2010年7月28日(水曜日)

パクリの語法



間違いなく私の方がずれている。
「パクる」という言葉の用法についてである。

これは私の育って来たごくローカルな環境と密接に関係したかなり特殊と言えることかもしれないが、話や絵作り、演出に興味のある人に多少参考になるかもしれないことなので記してみたい。

まず「パクる」というのは世間一般でいうほど狭義でも否定的ではなく、もっと広義で肯定的意味を積極的に含んだものだと刷り込まれてきた。
いつどこで刷り込まれたかというと、四半世紀前くらい、私が20代前半で、大友(克洋)さんや白山(宣之)さんという「師匠」によってである。
この界隈の会話において「パクる」は日常語といってよく、良い意味でも悪い意味でも区別なく使われていた。もし区別というか使い分けがあるとすれば、「パクリ方が上手いか下手か」という面にあったろう。

たとえば私が「今度、これこれこんなネタでこんな話を漫画の短篇で描こうと思って…」なんて話しをすると、当事の私から見ると(現在もだろうが)山のような既存の映画や漫画の知識を動員してもらい、得てしてこういうようなリアクションが返ってくる。
「ああ、なるほどね…何かアレみたいだけどな」
アレとは映画や漫画の具体的タイトルだったりする。
そして私はだいたいアレを見たこともなく、アレについて教えてもらうと、なるほど私の足りない頭で考えたものよりはるかに上手くできている訳だ。
「パクる元も見てねぇんじゃしょうがねぇよ」といった次第なのである。
良い言葉を選べば「引き出しとその中味をもっともっと増やせよ」ということだが、そこはやや偽悪を気取ってパクリというわけだ。
単純な例をあげれば、たとえば「あるミッションを遂行するために仲間を集める」という枠組みを持った話を考えるのなら「七人の侍」などを筆頭に、それぞれ芸や技術を持ったプロフェッショナルを集める映画くらい見ておくものだよな、というようなこと。

というわけで遅ればせながらアレを見て上手いところを学ぶことになる。
何もそのまま真似するわけではない。それはもしかしたら、人物の配置や話の構成かもしれないし、説明の端折り方かも演出の見せ方かも小道具の使い方しれない。
重要なのはある種のパターンを抜き出して応用する、といったようなこと。パターンを抜き出せなければ真似のままで応用にならない。だからパクリ方がうまければ最終的にはパクリにさえ気づかれないものである。本人でさえ忘れていることだって多いにあるくらいだし。

私は大友さんの漫画にそうした「取り入れ方」(=上手なパクリ方)を学んだつもりである。
「ええ!?この短篇の元ってあの映画なの!?」「あ!このシーンの見せ方ってあれから来てるのか!」みたいな。
それは絵の作り方、背景の扱い方、多い登場人物の捌き方、望遠と標準レンズの考え方、どこで切り返すかといった編集的なこともあれば、もちろんストーリーが展開することや構成といった話の根幹にまつわることまで多岐に渡った。
引用される創作物も映画や漫画に限ったものではないし、小説や写真集、音楽や落語であったり、時には実体験であったりと油断することなど出来ないほど幅広く、そしてこちらは情けないほど幅が狭かったのである。痩せっぽちな体験は貧相なものにしか繋がらない。
だから、せめて仕事場や飲み屋で話題に上がった映画や漫画に目を通すようにしていたつもりだ。いま考えると、あの時以上に学ばせてもらう機会なんて後にも先にもなかったように思う。

凡庸なまとめだが、要するにその頃学んだことを要約するとこういうことか。
どんな些細なことでも自分の作ろうとするものの肥しになれば積極的に取り入れる。

さて話は戻って、自分のネタに対してもらったアドバイスを元に考え直し、自分なりに改善したつもりで第二弾を聴いてもらうことになるのだが、事態は得てしてこうなる。
「下手だなぁ!もっと上手くパクればいいのに」
ええ、ええ、そうでしょうとも。
アレンジしたつもりが「タダの猿真似」つまりは「タダのパクリ」過ぎなかったことを指摘されただけのこともあれば、もっと頻繁に経験したのは次のようなこと。
「ああ、なるほどね…そういやコレ見たことある? 」
アレに続いて今度はコレである。
ええ、ええ、そうでしょうとも。
そして私はだいたいコレを見たこともなく、コレについて教えてもらうと、なるほど私の足りない頭で考えたものよりはるかに上手く……。

実際にはアレ、コレどころの数ではない非常に多くの作品を参考に紹介され、ろくに消化出来ないまま、格闘していたように思う。そして終わって見れば自分が何の何に影響を受けたのか、何をパクったのかなんてどーでも良くなっているものだった。
意識出来ていることなんてそう多くないものだろう。私はそう思う方だ。
いくらパクリで何かを作るにしたって、ネタモトが2本や3本で一つの世界観が出来るわけもなく、極端に言えばたくさんのネタモトをどう配合し、どんな鋳型に押し込むかでいくらでも新しい装いの物が出来上がると私は思う。
そんなときにパクリ元の一つ一つにどれほど重要性があるでしょう。どうでもいいと思うだろ、普通。
私は配合の仕方や鋳型、どこにその作り手の独創性があったっていいと思うが、オリジナリティ神話原理主義者はそうじゃないのかもしれない。

私は少なくとも例の映画を一般的な意味でのパクリだなんて考えたこともない。増してや話が似ているなんてつゆほども思わない。ただ、日本のTVスポットの編集やコピーには笑えるだけの要素は十分にあったのではないかと思うくらいだ。
敢えて言えばいくつかのイメージやアイディアが小説や映画の「パプリカ」から触発されてそうな気がする、という程度の話である。

誤解や勘違いは別にけっこうだが、このことで役立つ「パクリの効用」が忘れられるのは勿体ないと思った古い世代の懐旧譚であった。

しかしこの程度でもiPadで長文を打つのはけっこう難しいもんだな。

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