2008年8月11日(月曜日)

課外ゼミ・続きの続きの続き



変に長くなってしまっているが、ゼミ生たちがマッドハウス見学で来社した際のことを書いていた。

プロデューサーにゼミ生たちを案内してもらって、社内見学をした後、学生たちにはそれぞれの絵を見せてもらう。普段描いているスケッチブックなどである。
学校でもたまに見せてもらうことはあるが、仕事場で見るとこちらの目も学内よりは仕事モードにシフトアップする。
「学生」として見るか、「業界志望者」として見るかでは気分は異なる。無論、後者の方が優しくない(笑)
若い人の絵を見せてもらっていると、いつも思うことがあり、それはゼミ生たちにも共通して言えることであった。

どうも、自分の苦手に対する認識が甘いのではないか。
他人のことを言えるほど自分の苦手を意識できているわけではないのだが、絵を描くときの意識が自分の「描けること」に向きすぎていて、「描けないこと」への意識が足りないのではないかという気がする。
無論、それが「楽書」ならいい。
楽しんで絵を描くことは健全だ。しかし、絵の練習ということになると話は全然異なる。
大雑把に言えば、「楽書」は描けることを楽しむものであり、練習は描けないことを補う類のものである。両者の間には無段階のグラデーションがあるだろうし、描けるところにさらに磨きをかけるという面だってある。
しかし、アニメーションの仕事に就きたいと思う人間でなおかつ想像力が少しあれば、絵の練習の仕方は趣味のお絵かきとはまったく異なってくるはずだろうに。

以前にも書いたが、アニメーションの仕事は自分の都合で絵を描くわけではない。あくまで他人の要請によって起動する仕事である。
ゼミ生の中には、なかなか賢い練習をしている子もおり、ウェブのニュースサイトの画像を順に送ることで、自分が普段描かないような絵をスケッチしているのだとか。
なるほど。これは正しい在り方だろう。
なにしろ何を描くのか、その選択の権利は描き手にはないのだから。
自分が答えられそうな問題だけを選んで問題を解くなんてことが学習に役立つはずがないことくらい、義務教育を受けていれば分かるはずのこと。自尊心の保護には多少役立つかもしれないが。

まだまだ絵が上手くない人間にとっては、描けないものが大半であり、もっとも肝心な人物のデッサンだって覚束ない状態である。
たとえば、若い人が描く人物に得てして見られる傾向は「下半身に向かうに従って形の取り方が曖昧になる」である。
描いた回数が多いほどそれなりにまとめられるわけだから、顔やそれに近い部分や、描けないことが意識されやすい「手」などはそれなりに描ける気になっている絵も、腰あたりになるとまさに腰砕けになってきて、足先あたりは絵が口ごもっていることが多く見られる。
自分で描いた絵なんだからそんなことくらいは認識しているのかもしれないが、だったらそこを改善するための訓練をすればよいのである。それを怠っているものに私なら将来性を感じない。そもそも自分の弱点を認識できないようなら別の仕事を選んだ方がよろしい。

またよく見られる傾向の一つには、「細部に目を奪われて全体を把握できていない」がある。
広く絵を描くという行為について考えると、「全体→部分」「部分→全体」という双方の流れがある。
どちらか一方の考え方というわけではないし、時と場合によって必要とされる考え方は異なるだろうし、両側からのアプローチが必要である。
ただ、少なくともアニメーターに必要な絵ということでは、圧倒的に「全体→部分」という練習が必要に思える。

ここでいう全体とは人物のデッサンに限ったことと考えてもらいたい。
私は元々がアニメーション業界育ちではなく、漫画という止め絵に必要な技術を優先させてしまったので、アニメーションの仕事をするようになって、意識的に人体の全体的な把握を強化する必要があった。絵を動かすには細部よりも全体の把握が優先されるからである。
難しいシフトチェンジだったのだが、描けない絵があるのはたいへん不自由な上になにより悔しい。だから一所懸命に直した覚えがある。もっとも、純然たる練習などではなく、仕事上でだが。
練習だって絵を描く以上お金をもらいたいではないか(笑)

両者に必要な絵がどういう点で顕著に違うかというと、漫画の場合は、部分の集積でも絵としてはまとまりがつけられるが、アニメーションはそうはいかない、という点に尽きる。漫画や一枚絵は、その一枚が破綻を来していなければ何とかなる。乱暴な言い方だけど。
しかし、アニメーションの場合、一枚目は誤魔化したとしても、その先の二枚目三目となると一枚目の誤魔化しが露呈してつじつまは合わなくなり、すぐに大きく破綻を来すことになる。漫画でも前後のコマの都合、つまり文脈の中で絵を描く必要があるが、アニメーションの作画は文脈の中に「しか」ないのである。
前後の文脈という制限や枠組みの中にあっても、自由に絵を描くためにはデッサン力が豊かにないとたいへん面白くないことになる。
だから、人体の全体的な把握が出来ていないと「絵の不自由なアニメーター」という形容矛盾も甚だしいレッテルを貼られることになる。
そういう人ばっかりだとも言えるけど。

ついでに書くと、漫画や一枚絵というのは時間を内包する絵であり、アニメーションの絵は時間を切り取った絵が必要とされる。だから必要とされるポーズや絵の切り取り方も自ずと異なってくる。
同じ人物デッサンでも運用の仕方は異なるが、アニメーションは動きの一連として捉えなければならない。一連の動きを再現するには、その一連の中にたとえば描けないポーズがあると、それだけで再現不能ということになる。
だからとにかく何より一番まずもって率先すべきは人体の全体的な把握なのである。
これまた乱暴な言い方だが、全体の各所にぶら下がっているディテールなどは後から何とでも修正可能だ。逆にいくらディテールをそつなくこなしたところで、全体のバランスや流れが悪ければ「まったく使えない」絵になる。

アニメーター志望の方は、髪の毛の処理やら上手なシワの描き方なんかを上手い振りをして練習するより、いま自分が描いている絵が「動かせるかどうか」を気になさると将来の発展につながる、と老婆心ながらに思うのである。
次の絵を描けないような絵を描いていても仕方ない。
以前の回にも記したことだが、この業界で生き残ってゆくためには基本的に自助努力以外にはなく、その努力とはつまり「上手くなる」ということであり、その上手さを一言で集約するなら、アニメーターの場合デッサン力以外にない。
一枚の絵にしろ、動かすことにしろいずれも基本は観察力による。
観察したものを平面に再現する能力が、つまりはデッサン力である。動きを捉えて複数の絵によって再現することもまたデッサン力である。
自分なりの味だの個性なんてことは一度しまってひたすら観察力と再現力を養った方がいい。
アスリートたちが日々身体能力の向上を心がけているように、業界志望の絵描きには将来のためにも是非実りある基礎訓練を心がけてもらいたいと切に願っている。
健闘を祈る。

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