ヒトの映画

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/11/29 6:37
NAX    投稿数: 5
「トゥモローワールド」を観ました。
残念ながらレンタルだったので特典映像の収録はありませんでした。


今さんの仰る「すごい」は私にはまだ分かりませんが、「すごいんじゃないか?これは」という感じでした。観ていると、この世界観の全体像が掴めなくてよろよろするんですが、たぶん実際の現実だって「全体像」なんか掴めてる訳じゃないですよね。殆どは「知っているはず」が頭の中に蓄積しているだけなんだと思います。というか思い知らされたという感じでしょうか。


長回しのシーンは、たまにニュースで報じられるような「その現場の一部始終にカメラが立ち会った」という印象を受けました。


一言で「希望の映画」であろうと私は解釈しましたが、一方で希望を繋ぐための代償は多くの犠牲が伴うものであろうという現実もセットでないと成立しなかろうという意図ではなかったかと思います。
ああいった映画には、なんと言うか主要人物の死に代表される「分かり易い犠牲」があるとすれば「分かりにくい犠牲」というのも当然あって、「アルマゲドン」や「ザ・コア」に登場する、映像にはしてあるが「分かりにくい犠牲」と言えば災害による犠牲者。
ああいった犠牲者というのは映画を観ている側からしても、さして気に留めない。「すごい事が起こったんだな」というある種の記号のようなものに思えます。


ところが「トゥモローワールド」では犠牲者は犠牲者なのです。そこに明確な線引きはされていないように思う。「こんなやつは死んでしまった方がいい」と観客の多くが思う人間も「生きていて欲しい」と思う人間も、生きている限り誰にでも等しく死は訪れる。という運命からは逃れようもない。といったような刹那的な「生」を感じました。


関係のない人間がいくら死のうと自分には知った事ではない。かも知れませんが、その死というやつは関係のある人間にも必ず。もちろん自分にも訪れる。


「希望の映画」は重要人物の死に意味を与えるものでは決してなく、あまねく犠牲者の「生」というボートの上に、辛うじて立脚しているというような印象を持ちました。


いい映画だと思います。


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