2009年2月5日(木曜日)

千代子讃江・その11



一昨日、出社すると制作コンビが棚を移動してくれていた。監督部屋を圧迫し続けていたスチール棚の一つである。
私の仕事部屋は、もちろん『夢みる機械』スタッフルーム内にある。部屋といっても、スタッフルームの一角を区切って設けられたスペースで、むしろ「喫煙所」という方が適切であろうか。
このビルは全館禁煙ということになっているので(その割には警備員の部屋はたいへんスモーキーだが)、マッドハウスの喫煙者は用意された共用の喫煙所を利用することになっているが、ありがたいことに今 敏は喫煙可能な仕事スペースを与えてもらっている。
5年前、阿佐ヶ谷から荻窪の禁煙ビルに引っ越すに当たって、煙草を吸いながら仕事が出来ないのであれば、会社を出て別に仕事場を借りようかな、とも考えていたが、マッドハウスを代表するりんたろうさん、川尻善昭さんのお二人がスモーカーだったおかげで、今 敏もかろうじて「紫煙の園」の末席に連なることが出来た次第である。

私の部屋には資料が多い。主に書籍で、写真集や画集などかさばるものがほとんどである。
何しろ、『千年女優』『東京ゴッドファーザーズ』『妄想代理人』『パプリカ』計4本分の資料だ(『パーフェクトブルー』の後、一旦マッドハウスを出ているのでその資料は引きずってはいない)。制作が終わる度に随分整理はしてきたものの、書籍類はいつ必要になるのか分からないもので、そうそう捨てられるものでもない。
それに本来制作側が管理するべき設定や版権などの原版もいつの間にか「私物」として押しつけられてきており、勢い、どんどん溜まってスペースを圧迫する。
もっとも、明らかな私物も多いが。
部屋には大型のスチール棚が3本、小さいのが1本。このほとんどが書籍や制作資料、DVDなどで埋まり、残るスペースはパソコンと個人用の冷蔵庫、それに酒瓶などが並んでいた。
先日、新しく購入した椅子が大きくいよいよスペースが圧迫され、プロデューサーに頼んで棚を一本、運び出してもらったのである。
移動のために、一旦中に詰まっていたすべての本は移動され、テーブルの上に積まれたのだが、その量に目を瞠った。
「三次元パズルかよ」
どこをどう工夫して入れておいたのか、我ながら感心した。

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運び出してもらったスチール棚。

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これらも仕事部屋から退避してもらった私物の書籍資料。

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おかげで仕事部屋の資料は随分すっきりした。

スペースが確保された仕事場をさらに快適にするため、掃除と整理をする。
簡単な打ち合わせくらいなら出来るほど広くなった部屋で、快適な椅子に座って周囲を眺める。
「うん、これなら落ち着いて酒が飲める」

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さて、前置きまで付いて長くなる一方だが、シリーズ「千代子讃江」はまだ続くのである。以下、第11回。

「Cパート」に入り、『千年女優』の物語は立花の回想まで混入し、よりいっそう複雑な階層構造となってくる。
その複雑な階層構造をさらに客体化して笑いを誘い、あろうことかもう一段階複雑にする仕掛けが用意されていた。
キャストがお客の希望でシャッフルされるのである。
恐るべし、末満演出。
「入れ子キャスティング」の面目躍如、大である。
シャッフル効果によって、そのシーンは「その時にしか見られない」組み合わせになる。舞台芝居の魅力の一つは、同じ演目でも見る回によって違った印象になることで、いかにも「生もの」を楽しんでいる気持ちになるものだが、このシャッフルキャスティングはそれをさらに積極的に演出に取り入れたものだ。
そして、単なる「お遊び」や「サービス」を越えて、『千年女優』の構造ならではの秀逸な仕掛けとなっている。
こういう劇中での「イベント」を楽しめるのはやはり舞台ならではだろうが、生の舞台を見ている雰囲気を共有できないとその面白みは半減するようにも思える。だから舞台版『千年女優』を初めて見る機会が、DVDなど映像メディアになってしまう方は、精一杯雰囲気を想像で補って見て欲しいものだが、観劇の体験そのものが少ないとそれも非常に難しいであろう。
再演を期待しようではないか。特に東京での。

劇中では、海の向こうでロケットが宇宙にまで達する時代になるが、千代子は家の中、掃除機をかけている。
私は『千年女優』の絵の中で、実はこのシーンのC.743が一番気に入っている。
舞台版から話が逸れて申し訳ないが、この絵である。

