2009年5月11日(月曜日)

4月の雑食・その1



近頃とんと映画を見ていない。映画館では勿論、DVDでも全然見ていない。
先月はわずかに一本。

『鳥』アルフレッド・ヒッチコック監督

多分3度目くらいだが、DVDで見るのは初めて。画質が心地よい。
いつ見てもついハラハラしてしまうが、やはりサスペンスを「一目で分かる」ように見せる画面作りやカット割りによるものだろう。
昔の映画を見ていると安心できる。立派な年寄りの証拠かもしれないが、しかし近頃の映画はどうも何のためのカットなのか、何を見せるカットなのかよく分からないまま、慌ただしく次へと繋がってしまい、「編集の文体」が読み取れず、見ていて気持ち悪くなることが多い。
スピーディというより誤魔化し、ムードというより曖昧にしか見えない。
一枚の絵としての画面を作る労力やイメージ力が退化しているのかもしれない。
そう思うということが老化なのだろうけど。
いいや、別にそれでも。
観るべきものはすでにいくらでもあるんだから。わざわざ不愉快なものに時間を使って不快な思いをする必要もない。

読書は相変わらず読みやすいものばかり。
私は雑誌を読む習慣を持たないので、雑誌替わりに本を、特に近頃ブームの「新書」を買っているようなものだろう。
近頃、電車の中で雑誌を読む人の姿をとんと見かけなくなった気がする。携帯とゲームの画面を見つめる人が圧倒的多数だ。
以前は、もう少し「文春」「新潮」「週刊現代」「週刊ポスト」といったサラリーマン御用達雑誌を開いている人がいたような気がするのだが。
そうした雑誌の使命、というか役割はもう終わりを迎えているということなのだろう。そこで減った読者が新書ブームを支えているような気がする。
最近出版される新書の多様さは雑誌の誌面を分割したような趣だ。

私も世間に倣って新書率が高く、先月読んだ15冊のうち新書が9冊。

『暴走する「偽」環境ビジネス』武田邦彦/ベスト新書
『すし屋の常識・非常識』重金敦之/朝日新書
『「蕎麦、そば、ソバ」の楽しき人生』永山寛康/小学館101新書
『手塚先生、締め切り過ぎてます!』福元一義/集英社新書
『黒澤明から聞いたこと』川村蘭太/新潮新書
『経済成長という病』平川克美/講談社現代新書
『一神教の誕生』加藤 隆/講談社現代新書
『多読術』松岡正剛/ちくまプリマー新書
『大人のジョーク』馬場 実/文春新書

順に「環境問題」「食べ物」「漫画」「映画」「経済」「宗教問題」「書籍」「お笑い」。
雑誌の目次みたいじゃないか。

新書以外はこんな。

『ニッポンを解剖する−養老孟司対談集』養老孟司/講談社
『見える日本、見えない日本−養老孟司対談集』養老孟司/清流出版
『話せばわかる!−養老孟司対談集/身体がものをいう』養老孟司/清流出版
『そこは自分で考えてくれ』池田清彦/角川学芸出版
『世の中にひとこと』池内 紀/NTT出版
『新版 アメリカ横断TVガイド』町山智浩/洋泉社

対談集が多い。
「日本人は特に対談を読むのが好き」と聞いたことがあるが、単に読みやすいだけというわけもない気もする。
昔から「読み書きそろばん」というように、話し言葉よりも書き言葉に力点が置かれてきたせいか、日本語はいまだにその傾向にあって、話し言葉の脆弱さはテレビで見る通り。政治家の言葉はさながら意味不明の呪文である。
対談が好まれるのはコンテンツもさることながら、他人がどんな言葉で話しているのかそのものに興味があるのではないかと思われる。
色々な専門分野の人が登場する対談集は、それぞれ深い内容の話には至らないものの、だからこそカタログ的に楽しめる。
基本的には対談のホストに対する興味があるので読むが、読書範囲を広げるにも重宝する。ゲストのうち、興味を持った人の著書を探す。便利なポータルサイトみたいなものか。

新書の中から印象に残った箇所を記す。

『暴走する「偽」環境ビジネス』
同工異曲の本は多く出版されているし、私もすでに何冊か読んでいるが、この著者のような意見はほとんどテレビなどで紹介されないのであろう。
156ページからの一問一答には腹を抱えて笑ってしまった。
ペットボトルリサイクルには余分な石油と税金が投入されているというインチキな裏舞台を紹介した後、このように続く。
問い「それでは日本人はなぜペットボトルのリサイクルをしているのですか?」
答え「お役所の天下りと、定年で退職した人の仕事を作るためです」
問い「そんなことで、国民の皆さんが分別したり、リサイクルに出したりしているのですか?」
答え「ええ」
問い「そんな不合理なことをするなんて理解できませんが」
答え「リサイクルをしないと村八分に遭うので」
わっはっは。何て鋭い捉え方だろう。
エコにあらずば人にあらず。なるほど村八分。
リサイクルと村八分。奇妙な対比が現代の日本を良く象徴している気もする。

