2009年2月3日(火曜日)

千代子讃江・その10



年度末が近い。
そろそろ「確定申告」の四文字をあちこちで見かける時期、ということは私の家にも「支払い調書」というものが届く。
これは昨年度に支払われた報酬を記したもので、それぞれの仕事先から届くものである。仕事先が多ければそれだけの数が配達される。仕事先が多いからといって報酬も多いということにはならない。当たり前だが。
いま、私の手元にあるのは11通。
去年は、「監督」業での収入が半年近くなかったので、合計は……うん、まぁ、仕方ない。
何だか、去年一年の「お仕事通知票」をもらったみたいであまりいい気分のものではないが、仕事先の名前を見返していると、半ば忘れかけていた細かな仕事も思い出されてくる。
「そういや、去年広島市立大学でお話しさせてもらったな……」
「あ、このインタビューは取材協力費が出てたんだっけ」
「?……何だろう?このお金?」
中には何でいただいたのか分からないものもある。
これからまだいくつか届くかもしれないが、仕事先が11カ所というのは、私にしては多い方だ。
たいていは数カ所程度なのだが、去年は本業の穴を埋めるために、あるいは「十年の土産」開催資金のために細かな仕事を引き受けていたのかもしれない。もっとも、依頼された仕事を断ることは稀な方だから、単にそういう巡り合わせだったのだろう。
マッドハウスさん始め、アートカレッジ神戸さん、武蔵野美術大学さん、NHKエンタープライズさん等々お仕事をさせていただいた皆さま、どうもありがとうございます。
来年度もよろしくお願いします。

前置きが長くなったが、以下からさらにどんどん長くなる「千代子讃江」シリーズ第10回。

「Bパート」は、満州から戦国時代へ、一旦現代に戻り、さらに時代は江戸時代、幕末へと駆け抜け、千代子は九の一、そして京の遊女へと身をやつす。
くれぐれも京都にある遊郭は「吉原」ではなく「島原」なのだが(笑)、若干ボケ気味の千代子のことだからそれも有りなのである。断じて間違いではない。
名古屋で上演されるショートバージョンでは、千代子の思い違いが正されている可能性は高いが。
遊女を演じる千代子を演じるのは松村さん。
前渕さん演じる千代子とはまた違って、少年を感じさせる凛々しさがとてもいい。遊女という設定なだけに、女の色気が表に出る人だったら妙に生々しくなったかもしれないシーンが、ベタつかずに疾走感を維持してくれる。
新撰組に問い詰められる千代子、その危機を救うのは映画版では「怪傑黒頭巾」だったが、舞台に現れたのは何と、「坂本さん」らしいぜよ(笑)

ここからの疾走シーンもいい。
映画版では平沢さんの軽快な音楽に乗せて、千代子は色々な乗り物を乗り継いで時代を走って行く。濱州さんの優れた作画と錦絵的なスタイルの背景も楽しく、気に入っているシーンだ。
舞台上では若干のアレンジが加えられているが、こちらもまた楽しい。
「人力車」の表現が秀逸で、「吊り橋」での苦難も笑いを誘ってくれるし、「水中」に落下するシーンは美しいとさえ言える。
牢でのシーンも非常にいい。
鉄の扉の向こうへと去って行く「鍵の君」。追いかける千代子が扉に阻まれて、千代子の小さな手は空しく扉を叩き続ける。映画版の演出では特に気を使ったシーン。作画は隣の席で見ている鈴木さん。
舞台ではよりいっそう印象的になっている。千代子の叫びが胸を突かれるようで、実にいいのである。

空襲下の帝都、東京でのシーン。
ここに加わったアレンジは興味深いものであった。勉強させてもらった気がする。
映画版では、千代子は詠子に引き戻され、平手を食ってその痛みに我に返る。と、詠子の背後には千代子の母親や大滝、専務等の姿見え、千代子の名を呼んでいる。

sen621.jpg

彼らが居並んだ姿はつまり「世間」である。
世間という割には人数が足りないように思えるかもしれないが、何しろ世間というものは「狭い」と相場が決まっているものだ。
「世間」に呼び戻されることで千代子の激情は一旦「断念」させられる。この体験が、続く瓦礫となった焼け跡が象徴するいわば「青春の挫折」みたいなものであろう。
若者特有の熱情、というより主観的な全能感やら万能の可能性は、社会や世間によって去勢されねば次のステージには進めないことになっている(ごく稀にそうならない天才もいることはいるが)。
これは映画版の話で、舞台版の解釈は少々違っており、興味をそそってくれる。
子細は伏せるが、舞台版の千代子の行為は、「より千代子的」であると私には思える。
舞台を眺めつつ、こう思った。
「映画でもそうするべきだったのかもしれない」
しかし、こうも思い直す。
「……でも、具体的な画面で描いたら、やっぱり説得力が失われるだろうな」
しかし、また。
「うーん……よりアニメっぽいイメージで作っていたら、これも有りだろうし、そういう方が一般には分かりやすいし受けも良いのかもしれないが……いや、でも……私には出来ないな、そりゃ」云々。
舞台ならではの抽象性に担保されたシーンだと言えるのかもしれないが、ある意味千代子の激情を「断念させるもの」のスケールが大きくなったとも考えられ、このアレンジはたいへん印象的であった。

千代子は廃墟となった自宅の蔵で、「鍵の君」の「置き土産」を見つける。
映画版は濱州さんの端正な作画、池さんのヘビーな背景がいい。そして平沢さんの音楽と相まって、良いシーンになったと思っている。
映画でその「置き土産」を見せるのは単に見せればいいだけで難しいことはないが、舞台での表現には当然工夫がいる。何せ、千代子が千代子を見つけにゃならんのだ。
この、工夫に泣けた。ライティングも感動を盛り上げてくれる。
名シーンだ。
実に印象的な「絵」になっているのである。「鍵の君」の「置き土産」に相応しい。
うう……こうしてキーボードを叩きながら初めてこのシーンを見たときの記憶がくっきり浮かび上がってきて泣けそうになる(笑)

トラックバック・ピンバックはありません

トラックバック / ピンバックは現在受け付けていません。

現在コメントは受け付けていません。