。
早速「監督部屋」に移動する。
「よいしょ」……ゴツン。
「あ……」
入り口を通れない(笑)
仕方がないので、本棚の一つをズルズルと移動して、搬入路を確保してお椅子様にお通りいただく。
さぁ、座るぞ。
「おお!快適!うん、これなら寝られる」
コンテッサの長所の一つは、上下動とリクライニングのスイッチが、アームレストの裏側にある点で、操作性がたいへん宜しい。
リクライニングをロックさせて、脚を投げ出すとなかなか快適な姿勢になる。投げ出す先としては支給されている椅子という格好なオットマンがある。
おお、贅沢だ(笑)
どれ、この椅子に座って試しに絵でも描いてみよう……って、本末転倒だな。
作業上も特に不都合はない。少々アームレストが邪魔になる気もするが、そこは目をつぶろう。
ただ、多少予測はしていたことだが、唯一困ったことが一つ。
私の部屋には少々大きいのである。見回すと、随分部屋が狭くなった。
椅子の居住性は飛躍的に向上したものの、部屋そのものの居住性は下がってしまった。
板津くんの席に収まって輝くアーロンチェアを見ながら、少しだけそのサイズが羨ましくなると同時にこうも思うのであった。
「自宅用にアーロンチェアってのも悪くないな」
何のため?
うーん……ブログ用。

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