『すし屋の常識・非常識』
『「蕎麦、そば、ソバ」の楽しき人生』
何で「すし」に関する本を手に取ったかよく分からないが、どこかの書評で紹介されていたのであろう。食べ物に関する蘊蓄を傾けようなんてことは思わないが、飯時の無難な話題として便利ではある。一冊だけでは何だか変な気もして目についた「蕎麦」の本と合わせて購入した。別に蕎麦を打ちたいといった野望があるわけでもないのだが。
「すし」と「蕎麦」という伝統的日本料理を選んだのは、きっと落語の影響であろう。
何故寿司が「弥助」と言われるのかと思っていたが、浄瑠璃『義経千本桜』に由来していたことを知った。すし屋の湯飲みが何故あれほど大きいのかもよく分かった。物事にはなんでも起源や由来があるものだ。
興味深かったのは「終戦直後の委託加工制度」。全然知らなかった。
要するに配給米を寿司に加工してもらう制度で、昭和二十二年四月に発足したとのこと。
「米一合をすし屋へ持っていって、一人前(十個)の握りずしに加工してもらう。もちろん、加工賃(たねの代金)は払わなければならない。米一合の握りずしが一人前。ここで、十個(貫)が「一人前」という数量が確定した。」
「へぇ……」って思う人も少なくないのではないか。
この加工制度は東京の握りずしだけに許可されたそうで、以後「各県も東京に倣え」となるわけで、それがために「各地の郷土ずしや上方の押しずしを押しのけて、日本中どこへ行っても「江戸前」が幅を利かすようになった」のだそうだ。すしのグローバルスタンダードというわけだ。
あ。結局蘊蓄紹介になっている。
ついでに蕎麦の蘊蓄も一つ。
月見蕎麦というのはただ玉子を落とすだけのものかと思っていたら、元はずっと粋なものだと知った。
「中秋の名月にちなんで、黄身が月、白身は雲、玉子をのせた海苔を黒板塀、青みを松に見立てて「月にむら雲、黒板塀に見越しの松」」ということになるそうだ。
こういう見立てを好む日本人のセンスはとっても好ましい。

『手塚先生、締め切り過ぎてます!』
『黒澤明から聞いたこと』
新書コーナーをぼんやり眺めていたら、手塚治虫と黒澤明という名前が目に入ったので一緒に買ってみた。
黒澤明の言葉が印象に残る。
『影武者』撮影中のこと。
「人の台詞を聞く表情は大切なんだよ。自分が喋るときより大事なんだ。気を抜くなよ」
はい。心して描きます。
台詞を口にするキャラクターのカットばかりで、聞いている側を捉えないおかしなコンテでアニメをつくっている人に聞かせたい言葉である。
黒澤監督の師匠、山本嘉次郎の台詞としてこんなことも。
「助監督の頃に師匠の山カジ(山本嘉次郎)さんがよくいっていたんだよ。不味いものの味は、美味しいものを食べてないとわからない。美味しいものを食べればよく分かるものだってね」
仕事も同じだ。三流の仕事しかしていないやつはいつまで経っても三流以下のことしか分からないもんだ。
「合成技術とか特殊撮影はね、チマチマ知ったかぶって、ああだのこうだのといわないことだよ。俺たちが技術的なことを口にしては駄目だ。イメージを伝えればいいんだ。そして仕上がったものが自分のイメージと違えば突っ返せばいいだけだよ」
言ってみたいもんだ。
そしてこう続く。
「技術者はそのイメージがあってもできないんだよ。また持てない。だからイメージを与えてやれば彼らは頑張るんだ。そのイメージが難しければ難しいほど、彼らは頑張るものなんだ。それができない技術者は三流だよ。三流の監督ほど技術を知ったかぶるものなんだ。監督が技術を知ったら、そのイメージはどんどん貧弱になってしまう。知れば知るほど貧弱になる」
ああ、言ってみたい。
貧乏性の私にはとても真似できない。
黒澤監督が文化勲章を受章する際、天皇陛下登場のくだりの描写がいい。
「部屋で受賞者が待っているだろう。暫くすると、向こうの方からキュキュキュと革靴の音が聞こえて来るんだよ。その音を聞いて、全員が少し緊張するよな。来るな、てなもんだよ。期待感を持たせるよね。その革靴の音がさ。障子の前でピタリと止まるんだ。と、その瞬間、サッと障子が開く。天皇陛下の登場だよ。そのキュキュという革靴の近づく音と、陛下が止まって、サッと開く間合いが実に合っているんだ。あれはすごい演出だよ」
まるでコンテを読んでいるみたいだ。
映像的な描写力ってこういうことなんだよなぁ。

またぞろ長くなってきたので、続きはまた。

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