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地味な絵が好きだね、また(笑)
コンテの絵では省略されているが、実際の画面では廊下左側が広く窓になっていて、明るい光が差し込み、千代子と廊下に窓枠が「格子状の影」を落としている。
「千代子の現状」を一発で描けた、という点でこの絵を気に入っている次第。
私は密かにこの絵を「明るい牢獄」と名付けていた。
つまらない絵解きになるが、要するにロケットは宇宙まで達しているにもかかわらず、「あの人を追いかけ続けたい」と思っている千代子は、「行き止まり」の廊下で、明るい日差しの「牢獄」に囚われて、掃除機をかけるという「反復運動」を続けてしまっている、ということである。
それらすべてを一枚の画面(音声を含めて)に設計出来たことで、気に入っている。背景は美監の池さんが描いたものだったと記憶しているが、背景がその意図を達成してくれていた。原画はここも鈴木さんで、素晴らしいリピート芝居(笑)で期待に応えてくれている。
ちなみに、この場所のモデルは私が高校生の頃に住んでいた、釧路市若松町の家にあった廊下だ。
その家は平屋だったので、画面右手に見える階段はなかったが、絵の通り左側は全面窓で、右に私が使っていた8畳間、その奥に確か6畳二間が続いていた。無駄なほど広い社宅で、暖房効率は最低といってもいいような家だったが、この廊下は何だかとても好きだった。特に、上の絵のような構図が印象に残っている。ちょうど、高校生の私が背伸びをして廊下の真ん中から見たような具合だ。
ああ、懐かしい。
あ、思い出した。
何故、モデルになった家には階段がなかったのに、わざわざ画面右に階段を描き入れたかというと、千代子にとって「あったかもしれないもう一つの選択」という道を暗示しておきたかったからだ。
「上」に向かう階段、というのもそれらしいではないか。
要するに、千代子の選んだ結婚は、千代子にとっては安穏だけれど行き止まりになる道だった、ということを表したかったはずである。
後付じゃないぞ(笑)

話を釧路から大阪に戻す。
千代子が囚われていた、この「明るい牢獄」を開くのは、大滝の部屋で見つける例の鍵である。
ここでの「本棚」の芝居は見逃せない。
実に雄弁な本棚の名演技を思い浮かべたまえ。って、見ていない人にはシュールな話に思えようが、そうなのである。
本棚に訪れるあのような運命が、千代子の道を開いてくれる。
例の鍵が発見されるわけだ。
ここのシーンでのわずかなアレンジがひどく印象的で、またしても考えさせられた。
自分が盗んだ鍵を千代子に見つけられ(バカな男だよ、大滝も。何で鍵を捨てなかったんだよ)、さらには詠子という証人も登場して、大滝・千代子夫婦は修羅場を迎える。
へらへらした態度で大滝は千代子の気持ちを逆なでするような言葉を吐く。
「なあ、もうとうに過ぎた話じゃないか」
映画版では、千代子はその大滝に冷たい視線を返すだけである。
絵コンテのキャプションにはこうある。
「絶縁を投げつけるような、軽蔑の眼差し」
またしても映画版の解説めいたことを書いてしまうが、これも観劇中に思い返していたことだ。
詠子によって、鍵盗人の真犯人は大滝であることが示唆され、千代子は厳しい視線を大滝に向ける。C.760、下の絵である。

sen760.jpg

ここの千代子は大滝に対して「見下げ果てた男」とは思っているが、まだ「絶縁を投げつける」ほどの断絶には至っていない。
もし、大滝から本気で一言でも謝罪があれば、千代子だって別の対応をしたかもしれないが、大滝から出た言葉は先の通り、
「なあ、もうとうに過ぎた話じゃないか」
これが決定打となって、千代子と大滝の間に「断絶」が生じる。
それがC.767、この絵。

sen767.jpg

760の絵に比べて、二人の間を垂直に分かつ線(部屋のセットの境界線)が移動してはっきりと二人を分割している。この線に「断絶」を象徴させたつもりである。いかに767の絵が演出上重要かは、背景に描きこまれたタッチのあるなしでお分かりいただけよう(笑)
『千年女優』の頃は、特にこうした背景と人物の配置による象徴機能を積極的にしかけようとしていた……いかん。こんな映像解説まで始めてしまってはますます終わらないじゃないか。

舞台版では、大滝の台詞を受ける千代子がギョッとするほど素晴らしいのである。
ネタバレになるようで申し訳ないが、ここだけは記させていただく。
大滝「なあ、もうとうに過ぎた話じゃないか」
千代子「まだ終わってなんかない!」
これには、完全にやられた(笑)
前渕さんの叫びが突発的に切ない。実に千代子らしい。
「あ、そうか、そういう手があったか……!」
と、深く感心しつつも、後になってやはりこうも思い返した。
「でも……映画の千代子じゃ、その台詞はやっぱり叫ばせられないな」
映画版の千代子、そのキャラクターデザインは大きく分けて3種類。少女時代の千代子、青年期、そして老年期。声優さんもそれぞれに対応している。
舞台版は何しろ「入れ子キャスティング」なのだが、しかし基本的には2期、若い千代子を前渕さん、老千代子を中村さん。青年期としては特に分かれていない。
先の泣ける台詞を発するのは、少女時代の千代子を演じる前渕さんである。もちろん、お客の認識としては中年期の千代子と理解はしているが、見かけは若い千代子のままである。だから先の台詞が「効く」のであろう。
お話としては若い千代子ではなくなっていても、役者の身体によって若い千代子との感情的な同一性が分かりやすく確保されているから、
「まだ終わってなんかない!」
という突発的な感情噴出も有りだし、感動も呼ぶのだろう。
映画版で、もし青年期(というより中年期の方が正しいが)の千代子の顔が同じ台詞を発するのはかなり違和感がある。あまりにエキセントリックに傾く気がする。いや、確かにそういう女ではあるが。
それと、「明るい牢獄」の中で半ば封印されていた「鍵の君」への思いは、やはりその直後に受け取る「過去からの手紙」によって一気に解錠してもらいたい、というのが映画版の演出意図であったろう。
と、思い直しつつも、そこで叫ばせる演出が出来ないあたりが弱いところなのかもしれない……などとさらに思い返し、でもやっぱり出来ないし……けどなぁ……。

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